九尾の狐と廻る花 サンプル |
サンプル1.出会い にゃあにゃあと遠くで猫が鳴いている。こんな山奥で親猫とはぐれたのか道に迷ったのか、いずれにしても珍しいことだった。猫でも犬でも、動物はこの山にあまり近付かない。威嚇しているつもりはないけれど、山全体に漂う黄瀬の「気」が彼らは好きではないらしい。 暇潰しに麓近くまで降りていくと、泣き声は猫のものではないことが分かった。生い茂った草むらから、着物の帯と裾がはみ出ている。近付くと、しゃがみ込んで泣いていた子供が黄瀬を見上げた。黄瀬から見れば生まれたてに等しい年齢だ。涙は頬を濡らし顎まで滴り落ちているが、子供は黄瀬に驚いたのかぴたりと泣きやんだ。しばし見つめ合い、黄瀬は首を傾げる。 これが人間であれば、動物よりももっと珍しい。彼らは麓にすら近寄らない。この山に入ったら狐の化物に攫われて、取って食われると思っている。迷い混んで戻らないのを物の怪のせいにしているのだろう。黄瀬はそんなことをしたことはないし、したくもないのに、人聞きが悪いことこの上ない。柿でも栗でも一つ摘まめば数ヶ月腹も減らず、何なら食べなくたって死ぬこともない。それを鬼より鋭い牙があるとか、不気味な尻尾が九本もあるだとか、顔のつくりならそこらの人間よりよほどいい出来なのだから出て行って見せてやりたいくらいだ。その証拠に、子供だって黄瀬を見て泣きやんだではないか。 「って、え、」 人間たちへの不満と己の自慢を声に出さず吐き出したところだったのに、子供の目がまた潤み出した。さあ泣くぞ、と言わんばかりに口も左右に開き始める。 「ちょっと、この流れで泣かないでほしいんスけど」 子供などあやしたことはないが、とりあえず両脇に手を差し込み、身体を持ち上げてみた。目の高さを合わせると、突然の浮上に驚いたらしく大きな目を瞬かせる。深く透き通るような、青い瞳だった。山のてっぺんから小さく見える、晴れた日の海のような。 「……アンタ、なんか軽くないスか」 黄瀬の手は一応重さを感じているが、主に着物の重みだろう。それも彼には大分大きい。結ばれている帯は爪先より下に垂れ下がっているし、裾も丈も余りすぎだ。しかし生地は悪くなく、織り込まれた白糸は子供の肌の白さに合わせたようだった。帯も瞳の色に近い明るい縹色だ。そもそも着物に帯など、里の子供が身につけるものではない。大人も子供も頭からすぽんとかぶる衣がほとんどだ。 考えれば考えるほど、ここにいるのが不自然な子供だった。人間の子供がこの山に辿りつくこと自体不可能に近いし、特有の人間くささもない。彼の瞳はただいま黄瀬の耳に釘付けで、そのせいか泣きも騒ぎもしない。 子供を抱き上げながら考えていたらさすがに腕が疲れてきた。地面に降ろすと子供は黄瀬の顔を見ながら、何故かたどたどしい動きで正座をし始めた。草の上にちんまりと収まる。その姿に、ぽん、と一つの名前が浮かんだ。 「座敷わらし?」 他の物の怪とはあまり接点がないからよく知らないけれど、確かそういう類がいたはずだ。その呟きを受けてか、大人しくしていた子供が口を開く。 「ざしきわらしは、もののけですか?」 「……アンタ喋れたの」 「もののけですから」 「…………」 丁寧ではあったけれど、見た目通りの幼い口調だった。そして話は通じているのか、いないのか。 「座敷わらしは物の怪でしょ」 「わかりました」 こくり、と丸い頭が頷く。頭が重くて落ちそうだった。それでも両手は行儀良く膝の上で重ねられている。 「……で、結局アンタは座敷わらしなの?」 「はい」 絶対分かってないだろ、と思ったが、もののけの中でもだいぶ幼いようだから、物を知らないのかもしれない。狐の物の怪も力が弱い一本尾の狐と、黄瀬のように九尾を持つ妖狐と、いくつかの種類に分かれている。だからこれもきっと弱い方なのだ。座敷わらしではないにしても、人間か物の怪かで考えたら物の怪寄りだろう。とにかく、人間らしさが薄かった。 改めて小さな物の怪を抱き上げ、肩に担いだ。さくさくと山道を登っていくと、黄瀬の歩調に合わせて青い帯がゆらゆら揺れる。 