「迷い犬とフレンチトースト」サンプル


 週末、学生向け居酒屋チェーン店の賑やかさは、二十二時を越えていよいよ本格的になってきた。学生達の笑い声や乾杯の音、店員たちの足音で、席が四つでも離れようものなら小声ではとても聞こえない。三年前に卒業した誠凛高校バスケ部の飲み会参加者は九名で、自然会話は二グループに分かれがちだった。
 今黒子は左側五人の、日向や伊月を中心としたダジャレと突っ込みの応酬を懐かしく聞いていたところで、それ以外の声は聞こうと思っても聞こえないはずだった。しかしこれまでの経験からアラートが発動したのか、右側四人の会話が急に耳に飛び込んできた。声の主は降旗だ。決して大きな声ではない。
「なあ、黄瀬はさ……、やっぱその、あるんだよな」
 おずおずとした聞き方、時間帯、男子学生、酒入り、が揃うと高確率で登場するあの話題。やんわりとした言い方で言えば男子トーク、つまり下ネタである。中学の頃は青峰が真剣な顔で女子の胸について語っていたし、誠凛の部室にだってその手の雑誌はあった。その話が盛り上がろうと、黒子は別に構わない。
 それが、黄瀬にさえ向けられなれば。
 
「オレ? ないっスよ」
 しかしそこにいれば、真っ先に話題を向けられるのが黄瀬だった。大学の友人たちの間では特に顕著で、とりあえず黄瀬に話を振ってみよう、という流れを何度見たことだろう。
 降旗たちにとって黄瀬はある面で近付きやすく、また別の一面では近付きにくい相手だった。キセキの世代という名前や滲み出る迫力に今でも腰が引けるところは多少あるけれど、何せ高校の三年間、バスケの上で海常は誠凛のライバルだった。腰が引けてもいられない。それに誠凛にはしばしば遊びに来ていたし、黒子がいれば大丈夫らしい、とも思っている。黄瀬の方もこうして誠凛の飲み会に来るくらい慣れているし、居心地は悪くないのだろう。せっかく双方近付いた距離をここで離したくはない。黒子にとってはどちらも大事な友人だ。しかし今その岐路に立っていると、分かっているのは黒子だけなのが厳しい。
「黄瀬君、お酒、おかわりしますか」
 黒子は焦り、急遽左側先輩チームの輪から抜け、右側の同級生チームの輪に加わろうとした。なんとか話題を変えたいのだが、黒子の声は周囲の音にかき消され、届いたのは黄瀬の耳だけだったらしい。黄瀬はこちらを向いてくれたが、しかし。
「え! ないのか? オマエが?」
 降旗の驚いた声と、続く福田や河原の声で会話は続投となってしまう。黄瀬の周囲の空気が一段下がる。貼り付けた笑顔のまま、黄瀬は返した。
「別にそんな珍しくもないっしょ。フリハタ君たちはどーなんスか」
「いや、オレらはともかく、黄瀬は……だってオマエ」
 黄瀬君お水飲みますか、と黒子は再び声をかけてみたが、黄瀬もそこそこ飲んでいる。白い肌がほんのり赤く染まっていて、黒子が話しかけている意図を察してくれそうにない。ううん大丈夫っスよ、との返事はくれたが、笑顔の気温は急降下中だ。追い打ちはさらにかけられた。
「そんだけ顔良くて、スタイル良くて、バスケもあれだけ……」
「か、河原君」
「……褒めてくれんのは嬉しいんスけど、あのさ?」
 あ、もうだめだ、と黒子は悟った。黄瀬の目が据わっている。口は笑っているが、目は少しも笑っていない。黄瀬の雰囲気に気がついたのか、他の三人はぴたりと口を閉ざした。後ろではまだ伊月がダジャレを繰り出している。あの平和な世界に戻りたい。
「女の子にモテるのと、セックスすんのは別じゃない?」
「……お、おお」
 黄瀬が言うとカッコイイな、と福田が呟いたが、黄瀬本人にとっては、だからこその。
「この顔で? ってみんな言うんスけど、顔カンケーなくない?」
「……」
 いや、あると思う、と黒子を含め四人とも思ったことだろう。元来の整った顔に男らしさの増した笑顔は、今でも売り物として雑誌の表紙などを飾っている。女子にモテる、つまり付き合う可能性が自分達の何倍も多分ある、その先に進む率だって比例して高い。黄瀬は当然経験済みに違いない。そう考えてしまうのは年頃の男子として自然だろう。しかしアルコールの入った黄瀬は、その沈黙を自分の舞台にして力説し始める。
「オレね、おかしいと思うんスよ。その顔で? ってさ、だってオレの顔はど……」
「黄瀬君ボク酔っぱらいました!」
「黒子?!」
 どーん、と黒子は最後の手段で横から黄瀬に倒れこんだ。ちょっと寄りかかるくらいでは頑丈な身体はびくともしないから、肩を使ったタックルのごとき勢いだ。黄瀬はうわ、と言ってやや身体を斜めにしたくらいで、すぐに黒子を支えてくれる。
「黒子っちいつの間にそんな飲んだんスか? 大丈夫?」
「大丈夫じゃないです。なので、ボクそろそろ」
「立てる? 送ってくっスよ」
「……ありがとうございます」
「黒子っち顔に出ないから分かんないんスよね」
 そりゃあ酔ってませんからね、と心の中で答えるが、目元の赤い酔っぱらいは気がつかない。
 おろおろとこちらを見ている降旗たちへ目配せをして、何も言わないよう訴えた。三年間一緒にバスケをした仲だ。きっと伝わった。それに今、黄瀬の何かに着火してしまったことは彼らが一番よく分かっている。
 でも仕方ない。まさか思わないだろう。顔・スタイルに恵まれ、雑誌モデルのアルバイトのみならず写真集まで出し、バスケに関しては十年に一人の天才と称され、ナンパなどしなくても女子の方からやってくる。黄色い声援にも突然の告白にも慣れた態度。
 ――その黄瀬が童貞だ、なんて。



