反射光

 ――かわいいと思った。
 そう態度でも行為でも示された。していることはしているがエクボにとっては面倒を見ている延長であり、単にいい奴が過ぎるだけなのだ、悪霊のくせに。
 だからこそ甘えきる気はなかったし、一方で安心していた。なんだか分からないがこいつは俺をかわいいと思ってしまったんだな、と受け入れられるくらいには、繰り返される言葉と触れ方を信じてしまった。
 でも、謝られた。俺様が悪かった、と。考え無しにするものじゃない、お前も考えろ、とも。
 言ったことも、抱いたりしたことも、撤回されるということだな、と判断した。こういうことは考えたって変わらない。そう感じたら最後だ。
 エクボがいつからそう思っていたのか分からない。人の心理や感情を読むことは得意なはずなのに気がつかなかった。
 気がつかないで、早く入れろなんて言っていた。
 恥ずかしさも通り越して、失笑した。

 腹は立たなくて、それはそうだろうな、と普通に納得できた。自分など抱いたってエクボには何の得もない。
 やらないと言われたことより一時の言葉を真に受けて、なおかつ気付かなかった方のダメージが大きかった。そうは言っても仕方がない。働いて気を紛らわせることにした。
 不自然だと気付かれていることは分かる。でもそれしかない。ちょっとした傷だ。しばらく放置してくれれば治る。元に戻ればいいだけだ。エクボにとってもそれが好都合だろう。
 それなのに、何故蒸し返してわざわざ問いただすのか分からなかった。自分と寝た意味もまだ信じろと言う。
 分からない、以外答えようがなかった。エクボのしていることが何も分からなかった。
 答えたら、また謝られた。
 ああ、謝るために話をしようとしたのか、と理解した。いい奴だから、考えろ、と言ったままうやむやにして風化させるのは嫌だったのだろう。
 とりあえずそのままエクボの前にいるのは無理だったので、家から出ようとした。死んでも泣きたくなかった。それだけは嫌だった。
 そうしたら後ろから腕を掴まれて、振り返ったら見たことのない何か――巨大なエクボらしきものが、そこにいた。告白なんていう単語も出てきた。わりと驚いた。エクボが考えていたこともようやく分かった。
 まったくこの世の中、何が起きるか分からない。超能力者がいたり、一人や二人じゃなかったり、悪霊が大きくなったり小さくなったり。



 それで結局自分と悪霊の関係は何か変わったかと言えば、何も変わっていない。告白らしきものは口にされていないし、自分も何も答えていない。たまに夕飯に誘って寝て、エクボは相変わらず、まだ入れない。

 ――つうか、そろそろ三本も……。
 入れられた直後の苦しさもだいぶ薄れ、奥まで指先が届くと頭がぼんやりするようになってきた。 重たい熱の奥で、指が神経の端を掠めるような、そわそわと背筋に擽ったい何かが走る。本当は触れてはいけない場所だと思うのに、やめてほしくない。ぴんと伸びた指でまた少し奥をこじ開けられ、抱えられた足先が宙を蹴った。
 頭上では、じ、とエクボが視線を注いでいる。まじまじ見るな、と枕を投げつけたいがその力はない。仕方がないから、頬に赤い丸を浮かせて真面目な顔をしている男の輪郭を眺める。案外頭の形がいい。
 大きくなったり小さくなったり人に入ったり、自由でいいなと思う。モノに憑いたり入ったりもできるんだろうか。ランプの精なんか似合いそうだ。想像して少し笑ったら、エクボが眉をひょいと上げた。
「……なんだ、余裕か?」
「……余裕だよ、おまえが、もたもたしてっから 」
 ほー、とエクボは愉快そうに笑い、中の指を折り曲げた。前立腺の周囲をゆっくり擦られ、目の焦点が揺れる。そのものに触られるよりは楽だがもどかしい。吐き出す息が上擦っていく。
「じゃあこれも物足りねえな?」
「っ……」