「どこにいくんですか」 「お山のてっぺん」 座敷わらしは縁起がいいというし、多少は会話ができるようだから暇潰しにもなりそうだ。物の怪なら手もかからない。 肩の上でもそもそ動く子供の指が耳に触れた。ぴん、と弾くと手を引っ込める。が、また懲りずに手を伸ばす。こら、と言ったら耳ではなく髪を引っ張りだした。大した力でもないから放っておくと、髪を掴んだまましゃべり始める。 「きつねさんのおうちにいくんですか」 「そ。でもきつねさんはやめて」 「でもおみみがきつねさんです」 「そりゃ狐っスもん」 答えてから肯定してしまったことに気付いたが、もう遅い。 「きつねさん」 肩口で嬉しそうに呼ばれて、まあいいか、と黄瀬はそれ以上続けるのをやめた。呼び名として気が抜けるだけで、狐は狐だ。 銀杏が色づいてきた季節だった。栗が落ち、柿が赤くなり、風が冷たくなる季節。子供の物の怪は、柔らかく温かかった。大人しくて幸を呼んでその上温かい。いい拾いものをした。そんな気持ちでいたのだから、きっとこのときの自分は、相当ぼけていたのだろう。 サンプル2.狐と子供の日常 薄ぼんやりとした青い光が、闇となりつつある木々の間からふわんふわんと近付いてきた。それと入れ替わりに、黄瀬の周りに漂っていた花の欠片はさっと散っていく。花は狐火が嫌いらしい。とはいえ大抵の生きものは狐火など好きではないだろう。青白い炎の上に乗せられ運ばれている子供も半べそをかいている。が、それは炎が怖いからでも、炎が熱かったり冷たかったりするからでもない。 仁王立ちで腕を組んでいる黄瀬を見つけると、子供は泥や涙まみれの顔や格好をまるで気にせず真っ直ぐ手を伸ばし、炎から身を乗り出した。落ちる前に一歩踏み出し子供を抱き上げたが、同時に髪や着物にべったりとしたものが押しつけられる。あーもー最悪、と思うが黄瀬しか見えていない子供をはねのけるわけにもいかない。 「……っ、きせ、くん」 「きせくん、じゃないっスよ。雲が橙色になったら帰ってくるって約束したでしょ」 「ごめ、なさい」 黄瀬の首根に掴まって、うーうーと子供が泣く。冬は暗くなるのが早いから遠くまで行かないように、雲が橙色になるのは太陽が落ちた合図だから、見たらすぐ帰って来るように言ったのに、日が落ちて山の端が宵の水色になっても戻らなかった。狐火に迎えに行かせるのもこれで三回目だ。 「アンタ迷いやすいんだから明るいうちに帰ってこいって言ってんのに」 足も着物も泥だらけで、かすり傷まである。これじゃ夕飯前に湯を浴びさせないとどうにもならない。雲のようにひとまとまりになった青い炎に尾を振って合図をすると、ふっと薄闇に溶けて消えた。 黄瀬と子供は山の頂上にある廃寺で生活をしている。いくら暇でも子供の遊びに始終付き合う気はないので、一人のときは寺が見えるところで遊べと言っているが、彼はいつの間にか緑の深いところへ行ってしまい、自力で戻れず黄瀬に大捜索される。黄瀬は天狗のような千里眼など持っていないから、こんな緑深い山の中から子供を探し出すことなんて到底できない。下級の物の怪も黄瀬を怖れてほとんどいないから、使い走りにすることもできない。となると、唯一残るのが木の精や花の精だ。それらは黄瀬に取って食われることもないと知っているから、気ままにここでふわふわと暮らしている。彼らに黒子の居場所を突き止めてもらって、あとはいつもなら黄瀬が迎えに行くのだが、今日は場所が悪かった。沢の側で迷子になっているというから、自分より移動の速い狐火を遣ったのだ。 「……あおさん?」 「あおさんはお帰りっスよ」 狐火が消えた気配を感じたのか、かろうじて泣きやんだ子供は周囲を見遣った。狐火だと教えたのだが、狐火も黄瀬も同じように「きつねさん」と呼ぶから、好きに名前をつけていいと言ったら「あおさん」になった。炎が青いからだ。どちらにしても物の怪らしさは皆無である。 さて戻るかと子供を降ろし、身体の向きを変えようとしたところで、身体の一部をぐん、と後ろに引っ張られた。