SEITENTAISEI
  自分一人の足音、つきまとう気配、石の転がる音、近づいてくる、獣の唸り声。
 飛び掛ってくる獣を打ち据え、黒子をこの山まで送り届けてくれたその男は言った。
「こっから先は、お供はできませんで……法師お一人で行ってくだせえ」
「……あの、できればこの山を降りるところまでお願いできませんか」
 法を求め旅立ったものの、出家の身である自分に武器はなく、またあったとしても襲いかかる獣を追い払う腕など黒子にはない。一人では、せいぜい無事に過ごせて三日だろう。
 しかし昨日偶然出会い、親切でここまで送ってれた男に無理は言えなかった。途方に暮れ、暗い表情をお互いに浮かべながら別れを述べる。その静かな山頂、漂う重苦しい空気を、突如岩をも揺らす大音声が劈いた。

「黒子っちー!そこにいるの黒子っちでしょ黒子っち!おっそ、……お待ちしてたんスよ!早く出してー!」

「……」

(黒子、っち?)

 黒子にはそんな風に呼ぶ友人も、こんな大声を出せる知り合いもいない。大体こんな大声、人が出せるものとも思えない。

「あの、この声は……」
 沈痛な表情だった男は、げんなりとした様子に変わって答えた。
「その昔悪さして封印されたっていう、猿の妖怪でさあ……」
「……さる」
「聞こえないフリしたってだめなんスからね!出してくれるまでずっと叫んでるっスよー!」
「……」
 
 初対面、というかまだ対面していないわりに随分距離感の近い妖怪である。しかし自分を待っていたというのなら、きっと信心深い妖怪なのだろう。仏心に人も妖怪も違いはない。かえって感心ではないか。
 黒子は男と別れ山を下り、大きな岩の前に立つと辺りを見回した。この辺りから、声がしたと思われる。
「こっち!下見て!ここっスよ!」
「ああ、下ですか……、……」
 足元を見ると、大きな石の箱の中に、金色の髪、長い睫、通った鼻筋の男がこちらに向かって片目を閉じ、しきりにキメの笑顔を見せていた。人違いだな、と黒子が立ち去ろうとすると、隙間から伸ばしたらしい手に、草履の踵を掴まれた。身体が前につんのめる。
「わ」
「え?うわ、…………、えーと、ごめんっス」
「…………」
 びたん、と転んだ瞬間、どんくさ、と呟いたのを黒子は聞き逃さなかった。黒子が身体を起こすと、男はもう一度ごめんと謝り、しかしすぐさま続けた。
「ねえ待ってよ、何で行っちゃおうとするんスか。こーんなイケメンがこんなとこ閉じ込められてんスよ、普通すぐ助けてやろうって思わない?」
「思わないです。キミ何か悪さをしたんでしょう」
「したけど反省したんスよ!」
「……罪状はなんですか」
「ちょっと天界の桃かじって酒飲んで女の子金縛りにかけただけっス」
「……」
 やっぱり置いていこう、と今度こそ手を振り払って歩き出すと、またとんでもない声で人の名前を呼ぶ。うるさい、と持っていた杓丈を箱の隙間に突っ込むと、その男の額に命中した。結構いい音がしたな、と黒子が思っていると、男は両手を額に当ててすんすんと泣き始めた。
「ひ……ひとでなし〜オレずっと黒子っちのこと待ってたのに」
 男の態度はイラっとくるが、そう言われてみれば、少々悪いことをした。
「何でボクのこと知ってるんですか」
「オレが改心したら、偉いオボーサンが来るって言ってたっス。その人の名前が黒子テツヤだって」
「それでどうして黒子っちって呼ぶんですか」
「オレ、尊敬する人には、っち、ってつけるんス」
「尊敬してくれてるんですか?」
「もっちろん!西方まで行くんでしょ?オレがお供してあげるっス。オレより強いヤツなんかいないから安心していいっスよ!」
 軽薄な調子が気になるが、どうしても供は欲しい。慣れない相手との旅路も一つの修行かと、黒子は男の言うまま、封じ込めの札をはがした。
 ありがとうとにっこり笑った男に、岩を壊す手伝いをするかと申し出れば、できるだけ遠くに離れてて、と彼は優しく言った。その岩箱が半分くらいの大きさに見える距離まで離れたが、まだ出てこない。
「やっぱり手伝いましょうか」
「黒子っちまだ近いっス、もっと離れて」
「え」
「オレが見えなくなるくらいー」
 そうそうそこら辺、と大分声が小さくなったところで足を止めた。すると、ドン、という爆発音とともに、強い風が黒子の法衣をはためかせた。宙に舞っているのは、あの大岩のかけらだろう。
 ぽかんとしてそれを眺めていたら、いつ目の前にやってきたのか、ある人影が眼前の光景を遮った。真っ白な丈の短い単衣に、すらりとしているが頑丈そうな身体が包まれている。見上げれば、金色の髪が太陽の光を弾いた。
 今まで見たことのない異人風の顔立ちが、人懐っこく笑う。
「せーてんたいせー、えーっと、黄瀬涼太っス、よろしく!」

