甘やかし
 夜のマジバーガーはよく目立つ。店内をさらけ出すように壁面はほとんど窓だから、煌々とついた明かりが外に広がる様は、大半の店が閉まった時間になるとそこだけ発光しているように見える。
 店の屋根を優に越える看板を見上げようとして、窓枠の中に見慣れた姿を見つけた。背を伸ばして正しく座る背中と、テーブルに突っ伏しているでかい背中。最近は近寄らないでもサイズの対比で分かるようになった。黒子と黄瀬だ。
 黄瀬は完全にテーブルに収まりきれていない。黒子の席の方まで頭がはみ出ているし、肘を曲げてようやく自分のテーブルの幅に納まっているような有様だ。とにかく窮屈そうに見える。
 行儀が悪い、と普段なら注意しそうな黒子は、文庫本を片手にしている。もう片方の手に持っているのは、恐らくいつものシェイクだろう。どうも長居をしていそうな雰囲気だが、特別会話をしているようにも見えない。
 ふーん、と火神は興味を持った。
 練習の後、たまには一年だけで飯を食おうという提案を、黒子は珍しく断った。趣味は読書と人間観察で冗談は苦手、ならば人付き合いも苦手かと思いきや、誘えば案外ひょいとついて来る。人の輪に混ざることは嫌いではないらしい。むしろ当初の印象からすれば、付き合いがいいと思えた。それと会話のマイペースさは別の話であるらしかったが。

 用事なんて誰にでもあるもので、断ったことを何とも思ってはいなかったのだが、この状況は意外だった。
(しかも、黄瀬だろ)
 黄瀬は黒子を好きで好きで、何かと黒子の前に現れる。仕事の前、部活の後、オフの日の放課後。端から見ればまめまめしいことこの上ない。それに対して黒子は、大抵呆れた顔をするか、タイミングが悪ければたった一言二言だけで追い返す。黄瀬は慣れているらしく嘆いてみせたりもするが、帰り際はぶんぶん手を振って去っていく。
 本人がいいのなら放っておけばいいのだが、それにしても疑問だった。
(アイツは黄瀬を好きなのか?)
 表情や態度からはまったく読み取れない。これでまったく気がないなら、黄瀬が結構不憫だと思っていた。男同士だというイレギュラーさの前に、人として。それ位黄瀬は、黒子一直線だ。


 自動ドアをくぐり、適当に注文をして二人の座るテーブルへ向かった。黒子が黄瀬の姿勢を放っておいていることと、黄瀬が黒子を前にして大人しく寝ていること、そんな状態で二人で何をやっているのかということ、などなど、つまり友人二人のいつもと違う雰囲気に吸い寄せられてしまった。

「よう」
 テーブルの脇に立って声をかけると、黒子は大して驚きもせず火神を見上げた。火神の登場よりも、視界に入ったバーガーの方が気になるらしい。その数を確認すると半眼になった。
「食べてきてそれですか」
「食ってきたからこれだけだろ」
 普段の半分もない。メガでもダブルでも何でもないただのチーズバーガー五個だ。
「キミの食欲が羨ましいです」
「オマエが食わなすぎんだよ」
「……火神っち、邪魔っス」
 のそり、と黄瀬がようやく顔を上げた。ちらりと目をくれたと思うと、むすーと口をへの字にして、不満を露にした。せっかく黒子っちと二人っきりなのに、とかぼそぼそ言っているが、身体を起こす気配はない。それに何となく、目に力がない。いつもは格好つけてスカしてみたり、生意気なほど不敵に笑ってみたり、黒子に冷たくされて本気で泣いてみたり、まあ表情に幅のあるヤツであるが、とにかく力いっぱいうるさく元気である。

「オレの帰り道にオマエらが居たんだろーが」
「空気読んでそっと見守る優しさはないんスか。つーかそれ、さっさと食べて欲しいっス」
「あ?」
 見てるだけで腹いっぱいになる、という言葉と一緒に、嫌々な目線がバーガーに向けられる。ハンバーガー屋に来て随分な態度だ。
「とりあえず、どうぞ」
 カタン、と椅子を引かれた。黒子の隣に座ると、一層恨めしげな目で黄瀬が睨んでくる。それでも、そこは嫌だから自分の横に座れとは言わない。ますます不可解だ。

「どうしたんだ、あれ」
 顎で黄瀬を指すと、閉じた本を鞄にしまいながら黒子は答えた。
「食欲不振です」
「は?しょく……?」
「キミに一番縁のない言葉ですね」
「分かってくれんのは黒子っちだけっス」
 はいはい、と黒子が適当に流し、手に持っていたシェイクを渡した。半泣きの黄瀬はそれを受け取り、ストローに口をつけるときだけ、へへへーとゆるく笑って一口飲んだ。

 さっぱり、分からない。

(何やってんだ?)