身体が傾きそうになるが、咄嗟に力を入れて堪える癖もついている。もう何度も繰り返されているから怒る気にもならない。 「…………黒子っち」 ゆっくり顔だけ後ろへ向ければ、九本現われた尻尾に子供が飛びついたところだった。夕陽と同じ金色の毛の中に全身を埋もれさせ、それでもまだ余る尾を両手で抱きかかえている。普段それほど感情を露わにしないのに、このときだけは満面の笑みだ。大抵の生き物が恐れる力の象徴は、彼にとっては何よりの遊び道具らしい。尾に乗せたまま持ち上げると、小さな歓声が上がる。 「アンタを喜ばすために出したんじゃないっての」 完全に遊ぶ体勢に入った子供は背中に押し付けても移ってくれない。むしろ黄瀬の背を安全な壁にして尻尾とじゃれている。 「ほら、遊んでないで背中乗ってよ。もう中入るっスよ」 子供がどれだけ両腕を広げ尻尾を捕まえていても、九本もあれば一本や二本は無事なやつがいる。空いてる尾で背をつつけば、まだ残っていたと言わんばかりに勢いよく振り返る。その隙に背中に押し付け、固定するのがコツだ。 もう一年になるから扱いにも慣れたが、慣れた頃にはまた違うことを覚え始めるから油断ならない。こんなに大変だとは思わなかった。妖怪なら放っておいても生きていく。だから拾ったというのに。 尻尾と背に挟まれた子供は急に温かくなったからか、すうすうと寝息を立て始めた。肩越しに顔を見、頬についた泥の乾いているのを払ってみても、まったく目を覚ます気配はない。そんなことでいいのかと思うのをよそに、子供の方は黄瀬にくっついていれば問題はないと安心しきってすぐ眠る。 ――これで人間だなんて。 サンプル3.放浪 「寝ましょうか」 「ん」 返事をして、九本の尾を出す。耳も出すとますます辺りがよく見え、小さな音も拾うようになる。見えなくても、聞こえなくてもいいものが入ってきて多少神経は過敏になるが、黒子と外で眠るにはそれくらいがちょうどいい。感覚も力も、正しい量が身体に戻ってくる。 「その姿の方が楽ですか」 「んー、出すと楽なの思い出す程度にはね。でももう人間の姿の方が慣れたっス」 気休めの布を一枚敷いて横になると、背後でも黒子が横たわる。背中に感じる体温を包むように尾を広げ、上からかぶせ、肩越しに振り向いた。白い毛の波間に、目を閉じる黒子の顔が見える。一本はいつも抱きかかえられ枕にされるのだ。本当は向かい合って眠りたいけれど、この方が黒子の身体をより多く温められるから仕方ない。黄瀬の尾も黒子の体温と混じり、温かい空気で膨らむような気もする。それに、満足げな吐息が後ろで聞こえるのも心地良かった。毛先を少しだけ揺らして黒子の頬をくすぐってみると、ふ、と笑い声が夜気に流れた。 「なんですか」 「気持ち良さそ」 「それはもう」 心からそう思ってくれているのだろうし、これがあるから黒子は野宿への抵抗がないのだろう。困ったことだと思いながらも、それに救われている自分もいる。黄瀬が原因で居場所を変えるときに、黒子が疎ましく感じる素振りを見せたことは一度もないし、むしろ黄瀬に何かある前に立ち去ろうとするくらい、彼は自分といることを躊躇いなく選ぶ。いくら黄瀬の尾があったって野宿のせいで風邪を引いたことはあるし、黒子がいるから黄瀬は身を固めないのだと、黒子に縁談を持ちかける家もあった。山を下りたときは黒子のために黄瀬がついていったけれど、今ではどちらがどうなのか、分からないときがある。 「……七年? ですかね」 「ん?」 「黄瀬君のお山を離れてから」 「……そうっスね」 「黄瀬君の力は弱くなったりしてませんか」 思いがけないことを言われ、黄瀬は閉じかけていた目をぱちりと開いた。 「してないっスよ。あの石は黒子っちが持ってるし。……ほんとに、急にどうしたんスか」 今日は随分オレのこと聞いてくるね。と言いながら身体の向きを反転させた。向き合った黒子は腕の中の尾が逃げて、あ、という顔をしたが、空を掴んだ腕を大人しく下へ降ろした。腰から下を尻尾で覆い、上半身に黄瀬の衣の袖をかける。