「アル・ニタムを繋いで星空へ」サンプル
サンプル目次

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サンプル1

 五年前まで、黒子は猫だった。
 黒い毛並みは柔らかく、肉球は平たい丸みのあるピンク色で、黄瀬の両手にすっぽり収まる大きさだった。完璧な猫だった。
 それが、ある朝起きたら人になっていた。布団の中が妙に狭いと思ったら、猫ではなく子供がいた。十歳ぐらいだろうか、黄瀬より三つか四つは歳下に見えた。子供にも驚いたが、それより頭から耳が生えていることと、素っ裸であることの方に頭がついていかず、ひとまず思考を停止させた。下手に慌てたり動揺すると、厳しい自然の中では寿命を縮める。
 黄瀬は上半身を起こし、小さな家のなかを見回した。木の枠組みに布を張った簡単な作りで、今黄瀬が寝起きしている円形のスペースが居住空間のすべてだ。入口の布は動いた様子がなかった。大体外に出れば見渡す限り草原というこの場所で、迷子の子供が裸のままここに辿り着くなどありえない。それに普通、子供の頭に三角の耳はない。
『……猫?』
 黄瀬の呟きに反応したらしい。耳をぴくりと動かした子供は、寝返りを打ち仰向けになると、ぱかりと目を開けた。黄瀬を見つめて何か言おうとしたのだろう、口を開けたが言葉はなかった。その代わり変な唸り声のような寝言のような声が出た。あ、猫なんだ、と黄瀬は自分を見上げる瞳の色に見入りながら理解した。透明な水色も、光の加減で細かな粒子がきらめくところも、猫とまったく同じだった。
 突然現れた子供が猫と分かったのは良かったが、とても半端に人間だった。黄瀬はこの草原にやってきて二年ほどだけれど、この場所でもそれまでの海や砂漠でも、耳と尻尾のある人間を見たことはなかった。なので、それらは帽子と服に隠すように言い聞かせた。隣の家まで歩いて一時間はかかるような土地だったし、主に黄瀬が外で物を売ったり買ったりしていたから、さほど苦労なく誤魔化せた。
 声をうまく出せなかった黒子は最初、言葉も今一つ理解していなかったようで、帽子をかぶらないまま外に出たり黄瀬についてこようとするのを止めるのが大変だったが、三ヶ月くらいで大体会話ができるようになった。自由に出歩くのは夜だけ、という決まりもそこそこ守ってくれた。猫と同じ目のままのおかげで、夜中の外出は苦ではないようだった。とはいえ黄瀬がこれまたうるさく言いつけたので、遠出しないようにはしていたし、なるべく黄瀬と一緒に出るようにしていた。――数ヶ月前までは。

