夏の部室とロッカーの温度
 ハーフタイムを告げる笛の音と共に、青峰はタオルを一本掴んで外へ向かおうとしていた。黄瀬は黙って部員の隙間をすり抜け、だるそうに歩く後ろ姿に追いついた。目立たないように動きたかったが、同じコートに立っていた黒子の視界には入っただろう。青峰との会話が以前より減った分、彼の意識は青峰に向けられている。

「青峰っち、ちょっと話あんスけど」
「……んだよ」
 今日は招待だか何かで、隣県の体育館ホールに来ている。初めて来る場所とはいえ、作りは似たり寄ったりだ。エントランスを出て、正面の広場の脇で立ち止まった。本当は控え室に集合のはずだが、今は多少の勝手は許されている。

 秋風がさっと通り抜け、黄瀬は軽く首を竦めた。じきに日が沈む。風が冷たい。
 ジャージはかろうじて掴んできたが、タオルも持ってくるべきだった。もう汗のひいている青峰に、「貸して」と言ってタオルを指さすと、何も表情を変えずに放ってくる。礼を言って返すと、彼はそれを肩にかけた。

「青峰っちさ、この間、黒子っちと何話したんスか」
「この間っていつだよ」
「青峰っちが練習中キレて飛び出してった日っスよ」
 青峰がキセキ以外の部員に苛立つことは目に見えて増えていた。あれは二度目か三度目かのことだった。口論にすらなっていない、チームメイトの弱々しい抗議に彼はやりきれなくなったように腹を立て、練習を中断した。
 それを言うと、ああ、と投げやりな声が返される。
「覚えてねーよ。別に何でもいいだろ」
「良くねっスよ。あれから黒子っち様子おかしいっス」
「そんならテツに聞け」
「聞いても教えてくれないから青峰っちに聞いてんじゃないスか」
 あの翌日、話しかけるなと言っているような背に、黄瀬はあえて話しかけた。しかし「青峰君は練習に来ないそうです」、それ以上の答えはなかった。自分が本当に聞きたかったのは青峰の様子と、どこか凍えているような黒子の心境だった。黄瀬の質問の意図など分かっているだろう彼がそれしか言わないのだから、言いたくないことが起きたに違いない。現に、二人の関係は変わってしまった。

「テツが言いたくねーことオレから聞いてどうすんだ」
「何があったのか分かんないと声かけようがないっス」
 答えると、青峰は軽く鼻で笑った。思わず目の端がきつく上がる。
「オマエ本当にテツのこと好きなのな」
「……今そーいう意味で心配してんじゃないんスけど」
「どーでもいーけど」

 青峰は片腕を頭上に伸ばし、沈みかけているオレンジ色の太陽を背に、大きくあくびをした。怒らせたいのでも、からかっているのでもない。本当にどうでもいいと思っているのだ。ふあーあ、と漏れる気怠い声を聞きながら、腹立たしい思いと共に見つめる。

(一応アンタの心配もしてるんスけど)

 バスケが楽しくて仕方ないと自分に見せ続けた彼の熱は、燃えさかる炎が大雨に打たれるかのように、ある時を境に急速に攫われていってしまった。やる気と反比例して、彼の技術は理解できない速さで向上する。黄瀬はいつも青峰のプレイを見て、まず模倣できるかどうかを計っていた。しかし最近は、驚愕が先に立つようなことが増えてきている。それだけのことをしながら――緑間の言葉を借りるなら、それだけのことができるから――彼の苛立ちは治まらない。周りにまで当たる始末だ。