必然的に回される腕の中で、再び黒子は目を閉じた。腕が重い、と言われて久しい体勢だけれど、今日は言わないらしい。 「石じゃなくて、山の方に黄瀬君の力の源があったら大変だなと。妖狐って物の怪の中では偉い方なんでしょう、一応」 「まあね、一応」 「寝首をかかれたりしませんか」 突拍子もない心配に、つい噴き出した。しかしすぐ、黄瀬の顔も強張る。黒子が黙って、黄瀬の胸に額を押しつけてしまったからだ。本当に今日はどうしたのだろう。どうして、そんなことを訊くのだろう。 「……石がなくても数年山離れてたこともあるから、全然平気っスよ。それに、物の怪同士はあんまりお互い興味ないから」 「……そうですか」 涼しい風が、そっと黒子の髪を揺らした。黄瀬が心配したほど強くならず、優しく吹いて終わりかけの桜の葉も揺らす。遠くで梟が羽ばたいた。 もっと遠くの闇の奥に別の生き物の存在を感じるけれど、黄瀬に近寄ってなどこない。黄瀬が消そうと思えば、狐火でぽんと燃やすだけなのだ。だから自分がいれば、そこが黄瀬の領域だ。物の怪の中でも格が違う。神とされたことも、物の怪として古い類に入ることも、黄瀬の力を一層複雑で強いものにしている。黄瀬に怖いものなど、一つしかない。 ――もう、ボクは一人で行きます。と。 いつかは言われる。そのときは笑って別れられるようにと、その覚悟だけは忘れないできた。でも今、笑える自信がない。 「……もう」 静かな声が胸元で響き、僅かに身を固くした。 「ボクはもう、十五になりました」 十五。人間ならばもう、大人と見なされる。貴族ならばどこぞの姫を迎え入れてもおかしくない。 そうか、と黄瀬は黒子の言動を理解した。今年の新年に一つ上がった自分の歳を気にしていたのだろう。そこへ昨日の晩、有り体に言えば夫婦となることを目的に娘が訪れた。黄瀬と二人で楽しければいい時期は終わろうとし、黒子は人間として、人間たちのつくった習慣や決まり事の中で生きる。そういう現実は目前に迫っている。 「……もし、帰りたくなったら」 「…………帰る?」 掠れた声で、黄瀬は聞き返した。喉など渇いていないはずなのに、弱い、細い声しか出なかった。しかし、帰るとはどういうことだろう。帰りたい、とは。黒子は考え考え、言葉を紡いでいるようだった。 「ボクに付き合っていなければ、黄瀬君は嫌な思いをしないで済んだでしょう。……昨日みたいに」 キミ、本当に怒るところだったでしょう。 顔を埋めた上、俯く黒子の声は限りなく小さい。けれど風の音しかしない山の中では、一語一句漏らさず聞こえた。 昨日、二人が眠る部屋の戸口であの娘は言った。 『黒子さまは眠っておいででしょう』 それまでやんわりと帰るよう促していたが、その一言で黄瀬は笑顔を消した。そのとき奥で眠っていた黒子が起き上がり、黄瀬の方へ声を投げかけた。 『黄瀬君?』 聞き慣れた静かな声に、黄瀬の気も静まった。と同時に娘も去って行った。 黒子は分かっていて声をかけたのだ。彼が見たのは黄瀬の背中だけだったろう。けれど極力黄瀬が怒る事態を避けたい黒子はすぐに察する。黄瀬の一瞥で十人くらいは氷漬けになります、と諫めてくるが、なっちゃえばいいのに、とは思ってもそんなことはしない。でもそこまで心配されるということは、何かの度が過ぎていて人間に化けきれていないのかと少し落ち込む。 嫌なら付き合わなくていい、という真意は、黄瀬を気遣ってのことか、それとも遠回しにもう別々に生きたいと言っているのか。考えて、後者はないと答えを出す。黒子が言うならばきっと、黄瀬がずっと覚悟を決めているような言葉でまっすぐに伝えてくるはずだ。 今度は少し強い風が吹いた。舞い落ちた桜の花が、はらはらと黒子の髪に落ちる。淡い桃色が月明かりで青白く見えた。黒子の髪に手を差し入れ、花びらが揺れることもない緩やかさで、そうっと引き寄せる。 「…………黒子っちは? オレ、もういない方がいい?」 きっと否定してくれると思えるから聞けることだった。それでも、声は震えそうになった。 サンプル4.現代 「……オレ、黒子っちと前に会ったことあるって言ったら、信じる?」 