サンドイッチに愛を挟んで
 「オニオン少なめオリーブ多め、あ、パンやっぱハニーのからセサミに変えて、そんで焼いてほしいっス」

 にこにことオーダーするこの男をぶっ飛ばしたい、と黒子はいつも思う。
 黒子は一ヶ月ほど前から、某野菜たっぷりのサンドイッチ屋でバイトを始めた。
 野菜やトッピングの種類が多少あるとはいえ、見たこともない具材ばかりが並んでるわけでもない。慣れれば問題ないとの予想は、さほど外れなかった。
 この男が来るまでは。

「ドレッシングはねー今日はトマトのっスかね」
「はい」
「あ、オススメなんだっけ」
「バジルです」
「じゃバジルにするっス!」

 黒子がお勧めを言う隙を与えず喋りだすくせに、言われた通りのドレッシングに手を伸ばすとすかさず聞いてくるのだ。嫌がらせとしか思えない。
「サイドメニューは……」
 いかがでしょうか、なんて聞きたくない。しかしマニュアルには逆らえない。バイトの身が恨めしい。
「サラダとトロピカルアイスティー!」
「……ありがとうございます」

 そして必ず、ドリンクバーからではなく、手間のかかる飲み物を頼む。
 しかしこれでもうレジに回すだけ、と黒子が数分間の試練を終えた気持ちで横を見れば、こんな時に限ってレジ担当がいない。
(ああ……)
 黒子がレジを打つしかないと分かってか、男はレジにのし掛かりそうな勢いで長身を傾けている。
「ふふーお会計はいくらっスかー?」
 彼は黒子より頭一つ以上背が高く、彼の口調にぴったりな、ぺかっと明るい金色の頭をしている。しかし軽薄そうに見えるが何かスポーツをしているのか、体つきはやたらといい。歳は同じか少し下くらいに見えるが、いつもオーダー時に遊ばれているせいか、滲み出る余裕感が腹立たしい。

「九百五十円です」
「はーい、あ、そうだ」
 思わず黒子はその長身の男を睨み上げた。
(ここでポテト追加とか言わないでしょうね)
「ポテト……」
「…………」
「は、今度頼むっスわ」
 無言の抗議が効いたのか、男は笑いを堪えながら財布を開いた。しかし。
「じゃこれで。小銭なくてごめんっス」
 とどめの万札である。
「ありがとう……ございました……!」
 殺気を込めて言っても、余計に嬉しそうにするだけだ。自動ドアをくぐる背は、今にも愉快なステップを踏みだしそうだった。

 黒子のバイト時間は、あの男が来なければ平穏である。オーダーの変更くらい他の客からも受けるが、あれは明らかに意図的にやっている。
 しかも学生なのか仕事が自由業なのか、ランチタイムや夕方など人の多い時間帯にはやってこない。黒子以外のことには空気を読み、他の客にもバイトにも迷惑をかけない。

「黒子君気に入られてるよね〜」
「逆だと思うんですけど……」
 良くて、新人だからとからかわれてるのだ。長く働いているバイトの何人かに聞けば、前からたまに来ていたが、最近頻度を増したという。
 黒子がこれで、何度変更されても平然と淀みなくパンを仕上げれば、そのうち飽きるだろう。しかし多少慣れた黒子に合わせてか、彼の複雑な変更度合いは増していっている。もはや闘いなので、負けるわけにはいかにい。
 彼がやって来るのは週に三回から四回で、大体が持ち帰りだけれど、たまに店内で食べていくこともある。
 これがまた、最悪である。

(……何でこっち見るんですか)
 何が面白いのか、接客中の黒子をひたすら眺めている。他の客の怪訝そうな視線にも構わない。嫌味なほどに長い脚を組み、テーブルに頬杖をつき、カウンターをガン見である。自然、自分にも視線が集まる。影が薄く、ひっそりと生きてきた黒子にそれは、無駄な疲労しかもたらさない。
 男はトレイを片付けると、少し離れたところに立っている黒子に笑顔を向けた。
「ごちそーさまっス」
「ありがとうございました」
「明日も来ていい?」
「……お待ちして」
「嬉しっス!」

