飲んで帰ってきたあとは
 玄関の扉が開き、閉まる音がしたのに声が聞こえない。
 一人で取った夕食後、ソファで雑誌を読んでいた黄瀬は、これはまたか、と思い立ち上がった。リビングの扉を開ければ、廊下で黒子が行き倒れている。

「……黄瀬君」
 黄瀬の足音に気付いてか、行き倒れの黒子はその体勢のまま名だけを呼んだ。
「黒子っち……またスか」
「またです……」
 靴は履きっぱなし、上着も着っぱなし、しかし何故そういう工夫はできるのか、鞄を枕にして床に転がっている黒子は酔っ払いである。
 酔い潰れているように見えるが、実はそこまで飲んでいないし、意識が危ういわけでもない。単に、黒子は酔うと色々なことが面倒になる。基本的にだるいと眠いがセットで訪れ、最低限家には帰ってくるが、彼にはそれ以上何かをする気はない。ただそれは黒子にとっても好ましくはないようで、早く酔いを覚ましたいというのも本音であったりする。

 黄瀬は冷凍庫の中身を頭の中で確認し、床と仲良くしている黒子に立ったまま声をかけた。
「もー、今から作るから頑張ってこっちまで来て。風呂入っちゃだめっスよ」
「ここで待ってたらだめですか……」
「だめに決まってるっしょ!」
 のそ、と匍匐前進で進もうとする黒子の頭の下から鞄を引っこ抜き、ボクの枕……と言う声を黄瀬は背中で受け流して、キッチンへと向かった。

「はい」
「……」
 テーブルに突っ伏している黒子の前に、椀を置く。ほかほかと湯気を立てるそれは、味噌と出汁の匂いを広げ、夜食というよりは朝食の雰囲気を醸し出している。
 匂いを感じ取った黒子は顔を上げ、両手で椀を包むと、少しだけ冷ましてから一口飲んだ。はー……、と生き返ったような息を吐く。

「黒子っちくらいっスよ、二日酔いになる前からしじみの味噌汁飲みたがるの」
「どうせ飲むなら早い方がいいでしょう」
 黒子がこうして定期的に酔っ払い、その度に味噌汁を所望するので、黄瀬は冷凍庫にしじみを常備することにした。オレのために一生味噌汁を作ってくれ、とは古すぎるプロポーズの台詞として聞いたことがあるが、まさか自分が味噌汁のしじみを切らさないことに注意を払うようになるとは思いもよらなかった。
 さすがしじみしじみと言うだけあって、味噌汁を飲んでいるうち黒子はそれなりに回復していく。椅子にちゃんと座り、小さい殻から小さい身を丁寧に取って食べ、また味噌汁をすすり、ふはーと温かそうな湯気を口からこぼす。これがおっさんだったら目も当てられないが、黒子がやるとかわいく見えるのだからまったくずるい。酔いたくないなら飲まなきゃいいのに、と思うのに、酔って帰ってきて「おみそしる……」という黒子は黄瀬の何かのツボをぐいぐい押してくる。味噌だって自分は白味噌派なのに、黒子の、それも酔ったときのしじみのために、赤味噌だって用意してある。

「黄瀬君のお味噌汁はだんだんおいしくなっていく気がします」
「あのね、だんだんおいしくなるほど黒子っち酔って帰って来てんスからね」
「締めにプリンが食べたいです」
「……プリンはいつでも冷蔵庫に入ってるわけじゃないんスよ。しじみと違って冷凍庫に取っておけないんス。そう都合良くあると思ったら大間違いっスよ」
「とか言いながら、用意してあったり……」
「……」
「…………しないですか?」
 ちら、とこちらを見る黒子はまだ少し頬が赤い。酔って赤いのと、味噌汁で温まったのと、両方だろう。ああもう、と黄瀬はそれに触りたいのをぐっと堪え、そしてヤケ気味の口調で答えた。
「……あるよ!ありますー!黒子っちが今日飲みって言ってたからプリン買っといたっス!」
 冷蔵庫へ向かうべく立ち上がると、いくらか驚いた顔で、まだ箸と椀を持ったままの黒子が黙って見上げていた。
「……何スか」
 言うと、黒子は下を向く。向いたが、表情は手に取るように分かった。絶対、普段は見せないような顔で全面的に喜んでいるに違いないのだ。



 味噌汁を飲み、プリンを食べ終わった黒子は大分酔いも覚めてきたらしい。お風呂入ってきます、というのに黄瀬は洗い物をしながら返事をした。大体いつもここまでは順調である。
(黒子っちは一回酔い覚めるんだけどなー、出てきた頃にはまた半分酔ってんスよね)
 何でだろ、やっぱ風呂で酒回るんスかね、とこれまでの経験から考え、最後にアイスで酔いを完全に飛ばすべきか、そのまま寝させてしまうべきかの検討に入った。黒子は今小説を書いて生計を立てていて、もし今日やらなければいけないことがあるなら、アイスの路線でいかなければならない。
 もっとも家での仕事が残っているときに飲んでくることはまずないから――と食器を洗い終えた黄瀬が手を拭きながらソファに戻るとそこに、

「……黒子っち、」

 黒子が寝ていた。入浴後の姿ではない。さっきと同じ格好で、ソファに仰向けになっている。眩しいのだろう、顔だけ背もたれに向けて、蛍光灯の明かりを避けていた。
「こらこらこら、風呂行ったんじゃなかったんスか」
「ふふ」
「…………」

(ふふって、ふふって何!かわいいんスけど!!なんなの!!)