「前……って、帝光に入る前ですか?」 「うん」 「それは……同じ日本に生まれているので会っててもおかしくないと思いますけど」 「……そスね。ただ、すっ……ごい前なんスけど」 す、にものすごく力を入れて発音された。黄瀬はといえばテーブルに肘をつき、俯いた顔を手の甲に乗せ、いかにも悩み苦しんでますという姿勢になっている。 中学で会う前にどこかで会っていた。それを信じてほしい。という話であれば、信じるも何も、そうだったんですか、で済む話だ。教えてくれれば別に疑うようなことでもない。それをどうして、そこまで思い詰めるのだろう。 「ちなみに、いつですか?」 「…………」 「黄瀬君、すごい前って言ってもボクたちまだ二十年も生きてないんで」 「……黒子っちはね」 「え?」 オレも今はそうだけど、と呟いた辺りから雲行きが怪しくなってきた。 「黒子っち」 「はい」 「金閣寺って、いつできたんだっけ……?」 「……金閣寺?」 ぱちり、と黒子は目を瞬かせた。金閣寺、とはあの金閣寺か。修学旅行といえばの。 「それかあの……能の人、誰だっけ」 「世阿弥ですか? 観阿弥でしたっけ?」 「どっちか分かんない。でもその頃。いつだっけ」 「……確か室町時代、です」 西暦で答えられる知識は黒子にはない。でも観阿弥の『風刺花伝』が確か室町時代だった気がする。でも待ってほしい。今黒子が訊いているのはいつ自分と黄瀬が会ったのか、ということだ。西暦何年か、何世紀かも分からない遠い昔のことを訊いているのではなく――。 「その頃」 しかし黄瀬は、はっきりと答えた。声はまだ明るくなかったけれど、迷いはない。 「すげー金ピカの建物あるって、黒子っちと見に行ったことあるし……、有名な役者がいるから勝負しろって言われたこともあるから」 「……待って下さい。それ、ボクですか?」 「うん」 あっさりと答えるがすぐには呑み込めない。ただ突然黄瀬が能を誘い出したり、詳しく黒子に説明したり、さらには舞うことまでできるのは、その理由なら納得できる。でもそこに自分がいるとは考えられない。 「……あ、でも黒子っちはあんとき団子に夢中だったから覚えてないかも……っていうか、」 顔を上げ、何も返せないでいる黒子を見ると、ごめん、と黄瀬は謝った。 「……気持ち悪いっスよね」 「……いえ、驚いてるだけで」 かろうじてそう言うと、ありがと、と黄瀬も無理矢理口許を笑みの形にして、聞き取れるかどうかの小さな声で応えた。そうして、また沈黙してしまった。 確かにこれは、言われてもいきなりは信じられないし、多分相手が黄瀬じゃなかったら――たとえ黄瀬であっても、それを信じきって主張されたら相当戸惑う。ことによっては黒子一人では受け止めきれないかもしれない。 でも目の前の黄瀬は、黒子がどう思うかの想像はとっくにできていて、だからこそ言えないでいた。もし本当に能が生まれた室町時代に会っていて、黄瀬が舞うのを黒子が見ていたなら、同じように見せることで思い出すかもしれないと考えたのだろう。話さないで済むなら話したくなかったのだ。だって、あり得ない、と現代に生きている自分たちは――黄瀬本人だって、そう思ってしまうから。 黒子は息を吸って、大きく吐き出し、すっかり冷たくなったカフェオレを一口飲んだ。 「……キミが言い出せないでいた気持ちがよく分かりました」 「……でしょ」 「黄瀬君がそれを思い出したのは、あの紅葉を見に行った日ですか?」 「……さすがっスね。その通りっス」 「なんで思い出したんですか」 聞くと、はは、と黄瀬は自棄になったような笑いを漏らした。 「話してるオレでさえ、もうあり得なすぎて腹一杯なんスけど」 「はい」 「まだでかいのが一個あってね」 「まだあるんですか?」 つい思ったまま返してしまい、まずかったかと思ったが、黄瀬もぐったりした様子で頷いた。多分お互いロードワーク三時間後に長距離マラソンと言われた気分だ。でもそこに投げ込まれたのはそれ以上の。 