(ませんけど!)
 そう言えたらどんなにいいだろう、と思うのだが、儚いバイトの身では到底言えはしないのだった。




 ◇


(今日も疲れた…)
 バイトを終え、店を出てから気分転換に本屋に寄る。店員が熱心らしく、ポップに新刊への想いが綴られていて心が和んだ。店内を歩き回り、本の匂いを存分に味わい、ほくほくと一冊を選んでレジへ向かう。
 その途中だった。
(うわ)
 黒子は反射的に、平積みされている雑誌を避けた。今は見たくない顔がそこにある。
(……モデルさん、だったんですか)
 何だか色々と納得した。
 人の目を集める存在感、それを気にしない態度、自信に満ち満ちた振る舞い、好かれていると疑わないような笑顔。
 よく分からないが、そんな輝かしい仕事をしているのなら、もっと高層ビルのてっぺんで食事でも何でもしてくれたらいいのに。
 どんよりとそんなことを考えていたら、もっと顔の引きつる張り紙を見てしまった。

 『黄瀬涼太サイン会 握手つき!』

 いよいよ明日から!と一言添えられている。

(うわあ……)
 サイン会とかしちゃうんですか。それはそれは。どうせならこんな静かな住宅街ではなく、もっと繁華街の中央でやってください。
(あ、でも)
 ぼやきながら、黒子は気付いた。
 黄瀬というらしいあの男の人気がどれほどかは知らないが、もしそんなにファンがいるなら店には来ないだろう。人が集まって大変なことになるのは、黒子にだって想像がつく。
 明日のシフトはサイン会の後半から夜までだから、おそらく店で会うことはないだろう。
 よしよしと、明日の分まで働ききった気持ちで黒子は帰路へとついた。

 そして翌日。
 店内の片付けを始めている予定だった黒子は、予想に反してカウンター前で粛々と接客をしていた。

「今日の得さぷなんだっけ?」
「……照り焼きチキンです」

 パンや野菜を覆っているガラスの囲いの上に組んだ腕を乗せ、そこに頭を寝かせながら、黄瀬は黒子に尋ねる。体格的にも対面的にも、普通そんなところでそんなポーズは取れない。そして妙に顔が近い。断固として目は合わせないが、視線は浴びるように注がれているのが分かる。
(何でいるんですか)
 閉店間近の店に、サングラスをして黄瀬はやってきた。
(この辺に住んでるんですかね……)
 そうでなければ、サイン会とやらが終わってからまたここに来るとは考えられない。

「んー、チキンかー……」
「アボカドもお勧めですけど」
「じゃそれにする」
 今一つ気が乗らないらしい黄瀬に、適当にお勧めを見繕って言うと、あっさりと彼はそれにした。本当のところ黒子に喋らせたいだけで、好みなんてないんじゃないかと思う。
「ところで、あの……そこに頭を乗せられては困ります」
 お客様、と言ってみると、ひょいと面白そうに片方の眉を上げた。
「はーい。オレいいオキャクサマだから言うこと聞くっスよ」
 突っ込みたい点は多々あれど、ともかく黄瀬は良い返事をし、大人しく姿勢を戻した。今日は珍しくそれだけで、野菜で惑わすことはしないらしい。
「お持ち帰りでよろしいですか」
「ううん、食べてくっス」
 黒子はちらとレジに表示されている時間を確認した。あと一分で持ち帰りのみの時間に突入する。
 よし、と拳を握った。ここの勝負はいただいた、とゆとりある声音で堂々と宣告する。
「すみませんが、店内でのお召し上がりは二十一時半までで」

「え」

(え?)
 初めて黄瀬の素の声を聞いた気がして、黒子は引き上げられるようにして顔を向けた。いつも笑みを絶やさない顔は目も口も小さく開かれて、ものすごく――自分の目の前でずっと欲しかったパンが売り切れたような、そういう――がっかりした顔をした。

「そーなんスか?」
「えと、はい」
「てことは、あと一分……スよね」
「はい」
 腕時計を確かめ、彼は初めて、こちらを窺う目をした。挑戦的な上目遣いは何度もあったが、これは正しく下手に出ている上目遣いだ。
「オレ、三分で食べれるっスよ」
「……そう言われても」
「じゃ二分で頑張る」
「……」
「一分」
「……身体に悪いと思うんですけど」
「……だめ?」
「……」

 だめなものはだめだし、自分は少しも悪くないのに何故だろう、心が痛む。しかし決まりだからときっぱり断ろうとすると、店の奥からモップを抱えた掃除部隊がやってきた。黄瀬と二人でそちらを見やる。

