猫の師匠とソースの匂い

 鼻先に触れた匂いに、んん?と霊幻は顔を上げた。植栽を囲うブロックの上からひょいと降り、人の足と足の間をすり抜けて匂いの元へ向かう。
 食欲を誘う匂いは少しずつ強くなり、冷たい空気は温かくなっていった。石畳の向こうにカラフルな色の縦縞と、水色の大きなバケツが目に入る。赤いひさしには黒く大きな文字が四つ並んでいた。
 ――たこ。
 たこ焼きだ。霊幻は猫であるがひらがなは読める。漢字はまだ一部しか読めないが、この字面と匂いはたこ焼きに違いない。家でしばしば食される球体だ。
 たこ焼きは膝に乗ってねだるとひとかけらだけ分けてもらえる。たこはもらえない。猫には良くないらしいのだ。ソースをちょっと落とし、かつおぶしは多めに乗せてくれる。
 屋台に並ぶ人間たちを超え、焼いている装置の裏へ回り石垣の上に飛び乗った。作っているところを見るのは初めてだ。丸い穴の中に液体が注ぎ込まれ、鉄板がひっくり返される。しばらくすると蓋が開き、キリのような道具でくるくると穴の中身を回し始めた。さっきまで液体だったものが、見慣れたたこ焼きの姿になりつつある。ソースが焦げる匂いも、かつおぶしの匂いも漂ってきた。
 ――……腹減ってきた。
 なあ、と同意を得ようとして、隣が空なことを思い出した。そう、だいぶ前から霊幻は同行者とはぐれていた。その上たこ焼きの匂いに誘われ移動してしまったから、ただでさえ人相の悪い顔をさらに険しくして探し歩いているだろう。
 ――仕方ねえなあ。
 沈みつつある太陽は人の影も木の影も長く伸ばしていて、そのうち闇に人の顔かたちは溶け込み、道には明かりがつくようになる。そうなると人間の足元をうろうろしている自分を探し出すのは、大型魚群の中からグッピーを探すくらい大変なのだ、とエクボが言っていた。エクボとは自分のメシ係であり、水槽を泳ぐグッピーとの触れ合いを阻む男であり、現在はぐれている散歩の同行者のことである。
 そろそろあの男に自分を見つけさせないと霊幻もあの男も家に帰れない。霊幻は一人でも家に帰れるが、エクボは自分を見つけるまで帰ってこないからだ。
『おーーい』
 石垣の上でぱかりと口を開き、赤く染まった空へ向けて声を出す。いくつか鳴けばたこ焼き屋に並ぶ人間や、通り行く人間たちがこちらに目をくれた。猫だ、あ、猫だと決まって言う。猫に向かって猫だとは芸がねえだろ、と思うがその声で誰かが立ち止まるようになり、ちょっとした注目を集めるようになる。
 気まぐれに鳴いてやれば、鳴いた鳴いたと言う。
 ――そら猫なんだから鳴くっつの。つーか遅え。
 そうこうしてると自分に構い出す奴が現れる。気持ちは分かるが今は人を呼んでいるところだ。背をちょびちょび撫でるぐらいは構わないが、喉は遠慮願う。鳴きづらい。
『エークーボー』
 遅いという非難を込め唸りつつ鳴きつつを繰り返していると、今度は子供が近寄ってきた。手は届かないだろうが子供は動きが読めない。場所を変えるかと茂みへ降りようとしたところで、突然背後から首を掴まれ、体が地面から浮き上がった。
「っうわ、」
 まさか今の子供か、と思ったが子供の手ではない。大人に捕まったかと瞬間ぎくりとしたが、浮いた体は黒い肩にぺそりと着地させられた。
「声出てんぞ」
 耳元で囁かれた声と知った匂いに、ほ、と息をつく。乗り慣れた肩の上で口を一文字に結んだ。
 自分を肩に乗せた男が集まった人間たちに向き合うと、みなそろそろと離れていった。強面の長身、その上片耳の端が欠けていたらそうなるだろう。立ち去らないのは子供だけだ。エクボは膝を折って目線を合わせた。
「悪ィな、俺様の猫なんだ」
「……撫でていい?」
 子供が問う。霊幻の飼い主一号よりも小さい少年だ。
 エクボが肩の上の自分に目線を寄越す。まあいいか、と霊幻は少しだけ首を伸ばした。
 小さくて体温の高い手が耳と耳の間を撫でる。その手をべろ、と舐めるとびっくりした顔をして、それから笑って去っていった。

「だ……っから何でてめえは毎度毎度はぐれやがんだ」
「仕方ねーだろ、お前と俺じゃ体のサイズが違うんだ。視界から外れちまうんだよ」
 霊幻が入り込んだのは神社だったらしい。今日は屋台が出る日だとかで、人が多かったそうだ。そこを離れ、人気がなくなったところでエクボは霊幻の眉間をぐりぐりと指先で押した。ぶんぶんと顔を振ってその指をがぶりと噛む。
「痛ェ!」
「大げさに言うんじゃねーよ牙立ててねえだろ」
「ちっせえ歯が痛えんだよ」
「はー?ちっさくねえわ。つうかこれからでかくなんだよ。それよりもだ、エクボ。俺はさっき初めてたこ焼き屋を見て気付いたんだが」
