黄瀬君の不思議 |
なでり。なでりなでりなでり。 人差し指の先に触れる温かさにいつものごとく満足して、口元も目元も緩めながら黄瀬は夜道を歩いていた。 胸ポケットでは、黄瀬の大好きな友人そっくりの小さな生き物が、上半身をひょこりと出している。いくらか羽を窮屈そうにしながらも、胸ポケットに常駐するのは黄瀬の黒子ミニだ。 黒子は撫でられた頭に小さな両手を当て、何かを確かめるように黄瀬の動きを真似している。しかし不思議そうな表情は消えない。最終的に首を傾けてから手を下ろすまでの一連の仕草を、黄瀬は目を細めて眺めていた。 分からないことはひとまず置いておくことにしたらしい。黒子はいつも通りの落ち着いた顔つきになり、辺りを一度見回した。道に黄瀬以外誰も歩いていないか確認している。黄瀬も一応、黒子には確認できない自分の背後を確認した。 黒子を知らない者に黒子ミニの姿を見ることはできないが、だからこそ黒子との会話を聞かれたら、黄瀬は楽しく独り言を繰り広げる孤独なイケメンになってしまう。黄瀬としては見られても構わないが、せっかくの気遣いを無駄にしたくはない。 「ボク明日、集合になりました」 誰もいないと分かると、黒子は電車の中からここまでぴたっと閉ざしていた口を開いた。涼しげな声をかき消さないように、黄瀬もできるだけ静かに答える。 「今回もいつの間に笛鳴ったんスか?オレいまだに聞こえないっス」 「ボク達にしか聞こえない笛ですから。聞こえなくて当然です」 「そうなんスけどねー」 黒子ミニはおおよそ月に一度、黒子本体が吹く笛によって集合をかけられる。ミニ達にしか聞こえないはずのその音はしかし、青峰には何となく分かるらしい。動物的な勘なのか、黒子との繋がりの深さなのか、黄瀬は少し、いや結構悔しい。 「しっかしもう一ヶ月っスか。今月は黒子っちにあんまり会えなかったなー」 「でも今度の日曜日に会うんでしょう」 黄瀬は軽く驚いて、胸ポケットに目を向けた。その話は確か三週間前に一度したきりだ。何かおかしなことでも、といった顔の黒子に、黄瀬は何も言わず笑顔で頷き、再び顔を上げる。 「じゃあこれから手紙書かなきゃっスね」 「それ、ボクが持っていくお手紙ですか?」 「そうっスよ?」 「もうすぐ会うのに、ですか?」 「それはそれ、これはこれっス」 黄瀬を見上げながら黒子は、また新たな不思議を得たように瞬いた。 黒子ミニの集合は、他のミニへは当日伝えられる。黄瀬のところも最初はそうだった。しかし三回目の集合以降、黄瀬のところには前日に知らされることになった。二回目の集合から戻ってきた黒子が、黒子本体から預かったメモと共に、黄瀬にその変更を告げた。 メモは四つ折りにされ、黒子の背中に細い糸でくくりつけられていた。薄い紙の裏から黒子本体の筆跡が見え、嬉しくなった黄瀬は大きな手でままごとをするように、その手紙を丁寧に開いた。 『 黄瀬君へ ボクへの伝言は、紙に書いて持たせてください。 くれぐれも、小さい方のボクに伝えないようにお願いします 』 以上だった。 素っ気ない……初ラブレターなのに素っ気ない……と黒子にもれなく訂正を求められそうなことを呟きながら元通りにたたみ、机の上のカレンダーにそっとクリップで留めた。これでいつでも黒子の筆跡が見られる。開きっぱなしにしないのは、ありがたみを薄れさせないためだ。 それ以来、黄瀬は前日に一言二言の手紙を書いて、ミニのエンジンと背中の間に挟み、黒子に渡してもらうようにしている。返事もミニが運ぶから、黄瀬が手紙を書いた翌日には手元に届く。それも手書きの返事が、だ。渡さない手はない。 何を書こうか考えながら、もう一度人差し指でミニの頭を撫でた。ぷるぷる、と頭を振られる。撫ですぎると怒られる。羽をつつくのも、やりすぎると嫌がられる。でも必ず胸ポケットにいる。黒子ミニもいて、週末は大きい黒子とストバスだ。 なんだかたまらなくなってきた黄瀬は携帯を取り出しかけたが、途中で我に返ってやめた。手紙を書くから今日はメールを我慢しよう。にまにましながらそう決めて、家への足取りを速めた。 風呂から上がった黄瀬は短パンを穿き、タオルを首に引っかけただけで、早速机に向かおうとした。しかし黒子から物言いたげに見つめられ、クローゼットへ回れ右をする。手紙のことを考えていたら、服を着るのを忘れていた。 