「妖怪だった」 目を見開いて、口をぽかんと開けるという、典型的な驚いた顔をしたのは何年ぶりだろう。 「あと八ヶ月で黒子っちが思い出さないと、オレまた妖怪に戻るんだって。紅葉の夜が、それのカウントダウンスタートってとこ」 「な……」 そうして、とうとう黄瀬はテーブルに突っ伏した。手つかずの朝食は乗ったままだから、彼の大きな身体は端に引っかかっている程度だ。 「信じなくていいっスよ…………」 半分本当に泣いている声で、話した彼が一番ダメージを食らったことがよく分かる。黒子も動揺と混乱の真っ最中だが、信じきれていない分まだそこまで深刻にはなっていない。テーブル上のトレイをずらし、黄瀬の頭をわしわしと撫でる。なんと声をかけていいのか分からず、さらに抉るのかもしれないが、話を続ける以外黒子に今できることはなかった。 「えっと、今は、人なんですか?」 「多分……耳ないし」 耳? と思ったが黄瀬の耳はついている。別の耳がある妖怪なのだろうか。 「妖怪って、あの、なんの」 黒子はお化けだとかそうしたものを怖がらないが、あまりすごいのだったら心の準備をしないといけない。 「きつね」 「きつね?」 「尻尾、九本あるやつ」 「……九尾の狐って、妖狐ですか? ほんとにいるんですか?」 「ここにいるっスよ〜」 しかし黒子が撫でている金色の頭には人間の耳しかないし、尻尾もない。事態はなかなか複雑だ。何から理解したらいいのか。できるのか。 黒子も呆然としながら、黄瀬が顔を上げるまでさらさらの髪を撫で続けるしかなかった。 サンプル5.記憶探し 「ん、ここで右手挙げて、斜めに少し下げて、止まって。そうそう、すれ違ったら……」 「……待ってください。今のとこ覚えてないです」 「これ?」 「右斜め左、ですよね」 「右斜め真ん中っスかね」 「……それでした」 くっくっと笑うと黒子はむうと口を曲げた。 「キミと違って一回観ただけじゃ覚えられないんです」 「全然いいっスよ」 敷いてくれた布団を半分上げて、畳の上で小さく謡いながら繰り返す。黄瀬の腕や脚の動きを追うので精一杯の黒子を、黄瀬はずっと見つめているが、視線が気になるのかたまに上を向く。黄瀬がずっと笑っているのが悔しいらしい。 「真剣にやってるんですから笑わないでください」 「オレも真剣っスよ」 「真剣な人は舞ってる最中そんなへらへらしません」 「へらへらはひどくない?」 「余裕の人はもっと静御前らしくしててください」 「はーい」 ご要望の通り、黄瀬は役になりきる。恋しくて、いつまでもこの世に留まり続けることが苦しくて。 もう、いないのに。 一番好きだった人はこの世にいない。もう同じ場所に行きたい。願っても自分ではどうしようもなくて、目の前に現れた身体を借りた。自分の声を届けてくれると信じて。一つになり、それから別れ、己を見つめる。 青い目も柔らかい髪も、小さい頭も、白い肌も。 ――なんて愛しい。 「黄瀬、君」 「……っ」 黒子が、たどたどしくでも付き合ってくれたのが嬉しくて没頭していた。彼の顔はもう目前で危うく――。 「近い、ですってば」 目にごみが入ったあのとき。あの日はすぐ離れられた。今もそうしようと思うのに、心は舞っている間の静が乗り移っているようで、身体が離れようとしてくれない。 ――はずみ、でもいい。 ただの事故でいいから。 「黄瀬君」 「……」 聞こえない。何も聞こえないし聞きたくない。顔を近づける。触れそうに近い唇が動く。 「っ、キミが好きなのは誰ですか」 固い、その声に動きを止めた。 「キミはボクが好きなんですか」 「…………すき、っス」 間違いない。一つも嘘じゃない。でも、何故今自分の心に不安が広がっているのだろう。黒子も同じだ。お互いの纏う空気は固い。黒子の目は怒っているようにさえ見える。きゅっと結んでいた口を、彼は開いた。 「キミとの過去があるからですか」 「…………」 何を言われているのか、咄嗟に理解できなかった。頭は考えることを放棄しようとしている。しかし黒子の目はそれを許してくれない。 過去が、あるから? そうだ、とも言えるし、違うとも言えた。 