エンジンにご注意ください
 
 朝、青峰が校門をくぐると、左の方から自分に向かって駆け寄ってくる姿があった。桃色の髪が激しく左右に振れている。
「大ちゃん!」
 呼ばなくたって分かってるっつーの、と思いつつ立ち止まると、桃井は目元を緩ませて、きゃー、と喜色いっぱいの声を出した。人前では青峰君と呼んだり、ただの幼馴染だと主張する日々の努力を、コイツは自ら無駄にしている、と青峰は思う。思いっきり昔の呼び名で呼んだ上にそんな顔で寄ってきたら、その笑顔は”自分に”向けていると人は思うだろう。普通。

 そんなことはお構いなく一直線にやってきた桃井は、青峰の肩の辺りを見つめて毎朝恒例の挨拶を口にした。
「おはよ!今日も、か、か……かっこいいね!」
 ぽ、と頬を染め、桃井は両手を頬に当てた。そして夢見心地に言う。
 テツ君、と。
 青峰のような乙女心に疎い者でも分かる。今の呼びかけをメールに入れたなら、語尾には必ずハート型の何かがつけられるだろう。
 そして自分の肩に乗っている生き物は、飽きることはないのか毎朝律儀に返事をする。
「ありがとうございます。桃井さん」
 あ、おはようございます、が先ですね。
 そう言って立ち上がり、ぺこりと頭を下げた。目の端で青い毛玉のような頭が動く。羽の先が上を向く。テツくーーーん、と桃井がまた黄色い声を上げた。ちなみに、青峰本人に今のところ挨拶はない。

 青峰の右肩には、身長十センチの黒子ミニが常駐している。


 三人(?)で歩き出すと、桃井はふと首を傾げ、青峰の背面と正面とを交互に覗き込んだ。そして背中の方へ向けて話しかける。
「テツ君、今日は何で後ろ向きに座ってるの?」
 桃井がそう尋ねると、それを強調したいのか小さい羽が開いて耳を叩いた。
「ボク今、怒ってるんです、青峰君のこと」
「テツ君が?」
「仕方ねーだろありゃ」
「ボクは死ぬかと思ったんですよ青峰君。もう安心して眠れません」
「だからザリガニの水槽のがいいだろって……、……あ?何だよ」
 朝から繰り返しているやり取りの最中、桃井がぎょっとして見開いた目を自分に向けた。すぐに非難がましい視線を送ってくる。
「大ちゃん……まさかテツ君そんなとこに住まわせる気じゃ」
「んなことすっか。ザリガニ入れられなくなんだろ。つか、肩に水槽は乗せられねー」
 黒子ミニの居場所は決まっている。青峰なら肩、緑間なら頭の上……と、それぞれの定位置がある。それ以外の場所には、基本的にどの黒子ミニも馴染まない。
「じゃあ今の話は?」
「寝るときだよ」
「普通に寝たらいいじゃない」
「…………」
「桃井さん、それが」
 目を反らした青峰に変わり、黒子は説明を始めた。今朝の一悶着を。
 
 昨晩、黒子はそれまでと同じように青峰の肩の辺りで眠っていた。そこに突然、ばすんとぶっとい腕が降ってきたのである。
 今までも、寝返りを打った青峰からこういった被害を受けることがないわけではなかった。黒子の身体は小さいが弾力があるので、全身がむに、と伸びてしまうものの、それくらいで怪我をしたりはしない。
 しかし、今朝はそれだけで収まらなかった。ようやく上半身だけ抜け出した黒子の顔を目掛けて、寝ぼけて伸びをした青峰のもう一方の腕が――よりによって握られた拳が――、ハンマーのように落ちてきたのである。


「いくら呼んでも起きてくれないし、本当にここまでかと」
「そ、それでどうしたの?!」
「何とかギリギリ脱出できましたけど……あんまり焦って羽が毛羽立ちました」
「ひどい大ちゃん」

 確かに起きたとき、ぶわ、と羽が逆立ってはいたが、今は一本ずつぴんと立って元通りの向きに揃っている。空色の根元から羽の先に向かって白くなる、まっすぐなグラデーションだ。
 二人分の非難を受けた青峰は首を回し、ぴんぴんしている羽つきの小さい背中に言った。
「おい、肝心なこと言ってねーだろテツ」
「……今ので全部です」
「全部じゃねえ。これを見ろ」
 青峰は桃井に見えるよう、額の端を指差した。よく見るとすりむけて赤くなっている。
「どうしたの?」
「エンジンだよ、テツの」
「緊急用の?」
「やむなくです。逃げるために」
「やむなくったって人の顔に吹かすこたねーだろ!」
 黒子エンジンの最高速度は、イグナイトパスでボールが飛ぶのと同じ速度である。当然額もすりむける。
「ボクも必死だったんです」
「大変だったねテツ君。大ちゃんなら大丈夫、ガングロで目立たないから」
「……」
 この三人でいると、一対二の一は常に自分である。
 実際大して目立たないすりむけ跡は、もうかゆい。指でひっかいていると、跡残りますよ、とぽそりと言われた。はた、と肩の上で静かに揺れた羽を見やり、額から手を下ろす。
 とはいえ機嫌が直ったわけではなく、黒子がいつも通り正面を向いたのは、昼休みに入ってからだった。