 まだテーブルに上半身を寝かせている黄瀬の横には、ストローのささった紙カップがある。喉が渇いているならそれを飲めばいいし、無いなら買ってくればいい。黒子が自分のシェイクを他人にやるというのも、考えられない。普段そういうことを、一番しない人間だ。

 火神から見れば、日常の黒子は礼儀正し過ぎる。挨拶、お辞儀に始まり、食後に紙ナプキンで口を拭く男子高生がどこにいると言いたい。拭くまではいいとして、拭き方が違う。その辺は黄瀬もきれいに振る舞う方だが、別に指でソースを拭ったりもするし、舌で舐めたりもする。黒子の場合、ソースがつかない。拭いてる意味さえよく分からない。
(つうかオマエは口小せえからって、何でも小さく切って食いすぎなんだよ!食った気しねえだろうが!)
 口なんか舐めりゃ済む話だろ、と言ったら、けしからんとでも言いたげな顔をして、舌の用途が違います、と説教をされた。
 食事はきれいに、食後もきれいに、気持ちよく。それが黒子の平穏であるらしい。

 だから、自分の飲んでいるシェイクを自ら黄瀬に与えるなど、それは意外以上に黒子観の変わる光景だった。

(何だ?どうしたってんだ?)

「火神君には分からないと思いますが」
 特大の疑問符が浮かんでいたと見え、黒子が説明を始めた。黄瀬の手元からシェイクを取り戻す。無表情のままそれを吸うと、黄瀬がまた、にへら、と笑った。
「人は疲れると食欲がなくなることがあるんです」
「ねえよ」
「……」
 黒子の額に小さく血管が浮かんだように見え、口を噤んだ。さらに黄瀬からも冷たい視線を寄越される。
「あるんです」
「……おう」
「アンタやっぱ青峰っちに似てるっス」
「嬉しくねえ」
 黒子っちー、もう一口、と黄瀬はまたシェイクをねだった。黒子が見えない程度に肩を落としてそれを渡す。よくよく観察すれば、やむをえない、という顔だった。
「つまりなんだ、黄瀬が疲れて食欲がねえって話か?情けねえな」
「火神っちみたいな単細胞にはオレや黒子っちの繊細さは分かんねえっス」
「つかオマエ、そんなんでよくバスケやってられんな」
「ムカつくっスねー!バスケは別っスよ!」
「黄瀬君うるさいです」
 取り上げられたカップの底でかぽんと頭を叩かれた黄瀬が、名残惜しそうにシェイクの後を目で追う。ざまーみろ、と笑って見下ろしたら、
「火神君は単純すぎます」
 本当に似てますよ彼らと、と諦めたように言われ言葉に詰まる。叱られて黄瀬も静かにしているが、どうも今日の黒子は黄瀬寄りで、分が悪い。

「……まあじゃあ、悪かったよ。ってことにしてやるから、今オマエらは何やってんだ」
「何と言うほどの……」
「デートっス」
 間違いなく語尾にハートがついた声に、黒子の声は先を取られた。黒子が氷点下の視線で黄瀬を刺すと、黄瀬はいつの間にか取り戻したシェイクを抱えてずずーとそれをすすった。物理的なサイズは黄瀬の方が間違いなく大きいのに、黒子の前だと小さく見えるのが不思議でならない。

「癖になってしまって」
「癖?」
「中学の頃……」

 話し出した黒子は、頭が痛いというように軽く眉を寄せ、困った顔で正面の黄瀬を見つめた。


 黄瀬がバスケ部に入り、しばらく経ったある日のことだった。全国を制覇する超強豪校の練習量は半端ではなく、今までの経験を上回る運動量にさすがに黄瀬の体力も一時音を上げた。
 そんな日の部活帰り、いつもの四人でマジバーガーに行った。そこでの会話に事の発端がある。

『なんも食べたくないっス』
『食べたくなくても食べるのだよ。それでは倒れるのが関の山だ』
『米食えば?カツ乗せて食えよ』
『何で重いもん勧めるんスか!青峰っち夏バテしたことないだろ!』
『ねーな』
『オマエが軟弱なのだよ』
『緑間っちまで!でもみんな風邪くらい引くっスよね?食欲ねーときどうしてんスか』
『引かねえ』
『なくとも食べる』
 埒が明かないというか救いようがないというか、そんな会話を続ける不毛さを感じた黒子は口を挟んだ。