シャツを羽織り、ボタンを一つだけ留めて、机の上で待っている黒子の前に戻る。背中の白い羽は既に薄く開いていて、あとは飛び立つだけといった様子だ。 「ごめんごめん、お待たせっス」 足元に手を差し出すと、羽ばたいた黒子の身体がふわりと浮き、黄瀬の指を飛び越えて、手のひらに降り立った。 黒子は当然、黄瀬の裸に照れているわけでも、風邪の心配をしているわけでもない。胸ポケットに収まっていないと落ち着かないからだ。 「ボク飛んだ方が早いんですけど」 「とか言って黒子っち高さ調整するの苦手じゃないスか」 「そんなことないです」 むむっと睨まれ、羽が飛ぶ体勢に広がったので黄瀬は速やかに取り消す。 「うそうそっ。オレがしたいだけっス」 そんな風に言葉を交わしながら黒子を乗せた手をゆっくり胸ポケットに近づけていると、羽の動きがふいに止まった。ぱたんと重なり、きれいに揃えて閉じられる。 「どうしてしたいんですか?」 黒子が飛べばいいだけなのに、黄瀬は手を差し出す。黒子にとって一番の謎であるらしい。 前に聞かれたのは三ヶ月ほど前だったろうか。聞かれるたびに返す同じ答えを、今回もはぐらかすようにとぼけた顔で言う。 「『そうしたいから』、っスよ」 「それ前も言ってました」 「だってそうなんスもん」 不満げに黒子は眉を寄せたが、黄瀬が空いている指でポケットに入りやすいよう隙間を作ると、それ以上聞くのを諦めた。身体を浮かせてから中へ入り、黄瀬が指を離すと、両手をポケットの縁にかけていつもの体勢に落ち着く。黄瀬の気持ちも和らぐ。 黒子がそこに収まる瞬間が好きだ。小さな身体と体温が自分の胸に宿ったようになる。 「黄瀬君は分からないことがいっぱいです」 「そうスか?」 「他のボクたちは、分からないことはないって言ってました」 赤司君のところは、またちょっと別ですけど、と言う。そして少しだけ身を乗り出した。風呂上がりでもすぐポケットに入りたがるくせに、入れば暑そうな様子で羽を動かす。ふー、と冷たくした息を吹きかけると、気持ちがいいのか邪魔なのか、羽がおかしな動きをするのが面白くてかわいい。 「黒子っちたちは、そんな話もするんスか」 「しますよ。会わない間にあったこととか、面白かったこととか話します」 「他の黒子っちたちは、撫でられたりするの不思議じゃないんスかね?」 「紫原君のところはよく撫でられるみたいですけど……不思議じゃないって言ってました」 黄瀬の黒子ミニは最初、撫でられる意味が本当に分からないらしかった。嫌がりはしなかったが、自分に触れる黄瀬の手を見て、理由を尋ねるように見上げてきた。黄瀬が「そうしたいから」と答えても、そうしたい、の理由が分からない。そのうち、そういうものだと思うことにしたらしい。最近はあまり聞かなくなっていたが、週末黒子に会うのに明日も手紙を持って行くことで、また疑問がぶり返したのだろう。 「黒子っちは不思議なの嫌っスか?」 オレからすると、黒子っちの存在の方が不思議なんスけど。そう口には出さずに思う。言って消えてしまったら、悲しいどころの騒ぎではない。 「嫌じゃないです。でも」 「でも?」 「何かしないといけないような気になります」 その返事に、黄瀬は一瞬どきりとした。 「……それ、やじゃないの?」 「やじゃないです」 「そうなの?……でも、」 あまり良くはないんじゃないだろうか。何かしてほしくて撫でているのでも、胸ポケットまで運んでいるのでもない。そうしたい、の理由は、単純に黒子ミニに触りたいからだ。もちろん、黒子本体に思うような”触りたい”ではない。触れて、そこにいると実感したいからだけなのだが。 「何か伝えたいことがあるんですか」 おもむろに、黒子はそう尋ねた。大きい方のボクに、と付け足され、黄瀬は目を見開く。 「……なんで?」 「何か言いたそうな顔をしているので」 「鋭い、スね」 「……聞かれたくないことだったら、すみません」 動きにくいポケットの中でぺこりと頭を下げられ、驚き通していた黄瀬ははっとした。 「そんなことないっスよ」 苦笑し、手を再び胸ポケットの横に差し出すと、黒子はぽんとそこに飛び移ってくれた。気遣われたのかと思ったが、やはりポケットの中が暑かったらしい。籠もった熱を逃すように羽が大きく広がり、手のひらの上の空気が僅かに流れる。 「黒子っちには、内緒にしてくれる?」 