呼ばないで
 ぱたん。彼はことさら丁寧に扉をしめた。扉の隙間から空気が押し出される様まで、まるで見えるような気がする。
 明かりもつけない。入ってすぐの壁にスイッチがあるのに手を伸ばすこともしないで、彼はそこに僕を押しつける。黄瀬君が僕の視界を完全に塞いでしまう直前、レースのカーテンの向こうに月がかかっているのが見えた。

 彼は迷いなく、本能的に知っていたかのように簡単に、僕をその腕と壁の間に閉じ込める。決して乱暴ではないけれど、とても同じ人物とは思えない。昼間の屈託ない明るさが嘘のようだ。目を細めて近付きながら、片手で部屋の鍵を閉める。
「黒子っち」
 囁くように落とした声は部屋に響くこともなく、僕の耳にだけ届く。手の平で僕の頭を軽々と包み、呼び終えると同時に唇が重なった。
 一体、彼は普段どこにこれを隠しているんだろう。
 舌を絡められ、唇はこれ以上なく深く合わさって、もう逃げようもないし逃げる気もないのに、僕が身じろぎするだけで、彼は後頭部を支えている手を引き寄せて、それすら許さないように固定する。息もできない。呼吸をしようと身を引けば、結局身体ごと抱き寄せられてしまうのだから。

「…………は、……」
 ようやく唇を離され、大きく息をついているのは僕だけど、黄瀬君もさほど変わらない。彼の方が肺活量がある分、平常を装うのがうまいだけで。
(ほら、胸が上下してます)
 僕の視線をどうとったのか、彼は「ん?」という顔をした。でもそれに構わず、今度は耳元に口を寄せる。
(まずい、な)
 こういうときの黄瀬君の声は。

「黒子っち」

 ぞくり、と産毛が立った。鼓膜のその奥まで侵食してくる。甘くて凶暴な衝動をたたえた声。
 ね、食うよ?そう言っている。拒否権など与えてはくれない。
 肩に力が入ったのを見てか、耳朶に触れるだけのキスが落とされた。一度、二度、三度
。そしてまた囁く。
「黒子っち」
 一見優しい動きはあやすように見せかけているけれど、本当は追い詰めている。横目で睨めば、獲物を捕らえて満足したような笑みが返ってきた。

「好きっス」
 好きっスよ、と同じ声で繰り返す。その度に動く唇が触れて、小さな刺激が絶え間なく続く。せめてそれから逃れようとすれば、だーめ、という制止と共に耳を甘く噛まれた。
「……瀬、く……っ」
「ん?」
 囁くのを止めてほしいのに、黒子っち、かわいいっス、とまた囁く。目を固く閉じて声の侵入を防ぐが、できるわけはない。

 分かっててやってるのだ。意地の悪いところがあるのを知っている。僕が名前を呼ばれるだけで、だんだんと熱が上がっていくのを知って。
(ほら)
「……っと」
 膝の力が抜けたのと同時に、両脇から腕を差し込まれた。
(何が、おっと、ですか)
 見計らってたくせに。
 そうやって僕を軽々抱き上げて、首尾は上々とばかりに嬉しげな足取りでベッドへ移動するのだ。


 いつも。
 名前も、好き、も散々聞かされている。ありがたみも新鮮さも感動もないくらいに聞かされている。笑顔で何度も何度も。
 だからかもしれない。それらとあまりに違うからだ。この声を聞かなかったら、僕は彼の「好き」を、理解することはなかったんじゃないかと思う。実際のところ、ただふざけてじゃれて、懐いているだけとしか見えなかった。

 でもある日、彼は僕の名前を呼びかけて、止めた。目を眇めて苦笑いして、なんでもない、と言った。あれがなかったら、今の関係にはならなかっただろう。
 僕は、彼の声に落ちた。


(なん、ですけど)

「ふ……」
「……」
「あ、……」
「…………」
「気持、ち……っス」
「…………っうるさ、い、です」
「だって、黒子っち……、……んん」

(どうしてキミがそんな声出すんです)

 初めてのときから今に至るまで、彼はよく喘ぐ。多分僕よりずっと気持ちの良さそうな声を出す。
 自分が声を出すのも堪えられないが、自分を組み敷いている相手に出されるのもまた恥ずかしいというかなんというか、居たたまれない。
(僕が何かしてるみたいじゃないですか)
 本当なら殴ってでも止めたいが、さすがにその余裕はない。

「よく、そんな、声……出せますね」
「ん……出ちゃうっス……あ」
「〜〜〜〜〜」

 また下手に顔の造作がいいものだから、無駄に色気がある。裸なんて嫌というほど見慣れているのに、髪をかきあげて不意にこちらを見た彼の、筋肉に覆われた上半身に不覚にも見とれてしまった。だから、彼が拗ねたように唇を尖らせているのに気付いたのは、その手が伸びてきてからだった。
 
「黒子っち、ヨユーっスね」
「え」
 腰に回された手が、するりと後ろへ回って背筋を撫で上げた。条件反射で背が弓なりになると、繋がっている部分がその勢いでこすれ、一定の場所を掠めた。
「―――――っ」
 身体が跳ね、咄嗟に息を止めて声を殺す。それを抱きとめた腕は、呼吸を促すように背中を叩いた。自分がそうさせたくせに、その手はどこまでも優しい。
 でもそれは、手だけだ。

「知ってるんスよ」
 彼は近付いてくる。目的の場所に向かって。
「黄……っ」
「どーしたら、黒子っちが気持ちくなるか」
「っ……」
「ね」

 くろこっち。

 耳元で、あの声で、名前を。

「や、め……」
「やめないっス」

 黄瀬君の声に獰猛さが混じる。くろこっち、ほら、ね、気持ちい?と囁きながら、ゆっくりと腰を動かす。中にいることを認識させるように。彼が動くたびに理性とか意識とか、そういうものが霞んでいく。

(…………!)

 もう、だめだ。

 ぐい、と深く繋げられて、口が開いた。

「……………っ」
「くろこっち」

 上げかけた声を吸い込んだ唇は、それを飲み込むと今度は僕の名を呼ぶ。

 知っている。
 彼の唇は意地が悪くて、優しい。


 だって僕は、彼の声に落ちたのだから。