だってどれも黒子だ。今までの黒子を黄瀬は間違いなく愛していて、どうしても黒子と同じように生きてみたくて、こうして人間になった。その黒子は、黄瀬にとっては今の黒子だ。 でも、黒子からすれば自分ではない誰かなのだ。過去の黒子は黄瀬の中にしかいない。 ――ここに、この時代に、黄瀬を好きでいてくれた黒子はいないのだ。 今の黒子は、彼らとは違う。黄瀬との過去を覚えてもいなければ、黄瀬を頼らなければ生きていけない子供でもない。目の前の黒子は、黄瀬に触れられることをよしとしていない。 いつからか流し続けていた涙を手の甲で拭い、黄瀬はできる限り息を整えた。そうして、無理矢理笑って聞いてみた。 「……オレ、も、忘れた方がいい……?」 「……っそんなこと、」 でも、自分の思いさえ伝わらないのなら、記憶のあることが今を妨げるなら、覚えていることに何の意味があるだろう。何百年も前の記憶があるなんて、到底信じてもらえる話じゃない。そんなことは現代に生まれてみれば分かっている。無理なのだ。信じてもらうことも、まして、思い出してもらうことなんて。 「……それなら……思い出したくなかった」 「黄瀬君、」 言って、ひりひりと心が焼けるようだった。何より大切な時間だったものを、自分で否定したのだ。でも、それを黒子に認めてもらえないなら思い出したくなかった。これじゃ一人でいるのと同じだ。それよりひどい。 ――ああ、そうか。 不意に、人間になるための条件を思い出した。は、と笑いがこぼれる。 黄瀬が記憶を取り戻していられるのは、月が九回満ち欠けする間だけ。それ以上は、黒子が思い出さなければ黄瀬の記憶も消えてなくなる。 「……案外、親切なのかもしんないスね」 四ヶ月でこの有様だ。もっと長かったら到底保たない。 「……なんの、話ですか」 「あと四ヶ月で終わり、って話」 「終わり……って、キミが消えるわけじゃないですよね……?」 「そうっスよ」 そう、黄瀬は消えない。消えるのは記憶だけ。 こんなに泣いたことも、黒子を好きになったことも、全部忘れる。 夜空を見るのが怖いことも、すべて。 すべて忘れて、永遠に生きるのだ。 サンプル6.黄瀬失踪 ようやく辿りついた山頂はそれまでの急斜面とは一転して、視界は広く開けていた。しかし闇の中町並みが見えるわけはなく、月と無数の星々の浮かぶ空が一面に広がっているだけなのだが、その星の多さと空の広さは東京ではとても見られない。今の日本で見られる場所も限られているだろう。 話に聞いていた寺はもう、そこにはなかった。ただ、縁側らしきものが残っている。黄瀬はそこにもたれながら、ぼんやりと地面に座っていた。月光を遮断する木々がないから、思いの外明るい。黙って近付いていくと、黄瀬は緩慢な動きで顔をこちらに向けた。思わず足を留めるほどの冷たい無表情だったが、黒子と分かるとみるみる表情が戻っていく。 「……なんで」 ぽかんと口を開け、心底間の抜けた声で彼は呟いた。え、え、と驚きうろたえ、立とうとしたが砂利で滑って失敗している。 「なんで? キミを探しにきたに決まってるでしょう」 「や、だってアンタここ、山の上っスよ、こんな時間に登るなんて何考えて」 「答えはさっきと同じですけど」 「……だめっスよ、下まで送ってくから、すぐ帰って。ここまで何で来たんスか」 「ふざけるな!」 我慢の限界だった。心配と焦りと暗闇の恐怖と疲労と、とにかく色々混ざって黒子は怒鳴った。手が出なかっただけまだましだと思ってほしい。拳を堪えたのは、彼の顔に泣き疲れの色が浮かんでいたからだ。 「どうして、黙って消えたんですか」 「…………ごめん」 「……ボクがキミを好きだって、伝わりませんでしたか」 ふる、と首を横に振った黄瀬が立ち上がる。でも黒子に近寄ろうとはしない。 「知ってる。黒子っちがオレを好きなことはオレが一番知ってるよ。でも、もう一緒にはいられないでしょ」 「なんでですか、だって今までは」 「もうできない」 優しく、でもはっきりと否定された。ぼろぼろと自分の目から涙が落ちる。