「……持ち帰りにするっス」
「あ、はい」
 眉をへなりと下げ、諦めた黄瀬は鞄から財布を取り出した。これ以上粘る気はなくなったらしい。正直助かった、と思いつつ、目に見えてしょぼくれた顔はさすがに哀れを誘った。
 しかし、釣りとレシートを渡し、商品を待つまでの間に彼は復活したらしい。
「ね、何か書くものある?」
 そう言うので、包装する手を止め、胸ポケットに差していたペンを差し出した。
「ボールペンでいいですか?」
「うん」
 渡すと、彼はレシートの裏に「食べるのは九時半まで」と書き、その下に何故か、
『くろこ』
 と書いた。
「は?」
「下の名前は?」
「何でボクの名前……」
「名札に書いてあるっス。で、下の名前は?」
「……」
 一体何なのか。本格的に不審者なのか。でも雑誌に載るような知名度のある人間がそんな通報寸前なことをするだろうか。
 カウンターの上に手をつき返事を待っていた黄瀬は、黙っている黒子の表情を確認すると、続きが返されないと見て苦笑した。その代わりに財布の中から別のショップカードを取り出し、裏に「黄瀬涼太」と、そして電話番号をでかでかと記入する。見た目のわりに骨ばった、しっかりした手指をしていた。

「はい」
「いりません」
「ぶっ」
 黒子が思わず仕事を忘れて答えると、黄瀬は吹き出した。あはは、と笑う。
 さっきまでの同情心も消え、早く帰ってください、と商品を突き出すと、いつものように楽しくてしょうがないという顔で受け取った。

「また明日ね、黒子っち」
「黒子っちって何ですか。それに明日は休みです」
「じゃー明後日ね!」
「…………お待ちしてます……」
「オレも!」
 そして彼は指を唇に当て、いわゆる投げキッスを送ってきた。確実に客ではなく不審者を見る目をした黒子に、手を振って店を出て行く。店の前の横断歩道を渡る黄瀬は、闇に紛れても分かるほど浮かれたスキップをしていた。
 あれは一体何なんだろう、と呆然と見送ったあと、黒子は置き去りにされたカードを手に取った。これをどう扱っていいかの判断もつきかねる。有名人らしいし、人に渡るとまずいだろう。
 まだ火の落ちていないトースターを見やったり、レシートの群れを見て悩んだりしながら、黒子はとりあえず制服のポケットにそれをしまった。




 ◇



 仕事にも慣れ余裕が出始めた頃、ちょうど秋メニューが登場した。新メニューの名前が長くて舌を噛みそうになるが、黒子は前もって自宅で練習した。バイトの鑑と褒められたが実際には、黄瀬に度々フルで言されるからであった。
「ねーあのきのこのやつ、名前なんだっけ」
と言われてうっかり間違えようものなら、
「ぶー、それにメルトはつかないっスよ〜」
と訂正される。知ってるなら聞くな、ともし言えたとしても意味がないだろうから、黒子は舌の回りを良くする方へ努力する。

 メニューが変わる前の一ヶ月ばかり、黄瀬はまったく現われなかった。最近また店通いが始まったけれど、来店時間が変わった。ほとんど夜ばかりだ。
 久方ぶりに現われた黄瀬は前より背が高くなったように感じた。カウンター越しに、自ら空白の一ヶ月について話し出す。
「先月引っ越ししてさ、ここ遠くなっちゃったんスよね」
「そうなんですか」
「寂しかった?」
「……また来てもらえて嬉しいです」
 微妙に複雑な気持ちで黒子は答えた。寂しいとは思わなかったが、張り合いがなくなったとは多少感じていた。それでも、バイト時間の平和である方がありがたみとしては大きい。また来るのか……、と思ったことは思った。
 黄瀬はその日大人しく注文し、イートインの時間最後まで、じっくり黒子を見つめて帰って行った。覚えててくれて良かった、とだけ言って。
 一見健気な台詞であるが、入りたてで切羽詰まっているときにあれほど絡まれたのだから、忘れられるわけがない。
 それでも本気で腹が立たなかったのは、黒子が直接パンを渡すと、紛れもなく嬉しそうな顔で受け取ったからだ。それに作り出す前は絡むが、黒子がせっせと作り出すとぴたりと口を閉ざし、じっと忠犬のように見つめ、出来上がるのを待っていた。

 黄瀬にもらったカードは結局、鞄の内ポケットに入れたままになっている。
 一応個人情報だし、あの日の黄瀬の様子が記憶に残っていて、捨てられなかった。
 理由は分からないが、あの日彼は、店で食べて帰りたかったのだ。作った顔を取り払うくらいには。
 彼にも色々あって、気分転換したくてここに来るのかもしれないと、黒子は少しだけ黄瀬を見る目を変えた。
 


