待っている時間もずっと

 六月十八日二十三時四十五分。
 黄瀬はさきほどから三分おきに確認している携帯を手に取り、まったく光る気配のない液晶を十秒ほど睨んだ。ずっと視界に入る位置に置いてあるし、固い机の上にむき出しにしてあるから、着信音と振動音に気付かないわけがない。見逃している履歴がないことは、十分前に見たばかりである。
 今日は朝から晩まで、学校でも外でも、とにかく祝いのメッセージを貰い続けた。日付が変わるまであと十五分。今日の分は、もう全て受け取っただろう。たった一人を除いては。
 仕方なく、黄瀬は通話履歴から黒子の名を選んだ。四十六分になるまで待てなかった。椅子の背にもたれながら顎を引いて、むっすりと耳に電話を当てていると、たったのワンコールで黒子は応答した。こんばんは、と落ち着いた声が発せられる。あらかじめ待ち合わせていた相手にでも会ったようだ。

「……黒子っち」
「そろそろだと思ってました」
「今年もわざとっスね!」
「その通りです」

 黒子が寝るのは早い。零時前の電話など、呆れ混じりか迷惑混じりにでも声が聞ければいい方で、大体は目を覚ましてもらえない。
 でもこの日は違う。黄瀬の誕生日だけは、きっかりワンコールで黒子は電話に出る。

「もう五年目なんスけど〜。そろそろ黒子っちから電話もらいたいっス」
「五年ですか。よく毎年欠かさず電話してきましたね」
「だって黒子っちにお祝いしてほしいっスもん!」
「電話もらってからしてるじゃないですか」
「黒子っちからの電話がほしいんス!」

 どっちからでも同じだと思いますけど、と言う黒子の声は笑いを含んでいる。
 誕生日だからと自分が電話を待っているのを知っていて、黒子はかけてこない。それどころか、むしろ待っている。だから鳴らせば、待機していたとしか思えない声とタイミングで出るのだ。

『祝ってほしいって、キミが電話かけてくるのが好きなんです』

 二年前、黒子は妙に楽しそうにそう白状した。いい加減自分の誕生日を覚えてほしいと黄瀬がごねたときだ。
 黒子の返事に、黄瀬は目を丸くした。自分の行為を黒子はよくうっとうしいとか面倒くさいとか言う。けれど本当のところはそれほどでもない。それは分かっていたけれど、黄瀬のする何かしらの行為を好きだと口にすることは今も昔もまずない。言えば自分が調子に乗ると思っているからで、実際その通りなのだが、だからその彼が誕生日に限ってではあっても、黄瀬からかけてくる電話が好きだと言ったことには驚いた。
 構わない、でも、仕方ない、でもない。好きだ、と言ったのだ。だから待っているのだと。
 
「黒子っち今、電話待ってた?」
「はい」
「今日ずーっと待ってた?」
「さすがにずっとは待ってませんけど、一時間くらい前から待ってましたよ」
 一時間。黄瀬は声に出さず、口の中で復唱する。
「それ黒子っち的には、かなり”ずっと”っスね」
「そうですね」
 それならかけてくれればいいのに、と思うのに、その返事に黄瀬は首の後ろかなんかをかいて、そこらに丸まって転がりたくなる。
「オレがしなかったら、黒子っち電話してくれるんスか」
「うーんどうでしょう、待ちきれなかったらするでしょうけど」

 黒子が「どうでしょう」と言った場合、可能性は十パーセントくらいだ。当たればラッキー、でも期待しないでいこう、という確率の低さである。机に肘をつき、わざとすぐに答えず間を開けると、黒子はその答えに付け足してくれるらしい。そっと息を吸う音が聞こえる。
 黒子のそういう返答はいつものことだから、黄瀬がそれで機嫌を損ねるなどありえない。それを承知の上で、誕生日だけはほんの少しだけ機嫌を取るようにしてくれるのだ。それなら何か言ってほしい。一秒にもならない沈黙を落としたって、罪はならないだろう。

「二十三時五十九分になってもこなかったら、ボクからかけるかもしれません」
 ただご機嫌取りのはずの台詞がこれだから、結局いつもと変わらない。黄瀬はぷは、と笑って口を開く。
「そんなぎりぎり嫌っスよ!そういうときに限って突然電波が切れたりするんスから!誕生日は黒子っちの声ちゃんと聞きたいんス」
 ふ、と今度こそ黒子は笑いを息に乗せた。携帯から通り抜けてくる籠もったようなその音を、黄瀬は耳で味わう。それから、やっぱり会いたいと思う。

「今年こそはちゃんと会いたかったっス」
 中学の頃は、当たり前だが直接会えた。しかし高校に入ってからは何故か誕生日当日に限って用事が入り、大学に入ってからも同じくで、とうとう五年連続、電話だけの誕生日になってしまった。
「キミ、中学のときは朝から誕生日をアピールしに来てましたよね」
「黒子っちは一日一緒にいて、オレがプレゼント抱えててもスルーするんじゃないかと思ってたんスよ」
「確かに気付いてても言い忘れる可能性はありましたけど。あの頃は」