まただ。歯止めがきかないほど、感情が揺れる。どうしてだめなのかが分からない。黄瀬は自分の急な反応に驚いたようだったが、やがて、そっか、と呟いた。 「……黒子っちは、思い出さないでいいよ」 「いやです」 嫌だと言っても思い出せないのは自分だ。どうにもならない。自分の力では何も変えられない。その無力感が余計に悲しさを増すのだ。思い出したいのに、それさえできれば。 黒子っち、と近くで呼ばれ、顔を上げると熱を持ち始めた目蓋に、柔らかいものが触れた。魔法のように涙が止まる。ふわ、と黄瀬が笑った。 「……前も、怒られた」 「……?」 「勝手に消えようとするなって、思いっきり殴られたんスよ、黒子っちに」 「それ、成長してないじゃないですか……」 「……そうスね、オレは変われないままだった。ずっとアンタを好きなまま」 そうじゃない、そんな声で言わないでほしい。最後みたいな声で、どうしてそんな。 「……キミ、本当はまだ、」 何か、と言おうとしたときだ。 「っ」 黄瀬の表情がさっと変わり、黒子から咄嗟に離れた。青い炎が黄瀬の周りに浮かび上がる。小さな炎はいくつも生まれ、炎のように揺らめいて黄瀬を取り囲み、二人の間を遮った。嘘だろう、と思った。黄瀬の話を黒子はもう信じてしまっていた。でも黄瀬は人間で、妖怪や物の怪という世界は、まだどこか作り事の中にあった。それが、こんな。 「……近付いちゃだめっスよ。オレの炎じゃない」 「……どういう意味ですか」 炎は泡のように、足元から浮き上がり続けている。炎を見つめる黄瀬の目はいつもより鋭く見えた。 サンプル7.その後 「……いきたい?」 早く、と目で訴えるのを汲み取って彼が優しく問う。意地を張っても時間が延びるだけだから否定などしないけれど、それを答えさせる意地の悪さに屈するのも悔しい。目を逸らせば、彼は小さく笑って奥を突き上げた。 「あ! ……っぁ、あ、……っ」 それだけで達し、しかし奥から与え続けられる熱が黒子を解放してくれない。熱さから逃げたくて無意識に振る頭を両手で抱えられ、唇を塞がれて、もう一度大きく跳ねた。黄瀬の唇に息を止めらる一瞬、頭の奥が弾けて意識が途切れる。 まったく慣れていない身体を短期間でここまで変えたのは黄瀬のその怖ろしい辛抱強さと、黒子の身体を扱うことに対する慣れだ。子供の頃から抱き上げたり甘やかした記憶がある彼はどこまで力を入れていいのか、黒子がどこまで許容できるのか、どうすると安心するのかを知っているしすぐ察する。そんなの黒子だって知らないことだ。それを先回りして使われたら逃げ場なんてない。 しかし黄瀬の方もようやく火がついたのか、腰を一定的に動かしはじめた。そうしながら、黒子の顔をとろりと目を細めて見つめる。唇が降ってくる。 よっぽど自分を好きなんだなあと、他人ごとのように思ってしまうが嫌じゃない。彼の目に映るのはどれも自分に違いないのだ。でも今見えるのは一人なんだろうか、三人だろうか。過去の黒子は、黄瀬をどう見ていたのだろう。 「……なあに?」 お話する? と笑いながら聞いてくる。行為の最中でも黒子が構わず昔のことや何かを訊いたりして中断させるからだ。黄瀬が動き出すまでは激しくない時間がおかしくなりそうに長いから、ふと何か気になるとつい聞いてしまう。黄瀬も嫌いではないらしい。 「ボクは、どういう風にキミを見てたのかなあと」 好きだったに違いない。でもどう思っていたのだろう。決して欲を向けない黄瀬のことを、そして、いつか自分が彼を置いていくことを。 「遊び相手かお世話係だったっスね」 黄瀬の指先が喉元から上へ伝い、頬の輪郭を確かめて、耳元で一周する。くるりと回って、うなじをくすぐった。 「ん、あ」 「それか、布団?」 「ふ」 喘いだり、吹き出したり、これも遊んでいるみたいだ。黄瀬も笑いながら、また全身をすり寄せるようにして黒子の中と外を揺さぶる。もう動こうとしていたところだったからか、戯れにも少し本気が混じる。 「オレのこと好きすぎて離してくんなかったっスよ (→TOPへ) |