 多分酔いが戻ってきたんだろう。黒子は普段こんな脈絡なく、黄瀬の前で無防備に笑ったりしない。わけもなく一人で楽しそうである。こみ上げてきている笑いは、黒子の口元から離れない。
 しかしここで甘やかしてはいけない。黒子の生活習慣はところどころ乱れていて、大目に見ているとその乱れが習慣になってしまう。二人のときはいいが、自分がいないときにとんでもない生活を送りそうで怖いのだ。

「黒子っちそれ絶対そのまま寝るっしょ、だめっスよ。オレが」
「ふふふ」
「……あのね、そーいうかわいい顔したってオレはそこで折れるほど甘く」
「ボク、今思ったんですけど」
「…………なんスか」
 黄瀬はもう負けた、とぐったり項垂れた。だってかわいい。酔ってる姿がそもそもかわいいし、意味もなく笑っていて上機嫌な黒子を見て黄瀬が嬉しくないわけがない。かわいすぎて頭を抱えたい。
 黒子はソファに向けていた顔を黄瀬に向け、そうして、自分の呆れている顔を見ながら目を細めた。プリンのときより嬉しそうだ。一体なんだ。一滴も飲んでいない自分まで酔いが回りそうだからその笑顔の大サービスは控えて欲しい。
 相好を崩さないように気合で口を引き締めているというのに、しかし黒子はそんな笑顔のまま口を開き、黄瀬に会心の一撃を喰らわせた。

「ボクは黄瀬君のこと、自分で思ってるより好きなんだなって分かりました」

「――な、なに、何すか突然」

 これでもう全面降伏、いいから早く抱きつきたい、のを堪えている黄瀬をよそに、ふふ、と黒子はまた笑いながら続ける。再び目を閉じて、黄瀬が話しかける直前と同様、ソファの背に顔を向ける。

「酔って帰ってきて、黄瀬君がお味噌汁を作ってくれて、で、ここでごろごろしてて……」
「オレの価値味噌汁?」
「プリンもです」
「え、ちょっと、そーいう話なの?」
 何スか期待したのにー、と言うと、黒子はそこで目を開いた。柔らかい目蓋が持ち上がり、いつだって表情よりも雄弁な瞳が言葉を使わず語り出す。
 黄瀬はそれが昔からたまらなく好きで、その目が輝いてさえいれば何でも良くて、でも視線の先が自分だったらどんなに嬉しいかと、どれだけ憧れたか分からない。今だってそうだ。うっかりしていれば、言葉よりもそれに魅入ってしまうほどに。

「……今、うとうとしてる間」
「うん」
「洗い物の音が聞こえて、黄瀬君の気配がして、動いてて……、キミがそこに居るんだなあと思ったら、すごく、」
「……すごく?」

 黒子の目はソファを通して、その向こうにいた黄瀬の姿を描いているようだった。それからもう一度頭を転がし、黄瀬の目を見る。潤んでいるのは酒のせいだ。だって酒のせいじゃなかったら――。
 考えたらそれだけで泣いてしまいそうなことを、黒子の声がゆっくり肯定し、言葉にして黄瀬に差し出す。

「それだけで嬉しいって、すごいことじゃないですか」

「――うん」

 うん、すごいことっスね。
 黄瀬は掠れそうになった声で答え、寝転んでいる黒子の背に腕を回した。やっぱりまだ酔っているのだろう、いつもより温かい。ちょっと感動的な雰囲気なのに、黒子の身体はぐんにゃりしてるのがおかしかった。黄瀬もつい笑う。

「せっかくいい雰囲気なのに、黒子っち今にも寝そうってどういうことスか」
「いい雰囲気だから寝そうという見方も」
「そうやってここで寝ようとするー……」
「黄瀬君」
「んー?」
 抱き起こそうとする黄瀬を、逆に引き寄せようとするように、黒子の腕に力が篭った。
「今日はここで寝ませんか」
 よく眠れそうな気がします。と別にいつだってよく寝ている黒子はそんなことを言った。まったくただ動くのが面倒なだけなのに、黄瀬を篭絡する手段を総動員してくるのだから適わない。
 でもそれがあまりにしあわせそうだったので。
「もう、今日だけっスよ」
 言って、黄瀬は客用布団を持ってきて、ソファの下に広げた。いくらなんでもソファで二人は寝られない。
 黒子は横着をしてソファから寝たまま落ちてきた。そんなことをして、いた、などと言っているので、何してんスか、と呆れながら床に打ち付けたらしい腕をさする。電気を消し、掛け布団に二人で収まると、黒子は急に目が冴えてきたらしい。またふふふふと笑い出す。さっきより長い笑いだ。

「黒子っち、つまりまだ酔ってるでしょ」
「酔ってないです」
「あー言っちゃった、それ言ったら酔っ払い確定っスよ」
「酔ってないですってば」
「はいはい」
「……じゃあ黄瀬君、酔ってたらできないことしましょうか」
「…………は、……え?え?!」
 思わず顔を覗き込むと、目の据わった黒子がこちらをじっと見つめていた。

(どっち?!)

 酔っているのか、いないのか。

 もうどっちでもいい、と動き出した黄瀬は、その後ものの数分で聞こえてきた安らかな寝息に涙を流すことになる。それもまたよくあることである。
 それでも黄瀬はいつだってしじみを欠かさないし、急遽の飲み会でも黒子のために締めのプリンを調達しておく。
 この酔った笑顔のまま自分を捕まえて眠ってくれれば、黄瀬にとってそれ以上のご褒美なんてないのだ。