卵さまの反抗

 部屋で台本読みをしていた黄瀬は、扉の向こうで始まった物音にソファからそっと立ち上がった。読んでいた台本を一応手にして、扉横の壁に背を預ける。口元を緩ませながら、立てた膝の上で続きのページを開いた。
 家事は基本的に、洗濯は黒子、食事は黄瀬と、なんとなく分かれていて、片方の忙しいときはもう片方がする。両方が忙しいときは限界まで放置する。限界ラインが手前にあるのは黄瀬だから、家中がカオスとなるのは今のところ免れている。
 それなりに忙しい二人であるが、案外その時期はばらけていて、黄瀬が忙しいときに作ってくれる黒子の料理が――というより黒子が自分のために作ってくれることが嬉しい黄瀬は、あえてリビングに移動せず、料理中の気配を自室でかみしめるのが好きだった。一緒に暮らしているのだし、それほど特別なことではないけれど、姿が見えなくても自分のために何かしてくれるというのはそれだけで満たされるものがある。

 何かを炒める音が止み、食器がテーブルの上に置かれる音がする。ぱたぱたとどこかを往復した足跡が、黄瀬の部屋の方に近づいてきた。再びそろりと立ち上がって、台本をサイドテーブルの上に戻した。

「黄瀬君」
 ノックの音とともに、静かに声がかけられる。はーい、と返事をして、不自然でないように二秒くらい待って、内側から扉を開けた。
「ご飯できたのでキリのいいとこで……ってまた、ドアの前で待機してたでしょう」
 黄瀬の部屋に机はない。何か読み物をするときはリビングか、自室ならソファとサイドテーブルで済ませてしまう。そのソファにもベッドにも、座っていた形跡がないのを見つけて黒子は言った。台本はソファの上に置くべきだった。
「床もまあまあ集中できるんスよ」
「せめてクッションくらいひいてください」
 まったく……、と言葉にしたかのようなため息をついたけれど、それより食事が冷める方が気になるのだろう、促すような動きで、黄瀬と歩き出す。
 キリのいいところで、と毎回訊いてくれるが、黒子の食事の支度が始まると黄瀬の集中はそちらへ向かうので、実のところは呼べば自分がすぐ出てくると知っている。最初は物音で集中できないのかと気にしていたが、単に楽しみで待っているだけと分かると、そんなことくらいで、と呆れながらも彼の口元は緩んだ。

 リビングの方から食事の匂いが漂ってきた。足取りが軽いのはもしかすると自信作かもしれない。黒子の頭の向こう、テーブルの上には、黄色いオムレツらしきものが乗ったチキンライスが見える。
「あっもしかして!とろってするオムライスっスか!」
 言うと、黒子は得意げな息を吐いた。大分前にテレビで紹介されていて、実は薄い卵で巻くより簡単であるらしいと、黄瀬が一度作ってみたのだ。それに黒子はいたく感動していた。しかし彼のレパートリーの中では難易度高の部類に入るだろう。それを披露しようとは、いつの間に特訓したのか。
 そういう時間と気持ちを考えたら自然と顔が輝いた黄瀬に、黒子は誇らしげにテーブルナイフを片手に持った。ぽってりと乗ったオムレツはきれいな楕円形で焦げ目もない。
「見てて下さい。これからとろっとさせますから。ケチャップで字を書くのは二人でやりましょう」
 テーブルにはしっかりケチャップも用意されていた。オムライスに名前やハートを書くことも最初は引き気味だったというのに、何だかんだ黄瀬に付き合っているうち黒子もそれを楽しむようになってくれたのが嬉しい。
「では」
「オムレツ入刀〜!」
 チキンライスの上でふるりと揺れるオムレツに、薄い銀色の刃が差し込まれた。中から半熟と思しき輝く卵色が顔を出す。さあこれからチキンライスを一気に包み、柔らかい湯気が立ち上る一番の見せどころが始ま――。

「……?」
「……??」

 始まるはずだったが、何故か卵が開かない。桃太郎が出てきた桃のように、切れ目が入ってもまだ形を保っている。黄瀬と黒子は顔を見合わせ、それから再びオムライス(になる予定)を見つめた。オムレツはまだオムレツのままぷるんとしている。だらけてなるものかという確固たる意思に包まれているように。
「……もうちょい切れ込み入れてみる?」
「はい」
 ナイフの刃は、かなりチキンライスの頂上近くまで入った。そこでようやく卵の方も限界を迎えたのか、開いた桃的な形状から、かなり、たるん、とした状況まで落ち込んだ。でもチキンライスを包む気はないらしい。断固としてオムレツである自分を保っている。断面は確かに半生っぽくつやつやしているが、流れ落ちるほどには生ではない。
 黒子は予想外の展開――というか展開しない展開に、ナイフをオムレツの上に翳したまま固まっている。時間を止められた人のようになってしまい、黄瀬はあわあわと思考を巡らせた。せっかく自分を喜ばせるために作ってくれたのだ。落ち込ませたくない。