「青峰っち、これからも練習出ないつもりスか」
「しても意味ねーからな」
「でも黒子っちとの連携とか」
「しなくても勝てるんだからいいだろ」
「……」
 吹く風と一緒に、青峰への心配が一瞬だけ消えたのが分かった。
(オレがそれ、どんだけ羨ましかったのかも知らないくせに)
 青峰に勝てないことと、黒子からのパスが青峰より少ないことは同義だった。青峰に勝って一番になりたい、黒子からパスをもらいたい、そして勝ちたい。純粋に、バスケ上のことで黄瀬はそう思っていた。それは間違いないけれど、ではまったく恋心が混ざっていないかと言われれば、嘘になる。黒子を好きだから、余計にパスをもらいたい。
 でも青峰に勝ちたい、という思いがいつだって先だった。初めて、越えられないかもしれない、と思った相手だ。
(アンタを中心に回っていたようなもんだったのに)
 それは多分、自分だけでなく、黒子もそうだ。彼の青峰に対する信頼は、自分を含めた周囲のものに比べると、頭一つ飛び抜けていた。

 自分の沈黙を、黒子絡みのことと捉えたのだろう。青峰がジャージのポケットに手を突っ込み、無感情に言う。
「オレが言ったことでテツが傷ついてるってんなら」
「……」
 やっぱ覚えてんじゃん、と思いながら淡淡と聞いていた。しかし続く言葉に、黄瀬はつい鋭い目を向ける。
「オマエにはそれ治せねえぜ」
「……は……?」
 孤高の位置に立った者特有の、理解されることを諦めた目だった。
 黄瀬に黒子の傷は癒せない。
 そんなこと、そうですかと頷きたくも、頷けるわけもないが、青峰の言い様が妙な説得力を持っていて、簡単には否定しがたい。

「……アンタ本当に何言ったんスか」
「だから忘れたって」

 あーもう、と黄瀬は顔を横にそらし、溜息をついた。
(嘘つくなら誤魔化すフリくらいしてほしいッスわ)
 忘れるわけがない。忘れる程度のことで、黒子があそこまで落ち込むはずはない。黒子にそんなことを言って、忘れられるような男でもない。
 そんなことより。
(オレには治せないって、何で)
 青峰と黒子の間には入れない世界がある。しかし二人に友情以上のものはない。どんなに深い絆があったとしても、恋ではない。青峰が黒子に独占欲があって、そんなことを言っているとは思えない。

 そろそろ戻んぞ、と広場の柱時計を見上げた青峰が背を向ける。
「……青峰っち」
「あ?」
「オレが青峰っちに勝ったら、何言ったか教えてくれるっスか」
「……勝てるもんならな」
 振り向いた顔を元に戻すとき、僅かに目が歪んだ。
(いつまでやってんスか、それ)
 しっかりしろよ、黄瀬は苦々しい気持ちで思う。しかし口には出せなかった。
 心の奥で思っている言葉は本当はもっと弱々しい。迷わないで、眩しすぎるくらいの光で、追いつけない背中を見せていてほしい。せっかく持つことができた目標を失いたくない、自分の勝手さがある。

 その日の試合も、青峰の得点は群を抜いていた。黒子は一度も青峰にパスをすることはなかった。
 試合に勝ってもさほど喜ばないのは、もう青峰だけではなかった。





 ◇



 冬休みに入る前のことだった。黒子に青峰の話をするのを、黄瀬はあるときからやめていた。しかし黒子の笑顔が減って、なかなか戻らなくて、その日黄瀬は思いきって言ってみたのだ。部室で二人きりなるという滅多にない機会だった。次の練習試合の日程が発表された日だった。

「ねー黒子っち、最近試合多くないっスか?」
「そうですね」
「何か客寄せにされてるっつーか」
 実際、取材の回数も増えていた。嫌いではないが、何か見世物になっている感もあってそうぼやくと、黒子はネクタイを締めながら少し笑った。
「キミは見世物になるの、慣れてるでしょう」
「慣れてるっスけど〜。なんかスポーツの世界だとちょっと違うっスわ」
「そういうものですか?」
「なんとなくね。まあいいんスけど、試合は楽だし」
「……そうですか」

 黒子が視線を落としたのを、このとき勘違いしていたのだ。青峰にパスを回さない試合がもうずっと続いていて、そのことを気に病んでいると思っていた。

「……あのさ、黒子っち」
 着替えを終えた黒子は、黙って黄瀬を見上げた。しばらく避けていた話題を改めて持ち出す気まずさもあって、やや落ち着かない。
「青峰っちのこと、しばらく放っておいたらどうっスか?」
「……黄瀬君?」
「ほら、青峰っちは一人でも平気だし、もうちょいそっとしておいた方がいいかも……」