 狭い1LDKの黒子の部屋に入り、ぶすっとした黄瀬を座らせ、小さいテーブルに水を置く。黒子が正面に座るなり、彼は憤慨しながら再び口を開いた。
「納得いかないっス」
「はい」
「男は顔じゃないんスよ!」
「……はあ」
 その通りだと思うが、黄瀬の顔で言われると複雑だ。しかし彼は憤懣やるかたなしと言った様子で水の入ったグラスを握りしめ、テーブルの上でぐらぐら揺らす。こぼさないといいなあと見ていたら、おもむろにごくごくと飲み始めた。息をぷはっと吐いてまた続ける。
「何で他の奴だと大して反応ないのにオレだとその顔でって言われんの? 顔! 関係ねえじゃん!」
「そうですね、関係ないです」
「オレの顔は童貞捨てるためについてんじゃないんスよ!」
「誰もそこまで思ってませんから。ていうか黄瀬君うるさいです」
 追い出しますよ、というとぴたりと口を閉ざした。酔うと感情のままに喋ってしまうだけで、話は通じる。あまり強くはないと本人も黒子も思っているが、酔い潰れる姿を見たことはないから実際どこまで許容なのかは分からない。結構飲んでも案外ほろ酔いのままなのかもしれない。
「……黒子っち酔ってないの」
「醒めました」
「……ちえ」
「ちえってなんですか」
「いつもオレばっかなんスもん。酔ってクダ巻いてんの」
「揃ってクダ巻いてたら収拾つかないでしょう」
 黄瀬は不満そうに口を噤み、テーブルの上に頭を伏せた。黒子は立ち上がり、もう一間の寝室から客用布団を持って戻る。同じ体勢のまま、黄瀬がふくれっ面でこちらを見上げた。
「寝るなら布団敷きますよ」
「黒子っち一緒に寝ようよ」
「キミと寝ると暑いから嫌です」
「もう涼しくなったっス」
「なんで毎回キミと寝ないといけないんです」
「なんで嫌なんスか、男同士じゃん」
 どうして男同士で、しかも片方がこんな図体なのに、一つ布団に入らなければいけないのか。女の子にモテ過ぎて嫌気が差した黄瀬の思考は、一周回って変な場所に着地している。