 あの頃は。
 でも今は違う。夕方になり、夜が更けて、遅くなればなるほどきっと気にして、携帯を手元に置いておいてくれるのだろう。
 普段、電話もメールも大抵は黄瀬からで、黒子は用がなければ自ら携帯を取らない。誕生日くらいはかけてくれてもいい。そうも思うけれど、何でか黒子の方が電話を待って、祝ってとせがめば嬉しそうにする声を聞くことの方に、黄瀬の心は傾いてしまう。

「ねえ黒子っち、あと五分で今日が終わっちゃうんスけど」
「本当ですね。今年もぎりぎり間に合って良かったです」
「黒子っちが電話くれると、ぎりぎりじゃなくなるんスけどねー」
「緊張感のある方が張り合いがあっていいでしょう」

 言葉とは裏腹に、黒子の声は柔らかい。
 きっと来年も、自分の方が先に待ちきれなくなって、電話をするのだろう。
 その電話を、黒子は待っていてくれる。自分が好きでいることを、好きだから祝ってほしいと望むことを、喜んでくれる。

「黄瀬君」
「うん」
 呼吸一つも、聞こえない音さえも逃さないよう、黄瀬は携帯と耳とをまとめて片方の手のひらに収めた。机の上の時計は、二十三時五十九分を指している。あと一分で日付が変わる。多くの人から祝われた、今日この日に生まれたのだと、一番聞きたかった声を待ちながら黄瀬は静かに実感する。


「お誕生日おめでとうございます」


 その一言だけで、生まれてきて良かったと黄瀬は思うようになってしまった。大げさかもしれないが仕方ない。誕生日というだけで、でも誕生日だから、そんな風に祝ってもらえる。

「――黒子っち大好き」
「会話の流れが変ですよ」
「伝わればいいんスよ」

 ありがとうでは伝えきれない。好きだからこんなに嬉しい。ならば、それが一番いい。
 好きな相手に好かれるとは、なんて貴重なすばらしいことだろう。想われることの嬉しさを自分に教えたのは黒子だ。
 だから黄瀬は伝える。黒子に好きだと言う。黒子が黄瀬を祝うために、電話を待っているように。

「でも来年こそ、黒子っちに電話かけてきてもらうっスよ」
「大きく出ましたね」
「これ大きいんスか?!」
「キミに残り十五分の壁を突破する忍耐力がついたら話は別ですけど」
 黄瀬は再び時計に目をやった。ぴたりと重なっていた二本の針は少しずれて、長針が右に傾いている。日付が変わった。来年の誕生日まで、残り三百六十四日だ。
「オレの計画はね、この一年で黒子っちをメロメロにして、来年は黒子っちが十一時半には電話をくれるはずなんス」
「ほう」
「『ほう』って!感心するとこじゃないっス!」
「楽しみにしてます」
「またそういう余裕出して〜。負けねっスよ!」
 はいはい頑張ってください、といなされてしまったが、本気である。誕生日になったら居てもたってもいられないくらい、黒子に好きになってもらうのが黄瀬の野望だ。

「でも黄瀬君、それって来年も誕生日は会えないってことになりませんか」
「あ」
「根比べするためにあえて会わないのもありですかね」
「え、え、やだ!来年はちゃんと会いたいっス!」
「ボクもです。会いたいです黄瀬君」
「っ…………う、うぅ……黒子っち……!!……っ不意打ちずるいっスよ!」

 来年までにべた惚れになってもらうつもりが、先手を取られてしまった。不意打ちも何もボクだって毎年、とまた危険なことを呟こうとしているので、慌てて止める。彼はこうして的確に自分を落としてくるから、手強くてならない。

 当日に会えたら一番いい。でも会えなくても、黄瀬は直接手渡されたようなプレゼントをもう五年分も胸にためていっている。毎年どちらが相手を好きにさせるか、競い合っていくのもいい。

 黄瀬の発言は何気に黒子の対抗心に火をつけたらしい。この日の電話は今までの誕生日よりも長くなった。しかも会話の端々にさらりと愛情表現が盛り込まれたりしている。つまり、来年も黒子は黄瀬に電話をかけさせる気で、黄瀬を惚れさせようとする気満々なのだ。
(もー!これ以上になったらどうするんスか!)
 そうなったら、今すぐタクシーに乗って会いに行く。夜中でも迷惑でも、会いたいと言って、黒子が喜ぶ我儘を貫き通して、その日は自分に付き合ってもらう。朝まで、ずっと。

「ねえ、やっぱり会いたい、黒子っち」
 そう思っても、どうしても会いに行けないからこうして電話をしているのだけれど。でも言わずにいられない。
「週末まで我慢してください」
「できないかもしんないス」
 本当に今すぐ会いたくなってきて、ちらりと定期と財布に目を向けた。しかしまるで見ていたかのように、黄瀬君、と名を呼ばれてしまう。
「一つ大人になったんでしょう?」
「……黒子っちいぃぃぃ」
 誘うような声でたしなめられては生殺しである。それでも黒子に祝われて一つ年を重ねたからには、こらえてみせよう、とも思ってしまう。
 でも我慢できて、約束している週末まで。それさえ繰り上げてしまうかもしれない。
 
(来年の誕生日がとか、もう無理)

 黄瀬はもう、次に会う日が待ちきれない。














    待っている時間もずっと、キミを祝っているよ