 足りねえよ、と返したいが、そうは聞こえない声しか出ない気がする。無意味に口を開いて閉じて、うぅと唸ると、それを眺めている悪霊は喉で笑った。
「目ェ溶けてんぞ」
「と……けて、ね……」
 しかし目は溶けていないが頭は溶けそうだ。腰から下も重くてたまらない。力が抜けきると思うと、勝手に身体が跳ねる。中の指は少しずつ位置を変え、入り口から奥までを柔らかく押しては広げている。
「……それ、もう、やめ……」
「悪くねーだろ?」
「……ねえ、けど、……っ」
 またびくりと背が浮いた。途切れがちな息をなるべく長く吐いていると、固い手のひらが腰に触れた。何、とエクボに目をやったが、悪霊は口の端を上げただけだった。腰に置いた手のひらは動かさず、親指だけで肌に円を描く。むずがゆい熱が溜まる。中の指も同じ速度で粘膜をなぞっている。息と身体が小刻みに震え出した頃、腰に置かれた五本の指が、腰骨の上に爪を優しく走らせた。語尾の伸びた声が、とうとう喉から洩れた。褒めるように、手が跳ねた腰を撫でる。
 最近、声を出すと撫でられるようになった。エクボが塞いでくれるときもあるが、声を零したあと塞ぐこともあって、できれば前者を優先してほしいと思いつつ気持ちがいいからよしとしている。
 唇は、口以外にも触れる。たとえば今だと掲げた片脚の膝頭とか、腿の内側とか。

「霊幻」
「ん……?」
「お前さんさっきから、軽くイってんの分かってるか?」
「…………?」
 いってんの? 俺? と動きの鈍くなった頭で考える。そう言われれば近い感覚はあるが、あのせり上がってくる感覚はきていない。いってない、と頭を横に振ると、エクボは言葉に詰まったような弱ったような顔をして、あー……と手を額に当てた。そんなことより早く身体が熱いのをなんとかしてほしい。
「……えくぼ、……入れ……」
 口癖になっていたそれを口にして、久しぶりに言ったと気付く。あれから何度かしているが、そういえば前ほど急かす気持ちがなくなっていた。
 それはともかく、また今度な、と言われるのに慣れ過ぎていて、いつもの返事がないことも、頬をさわ、と撫でられたことの意味も特に考えなかった。親指を頬に滑らせ、エクボが言う。
「そのまま惚けてろよ」
「……?」
 指ではない熱いものがそこに押しつけられて、いつもと違うとようやく気付く。
 ――あ。
 直後、先端がくぷりと中へ入ってきた。びく、と肩は跳ねたが苦しくはない。ただ、慣らされた指とは違う感覚に、鼓動が速くなる。
「……っ、ぁ」
 幹の部分が少しずつ、入り口を押し広げていく。さっきまで指でされていたから痛くない。でも、慣らすことが目的ではない、というだけでこんなにも違う。指のときにはあった僅かな隙間もない。でも大丈夫だ。これからもっと入ってくるのだろうが問題ない。全然、まったく。
「……痛くねえか」
 訊かれ、こく、と頷く。
「本気で痛えのは我慢すんなよ、それ以外はちっと我慢しろ」
「……して、ねえ」
「痩せ我慢もな」
 痩せ我慢もしていない。が、だんだん太いところが苦しくなってはきている。エクボも一度には入れられないのか、進んでは止まる。半端なところで動きを止められるのはお互い辛いが、一度には無理だ。思いきって入れれば入る、という自分の意見を却下したエクボの判断は正しかったし、いい奴だった。取り留めもなく浮かぶそれらで気を散らす。
 エクボがやんわり触れている前に意識を向け、息をなるべく深く吐いて、力も抜く。今まで覚えたコツを総動員だ。多分苦しい顔はしていない。でもどこを見ていたらいいのか分からなくて視線が彷徨う。あと少しだ、為せば成る、と言い聞かせる。
「――霊幻」
 しかしシーツを握りしめていた手に触れられ、暗示タイムは終了した。掲げられていた脚も降ろされる。エクボを見上げれば、手間も時間もかかっているからだろう、額には、今まで浮いていなかった汗がうっすら滲んでいた。
