ようこそ、行ってらっしゃい
 昼休み、中庭のベンチでぼんやりしていた紫原の耳に、プィー…と、間の抜けたラッパのような音が耳に届いた。といってもそれに気づいたのは、ペットボトルの横に座っていた黒子が顔を上げたからである。言われれば鳴ったかな、という程度の、普通の人間の耳には捉えにくい微かな音だ。

「集合?」
「はい」

 立ち上がった黒子は、太陽に反射して光る白い羽を一度だけ横に広げた。日差しに目を細め、羽を立ててボトルが落とす影に身を移す。そうしてすっぽり影に収まってしまうほど小さいけれど、その身体は羽がついていることを除けば黒子そのもので、羽もちゃんと厚みがあって見た目より固い。根元だけほんのり紫色がかっているそれを、夜明け前の雲みたいだね、と氷室が褒めた。


 そんな羽のある、身長十センチほどの黒子ミニは、ある日突然現れた。

 部活の休憩時間だった。紫原の方へやけにゆっくり転がってくるボールがあった。
(何コレ)
 練習中のボールが転がってきたにしては動きが遅すぎるし、妙に重そうだった。でもそれは今にも止まりそうな遅さを根気強く保ったまま、紫原を目指して近づいてきていた。
(んー………邪魔?)
 本当はさほど邪魔でもなかったが、別にいるものでもなかったので、手元まで到着しかけていたボールを手の甲で押し返した。すると。

「いた」

 小さな声と共に、こん、と床に軽い何かがぶつかった音。
 壁へと転がっていくボールの後に、それは残されていた。仰向けにひっくり返っていた身体が起き上がる。少しクセのある、青みのある髪が乱れている。

「…………黒ちん?」

手のひらサイズの、黒子だった。



 そうしてやってきた黒子ミニは、当たり前のように紫原の菓子袋に常駐するようになった。今日はぽっきーの箱の上、昨日はポテチトップスの袋の上。幾種も雑多に投げ込まれたスナック菓子群のてっぺんに、ひょこんと座っている。コンビニのビニールの中で苦しくないのかと聞けば、案外風通しがいいし、潰されなくてここが一番安全なのだそうだ。
 羽があるわりにどこかへ飛んで行きそうな気配はなかったが、月に一度位のペースで“集合”がかかる。
 他にも黒子ミニがいるそうだ。それぞれ他のキセキの世代の元にいるらしい。
 集合は、笛の音が合図とされる。
 どう聴いても豆腐屋のラッパなのだが、黒子本体が吹いているのはちゃんとホイッスルであるらしい。ここが東京から離れているからなのか、黒子ミニ用のホイッスルだからなのか、黒子の肺活量によるものなのか。

「もう行くのか」
 早速出発準備を始めた黒子に、氷室が手を――というか指を――貸した。羽に引っかかっている荷物を外してやる。彼は初めこの不思議な存在に目を丸くしたものの、すんなり受け入れたらしく、紫原の元仲間としてよく世話を焼くようになった。

「遠いから気をつけるんだよ。それと、もしタイガに会ったらよろしく伝えてくれ」
「分かりました」
 支度を整えた黒子の背の真ん中には、小指程度のカプセルが背負われている。ちょうど二枚の羽の間に収まって、リュックのようだ。
「黒ちん、それ本当に使えんのー?」
「使えますよ」
 ふーん、とそれをつつくと、やめて下さい壊れます、と羽ではたかれた。
 見た目はお菓子のおまけっぽいが、エンジンなのだそうだ。高性能なんです、とどこかカタコトで言われても、見た感じがあんまりなので伝わりにくい。

「でも確かに不安になるな……。あ、敦」
「ん?」
「コレもらうよ」
 放ってあった菓子袋から、氷室は飴を一つ取り出した。ボールペンの先で飴の袋に穴を開けると、携帯のストラップの紐を抜いて穴に通し、それを黒子の首にかけた。
「お腹が減ったら食べるんだよ」
「室ちん器用だねー」
「なくさなくていいだろ?」
 首の後ろで紐が結ばれると、黒子はそれを両手で持ち上げ、じっと見つめた。
 みたらしコーラ味。
「エンジンぽくていいんじゃない」
「うん、早く着きそうだ」
 にこにこと笑う氷室の首にも、チェーンがかかって光っている。もう一個つけられないかな、飴で空飛べたらいいのにね、などと言っている氷室と紫原の顔を交互に見て、黒子はぺこりと頭を下げた。
「ありがとうございます」
 危うく飴の重さで前に転びかけたが、その顔はゆるやかにほころんでいた。丁寧に持って、飴を胸の真ん中に位置させる。


「じゃ黒ちん、行ってらっしゃい」
「行ってきます」

 ふよふよと紫原の目の高さで飛んでいる黒子は、広い景色の中ではますます小さく見える。五メートルでも離れたら、きっと木や建物に紛れて見えなくなるだろう。

「カラスに食べらんないでね」

 一度、黒子ミニを味見してみたことがある。舐めたらコンビニ袋に篭城されたのでそこで終わったが、こんなサイズではあっという間に食べられてしまう。

「ボクを食べようとするのなんて、キミくらいです」
 別に食べようとしたんじゃないのだが、黒子にとっては生命の危機だったらしい。思い出したのか、思いきり口をへの字に曲げた。

(そんなのより、秋田から東京まで空飛んでく方がよっぽど危ないし)

 つられて口を曲げたら、黒子はいくらかの間の後、少し笑んで表情を緩めた。
 ただでさえ小さいのに、近くにいればいるほど見つけにくいほど小さいのに、さらに小さくなってもなお、黒子はこうやって紫原より年上のような目をする。

「大丈夫ですよ」

 あの頃の声を思い出した。背後から突然聞こえる、静かな声。振り返ってすぐ見つけられるようになるまで、少し時間がかかった。

「ちゃんと行って、帰ってきます」

 黒子は一段高く身体を浮かせて、中庭から体育館の方角を見やった。緑の多い校内だから、ここからではガラス窓と屋根が少し見えるだけだ。
 そういえば、黒子はどこから来たんだろうと、今になって紫原は疑問に思った。

 小さな手がぱちん、と肩のスイッチを入れた。背中のカプセルがウィー……ンと機械的な音を立てる。また少し、身体が浮き上がった。
 立ったまま黒子を見上げるなんて滅多にないことだ。記念に指先で頭を撫でると黒子はむむっと正面の顔を睨んで、あっさりと飛んでいった。エンジンの光が木の枝の脇を通って、濃い緑の中に消える。


「チョコもあげれば良かったかな」
「帰ってきてからあげればいいさ」

 そーだね、と返事をして空を見上げた。雲一つない快晴だ。広い視界に高層ビルは映らない。心配なんて、面倒くさい。
 味見じゃなくて食べちゃえば良かった、と溜息交じりに吐き出した紫原の言葉を、氷室は目を閉じ、微笑しながら聞いていた。