「……えっと、もう自分で広げちゃったらいいんじゃないスかね?手助けが必要なこともあるっスよ」
「……そ、そうですよね、卵だって人それぞれですよね」
「そうそう、結果的には同じことっス」
 黒子が何かおかしなことを口走っているが、黒子を愛する黄瀬に突っ込めるわけがない。自分だって別次元で焦っている。
 それにフォローのためではなく、黄瀬も本気で思っていた。オムレツが自然に広がらなくたって、こちらで開いてご飯を包めばオムライスの完成だと。とろっと感は少ないかもしれないが、ごく近しいものができるのだと。
 ところがだ。

「……」
「……う」

 厚焼き卵を無理に開いたことがあるだろうか。いや厚焼き卵は一応ある程度火の通った層が重なっているから、まだいいのだ。
 しかしこれは、一応とろっととろけるのを目指したオムレツだった。つまり、部分的にはとろっとし、また部分的には固まり、無理に上から下へ開いたことで、何というか、むごたらしい様子になってしまった。

(すげえ……)

 オムライスだけど、オムライスじゃない。
 気を抜けば襲いかかってきそうで、オムライスという語感から出てくるイメージのものではない。
(なんつーか、この感じ)
 何かに似てる。何だろう。頭に浮かぶ色々なものを取捨選択していく。未知の何かに遭遇すると、知っているものに喩えて安心したくなるのは人の性なのだ。
(雪国のでかいやつ、なんだっけ、イエティ?あとは……布団?いや布団つーか……)

「モップ」

 黄瀬の発した一声に、びく、と隣の肩が揺れた。

「モップっス黒子っち、これモップに似てる」
「モップ……」

 魂の抜けた声で黒子が復唱する。
 無言のまま、二人は立ち尽くしていた。黄色い、ほかほかしたモップ……。覆いきれなかった裾から、チキンライスがいじらしく顔を出している。
 数秒か、数十秒かの沈黙を破ったのは、どちらの声でもなかった。黄瀬の腹の虫だった。この状況で鳴る自分の腹に、黄瀬は我ながら驚いた。でも仕方ない。昼は軽めだったし、黒子の手料理をおいしく食べるために間食もしていない。
 そうだ、衝撃的な見た目に捕らわれていたが、これは黒子の作った料理なのだ。腹が鳴ったって何らおかしくはない。

「黒子っち、これ食べていい?」
「え……、いいですけど、でもこれ、モッ」
「プじゃない!ごめん!ちょっと脳からそのまま言葉出ちゃっただけで全然モップじゃないっス!」
 微妙に焦点が合っていない黒子をむぎゅうと抱きしめる。髪からは炒め物をしたとき特有の匂いがした。頑張ってくれたのにオレはなんてことを。自分が部屋からすぐ出て行けば卵だって固まらなかったかもしれないのに。
「見た目はちょっとアレっスけど、匂いはいいし、きっと味もうまいっスよ」
「でも……」
「あ!ケチャップでハート描いて黒子っち!そしたらきっとかわいくなるっス!」
「…………ハート」

 そう、この時だって考えなしのフォローではなく、ケチャップで何か書けば卵のおどろおどろしさはなくなると思ったし、黒子がこれで、本当だ、良かった、と安心してくれるのを心から望んでいた。ケチャップの使い方だって黒子は前より断然うまくなって、何度もねだり倒して書いてもらった結果、ひらがなできせくんと書くのは自分よりうまい。ハートなら余裕の一筆だ。
 うっかりモップなどと言ってしまったことは海より深く反省しているし、早く黒子にも忘れてほしかった。そのためのケチャップだった。
 だからまさか。

(う、わあ……)

 この数分で二度目の感嘆だ。
 モップ状となった卵表面に描いたケチャップの線は凹凸がリアルに怖かったし、ハートも尖った先端が下に滑り、矢印めいて、恐怖の道しるべのようだった。こういう立て札が出てきたら絶対進んではいけないやつだ。
 気づけば呆然と開いていた口を慌てて閉じ、そっと黒子に視線を送れば、彼もまた小さな口を小さく開けて、表情が薄いなりに愕然としている。
 ああ、黒子の気持ちが手に取るように分かる。
 オムライスを作ろうとして、こんな怖い物体が生まれるとは。卵の呪いか、いつでも思い通りになると思うなよという卵の反抗だろうか。ともかく今すぐ抱きしめてあげたいが、自分にはそれより先にすべきことがある。

(オレは、食う!)