「手、こっちに寄越せ」
「……」
 そろ、と伸ばすとエクボは左右の手首を取って引き上げ、首の後ろに回させた。ほっとしている間に折り曲げた脚の膝裏に手を入れ、ゆっくりと身体を倒してくる。
「……ぅ、ン……っ」
 片脚だけ掲げられるよりいくらか体勢は楽になったが、繋がり方が深くなり反射で首を引き寄せた。これじゃ反応が全部バレるじゃねえか、と思った側から、手ェ離すなよ、と釘を差される。でもエクボが腰を進めるたび手の震えが伝わって、痛がっているみたいで嫌だ。動かれる瞬間、少しばかりびっくりするだけだというのに。
「……オイ、」
「いたいんじゃ、ねえ……」
「痛くねえわけもねえんだが」
「許容範囲だ」
「素直に言えばやめねえぞ」
「……」
 立場が不利だ。正直に言わなければ止める。しかし痛いと言ったらエクボは止める。でも我慢できない痛さではないのだ。本当に。
 ――やめたく、ねえ。
 半年以上かけて、ようやくその気になったのに。
「…………痛くねえ」
 迷って結局、結果が見える答えしか、出せなかった。エクボの首にかけていた指をそっと離す。
「っ待て、やめるとは言ってねえだろ」
 しかし浮いた指は、焦った様子のエクボの手によって再び首に押しつけられた。すぐに自己完結すんな、とこんなときに小言を喰らう。
「やめねえけどな、本当にキツイときは絶対に言え。言えなかったら呼べ、いいな」
「俺、そこまで我慢しねえぞ……?」
「お前の我慢はたまに限界値がずれてる」
「そうか……?」
 そうだ、と額の汗を拭われた。悪霊のくせに何故もこう心配性なのか。
「じゃあ……、や、でも、キツイっつうか」
「何でもいい、どこだ」
「腕」
「……腕?」
「二の腕。疲れてきた」
 上げっぱなしだからちょっと降ろしたいなと思っていたところだった。
「……軟弱かお前は……」
「お前が何でもいいって言ったんじゃねえか……」
 一つため息をついたエクボは何かをしばし考えた。まあ確かにな……、などと呟いている。
「仕方ねえ。ちょっと無理させんぞ」
「……は、」
 なに、と思っている間に上体が重なってきて、抱えられた脚はさらに横へ倒された。角度が変わってびくりと揺れた腰が、重みで押さえつけられる。
 ――あ、やばい、かも。
 察するとほぼ同時だった。腰を下から押し上げられ、身体が、開かれたことのない大きさに広げられる。
「――――」
 目を見開いて、一度の瞬きすらしないうち、指が届いたことのない場所まで熱いものに満たされた。は、は、と息をしている自分の目元を指で拭い、浮いた肩をさすり、エクボが目の中を覗き込んでくる。
「霊幻、声出るか」
 かろうじて頷いたが、それではだめだとエクボが言う。
「どんなんでもいいから出せ。出さなきゃ分かんねえだろ」
「…………で、る」
 よし、と髪を何度も撫でる。エクボの額からも汗が落ちてきた。
「あと少し我慢できるか」
 頷くと、根元まで腰を押しつけた。ぎゅう、と目を瞑る。
「――……」
 曲げられるようになった腕は無意識のうちに、エクボの首に絡みついていた。入ったぞ、と耳元で声がする。
 背中とベッドの間に、エクボが片腕を差し入れた。体温に挟まれて、少しだけ身体の強張りが解ける。
「馴染むまで目ェ閉じてろ」
「…………ん」
 言われた通り目蓋を降ろす。稍して、もう片方の手に性器を撫でられ薄く目を開けた。入れられてすぐ強いのは嫌だと言い続けていたから、指の腹で軽く触れるだけだ。それに慣れるとやんわり指で包まれ、上へ向くよう促される。
「えく……」
「キツイか?」
 ふる、と首を振る。
「じゃあ、気持ちいいか」
 少し迷って、頷いた。ならもう少しされてな、とエクボが言う。首の後ろにも背中にも汗をかいて、自分は少しも動きもせず。