『ボクはシェイクなら飲めます。食欲なくても』

 それが間違いだった。その一言で黒子は黄瀬にとっての救世主になってしまった。

 疲労時に甘いもので身体が癒されることは確かだが、別に身体にいいわけではない。黒子だって好きだから飲んでいるだけだ。だからそう言っただけだったのだが、既に黒子好きが始まっていた黄瀬にとってその発言は大きかった。
 しかも過ちは二度起きた。シェイク、と口の中で繰り返した黄瀬に、黒子は何の気なしに勧めてしまったのだ。

『飲んでみますか?』

 決定打だった。普段の黒子ならしなかっただろう。でも、食欲がないということは黒子にとって珍しいことではなかったし、食べたくないが食べなくてはいけない辛さも知っていた。それにもしかしたら、キセキの世代という特異なメンバーに囲まれ、一人常人の体力を持つ黒子に、それは小さな親しみを感じさせたのかもしれない。
 黄瀬は黒子のシェイクを飲み、頬を緩ませた。

『飲めるっス』
『そうですか』
『オレ今度から黒子っちのシェイク飲むっス』
『飲んだら食事も摂るんですよ』
『食べるっス!』

 黒子は気がつかなかった。『黒子っちのシェイク』とは、自分と同じ種類のシェイクではなく、黒子が飲んでいる最中のシェイクであり、飲んだら食事、とは自宅で食べる食事でなく、黒子との食事、であった。

 その後、黄瀬がバテたことは数えるほどしかない。みるみる基礎体力をつけた黄瀬が食欲を失うほど疲れることはほとんどなく、どちらかといえば、仕事とバスケがうまく両立できないとか、まあちょっと嫌なことがあったとか、そんな精神的疲労で食べる気がないと言っては黒子に甘えたいだけであったりする。


「そんなら、放っておきゃいいんじゃねえか?」
 実は大したことないんだろう。よくは知らないが黄瀬の仕事に向かうときの顔を見れば、あれはあれなりに真剣であることが分かる。体調管理位するだろう。
 話を聞きながらあっという間に食べ終えたバーガーの紙包みを丸め、口の横を舐めた。
 黒子がまた呆れた目を向ける。火神にも、とうとうシェイクを飲み干して、またテーブルに寝そべった黄瀬にも。
「だから、キミは単純すぎます」
「何でだよ」
「本当に食べたくないときも、あるんですよ」
「……」
「十回に一回位ですけど」
「確率低いな」
「黄瀬君ですから」
「ああ」

(ああ)

 それで、口はきちんと拭き、回し飲みなどしそうにないコイツは、九回の嘘に騙されてやるのか。
 今度はちゃんと食事になるものを買ってくるように伝え、レジへ向かった黄瀬の背中を、黒子は気配を消すようにして見ていた。

(これじゃ分かんねえわ)

 想っていることを悟られないようにしているのだ。誰より、黄瀬に。
 それじゃあ周りが気がつけるわけがない。

「オマエら、面倒くせえな。や、面倒くせえのはオマエ一人か」
「そうですか?」
「面倒くさくねえのか」
「そうですね」

 ふ、と小さく笑ったように見えた黒子は、黄瀬がレジに背を向けた途端その柔らかい空気を消した。トレーの上を見て、げっそりした顔をする。ハンバーガーにサラダにポテトに追加のドリンク、お待たせ札まで立っている。

「何ですかその量」
「メニュー見たら食いたくなったっス。黒子っちのおかげー。あとバーガー二個来るっスよ」
「火神君ですか」
「あんなセンスねえ食い方しないっスよ!バランス取れてるっス!」
「てめえら」
「火神っちはもうちょっと野菜食った方がいいっス」
「さっきまで死にかけてたオマエに言われたくねえよ!」
 もう復活したっスもんねー、とサラダを食べ始めた黄瀬の機嫌はいい。でももしかしたら、黒子にしか見えない何かがあるのかもしれない。まったく分からない。

「ったく、オレは帰るぞ」
「ん、またね火神っち」
「はい。また明日」


 帰りがけ、黄瀬の口にドレッシングがついているのを見つけた。
 あれをアイツはどうするんだろう。拭くか舐めるか。黒子はそれを何と言うか。
(見てくりゃ良かったか?)
 いや関わらないほうがいい、と判断して、何だかおかしくなった。とりあえず、今日は一番の疑問が解決したのだ。

(結構、惚れられてんじゃねーか)

 黒子のシェイクを飲むたびふやけた顔をしていた黄瀬を思い出して、火神はハハッと笑った。あの場では気がつかなかった。


 あれは、甘やかされている顔。