言って、白い羽の根元の色、自分の髪色に近いそれを見つめた。黒子は改まった表情で続きを待っている。 「オレはね、黒子っちが好きって言いたいんスよ」 「……いつも言ってるように見えますけど」 「でも、もっと言いたいんス。もっと、ちゃんと」 「……それ、大きいボクに内緒なんですか?」 「うん」 黒子は手のひらの上に立ったまま俯き、少し考えたあと、分かりました、と答えた。 「でもやっぱり、黄瀬君は分からないことがたくさんです」 それに黄瀬は笑顔だけ返して、胸ポケットの空気を入れ換え、またそこへ黒子を導いた。羽の根元は、今のやり取りでさらに色味を増すだろうか。 『黄瀬君のところのボクが、一番良く喋ります。それに、一番成長が早いです』 先々月会ったとき、本体の方の黒子は言った。 黒子ミニは成長すると、身体のサイズは変わらないが、羽の色が少しだけ濃くなるらしい。黄瀬のところのミニの羽は、今ではたんぽぽのような黄になっているが、最初は確かにもっと薄いクリーム色だった。 ミニは、黒子本体より少しだけ幼い。言葉の数も、話し方も、考え方も。 そして幼い分、一緒にいるキセキの影響を少しだけ受ける。キセキの中で黒子にもっとも話しかけたがる黄瀬の元にいるのだから、喋る方はそれに倣うとしても、成長自体は赤司か緑間のところが一番だと思っていた。黒子本人も黄瀬も予想していないことだった。 『キミのことが不思議みたいですよ。それで色々考えるからですかね』 黒子はそう言っていた。 黄瀬は黒子本体も、ミニのことも「黒子っち」と呼ぶ。どちらを指しているか、ミニは最近ほとんど間違えなくなった。 ちょっとしたことでも黄瀬の話していた内容を覚え、分からない、と言いながらどんどん黄瀬のことを分かるようになっている。 (……ちょっと、焦るんスけど) 黄瀬は天井を仰ぎ、ポケットの中の黒子に見られないようにして、嬉しいような弱ったような顔で眉を下げた。 油断していると、全部話してしまいそうだ。本人に直接、伝える前に。 黄瀬は小さなメモに短い手紙を書き、ペンケースにしまった。明日ミニが出発する前に、エンジンと一緒に背中に挟んでもらうのだ。 ポケットから文面を眺めていた黒子は、困惑の表情でもう一度尋ねた。 「……ほんとに内緒なんですか?」 手紙にも「大好き」と書いているのだから無理もない。しかし内緒にしてほしいのは本当である。頷きは大きく、声は落として黄瀬は言った。 「ぜーったい内緒っス」 内緒、と自分に言い聞かせている黒子はきっと言わないでいてくれるだろう。黒子本体の知らないところで秘密を共有してしまった。少し楽しい。 同時に、黄瀬のなかに閃くものがあった。 今ミニの方の黒子と内緒話をしたからには、黒子本人ともしたい。大げさな内緒話じゃなくても、ただひそひそと話すのでもいい。せっかく自分の言葉を伝えてくれるミニがいるなら、間接内緒話ができないだろうか。 (うん、オレから一方的でもいいし) 内緒話を続ける真面目な顔で、黄瀬はミニに話しかけた。 「明日黒子っちに会ったら、一つだけ前みたいに伝えてほしいんスけど、いい?手紙に書ききれなかったんス」 「はい」 返事を聞き、黄瀬はまさに内緒話をするときのように両手を口の脇に当て、小さな声で言った。 「『練習頑張ってね』って、伝えて」 でね、ここからが肝心っスよ、と一度黒子と目を合わせる。青空を映した朝露のような瞳が、真剣な色を湛えた。黄瀬も真剣な顔で告げる。 「伝えたら、最後ほっぺたに『ちゅ』ってしてきてね。これ、内緒話の隠れルールなんスよ」 「ルールなんですか?」 「そう、ルールっス」 できそう?と聞くと、黒子は真面目な顔で、やってみます、と答えてくれた。 ◇ 翌日の夜、黒子ミニはいつも通り手紙を携えて黄瀬の部屋に戻ってきた。一つだけ珍しいことに、メモを背中から抜き取るとき、指先に凹凸を感じた。今日は筆圧が強いらしく、文字の線が紙から浮かび上がっている。 『 黄瀬君へ 内緒話のルール、ボクが知ってるのと少し違うみたいです。 小さいボクに教えたので、聞いてみてください。あ、それと、 』 手紙はそこで終わっていた。黄瀬は紙を裏返し、また元に戻し、それを二度ほど繰り返した。紙の真ん中にも四隅にも、それ以外は何も書かれていない。書き忘れということもないだろうから、きっと続きは黒子が知っているのだろう。 