 今されていることはすべて、指で何度も慣らされた延長にある。身体を撫で、宥める手も、少しだけ眉を寄せて心配する顔も。どうすれば気持ちがいいのか見極めようとする視線も、力が抜けて、気持ちがいいと表せば、眉間の皺が緩むことも。
 そうだ、そうか、と急に納得した。
 ――それらはすべて、自分が大事にされた証だ。
 子供だとか子供じゃないとか、本当にガキだったんじゃねえか、と自分で呆れた。今まで全部見ていて、今頃気付くとは。でも何故か自己嫌悪の波は訪れず、身体の熱さがふわりとした熱に変わる。

「……な、あ」
「ん」
「お前も……ちょっとは、気持ちいい、か?」
 訊くとエクボは変な顔をして、重ねた身体に少しだけ重みを乗せてきた。
「中、分かんだろ。動かねえでこれだぞ」
 繋がっている奥、腹の下の方で、時折脈打つような振動がある。萎えないのだからきっと、身体としては悪くないのだろう。
「……中身のお前も?」
「……?」
「同じくらいか、何かは……感じるか……?」
 憑依した身体とエクボ本体がどこまで一致しているのか分からない。身体は動かせば汗もかくし、快楽だって得るだろう。しかしエクボ自身は良くも悪くもないかもしれない。だとしても、それは仕方のないことだ。
 ぱちりと目を開いた悪霊は、それから仕方ねえなあ、という顔で笑った。
「俺様のご馳走は思念や感情のエネルギーだぜ?」
「うん……?」
「お前が俺様に触られてそんななってんの見て、気持ち良くねえわけねえだろ」
「……そこまでは、なってねえ、だろ」
「へええ?」
 愉快そうに返し、エクボは目を細めた。口の端が緩く上がる。熱を持った耳たぶを撫で、少し動くぞ、と囁いた。話している間に緊張は解れて、身体が思い出したように気持ちの良さを拾い始める。
「……ん、」
 埋められた熱のかたまりは次第に動きが大きくなって、先端から根本まで形を覚えさせるようにゆっくりと出入りする。荒くない、でも衝動を堪える動きで奥までいっぱいにされるのがたまらなかった。もう何回も、ここで得る快感は与えられてきた。身体が記憶と今を結びつけていく。ここに指を入れられたままいかされたことは一度や二度じゃない。息が震える。
「……え、く……」
 呼ぶと、上から唇を合わされた。言葉を促すように、舌先を軽く絡めて離れていく。
「どうしたい」
「……イ……、も、いき、た……」
「入れたままいけるか?」
 こくこくと頷くと、飛ぶなよ、と一つ言って、手を強めた。それまで緩くされていた分、扱きあげられて高い声が出た。羞恥はあっても止まらない。中に入っているのは今までに経験していない大きさで、こんなものを入れたまま達したらどうなるのか分からない。怖さはあるのにもう戻れなくて、呼吸ばかりが浅くなる。
「今までと変わんねえよ。お前さんは気持ちいいだけだ」
 伸びてきた手が、頬から耳を撫でた。
「見ててやるから、そのままいっちまいな」
 なんだそれ少しも安心できねえ、と頭では言い返したが、身体は秒も保たなかった。先端の窪みをくるりと撫でられ、きつく目を瞑った。がくん、と身体が折れ曲がる。
「――っ……! ぁ、ァ……っ」
 エクボのそれをきつく締め続けたまま、長い射精と快楽に晒される。どれほど力を入れても身体はそれを押し出すことはできない。抵抗はすべて内側に返ってきて、その刺激でまた精を飛ばす。痙攣のように跳ね続ける身体を抱きとめる腕がなければ、宙に放り出されそうだった。首元にかかるエクボの息も熱い。
 熱が涙となっていくつか流れ落ちた頃、名前を呼ばれていることに気がついた。目を開ける。
「……」
「おい、れーげん、飛んでねえか、大丈夫か」
「…………ん……」
「まだ落ちるなよ、ほら、目ェ開けろ」
「……おち……ねえ……」
「落ちる五秒前だな……」