 こうして黒子の旅は黄瀬という供を一人得て、二人となった――が、その日の夜にはまた黒子は一人となる。現れた盗賊を、黄瀬が必要以上に痛めつけたのだ。それを黒子は叱った。
 刺されても死なない、殴られても痛くない、身体は大きいけれど身のこなしは軽く速く、さらに黄瀬には、自在に伸び縮みする如意棒という武器があった。常人では適うわけがないのに手加減もせず、立ち上がれないほどにするとは慈悲がなさすぎる。

「あそこまでしなくてもいいでしょう」
「しなかったらオレらがやられるっス」
「それでもやりすぎです。これから仏の道に進もうというのにそんなことでは」
「…………オレ説教キライ」
 目を細め黒子を見下ろし、不機嫌そうに話を聞いていた黄瀬は、ふい、と顔を横に向けた。
 共に歩き出してすぐに分かったことだが、黄瀬の絵に描いたような笑顔は作り物で、おそらく自分と会って本心で笑っていたことは一度もない。だから、この不機嫌な顔の方が黒子にはよほど良く思えた。しかし黄瀬の取った行動とは話は別だ。
「黄瀬君」
「アンタ弱いしそのくせ文句言うし、オレのやり方気に入らないなら自分で身守れば」
「文句ではなくて……、……?」
 黄瀬の背後で、きらりと空が光った。と、真綿のような雲が風の速さで降りてきて、自分と黄瀬の間で止まり、今は呑気な様子でぷかりと浮いている。
 何かの方術なのだろう、自在に操られる雲に見入っていると、驚くべきことに黄瀬は、
「オレついてくのやめるっス」
 そう言って地面を一つ蹴ってそれに飛び乗った。
 引き止める間もなかった。雲に乗った黄瀬の姿は空の向こうへ消えた。もう背中も見えない。
 出会ったことが夢かと思えるほど、呆気ない別れ方だった。共にした旅路はおよそ数刻。
 黄瀬の消えた空を見つめ、荒野で黒子は立ち尽くした。



 夜が更け、月が出て、法衣の上から染み込むような冷気が頭のてっぺんから足の先までを包み始めた。黒子は膝を抱えて座り、飽きずに空を見上げていた。
 吐いた息が白く空に上っていく。紺色の空には眩いほど輝く月がかかり、星が一面に煌いていた。もう一度息を吐き、手を温める。黒子が息をどれほど吐き、前を曇らせても、月や星は少しもかすむことがない。真の道とは、教えとは、あのようなものなのだ、と黒子は空を見上げ続けた。
 乾いた地面に人の降り立つ音がしたのはそのときだった。黒子は首を後ろへ回した。別れたときと同じ不機嫌な顔の黄瀬が、片手を腰に当てて立っている。雲は夜空の向こうに、今度はひとりで飛んでいった。

「おかえりなさい」
「……あれから全然歩いてないってどういうことスか」
「キミが帰ってくるのを待ってました」
「オレが帰ってこなかったら明日の朝には凍ってるっスよ」
 後ろ向きで話すと首が疲れる。黒子が座ったままぐるりと向きを変えると、黄瀬は呆れた顔でこちらに近づいてきた。赤いブーツに、薄い単衣。袖は肘の辺りまでしかない。足を覆う布も弱い風にはためくほどふんわりと軽い。随分薄着だ。
「黄瀬君は寒くないんですか」
「妖怪っスからね」
「なら良かったです」
「…………告げ口したでしょ」
「はい?」
 突然何のことかと首を傾げれば、黄瀬はむっつりとした顔のまま口を開く。
「オレ戻ってくるつもりなかったのに、東に帰ろうとしたら来たんスよ!オレあの人に逆らえないからそういうのやめて欲しいっス」
「告げ口なんてしてませんけど……というか誰のことですか」
「笠松かんぜおん……」
 ああ、と白い息と共に思い出すと、ほら、と黄瀬が責める顔をする。
「キミがいなくなってどうしようかと思っていたら、来てくれたんです。やっぱりキミを見つけてくださったんですね」
 黒子は目を閉じ、改めて両手を合わせた。
 日が沈みきる直前、立ち尽くす黒子の前に一人の老人が現れたのだ。黒子と一言二言交わすと、老人は光となって消えた。黒子の道中を守護してくれる笠松の仮の姿であったのだ。黒子は光の消えた方向へ頭を向け、額を地につけた。彼のおかげで、黄瀬は戻ってきた。
「助かりました、一人では不安でしたから」
 はあ、と黄瀬が息を吐く。その息は白い。妖怪も、吐く息は温かいのらしい。しかし戻ってきたはいいけれど、まだまだ素直に言うことを聞く気はなさそうだ。