「黒子っち、伝言してくれたんスね、ルールも。ありがとっス」 黒子は、はい、と返事をし、背中のエンジンを机の隅に片付けながら続けた。 「ルールって色々あるんですね。ボク知りませんでした」 「ん?あー……うん、そうそう、人によって違うんスよね!」 もちろんルールは黄瀬の作り事だが、今は合わせておかねばならない。 「黒子っちのルールってどんなのっスか?あそうだ、手紙の続きもあるっぽいんスけど、何か言ってなかった?」 「言ってました。黄瀬君がお手紙読み終わったら、伝えてくださいって」 「やっぱ黒子っちが伝えてくれるんスか!すげー嬉しい!なになに?」 上半身を揺らして聞くと、黒子も得意げに笑う。しかし続いた言葉に、黄瀬は頭上に疑問符を浮かべることになった。 「たくさん練習したので、期待してください」 「……ん?練習?」 「大きい方のボクの真似、です」 火神君にもそっくりって言われました、と小さい身体で胸を張る。 「んー……と、黒子っち、今もそっくりっていうか、ほとんど一緒っスよ?」 「でもボクが今まで聞いたことない声でした。顔も何ていうか……」 こんな感じで、と、両手で目尻をきゅっと上げた。黄瀬が反射的に、口角を上げた笑顔で固まる。 (あれ、あれれれ……?) きりりと目尻を上げながら黒子が笑うとき、それは。 (怒ってる……!) 「では聞いてください」 大人びた口調が既に黒子本体に近い。黄瀬は背を引いて逃げかけた。 「待って何か怖くなってきた!」 「怖くないです。せっかく練習したのでちゃんと聞いてください」 (余計怖い!) けれど、黒子がそう言うものを黄瀬が断れるわけがない。 身軽になった黒子は羽を広げて飛び上がると、ふよふよ浮きながら黄瀬の耳元にやってきた。昨日自分がしてみせた内緒話の姿勢は両手で包んでしまいたいほどかわいいが、今黄瀬の手のひらは冷たい汗で湿っていてとてもできない。 いつもの心安らぐ黒子の声は、氷河から流れ込む冷気のようなものをまとって、黄瀬の耳に伝言を届けた。 「『次やったら 里帰りさせますから』」 黄瀬は多分心臓も凍ったし、髪の毛も一本残らず全て凍った。黒子本人が真横にいるようだった。凍りついた黄瀬の耳に、今度はかぷりと黒子が噛みつく。 「〜〜〜〜〜〜!!!」 身体が氷と化したところで、サウナに突っ込まれた気分だ。物も言えないでいると、役目を果たした黒子がひょいと胸ポケットに入ってくる。心臓が落ち着くのか落ち着かないのか分からず、ポケットの上から黒子をがしりと掴んでしまう。 「黄瀬君苦しいです」 「あ、う、ごめん……あの……今の最後のって……ルール、っスか」 力の入らない首を真下に折り曲げ、斜め下のポケットから自分を見ている黒子に聞く。黒子は感心するような目をして腕を伸ばし、黄瀬の額に手のひらを当てた。 「黄瀬君専用ルールって言ってました」 「……え」 専用。とは。 混乱しながらも、黄瀬の頭は都合のいい方に動く。ということは、黒子と内緒話をしたら自分に噛みついてくれるということだ。自分にだけ、かぷりと。黒子本体の方だったらがぶりかもしれないが、歯形だって喜んで受けとめる。 (……黒子っちと内緒話、してー……) 唸りながら切実に願う。熱い顔に触れているミニの手のひらは大丈夫だろうか。 「黄瀬君」 「……?」 「里帰りって、なんですか」 軽く夢の世界に旅立っていた黄瀬は、ひっと息を呑んだ。そうだった。その手前で恐ろしいことを言われたのだった。 「き、聞かなかったんスか、あっちの黒子っちに」 「黄瀬君に聞いてくださいって言われました」 「黒子っちはおにっスか……!」 そんなこと、説明しきらないうちに涙が出てきてしまう。 「ボクおにじゃないです」 「うん、もちろんオレの黒子っちは天使っスよ!」 むう、と黒子は膨れ、天使でもないです、と言ってから、再び尋ねた。 「それで、里帰りってなんですか?」 「やめてー言わないでー!」 「黄瀬君」 「黒子っちはうちの子っスー!」 胸ポケットにもう一度手を当てて、黒子の身体を覆う。迷惑そうな顔でもぞりと動いた黒子は、黄瀬の親指の上に顎を乗せて、ふう、と溜息をついた。 クローゼットの服を全部胸ポケット付きの服にしてもいい。ここ以外の場所になんて、行かせられない。 黒子の場所は、黄瀬の胸の中なのだ。 |