「またいない……」
 夜明け前に目を覚ました黄瀬はため息をついた。寝るときは同じ布団に入った黒子の姿がない。天窓から見える空に広がる星は、薄く白く光っていた。朝は近いけれど、まだ暗いし、明るくなったらなったで問題だ。
 二人の家の周囲に目印は何もない。この家そのものが目印であり目的地だ。夜でも目が見える黒子はあまり迷うことはないけれど、黄瀬が黒子を探しに行くのは難しい。ランプを掲げて歩き回り、万一人に見つかって、ついでに黒子の耳や尻尾まで見つかっては困る。 朝や昼は、マントの中でひょろりと動く尻尾が目立ちやすい。
 開き直って寝てしまえばいいのだけれど、こうなると寝つけない。仕方なく起きて、白い息を吐きながら馬小屋へ向かった。足元では霜がしゃりしゃりと音を立てた。
 扉を開けると馬はぱちりと目を開けた。少し早いが飼い葉を与えて、ブラシをかけてやる。今日は市場が立つ日だから、荷物を運んでもらわないといけない。そうこうするうち小屋には朝日が差し込み、それと同時に小さな影もするりと忍び込んできた。黄瀬がじっ、と睨むのも構わず隣にやってきて、腕に顔を押し付けてくる。ただいま、の合図が猫の頃から変わらない。
「また舟見に行ってたんスか?」
「はい」
 草原の東には川が流れている。そこに半年前、一艘の舟が流れ着いた。乗っていたのは一人の老人で、今はオアシス付近の集落で暮らしている。草原の民にも砂漠の民にも用がない船はそのまま岸に放置され、結果黒子の格好の冒険先となっていた。
「なんにもないのに、物好きっスね」
 呆れた言い方が気に入らなかったのか、黒子は口を尖らせた。
「なんにもなくないです」
「え」
 何かがあるとは聞いていない。顔を向けると黒子はしまった、といった態で身体の向きを反転させた。マントの首根っこを掴んで引き留める。足首まで隠れる布の内側では尻尾がそろそろと動いていた。焦っているしるしだ。
「黒子っち、何があんの」
「何もいません」
 ある、ではなく、いるの方か、と黄瀬は口を曲げる。
「まさか人間に見つかったりしてないっスよね」
「ヒトはいません」
「じゃあ何」
 ふっ、と耳に息を吹きかけると、頭を振ってぱたぱたと忙しなくそれを動かした。耳をいじられるのは嫌いなのだ。眉を寄せた顔をこちらに向ける。
「……内緒です」
「へーー」
 声を低くして棒読みで返すと、耳が僅かに後ろに反った。黒子なりに堪えたようだが睨み合いは十秒ほどで終結した。ぶるる、と馬が鼻を鳴らした音をきっかけに、ぼそりと答える。
「……ボクが獲るからだめです」
「……とる?」
「成功したら教えてあげます」
「……ほんとにヒトじゃないんスよね?」
 それには力強く頷いたので、マントを掴んでいた手を離してやった。襟元を直した黒子はやや警戒した面持ちで黄瀬を睨むと、たたっと駆けて小屋を出て行ってしまった。機嫌を損ねたらしいが、大抵一時間もしないうちにけろっと忘れて欠伸などし始めるから問題ない。
 ――猫なんだか人なんだか。
 いまだによく分からないが、もう七年にもなる同居人――または飼い猫、だ。彼のためにも自分のためにも、今日もせっせと働きにいかねばならない。見た目も働きぶりも歳より上に見られるが、結局まだ十七歳の黄瀬が単独で稼ぐことは難しい。こればかりは仕方ないから、今は大人しく働きながら、稼ぎになりそうなネタの情報収集をするに留めている。
「お前は馬のままっスかね」
 馬まで子供や大人に変身されたら市場までの足がなくなってしまう。こちらは変身することのないようにと、大人しい相棒の長い鼻面を撫でた。



サンプル2

 ざかざかと草を分けて歩きながら、黒子に問う。
「こっちで合ってる?」
「はい」
 黒子が消えてから、喋る黒子は急に無口になった。でも、声が出ないわけではない。何か尋ねれば、答えは返ってくる。ただし。
「なんでいなくなっちゃったんスかね」
「……」
「実見つけた辺りから元気なかったし」
「…………」
「次の分かれ道どっち?」
「こっちです」
 黒子の場所は分かるらしく、道は教えてくれるが、それ以外のことはまったく答えてくれない。お互いにお互いの存在は気に入らなかったということだろうか。分からないのか教えたくないのか、今ひとつ分からない。喋る黒子が本物なのか、それとも逆なのか。今一緒にいる黒子が本物だとしたら、偽物の方を探すことは面白くないだろうか。
 どちらが本物か、なんとなくこちらかな、と思うところはある。でも決められない。ここがどんな世界であっても、それは間違ってはいけない。実は夢で、起きたらゲルの中で黒子と一緒に寝ているかもしれないし、そうでなくても別に、明日になれば黒子は一人戻っているかもしれない。でもそれが本物かどうか分からないなんて悲しすぎる。何より本物が消えてしまったら。そう思うと簡単には決められない。ずっと一緒に暮らしてきた飼い猫であり家族であり弟みたいなものだった。
「黄瀬君のばか」
「……?」
 焦っていたせいか、無意識に歩く速度が上がっていたらしい。後ろからの声に振り向くと、黒子が膨れた顔で横を向いていた。
「黒子っち?」
「きらいです」
 二度、大きく瞬きをしたが、すぐには理解できなかった。
 ――きらい? 黒子っちが? オレを?
 あはは、と笑ってからすぐ、大人気ない口調で言い返す。
「なわけないでしょ! アンタオレのこと大好きじゃないっスか!」
「きらいです」
「あーーそう、わかった、つまりアンタがに……」
 偽物でしょ、と言いかけてはっと口を閉ざす。迂闊にそんなことを言うものじゃない。黒子がじわ、と潤ませた目をごしごしと擦った。
「ボクがほんものだって、言ってるのに」
「……ぅ、」
「ボクもうここにいます」
「っ、ちょ、」
 言うなりその場に座り込んだ。もう一体どちらが本物なのか。
 分からない。分からないけれど、片方を放ってはおけない。
「っ、わ」
「文句はあとで!」
 黒子を肩に担ぎあげると想像通り暴れたが、構わず歩き出す。自ら消えたということは、笛を吹いてくれない可能性が高い。こっちが本物ならそれでいい。片方はいつか消えてしまうのかもしれない。でも、あんな寂しい顔をさせたままお別れなんて、とても堪えられなかった。
 この体勢気持ち悪いです、と黒子が根を上げるまで抱えて歩き回り、その音が聞こえてきたのは頂点にあった太陽が傾き始めたときだった。登ってきた崖の方から、ピューという高い音が聞こえた。