―――中略―――


 でも今は手で触る以上のことが許される。唇で触れてもいいし、唇や耳朶を舐めたり甘噛みしてもいい。
「くすぐったい、んですけど」
「そこは気持ちいい、って言ってほしいっス」
「いや、ほんとにくすぐった……っ、あ」
 ぴくん、と黒子の肩が跳ねた。ぱ、と口を手で抑える。思わず黄瀬も黒子の顔をまじまじ見てしまった。
「……あ、の、」
「今の、すごいいい」
「……いや、いい、とか別に……ちょ、っと」
「ここ、よわい?」
 耳の裏側に舌先を這わせると、また身体が跳ねた。
「……っ、き、きせくん……っ」
 小刻みに揺れて、黄瀬の腕の中で身体を押し返そうとするが、全然抵抗できていないし、それが黄瀬を余計煽ると気付いているだろうか。どんどん困惑していく顔がかわいい。少しだけ拘束を緩め、唇を寄せる。
「ふ……、」
 柔らかいそれが重なった瞬間の気持ち良さに恍惚とする。角度を変えて、貪るように合わせて、昂った熱のままに舌を差し込む。これだけでいきそうだ。黒子に触れて、彼の気持ちよくなっている姿を見たいのに、身体の一部は先にこの熱をなんとかしろと内側で渦を巻く。でもやはり、それより触りたい。声や表情の変わり始めた彼の知らない姿をもっと見たい。自分の手で黒子を乱したい。
 唇を離すと、お互いの熱い息が零れる。薄く開いた口で息を整える黒子の目はとろりとしていて、焦点が定まっていない。もう一度耳の後ろをくすぐると、ぎゅっと目を閉じてそれに堪えた。くすぐったい、じゃない。それはもう、気持ちがいい、の顔だ。表情一つで黄瀬の方も熱が駆け巡る。自分の息が荒いのも隠せない。シャツの中に手を入れ素肌に触れたら、もう勢いを止めることはできなかった。

「……っ、せ、く……」
「いたい?」
「……くる、し」
「ごめん、もうちょっとだけ、奥」
「……っ」
 指で、舌で慣らした入口に、今黄瀬のものが根元まで入っている。後ろから繋がった体勢でその箇所を見下ろし、黄瀬は唾を飲み込んだ。到底入るようには見えなかった小さな窄まりが、自分の大きさにまで広がっている。脚の内側に触れる黒子の肌や、反った白い背中から汗が流れ、浮き上がった肩胛骨が震えている。苦しいと訴えるその身体が、黄瀬を余計に昂ぶらせる。抜いてあげられたらいい。そう思うのに身体はどうしても嫌だという。中へ、もっと奥へ、もっと強く突き入れたい、という衝動を抑えるので精一杯だ。短い呼吸を繰り返しながら、黒子の性器に手を伸ばす。
「あ、あ、やだ、も……や、」
「さわるだけ」
「や、ぁ、っ、ん、ん……っ」
 残っているぬめりは彼が出したのものだ。肌に触れながら一回、中を慣らすときに一回、彼は達している。最初は先に達することを拒んで、でも黄瀬の手がもたらすものに逆らえなくて、声を必死で殺して達する姿はたまらなかった。そのあとの上気した顔も、簡単に黄瀬に抱き起こされてしまう力の抜けた身体も。
 黄瀬は昔から口にする以上に、黒子をかわいいと思っていた。でも達したあとの表情を見たときに沸き上がった甘やかさはそれとは別のものだった。甘やかしてどろどろにして、そして――泣かせたい。自分に縋らせて、気持ちがいいと泣く顔を独り占めして、無防備な身体を揺さぶりたい。あれほど黒子に泣いてほしくないと思ったのに、これは一体なんなのだろう。体格や力の差を使って黒子の自由を奪うなんて何より嫌なのに、やだ、と言う身体を後ろから抱きしめて、性器を扱いて追い詰めて、自分のものを彼の中に押し込めている。
「すげ……きもち……」
 黒子の中に包まれながら、汗ばむ肌を撫でる。触りたいと思っていた肌は思っていた以上に滑らかで、黄瀬の手が吸い付くようだった。そのくせ骨の硬さや筋肉の隆起は今まで何度も見てきた黒子のものだからたまらない。あの彼を、今自分のものにしている。自分の性器は今、黒子の奥深くまで入っている。自分は黒子以外を知らない。彼も、黄瀬以外知らない。この熱さも、歯を食いしばるほどのキツさも、他の誰とも交わしたことはない。興奮で震えるほどだった。