久しぶりだから
 気のせいかと思ったのだ。何せ湯にのぼせて頭はぼんやりしていたし、体も熱くて、目を開けようにも濡れタオルの重みでまぶたを持ち上げることができなかった。

 何かが口に触れたような気がする。
 でもあまりにありえない。

 その二つが同時進行で頭の中を埋めていった。それらの結論を出すよりも早く、耳元にかすかな振動。現実に引き戻される。

「ホラよ」
 投げかけられた声は少し遠い。そっけなくて聞き慣れた声に違和感を覚えるより、我に返ることだけで精一杯で、慌てて礼を述べようとした。横になった身体を起こし、額から目元まで覆っていたタオルに手をかける。
「ありがとうございま……」
(え?)
 視界に捕らえた姿は、ここにいるはずのないよく見知った姿だ。脇の自動販売機から缶の滑り落ちる乱雑な音が、ただでさえ混乱気味の思考を分断する。つまり全然、状況が飲み込めない。
 自分がどれほど驚いているか、どれほど驚かせたか分かっているはずだろうに、当の本人は販売機の方を向いたまま目も合わせない。

(なんで)
 なんでここに。何をしにここに。それで今、何を。




 久しぶりだな、などと無表情のままのたまった青峰君は、旅館のベンチに座ったまま呆然としているボクの目の前にしゃがみこんだ。距離の近さに思わず身体を引いてしまったが、そんな反応には構わぬ体で足元に手を伸ばす。
「落ちたぞ」
「え。あ、ありがとう、ございます」
 驚きすぎて、タオルを落としたことに気が付かなかった。温泉から上ったときに水でしっかり冷やしたそれは、今は中途半端にぬるくて何者だか分からない。この状況も一体何事なのか分からない。
「またのぼせてんのか」
「…………何でここにいるんですか」
「この近くで練習試合があったんだよ。んな睨まなくてもいーだろ」
 指摘されて弛めるのも癪だが、息を小さく吐いて無意識に険しくなっていた眉間から力を抜く。それを確認もしないで、またすっと立ち上がり、彼は販売機に背を預けた。やはり表情はない。けれど、挑戦的な険もない。冷静になってみれば、この二人だけという空間の居心地はそう悪くないのだ。彼が横にいることに身体は慣れている。
(そうだったな)
 元々屈託なく明るくて、苛立ちや孤独を吐き出すこともできて、それをためらうこともできて、そうやって自分に正直だから、心を閉ざすこともできる人なんだった。
 バスケ以外何も合わない、合わないけれどなぜかよく一緒にいた。よく知っている人だ。痛いほどに。

 ふう、と熱い息を吐いたらのぼせていたことを思い出して、いただきます、と小さく口にしてから缶のプルトップを引いた。冷たくて甘い。水分が身体に染み渡っていくのがよく分かる。斜め上からの視線を感じたが、放っておくことにした。言いたくなったら言いたいことを言うだろう。気を遣う相手ではない。青峰君が相手なら、わりと話は早い。
「気のせいならいいんですが」
 あー、と気の抜けた声が返る。
「さっきボクに何かしませんでしたか」
「した」
 ああやっぱり、と諦めのような気持ちで納得する。彼は何も考えてない、多分。
「何のつもりですか」
「別に何でもねーよ」
「何でもなくて人の口に口をつけてたら、そのうち捕まりますよ」
「だろーなー」
「…………」
 これなのだ。意図的な黄瀬君と違って、本当に事の次第が分かってなさそうな紫原君と違って、何の気なしになんて語は手持ちの辞書になさそうな緑間君とも違って、青峰君は何の気なしに、一般常識を破る行動を取る。こういうときの彼の内面には、善も悪も存在していないように見える。

(ボク以外にそんなことしたら問題ですよ)
 なんてことを言うと、自分にはしていいと思われそうなので言わないが、少しだけ心配になる。桃井さんが放っておけないと言うのも分かる。
 竹のベンチにかけておいたタオルを広げて、軽くはためかせてから額に当てた。多少体温は落ち着いてきたが、突然の出来事に頭が休まらない。もう一口、ポカリを飲む。