 黄瀬の愛は、こんなことで揺らぎはしない。どんなに見た目が怖くとも、これは黒子の手作りオムライスだ。
 立ち尽くして動かない黒子を無理やり椅子に座らせ、キッチンに置かれていたもう一つの皿をテーブルに運び、チキンライスからぷるっとしたオムレツを降ろして脇に添えた。オムレツは本当にきれいなのだ。腕が上がったなあと思う。
 ふんわりと盛り上がった柔らかな表面に、ケチャップでいつものように短い文字を書いた。文字が正面向きになるようくるりと回して、黒子の前に置く。
「……黄瀬君」
 滅多なことでは落ち込んで涙を浮かべるなんてことをしない黒子の目が、うっすらと潤んで見える。黒子の憔悴は失敗そのものではなく、驚き疲れだろう。卵がこんな変貌を遂げるなんて、世界で自分たちしか知らないかもしれない。
「オムレツめっちゃきれいじゃないスか、これはこのまま食べなよ」
「でも、黄瀬君のが」
「オレはオムライスで食うっス。ハートもあるし」
「…………」
「今日はオレのこと呼びにきてくれた時間がきっと誤差だったんスよ、また作って。ね?」
 こくり、と黒子は頷いた。一通り落ち込むと、彼はぐっとスプーンを握って言った。
「……次は完璧なタイミングで呼びにいきます」
「うん、そもそもオムライスって外で食うもんじゃないスか。難しいんスよ」
「そうですよね」
「成功したら写真撮って見せびらかそ!」
「それは遠慮しますけど、それくらいのものを作ってやります」
 だんだんと元気を取り戻す黒子にほっとし、黄瀬は自分のスプーンを手に取った。改めて、皿の上の存在とじっくり向き合う。
(……これ、卵がこうなった黒子っちのタイミングも奇跡じゃねースかね)
 成功オムライスの写真もだけれど、この苦闘の結果から写真に収めておきたい。努力の道のりが残っていたら喜びもひとしおのはずだ。
 なのに。

「もーさー、出来上がったんだからいいじゃないスか、これはこれで」
「モップって言ったの誰ですか」
「……あれは口が滑って」
「『脳からそのまま』とも言ってましたよね。黄瀬君のフォローは全然フォローになってないです」
「悪かったと思ってるっスよ。でもいいじゃん、これもうオレのオムライスだもん。スマフォ返して」
「食べ終わったら返します」
 スマフォを取り出しオムライスに向けたら、目にも止まらぬ速さで黒子に奪われた。さすがのスティールだった。撮りたいと言っても頑として譲ってくれない。
「……黒子っちが作ってくれたご飯、撮るの楽しみにしてんのに」
「女子ですか。早く食べちゃってください」
「…………黒子っちご飯オレ回数少ないのに」
「……」
 訴えに揺れた黒子が、ちら、と黄瀬の皿を見、ものすごいような顔をし、それから自分の皿を見た。眉間の皺が緩む。
「……こっちならいいです」
「んー、それも黒子っちご飯だけど」
 字は自分のだし、と渋っていたら、何を思ったか黒子は皿をずず、と押し出してきた。それから自分のスマフォを取り出す。
「ボク、それと黄瀬君の写真撮ります」
「へ?」
「その写真ならキミにあとで送りますよ」
「いやオレが写ってても」
「ボクの記念にするんでいらないならいいです。はい顔上げてください」
「えええ、なら一緒に撮ろうよ!」
「え」
「だからオレのスマフォ返して。黒子っちの自撮り絶対指入るからオレが撮るっス」
 そんなにやならこっちの皿は撮らないから、と目を見て固く誓いを立てたら、ようやくスマフォが返ってきた。
 二人の間にオムレツとチキンライスの乗った皿を挟んで、腕を遠くまで伸ばして、顔を寄せる。肩も寄せる。こんなことをしている間に刻々とオムライスは冷めるけれど、黒子の体温を感じてから食べられるなら、出来立て以上においしいに違いない。

 撮った写真は、すぐにラインで送った。早く食べろという黒子の方が、珍しく写真の方を見ている。
「届きました」
「同じ家の中で、変な感じっスね」
「黄瀬君」
「ん?」
「ありがとうございます」
「?そんなあらためて……、――あ、」
「はい」

『ありがと』

 写真とオムレツとを交互に見やった黒子に、そうかと気付いて、納得して頷いたら、彼は笑って電源を切り、テーブルに置いた。
「いただきます」
 手を合わせたのは、黄瀬が書いた文字に対してだろう。
 そんな一言、いつだって言うしオムライスにだって書くし、写真に撮るほどのことでもないのになあと思いながらも、
(確かにこれは衝撃的だったっスもんね)
 と、黄色い謎の生物に黄瀬ももう一度手を合わせる。

 モップお化けのオムライスも、恐怖のハートも、ちゃんとおいしかった。一粒残さず食べて、黒子も黄瀬の書いた文字を崩さずきれいに食べきった。幸せな晩だった。卵の反抗なんて食べてしまえば怖くない。
 ただしばらく、モップの三文字は禁句となったのだけれど。