 まさか崖から落ちかけているんじゃ、と黒子をおぶって走りだしたが、泡だらけの森のすぐそばで黒子を発見した。あからさまに拗ねている顔で、木の幹に寄りかかっていた。すぐにでも駆け寄ろうとしたが、手に持っているものを見て、黄瀬は頬を引き攣らせる。黄瀬に気づいた黒子は、まるで狩りの獲物でも掴みしめるような力強さで、それを黄瀬に突きつけた。眉間の皺はかつてないほど深く刻まれている。
「いや、待って黒子っち、それ」
 黒子が持っているのは、例の泡のついた枝だった。しかも大きい。黒子の顔より余裕で大きく、両腕で抱えるくらいある。まさか折ったのだろうか。もう一度割れたらさらに自分が増えるかもしれないというのに、まさか自ら。黄瀬なら絶対にやらないけれど、黒子はやりかねない。




サンプル3

 指先が鎖骨の窪みを通って、反らせた首筋を柔く辿る。ゆっくり輪郭をなぞって、顎の先へ、それから開いたままの唇の隙間に。濡れた粘膜を撫でながら、黄瀬が言う。
「……アンタがオレにいっぱい匂いつけようとしてんの、すげえかわいかった」
「……」
「いま黒子っちが猫だったら、アンタの身体も吐く息も、全部オレの匂いがするってすぐ分かるのに。それだけちょっと惜しいっスね」
 言われ、身体の内側が重くなった。もうあれほど匂いは分からないけれど、感覚は覚えている。自分の好きな、特別な匂い。その匂いは黒子のものだと思っていた。
「……猫のほうが、よかったですか?」
 乾いた唇を濡れた指で濡らされながら、なんとか言葉を紡ぐ。
「どっちでもいいっスよ。でも、どっちかっていうと人間のが嬉しいっスね」
 にっと口の端を上げて笑う。
「こういうこと、黒子っちが猫だったらできないでしょ」
 言いながら、身体を倒してくる。体勢は苦しくなったけれど、もうとっくに苦しさより快楽の方が上回っていたから、大きく息を吸えば受け入れられた。黄瀬は唇を合わせて舌を絡めながら、少しだけ腰を動かした。喉の奥から声が漏れる。
「……きせく、……」
「うん、だいぶ熱くなってきたっスね」
 髪の中に手を差し込まれ、耳のあった場所を撫でられた。そわりと背筋に何かが走る。
「それ、や……」
 もうないと分かっているのに、触れられる感覚が蘇る。黄瀬だから噛みつかないでいた場所、簡単に触れられたくない場所だ。唇が震えて涙がこぼれた。
「あーあー、気持ちよくてしょーがないって顔」
「っ、ふ……」
「だいじょうぶ、こわくないっスよ」
 見下ろす目が優しく細められ、ふわりと唇が重なった。その柔らかさと優しい息の奪い方に、とぷりと先端から液が溢れる。見計らったように、黄瀬が腰を動かし始めた。

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