 ◇ ◇ ◇


 夜になり、部屋でベッドに転がってバスケ雑誌を読んでいた青峰は、風のような気配を感じて窓に目をやった。体操選手のように両腕を上げた黒子が、窓際の机に着地したところだった。

「ただいま帰りました」
「おー」
 机の上を数歩歩くと黒子は羽を広げ、ふよふよと飛んでやはり肩に落ち着いた。
 朝の機嫌が昼にようやく直ったと思ったら、大きい方の黒子から集合の笛が鳴ったのだ。それで今帰ってきたのである。向こうで何をしているのかはよく分からないが、大体戻りは夜になる。

「毎回思うけどよ、いつもこんな時間まで何やってんだ」
「近況報告して、エンジン満タンにしてもらって、……それくらいです」
 満タンになったのか、つーか燃料は何なんだ、と気になる疑問は多々あるが今は置いておく。
「近況ってオマエ、今朝のこと言ってねーだろな」
「言ってません」
 ならいーや、とページをめくる。
「あ、ザリガニの水槽はやめてください、って伝言です」
「言ってんじゃねーか!」
 それに、水槽の蓋をシェルター代わりにしたらどうかと言っただけで、水槽に住めとは言っていない。誤解の広まる予感がする。

 青峰のところにいる黒子ミニは、他のキセキたちの黒子に比べ、事故発生率が高い。そして扱いがひどいといっては、事あるごとに色んな経由でお叱りメールが来るのだ。
 その場にいる黒子ミニはお互いの情報を共有するらしく、黄色い黒子にそれが伝わると次に黄瀬に伝わる。非難のメールが来る。誠凛のカントクからも火神経由でメールが来る。京都の赤司からは翌朝メールが来る。勘弁してほしい。

 あーあーあー、と雑誌から顔を上げてぼやいていると、黒子は眉をむむ、と寄せて言い返した。
「ボク言ってません」
「そんで何でテツにバレんだよ」
「桃井さんが報告してくれました」
「アイツか!!」
「それで、預かり物です」
「あん?」
 黒子はひょいと肩から飛び降り、雑誌の横に足を伸ばして座った。両手を腿のところに添えると、よいしょ、と横向きに何かを捲くる。太ももに何か巻きついているらしい。
「何だそりゃ」
「水戸部先輩がくっつけてくれました」
 巻かれているものは結構長いようだった。黒子の身長近くある。といっても青峰から見れば十センチもない程度だ。引き出すごとに黒子が隠れていくので、先端をつまんで引っ張ってやると、ころんと身体が転がった。
「あ、ワリ」
 じっとりした目で睨まれたがそれくらいは日常茶飯事なので問題ない。つまみ取ったそれを広げてみると、見慣れたものだった。
「絆創膏じゃねーか」
「青峰君にだそうです」
「オレか?こんな貼るほどの傷でもねーよ」
「いえ、今後のために」
「はあ?」
「エンジン強化してもらったんです」
「…………」

 表情に乏しいはずの黒子の顔が、何故か誇らしげに見える。そういえば、戻ってきたとき背負っていたエンジンは、行く前より輝いていなかったか。
「また潰されかけたとき、すぐ逃げられるようにしてくれました」
「オレにエンジン吹かす前提か!」
「位置的に仕方ないでしょう」
 怪我したくなかったら、ボクの声で起きてください、と危ない匂いの言葉を放ち、また肩に戻ってきた。
 くそ、と思うが聞かないわけにいかない。この肩以外のところにやる気はない。絆創膏程度のかすり傷で済むなら、臨戦態勢のエンジンと共に眠るくらいわけはない、こともないが、わけはない。

 絆創膏は机にしまい、くあ、と欠伸をして部屋の明かりを消す。同時に欠伸をした黒子を肩に乗せたまま、身体を横たえる。
「エンジン強くなったから気にせず寝返り打てるとか思ってるでしょう」
 何でバレたんだ、と思うがここで肯定すると寝かせてもらえない気がする。
「思ってねーって」
「思ったでしょう」
「あー寝ろ寝ろ」
「青峰君」
「んだよ」
「おやすみなさい」
「おー……」

 会話が止むと途端に眠気を感じる。肩口の気配も眠そうだ。
 仰向けになった身体が二つ。いつもの体勢がやはり落ち着く。
 寝返りの心配は睡魔が溶かすに任せ、二人は同時に眠りについた。