 頭を撫で、もうちっとだけ頑張れ、と言うと、腰に手を回し引き上げた。身体に力が入らないからされるがままだ。
「っ、ア……」
「まだキツイだろうが……、お前さん寝ちまいそうだからな」
 その通り、意識を保つ方が難しかった。猛烈に眠い。でも身体を揺さぶられると、腰の辺りから熱が湧き上がってくる。腰を掴む手も、擦る中も熱い。
 エクボの首筋で薄く光る汗に手を伸ばした。届かない指先に、エクボの指が絡む。もう好き勝手動きたいだろうに、汗を流しながら自分を見て目を細める。身体を倒し、背中を掬い上げるように両腕を回した。
 ――あ、好きなやつ……。
 一番多く肌に触れられて、エクボの感情や衝動が直接伝わってくる。今日は身体の奥まで繋がっているから、全身が溶けそうだ。境界が分からなくなってくる。
 その、朦朧として力の抜けていた身体は突然、びくん、と激しく跳ねた。一瞬頭が真っ白になった。性器が前立腺を押したのだ。
「っそれ……、やだ、」
「……善処はする」
 しかし腰を引くと今度は掠める。角度を変えようにも自分では無理だ。エクボが体勢を変えるしかないというのに、自分を抱いたままろくに変えようとしない。
「っ、あ……っ、まじで、むり、ほんとに……っ」
「当たっちまうんだから、しょうがねえ、だろ……っ」
「んあッ、――!」
 違う角度でまた押され、とうとう涙腺が決壊した。さっきだってあんなになったのに、それ以上なんて無理だ。
「……く、えく、ぼ、……エクボ、」
「あーあー分かった、分かったから」
 三秒我慢しろ、と言われ、ううと唸って一つ数え、結果――三まで数えられなかった。
「――……ッ!」
 二、でもう一度それを擦られ、次にはエクボが自分の奥で達した。
 直前、涙ですべての輪郭がぼやける中、エクボの背がふわりと緑色に揺れた気がした。向こうが透けて見える、波のような緑だ。
 すげえ、悪霊っぽいぜ……、と泣きながら思って、そこで意識を手放した。


 ◇


 いつもと寝心地が違う、と目を開けると、見慣れた部屋の天井と、真隣にいる男の身体が視界に映った。寝心地の違いは枕が枕でなく、腕であるかららしい。カーテンの隙間から見える外は薄明るい。終わったあと朝まで寝るなんて初めてだ。
「……オイ悪霊」
「おう」
 起きているかはともかく話しかけてみたら、普通に返事が返ってきたので続行する。
「最後のアレはなくねえか」
「良すぎて怖ぇっつうから最短にしたんじゃねえか」
「言ってねえし手前の解説はいらねえ……つうか短縮を求めたわけじゃねえ……」
「慣らしておいて良かったよなあ」
 今問題にしているのはそこじゃない。しかし良かったことは確かである。
 微妙に首が痛くなって、体勢を変えようとしたら想像以上に身体が重いことに気がついた。肩から上は動くが腰から下が動かない――ことはないが、動かしたくない。でも少し下にずれたい。
「何してんだ」
「……首が痛くなってきたんだよ、つうかお前も腕痺れねえの」
「は、とっくに痺れてら」
「いや何で俺が鼻で笑われてんだお前が抜けよ」
「無理だな痺れてっから」
「何でそこまで敷いておくんだよ……」
 んぬぬ、と身体を斜めにして腕から頭をどかす。ほらよ、と本当に痺れているらしい腕を曲げて戻してやると、手を眺めながら拳を開閉させた。
「憑依してるお前は痛くねえの」
「時と場合による。今はまあまあ俺様も痺れてるぞ」
「時と場合?」
「憑依も深さがあるからな。痛みや不快は身体に出るから注意はしておくが、感覚は向けねえ」
「……それ以外は?」
「そりゃせっかく借りてんだ、イイモンは感じとくだろ」
「ふーん……?」
 ん? と首を捻ると、ニヤリと悪霊が歯を見せて笑う。
「俺様も気持ちいいかって、聞いてきたあれな。嘘は言ってねえぞ。中身の俺様は言った通り気持ちがいい。プラス、身体の感覚も味わってるってことだ」