「テツ」
「……はい?」
 横を見上げると、青峰君は黙ったままボクの目を見て、何も言わず再び目の前にしゃがんだ。目線を合わせるために膝を折られるのは好きじゃない。ついムッとして口を曲げる。それにこの雰囲気はよろしくない。

「またしたら怒りますよ」
「いーだろ。減るもんじゃねえし」
「そういう問題じゃありません。大体何考えて」
「テツ」
「だめです」
「テーツ」
「バカですかキミは」
 あらゆる面でだめに決まってる。ここは旅館の廊下だし、ボクも青峰君もそういう趣味はない。たとえどちらかがそういう方面の人だったとしても、そういう間柄ではない。どう大目に見たって、そんなことをする要素は一つもない。
 呆れて正面の顔を見れば、いつの間にか無表情は消えてほんの少しふくれていた。意味も分からず突然迫られているこちらの方がふくれたい。数秒睨み合ったあと、青峰君は斜め下を向いてはあ、と溜息をついた。

「仕方ねえな」
「何自分が折れたような言い方し」

 話している途中で、突然口にフタをされたような感じだった。

(迂闊でした)
 喋っている間に急接近していたことに気付いていたのに、言葉を素直に受け取ってしまった。
 さっきよりも強く唇を押し付けられて、逃げられないように片手で後頭部を押さえられてしまう。柔らかいものがその柔らかさで圧倒してくる。食むように動く唇の濡れた感触に、目眩がしそうだった。
「あお……」
 抗議の声はほとんど外に漏れずに封じ込められた。目を閉じたら前後の区別もつかなくなりそうで、薄目だけは何とか開けて、近すぎる青峰君の顔を見つめた。見ていると少しだけ、脳の一部分が正気に戻る。彼は目を閉じていたけれど、その目の縁が描く線の形に、時間の流れを感じた。一年半、だ。動物の子供みたいだった顔が、ほんの少しだけ大人びた。
 その大人びた顔から感じてしまうのは、情欲などではなく。
「……ぅ、ん」
 舌がゆるりと唇の内側をなぞっていく。深く深く、あっという間に侵食された。今うごめいているのがどちらの唇か分からない。舌の表面が触れ合って小さな電流のようなものを感じたのも一瞬で、すぐにそれすら覆われて舌ごと絡め取られた。ぬるりと動くそれから逃げようとしても、簡単に捕まってしまう。全神経で自分の気配を追われているような気がした。

(なんで、そんなに)

 ふいにそんな疑問が浮かんだ。
 何が「そんなに」なんだろう。身体も頭も熱っぽくて、考えがまとまらない。ただ何故か、目の奥がじんとする。


 才能と孤独が比例するとは、誰が言ったことだったか。
 そんなことにまんまと引っかかっている彼も。
 引きちぎるように離れるしかなかった自分も。
 お互い共にあることで成り立っていた、大切な何かがあったのに。

(バカです。やっぱり)

 でもそれに気付けただけでも、今はよしとしよう。
 これから戦うのだ。戦うことが彼と向き合うことなのだ。



 気配に敏い彼に気付かれないよう、握ったままだったポカリの缶をそっと動かした。
「ぅいっ」
 変な声を出して、青峰君はびくっと背を伸ばした。そのはずみで、ようやく唇が解放される。ふは、と大きく息を吸い込んだ。
「てめぇテツ、今流したのそれか!」
「少しは頭が冷えるかと」
「相変わらずオマエやることがひでーよ。あーあベタベタになんぞこれ」
「大した量じゃないです。まあちょうどお風呂もあることですし、入ってきたらいいんじゃないですか」
 首筋にちょっとポカリをかけてやっただけだ。気になるならどうぞ、とタオルを差し出したら、渋い顔で受け取ってごしごしと拭き始めた。まるで中学のときみたいだ。背中にアイスを突っ込んだ階段と、慌てる後姿。拳を合わせる前に見せた、子供みたいな顔の苦笑い。

 高校生、になった彼の顔と昔の顔がだぶってまた、ほんの少しだけじんとした。