 前と同じ頻度では来られないらしい黄瀬は、今は週に一度か二度、閉店間際に訪れる。
 どんなに面倒な注文、変更をしても黒子は最早動じないため、野菜攻撃・パン攻撃はなくなった。しかしその代わり、より突っ込んだ質問がなされる。
「黒子っちはスープどれが好き?」
「クラムチャウダーです」
「そうだと思った!なんか白っぽいもの好きそうっスよね」
「何ですかそれ」
「辛いの嫌いっしょ」
「……食べる時間なくなりますよ」
 聞かれても、サンドイッチをつくる一分足らずの間では大した内容は話せないが、毎度毎度よく飽きないなあと感心する。バイトの話から、天気の話、これくらいの雨なら傘はささないとか、終電が何時だとか。
(何か……ボクのことばっかり知られてるような気がするんですけど)

 そう考えてる矢先、黄瀬が久々に「あ」と口を開いた。注文し直しの「あ」だ。
「……何ですか」
「久しぶりっスね〜その声と顔」
 やっぱり面白がっていたのだ。くつくつと喉から声を漏らしながら、再会した友達を前にしたような、満面の笑みを浮べる。
「別にいいですよ、何を変更してくれても」
「ドレッシングまだかけてないスよね?」
「はい」
「オレ、今何の気分だと思う?」
「は?」
「外してもいいから、何か選んでそれかけて」
 困った展開に黒子は眉を寄せつつ、いつも通り野菜を多めに盛ったサンドイッチを見、黄瀬を見上げ、自動ドアから外の天気を見やり、あまり考えずバジルのドレッシングをかけた。
 黄瀬の気分などまったく分からないから、今までの感覚でしかない。ああだこうだ言いつつ、結局黄瀬は何の名前を口にするか、完全に「何となく」である。
 違うと言われても変える気はなかったが、これで良かったのかと上からパンで挟み込む前に、もう一度黄瀬を見上げた。「当たりっス!」とはしゃいで言うか、「外れ〜」と口を尖らせるか、そんなところだろうと思っていて。
 だからそんな――。

「やっぱり今日、来て良かった」

 寒い雨の夜にスープを手にしたような、そんな安らいだ笑顔がそこにあるとは、もっと言えば黄瀬がそういう顔をするとは思っていなかった黒子は、動揺して目を逸らした。
「……あとは、いいですか」
「うん、いいっス」
 レジで金額を告げ、結局イートインの時間が過ぎてしまったため持ち帰り用の袋に包んでいると、黒子っち、と呟くような声に呼ばれた。その呼ばれ方に慣れている自分も恐ろしい。
「……何ですか」
 長い指がそうっと、透明の袋を掴む。
「……黒子っちと食べたいなあ……」
「……」
 黄瀬は袋を持ち上げ、身体の脇に降ろしたようだった。しかし、帰ろうとしない。店の奥に人はいるが、黒子が黄瀬に捕まってもいつものことかと出てこないし、黄瀬がここまで絡むときは、他に客がいないときである。ほとんど、二人きりと言っていい。
「……バイト中です」
「バイト、終わってからならいい?」
「ボクはキミと……」
「キミじゃないっス」
「……黄瀬君と……、友達でも何でも、ないでしょう」
 そのとき自動ドアが開いて、外から風が入ってきた。時折誤作動で、勝手にドアが反応するのだ。秋の終わりの夜はもう真っ暗で、信号の明かりだけが四角く光っている。新しい空気はひんやりと湿っていた。

「――雨、降るって言ってたっけ」
「……夜からとは」
 そう答えると、見落としてた、と言ってから黄瀬は笑い、
「名前、覚えててくれてありがと」
 と開きっぱなしの扉をくぐって、正面の横断歩道を渡っていった。
 レジを締め、掃除を終え、着替えてから黒子は鞄を探った。二ヶ月前に黄瀬が置いていったカードを手に取り、また同じ場所にしまった。
 何か、間違ったことを言っただろうか。
 間違ってはいない。けれど胸に抱いた感覚は二ヶ月前のそれと似ていて、少し違ってもいた。
 店で食べられる時間が決まっていて黄瀬ががっかりするのは黒子のせいではないけれど、友達ではないと言って笑顔を曇らせたのは黒子なのだった。
 僅かでも罪悪感を抱くのは、一応バイトでも接客業という立場からだろう。でもそれなら、友達じゃないのは当たり前で――。