「キミ、名前のあとに『っち』ってつけるのは尊敬する相手に、と言ってたわりに、ボクへの態度ひどくないですか」
「そんなの、あんときだけっスよ。出してもらうためならそれ位言うっス」
「……そうですか」 
 まあそうですよね、と顔を下げる。吹きさらしの空の下で待ち続けていた身体が、大分冷えてきた。黒子は法衣の前を合わせ、もぐりこむようにして風から肌を守る。こうすれば多少は温かい。ふう、と息をつくと、何故か焦ったような声が降ってきた。
「っ、別に……、全然ソンケーしてないわけじゃないっスよ!何スかそのがっかりアピール!」
「ボク影も徳も薄そうとかよく言われるんで、初対面から尊敬してもらえてちょっと嬉しかったんです」
 別に慣れてるからいいですけど、と言うと、黄瀬はすたすたと歩いてきて隣にどさっと腰を降ろした。そして地面に垂れていた法衣の袖を持ち上げ、砂を払い、それを膝の上に乗せてくれた。ほとんど変わらないが、気持ち温かい。
「案外面倒くさい人っスね……、まあ、その弱っちい身で西まで行こうってとこは尊敬するっスよ、してなかったらいくらあの人に言われたからって戻ってこな……」
「ふっ」
「……なに」
「どれだけ悪い妖怪かと思ったら、優しいですね」
 冷え切った黒子の手を取り、人間弱くてめんどくせーと言いながら温めてくれていた黄瀬に言うと、彼は口をぽかりと開けた。
「……騙された」
「まさか。しっかり傷つきました」
「オボーサンのくせに」
「騙してませんが、温めてくれたお礼にこれをあげます」
 隣に置いていた行李から、黒子は帽子と法衣を取り出した。笠松から受け取ったものだ。かじかんでいた手が温まったから動かしやすい。
「どうぞ」
「?」
「帽子と法衣です。キミのイケメン度が高まります」
「……え」
 言うと、黄瀬は相好を崩さないようにしながらも、分かりやすく機嫌を上向きにした。褒められるのは嫌いではないらしい。
「センスあんまイケてないっスけど……、まあくれるっていうなら」
 どうしても上から物を言ってしまうようだが、喜んでいるのは分かる。素直なのは助かることだ、としっかり帽子をかぶったのを確認し、黒子は笠松に教わった呪文を唱えてみた。
 すると。
「いった!痛い痛い!何これ!」
 慌てて黄瀬は帽子を掴み地面に投げ捨てたが、頭には金色の輪ががっちりと残っている。それが黄瀬の頭を締め付けているようだった。
「あ、すごい」
 黒子が呪文をやめると痛みは止まるようで、すぐ原因に気付くと黄瀬は黒子に掴みかかった。襟元をぐいと持ち上げられる。
「アンタ何してくれて……いた!マジ痛い!ごめんて!スマセン!」
「分かってくれれば……あ、」
 呪文をやめた途端、黄瀬の腕がこちらに飛んできたのが見えた。う、と目を閉じて身構える。
「……?い……いたた、痛い、痛いです」
 額の辺りをすごい力で圧迫された。黄瀬が両手でぎゅうぎゅうと締め付けている。黒子が腕をのけようとしてもまったく動かせないが、予想してたような衝撃は訪れなかった。
「言っとくけどねえ、これより痛いんスよ」
「分かりましたすみません滅多なことではやりませんから」
 一息にそれだけ言うと、彼はようやく手を離す。とんだ馬鹿力の彼は得意げに腕を組んだ。
「次やったら寝てる間に仕返しするっス……って、いたい痛い痛いスマセンした!」

 寝ている間は休戦協定を結び、座った黄瀬の足の間に黒子は収まり、その日は眠ることになった。ちょっとは警戒心とかないの、という黄瀬に、寝てる間に凍ったら元も子もないと答えると、オレ先行き不安っスわ……、と相変わらず失礼にも呟いた。
 こうして、改めて二人の旅は始まったのだった。