(――え)

 黒子は僅かに目を見開き、責めるような、悲しいような、信じたくないような、複雑に感情の絡まった視線を向けた。
 黄瀬に理由は分からなかった。ただ何か、大きく間違えたことだけが分かった。
 今までどんなに呆れても叱られるようなことをしても、黒子の中から黄瀬は締め出されたことはなかった。
 それが今、完全に弾かれた。

(待って、違う)

 弾かれたと感じたのは一瞬のことで、今目を伏せている黒子からはもうその気配はない。でも黄瀬は黒子の中の何かを割った。それは割れたまま彼の中に残るだろうことは、ほとんど確信として思えた。

「……キミも、放っておいた方がいいと思いますか」
(……『も』?)
 確かに監督がまず練習への強制を外したし、あの状態の青峰を見れば、赤司や他の誰かがそう言っていても不思議ではない。自分たちも最近では急に自由になっている。正直、楽ではあるけれどあまり良いとも感じない、と言ったところだが、それはそんなに大きい問題だろうか。
「黒子っちは、何が気になるんスか……?」
「……ボクは……」
「うん」
「…………」

 その先が続けられることはなかった。大分長い沈黙のあと、帰りましょう、とだけ黒子は言った。

 黄瀬には為す術もなかった。たった一瞬でも黒子に拒まれたことが、それ以上踏み込むことを躊躇させた。そのうちに自分の才能も開花していったこともあって、バスケに没頭した。どんどん強くなっていくことも楽しかったし、それで青峰を追い抜きたかった。
 チームは勝っているし、問題ない。
 そう思うしかなかった。





 ◇



 そうして、心のどこかが軋むのをそのままにしながら進級し、全中を終えたある日、部室に行ったらロッカーから黒子の名前が消えていた。軽い音を立てて戸は開き、グレーの鉄板に囲まれたロッカーの中は正真正銘、ただの空だった。
 何も入っていないのは目に見えて分かるのに、中に手を入れた。外の熱を吸い込んで妙に温く、掴む空すらない。もうずっと空だったみたいに、気配一つ残っていなかった。とうとういなくなってしまった。

 こうなってもおかしくないと思っていた。でもそうなって欲しくなかった。そう思いながら、何もしなかったし、何もできなかった。


『テツが傷ついてるってんなら』
『オマエには治せねえ』


 青峰の言ったことは当たっていた。
 青峰との関係だけが全てではないのだろう。そうでなければ、何も言わずに辞めるなんてことはしなかったはずだ。
 傷を治すどころか、見せてもくれなかったし、傷の話もしなかった。最後まで、黒子は黄瀬に頼りはしなかった。

(……あーあ)

 何なんだか、と妙に冷めた気持ちで笑った。そのとき、ちょうど緑間が入ってきた。空のロッカーに手を突っ込んでいる黄瀬を見ても、いつものように不審なことをするなと突っ込む言葉はない。

「黒子っち、辞めちゃったんスか」
「らしいな」
 知っていたのか、もし知らなかったとしても、彼もまた予想していたのか、動揺も驚きもなかった。
 何なんだ、と黄瀬はまた思った。

 初めて勝てないかもしれないと思った憧れのエースも、自分と違う世界を見せてくれた、大好きで尊敬していた教育係も、理解してくれる人間などここにはいない、と言うかのように姿を消してしまった。そしてそれを分かっていた、分かっていただけの人間がここに二人いる。

「……はは」
「……?」

(こんなもんじゃないっスか)

 常に理解者がいて、全員が信頼しあって、一つの目標に向かって――なんてそんな世界。
(なくて当たり前っしょ。もっとうまくやればいいじゃん)
 どうしてそこまで。
 ライバルがいなくなったくらい。たかだか”部活動”の空気が変わったくらい。友達一人、変わってしまったくらい。
 友達一人にも、頼ってもらえなかったくらいで。