 それとも彼を友達だと、自分はどこかで思っているのだろうか。





 ◇



 妙に長く感じた一週間後の夜、黄瀬は変わらぬ様子でまた店に現われた。
「オレの取り柄は諦めの悪さと懲りないところっスよ」
「そうみたいですね」
 幾らかほっとしながら、てきぱきとパンを焼き、具を挟んでいく。こういうとき、やるべきことがあるのはありがたい。
「黒子っちの良さはそういうとこっスね」
「どういうとこですか」
「オレとご飯食べてくれたら教えてあげるっス」
「知る機会がなくて残念です」
「一回くらい食べようよ!」
「だから何でですか」
 包装紙にサンドイッチを詰めながら、時間を確認する。あと五分だけれど、どうするだろう。三分で食べられると言っていたが、普段彼は十五分以上店にいる。決して早食いではないし、意味もなくそんなに急いで食べたいわけはないように思う。

「食べていきます?持って帰ります?」
 一応トレイに乗せながら確認すると、黄瀬が首を傾げ、ゆるく笑いながら問う。
「ねえ、オレ友達じゃない?」
「はい?」
「今、時間見て言ってくれたでしょ」
「まあ、はい」
「黒子っちは俺がどれっくらいかけて食べるか知ってて、ここからウチまで三十分かかることも、オレが持って帰るまでにジュース零すことも知ってる」
「……最後のは知りませんでしたけど」
 零れるんスよ、と何故かしみじみ言うので、黒子もそれは良くないと持ち帰り用の台を用意した。
「で、オレが食べたいドレッシングも分かるでしょ」
「当たってたなら偶然です」
「オレも黒子っちの好きな野菜とか、嫌いなものとか、朝弱いことも知ってる」
「……知ってると、友達なんですか」
「友達じゃないの?」
 ううむ、と黒子は唸った。相手のことを知っているいないが友達の基準だとは思わないが、では何が友達なんだろう。
 黄瀬が黙って待っているので考え込んでいると、ぱっと切り替わった時計のデジタル表示が目に映った。またイートインの時間が終わってしまった。
「黄瀬君すいません、時間が」

「友達になろ」

「……」
 驚いていると手の甲に熱いものが重ねられ、黒子は視線をカウンターに落とした。黄瀬の手に覆われている。

(友達……?)

「オレがまだ黒子っちの言う友達じゃないなら、これからなろ」

 友達になろうと言って、手を重ねられたのは初めてだ。顔を上げると、黄瀬の目元が赤い。自覚があるのか、ふいと顔を背け、それでも彼は続けた。

「……下の名前、おしえて」

 ぎゅ、と手に力を込められた。教えるまで離さないと言っているようにも、怖がっているようにも見えた。重なっている二つの手の横で、出来上がったサンドイッチが封をされるのを待っている。

「テツヤ、です」

 答えると、黄瀬はそろりとこちらを窺い見た。

「友達になった……?」
「……キミの友達の定義、なんかボクと違う気がするんですけど」
「まだだめ?」
 正直、黄瀬を友達だ、としても構わない。黒子の思う友達としてなら。
 しかし今までの流れを考えると、いつの間にか自分は黄瀬のペースに巻き込まれているし、今では知らない扉の前に立っているような気さえする。このまま黄瀬の望むまま友達になると思いがけない結果を招きそうで、大変に躊躇われる。

「えびベーコンに、クラムチャウダーと、あとなんかデザート」
「え?あ、はい」
 手を離した黄瀬は、黒子を見つめながら突然オーダーを始めた。追加らしい。慌ててパンの位置に戻り、焼くのかどうか確認しようとすると。
「それ黒子っちのだから」
「はい?」
「外で待ってるっス」
「いや、あの」
「……」
 カウンターの端と端で斜めに見つめ合ってしまい、黒子は途方に暮れた。
(だからその、捨てられた犬みたいな顔やめてください)
 一歩、二歩、と黄瀬が近づいてくる。口を結び、駄々っ子のような顔だ。
「あの、黄瀬く――」
 ん、のところで、カウンターに手をつき、身を乗り出した黄瀬の唇が触れた。

「待ってるから」

「…………」

 財布ごとレジに置いた黄瀬は、そうして店から出ていった。信号を渡った様子はない。本当に待つ気なのだろうか。

(……だから、)

 だから、キミとは友達の定義が違う気がするんですけど?!

 じわじわと熱を持つような唇を噛み、黒子はパンを選び、トースターにかけた。
 やはり黄瀬が来ると、平穏なバイト時間が乱される。
 ヤケのように野菜をぎゅうぎゅうと詰め、ピクルスを抜き、ついでにトッピングでマスカルポーネを選んでやった。
 チーズを塗り伸ばしながら、表面が白くなっていくのを見て「白っぽいもの好きそうっスよね」と言われたことを、思い出さなくていいのに思い出す。

 大分ボリュームの膨れたサンドイッチを見て黄瀬が笑い出すのは、あと一時間後のこと。