寒がりの我儘

 風呂場から何やらぼやいた声がして、エクボはすい、と浮遊して浴室へ向かった。浴槽に湯を張ろうとしていた霊幻が、シャワーヘッドを片手にわなわなと震えている。
「どうした」
「湯が出ねえ」
「電源は……ついてんな」
「ランプはつく。だがいくら出しても水だ」
「……とりあえず風呂から出て何か羽織れ」
 夜の除霊帰りに雨に降られ、家に着く前から風呂風呂風呂と唱えていたからそのショックは察して余りある。震え方は今やマッチ売りも凌ぐ勢いだ。真冬にこれは確かにきつい。
「銭湯そんな遠くなかったろ。行っとけ。そのままだと風邪引くぞ」
「ようやく帰ってきたのにマジかよ……」
「ガス生きてんなら湯湧かして足湯くらいならできるだろうが……こういう小ワザはお前さんのが得意だろ」
「寒い以外考えられねえ」
「なら銭湯だ、ほれ支度しろ」
「うー……」
 ベッドに腰をかけ、タオルを頭にかぶってコートを再び着込んだ霊幻は、まだふんぎりがつかないらしい。
 ――まあ生身っつうのはそうだろうな。
「行かねえなら頭乾かしてとっとと布団入っちまえ」
「明日も仕事だぞ、そりゃ無理だ……」
 これは朝あと五分、と引き伸ばしているのと同じだ。行かなければいけないと分かっているが、できるだけ逃げたいという心理である。
 ――とはいえ、珍しいな。
 時間にはこれでうるさい男なので、朝が弱いという話は聞かない。設備が不調ならさっさと手配をする方だ。やることは早いのである。それがここで愚図るとは。そういえば今日の帰りも、寒いからうちまで付き合わねえか、などと意味不明のことを言っていた。
 しかしぐるぐる唸っていた霊幻は、よし、と顔を上げた。目が据わっているのがやや気になるが、ようやく行く気になったらしい。
「エクボ」
「何だ」
「お前銭湯入りたくねえか」
「……?俺様が入ってどうすんだ」
「たまにはいいもんだぞ。芯から体が温まると心身ともにリラックスし、明日の調子にも繋がる。おでんを帰りに食うのも最高だ」
「……なるほど?そりゃ良さそうだ」
「だろ?てことで」
「自分で立ち上がって行きやがれ」
 魂胆丸出しで両腕を広げた男にぴしゃんと返すと、くそ〜と頭を抱えた。
「銭湯の牛乳つけてもか」
「そりゃシゲオに言え」
「ならお前、いつもの人借りてきて」
「はァ?」
「そんで一緒に銭湯行こうぜ」
「……いや、いやいやまったく意味が分からん」
「俺一人で寒いのが嫌だ」
「お前な……」
 部屋はエアコンで温まりつつあり、霊幻の震えは止まっている。
 銭湯は避けられない、だがこの暖かい部屋から出たくない。一人で寒空の下帰宅するのも嫌だったのだから、当然もう一度外へ出るのも嫌だ。よって、付き合えという。しかも人様の身体を借りてまで。いっそ清々しい我儘だ。
 けれど、きっと一人なら今頃さっさと動いているだろう男が、イエスというまで自分を誘い続ける姿は、揺れる霊体のどこかがくすぐられる。
 ふう、と息をつき、エクボは両肘を曲げ、手を胴のあたりに当てた。
「借りてきてやるから先に行ってろ」
「――え」
「何だ、お前が言ったんだろうが」
「……いや、行きの風よけナシかと」
「そっからかよ……」
 呆れ果てて目をやったのに、霊幻は不意に頬を緩めて立ち上がった。寒さなど、もうどこかに置いてきてしまったように。
「ま、それなら行って待ってる」
「守衛が空いてなけりゃそれまでだぞ」
「お前は帰ってきてくれんだろ?帰りの風よけに」
「何で俺様が風よけに戻るんだ、おでん食わせろ」
「んー、二個までな」
「絶妙にせこいな……」
 替えの下着を適当な袋に突っ込んだ霊幻は、マフラーをぐるぐると首に巻いて玄関へ向かった。手袋をして、小銭の確認をして、扉を開けて流れ込んだ空気にはやはり顔を顰めた。けれど、俺がのぼせる前に来いよ、と言う目は楽しげだ。へいへい、と答えていつもの空路を行く。一度振り返れば、歩く霊幻の頭上に薄く白い呼気が立ち昇っていた。
 寒さ一つで我儘になり、暑さ寒さと無縁の自分を巻き込む。生きているつもりの自分をするりと生に近付ける。
 ――おでん一つで悪霊を付き合わせるってのはどうなんだ。
 付き合う自分もどうなのだ。そう思わないでもないが、たまにはいいだろう。
 雨は上がったが月は見えない。けれど透ける雲のせいで夜空はどこか明るかった。銭湯とおでんにつられたことにして、雲より、呼気よりも勢いよく、空に霊体をなびかせた。



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付き合ってないエク霊。
聞いてくれる相手がいるからぐだぐだも我儘も言える。
暑いの寒いのという感覚が、少し羨ましくなるときもある。
一緒にいれば、両方叶うこともある。完璧じゃなくても全然OK。
(2020/1/13)