「……見たことなかったか?」
「ねえ。お前らが過保護だから」
「過保護じゃねえよ。お前は油断するとすーぐ喋っからだ」
 霊幻はひらがなも読めるし人の言葉も喋ることができる。けれどそれは人に知られるとよくないのではと飼い主たちに止められており、達者な口を外で開かないようにあまり人の多い場所に出してもらえないのだ。
「お前ら以外の前では喋ってねえって。……じゃなくてだな、あの機械が家にもあれば、タコ抜きのたこ焼き作れんじゃねーかと」
 エクボはいくらか意外そうに眉を上げ、肩に乗せたままの自分に顔を向けた。
「タコ抜いてやってるだろ」
「丸のまま食ってみたい」
「丸のままなあ……お前さんにゃ厳しいだろうな」
「何でだよ」
「ベロ出してみな」
「?」
 意味は分からないが出してみると、親指と人差し指で挟まれ反射的に口に引っ込めた。
「何すんだコラ!」
 牙をむいて抗議をしたのに、薄い舌だな、と悪戯成功の顔で笑う。
「あれァしぬほど熱いんだ。丸のまま食うなら二十分は放置して冷まさねえと無理だな」
「……それくらい待つぞ」
 長いが、待てない長さではない。しかしエクボは溜め息まじりに追って言う。
「だがな、冷めるとあんまうまくねえ」
「じゃあどうすりゃいいんだよ」
「半分に割るのが妥当だろうな」
「――半分だって塩分過多だよ」
 後ろからの声に、エクボはぴたりと足を止めた。そろりと振り向くと、険しい視線をこちらに向ける少年が近付いてくる。少年の名前は律という。ちなみに髪が逆立っているのは怒っているからではない。デフォルトだ。隣には、横長のビニール袋を下げた霊幻の飼い主一号であるモブがいた。こちらは髪がすとんと真っ直ぐ落ちている。
「二人ともちょうど良かった。たこ焼き買ってきたから一緒に食べよう」
「霊幻さんは五分の一までだよ」
 釘を刺されたエクボは分かってるって、と両手を軽く上げた。手厳しい少年は今度はこちらを向く。
「芹沢さんにねだるのも」
「へーい……」
 しません、の意思表示をすると、律はスタスタと自分たちを追い越していった。入れ替わりに後ろから来たモブが隣にやってくる。
「あれ?ソースの匂いがする」
「あー、こいつさっきまでたこ焼き屋にいたからだな」
「え、そんなするか?」
「猫のくせに分かんねえのかよ」
「うっせ、染み込んじまうと分かんね……いや、するな」
 意識すれば確かに自分からソースの匂いがしている。ソースは嫌いではないが自分の匂いが違うのは落ち着かない。ならば、とエクボの首筋の匂いをかいでみた。この匂いはいつも通りだ。よしこれだ、とまず顔からこすりつける。額をつけ、頬をつけ、耳をぐいぐいと押し当てる。
「っ、くすぐってえ!急になんだ!」
「動くな、お前に匂い移してるから」
「いててて、爪出てる!スーツと俺様にまた穴が……っつうかお前落ち、」
「あ」
 肩から首に重心を移したはずみで、左の手足がずるりと滑った。しかしこれくらい落下中に体勢を整えればいい、と思った矢先、エクボの両手が視界に入る。
「あっ、手どけろ」
 そういうことをされると逆に難しい。一瞬の動揺で地面が近くなる。
「ちょっ、何して」
「――っ……」
 ぴた、と体は宙で止まった。視線だけ心当たりへ向ければ、モブが右手を開いてこちらへ向けていた。この飼い主一号はなんと超能力者なのだ。
「……シゲオ、俺様も止めてる」
「あ」
 一人と一匹の動きを止めたモブは、まずエクボへの力を解き、それから浮いたままの自分をエクボの手のひらに移動させた。
「……お、おう、サンキュ」
 ――いや、普通に地面に降ろしてくれればいいんだが。
 手の平の上は結構不安定なのだ。だがエクボはふう、と安堵の溜め息なんかをついているから、収まっておかないのもなんかこう、アレなのである。
「もう、びっくりさせないでよ」
「悪ィなあ、こいつがアホなことすっから」
「あ?おめーが余計なことすっから」
「ああ?」
「怪我したら二人で散歩はなしだよ」
「「……」」
 エクボは黙って霊幻を肩に乗せ、霊幻は四つ足でしっかりと掴まった。姿勢良くモブのあとをついて家に入る。
 生まれて間もない霊幻をこの家に連れてきたのは飼い主一号であるモブだった。その後なんやかんやの結果エクボが飼い主二号となったのだが、一号の発言権は強い。
 黙って廊下を歩いている間、再びソースの匂いが漂ってきた。自分からか、モブが持っているたこ焼きからかは分からない。分からないからやっぱりエクボに毛並みを擦りつけた。もう気が済むまでつけろ、と諦めたエクボの手が、背中の毛をわしわしと撫でた。