(馬鹿じゃねーんスか、オレも)
 蒸し風呂のように暑い夏の部室でも、落ちてくる涙は熱かった。
 空のロッカーの前で馬鹿みたいに泣いている間ずっと、緑間は窓の側に立って、何も言わずに外を眺めていた。





 ◇



「おーここか誠凛」

 傍らから上がる声に手を振りながら、ぷらぷらと校舎を歩く。体育館が見えてきた。
 ”あの”体育館の中には、黒子はいるのだ。そう思うと少し心は痛んだが、もうそれは味わいつくした。

(あの頃オレ、黒子っちは何でも分かってくれると思ってたんスよね)

 黄瀬が思っていることや、しようとしていることは、多少言葉が足りなかったり間違えていても、全部見通してくれてると思っていた。
 だからあの日部室で向けられた視線に傷ついて、それ以上何もできなくて、お互いに分かり合うこともないまま、道が分れてしまった。

(オレじゃだめらしいんスけど)

 でも青峰っちはいつまでもグレてるからさ。とまだ顔を合わせていない黒子に心の中で話しかける。
 あの夏から考え続けたけれど、黄瀬にはやっぱり黒子の考えていることは分からない。
 空のロッカーに手を入れた日の、うだるほど暑い部室の空気も、自分と緑間にしか分からない。
 誰も互いに分かり合うことなんてできなかった。
 でも、割り切ることもできなかった。

『オレは高校でもバスケを続ける』

 緑間は、あの日黄瀬にそう言った。
 部活なんてこんなもんか。そう思った黄瀬も、「オレも続けるっスよ」と答えた。
 そして黒子も、無名の新設校で続けることにしたらしい。他の二人も。

(オレやっぱ諦めきれないし)

 楽しかった。憧れていた。一番になって黒子からパスをもらいたかった。
 そう思えていた時期があった。
 せめて、自分は楽しかったし好きだった、と伝えたい。

(つーかオレ黒子っちと喧嘩したワケでもないのに、この状況の方がおかしいんスよ!)

 開放されている体育館の扉から勝手に中に入る。
(さて、薄いうすーい黒子っちはどこにいるっスかねー)
 そんなことを言っているうち、すぐに黒子の姿が目に入った。
 プレイスタイルは変わらない。気付けば誰かの背後に、予想もしないところに現れ、ボールの軌道を変える。黄瀬にはすぐ見つけられる。

(ようやく会えるところまで来たッスよ)

 これでまた始められる。欲の深い自分が望む形は色々あるけれど、とにかく、また始められる。
 しかしこれは前からだけれど、目立つはずの自分に気付くのが黒子は意外と遅い。熱視線を送っているにもかかわらず、だ。
 いつの間にかできていた人だかりに苦笑しつつ、黄瀬はボールが弾む音を聞きながら、黒子が自分に気付いてくれるのを待った。









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 DA SO KU

 これは補足が必要と思うので付け足すとですね、
 峰ちんの、黄瀬に黒子っちは癒やせないぜ発言は、結局黄瀬も峰ちん側だから、という意味です。
 黄瀬が何か慰めたりしても、あのときの黒子っちには伝わりにくかったんじゃないかと。
 あと峰ちん、黒子っちに言ったあれこれはその後、どんな海より断崖絶壁より深く反省してると思う。元がピュアだから。
 実際、火神んと峰ちんを倒してようやく解消されるものだと思います。
 ということで、峰ちん&黒子っちの世界に入れない黄瀬の悔しさを書きたかったんでした。
 あとミドリンも、赤司のために「好き嫌いでバスケは〜」なのかなと。
 上の黄瀬は、こんな終わり方ないだろ、と思ってやや意地で続けると言ってます。
 その後はやっぱりバスケがしたいから、という単純な理由に移るんじゃないかな〜。その辺はあまりねちっこくないと思う。
 帝光キセキが愛しいです。