「……今は聞いてねえ……」
 たまーに健気なこと言うよなァ、と面白がっている顔を殴りたい。頭から塩をぶっかけたい。先に言っておけよこの野郎……、と歯ぎしりしている自分をよそに、エクボは呑気に首と肩を回している。その、案外傷のない肌を見て急に思い出した。
「あっ」
「うお、なんだ」
「お前イくとき、でかいエクボになってねえ?」
「は?? なってねえよ」
「じゃあ気のせいか……?」
「何が」
「……背中が緑に見えたぞ」
「……緑?」
 俺様の背中が? と初めて聞くような顔で首を捻る。数秒真剣に考えてみたようだが、思い当たる節はないらしい。
「いや……完全に身体ん中にいたからそれはねえと思うが」
「はずみで霊素出ちゃったんじゃねえの」
「漏らしたみたいに言うな霊素に色はねえ」
「……なら俺は第一発見者かもしれねえな」
 写真に撮れたら証明できそうなのに、きっと写らないだろうことが惜しい。でもトーク例には入れておこう。オーラっぽい感じで話せばいける。
「お前さんの思考と展開は俺様も感心するぜ……」
 隣で悪霊がしみじみと言った。痺れた腕は戻ったようで、今度は両手を頭の下で組んでいる。
「ところで、何で痺れた腕そのままにしてたんだ」
 ちら、とこちらに視線を寄越したエクボは、ふいと逆側へ顔を向けた。
「それに、不快なのはあんま感じないようにしてんだろ?」
「……不快なのはな」
「……」
 不快なのは。
 不快でなければ、逆に感じるようにしてるっていう話だ。
 ――それはつまり、あれか。
 口元に手を当てて黙っていると、そっぽを向いた顔が戻ってきた。双方据わりの悪い表情で目を合わせる。
「……俺様より照れてんじゃねえか」
「俺だって予想外なんだよ……」
 誘うのはいつも自分からで、するときは疑う余地なく優しくされるけど、エクボ自身に触れたいだとか、そういう欲があると思っていなかった。しかも腕枕なんて、してる側は疲れるだけだ。――その相手が、好きじゃなかったら。
「まあ……確かにガラじゃねえわな」
 がしがしと頭をかいてエクボが言うので、へ、と隣を見上げる。
「いや、ガラとかじゃなくて……お前もそういうのあるんだなっつう方」
「そういうの?」
「……さわりてーな、とか」
「……なかったらしねえ」
「あ、そう……」
 そうですか、それはそれは。と、布団に潜り込もうとしたけれどいまいち身体が動かない。大体このベッドに男二人は無理がある。
「うわ、」
 急に、べた、と額に手を当てられて視界が半端に塞がった。喉を鳴らす笑い声が響いてくる。
「そんなんで照れてんのか」
「照れてねえよ」
「デコがあったけえぞ」
「そら良かったな」
「そうだなァ」
 エクボの手を剥がすと、片肘を立ててこちらを眺めていた。
 少し遠くを見るような微かな笑みを、霊体のときも浮かべているのだろうか。生きている、自分たちが考えないようなことを考えて。
 両腕を開いて上へ伸ばす。
「ん」
「ん?」
「今なら触り放題だ」
「そりゃまた大サービスだな」
 伸ばした腕の中にエクボの身体が落ちてくる。あれだけ触ってまだ飽きずに腕枕なんぞをしたいなら、もう少し食えるのだろう。
「たまにはボーナスぐらい出さねえとな」
「ボーナス以前に給料が出てねえよ」
「現物支給してるだろ」
「ボーナスも現物か」
「いつものよりはうまいだろ?」
 言うと、ぱちりと小さい黒目を瞬かせた。それから眉を片方下げて、くしゃりと笑う。
「んなこと言ってっから俺様に食われちまうんだ」
 言って、何故か頭を乱暴に撫でてきた。繋がりが分からない。が、満足そうだ。
 撫でられて腕に抱き込まれて、狭いベッドで喋ったり微睡んだりしているうち、日が昇ってくる。
 悪霊と迎える朝なんて意味が分からないが外は明るくて、頬にあるエクボのしるしも、いつもより丸く赤く見えた。