猫の師匠、影山家へ

 ミルクティーよりももっと薄い、淡い茶色の子猫がやってきたのは五月の半ばだった。クラスメイトが引き取り手を探してて、といくらか周囲の反応を窺いながら、シゲオが小さな箱を居間の真ん中に置いた。律と花沢がまず覗き込み、その後ろから芹沢と自分が首を伸ばす。
「うわあ、ふわふわだ」
「かわいいじゃないか」
 芹沢と花沢の発言に、シゲオは表情を緩めた。大人しくて人懐っこいんだよ、と箱の中の猫に指を差し出す。猫は指先の匂いをかぎ、それから手の平にぐりぐりと顔を押しつけた。にゃあ、と鳴く声はもうシゲオを飼い主と認めたように甘い。さらに指先で喉をくすぐられ、くるくると喉を鳴らす。花沢と芹沢、そして連れてきた張本人であるシゲオが、かわいさに花でも飛ばしたような笑みを零した。特にコメントをしていなかった律もつられて表情を緩めたが、しかしいち早く目元を引き締めた。横目でそっと兄を見て、言いずらそうに口を開く。
「確かにかわいいけど……、僕たちで面倒見られるのかな」
「……うん、それは僕も不安で」
 子猫は律の方へ顔を向けた。それから順々に一人ずつ眺め、やはりシゲオに向かって一つ鳴いた。その声に促されたかのように、シゲオが子猫を手の平に乗せる。猫は小さい身体を丸くし、手首にしがみつくようにするとここがよいのだとばかりに目を閉じた。芹沢は再び猫のかわいさに打ち震え、中学生三人は猫の飼い方について相談し始めた。大人並みの知識がある律と、現実的な対応力が高い花沢の話を、シゲオは真剣に聞いている。だから他の四人は気付かなかったのだ。――猫が一瞬、片目を開けて様子を窺ったことを。
 ――ほォ?
 さっきまで振りまいていた世にも愛らしい姿とは違う。いや違うことはないが、無垢な子猫というよりは、大人の話に聞き耳を立てている狸寝入りの悪ガキだ。猫は三人の会話が気になるようで、エクボに見られていることは気付いていないようだった。
 飼えないこともないんじゃないか、という流れに話はまとまろうとしていた。あとは律が頷けば決定だ。
「そういえばこの子は男の子?女の子?」
「あ、聞いてなかった」
「はは、影山くんらしいな」
 どこで見分けるんだろう、それはやっぱり、と口々に言い出したので、エクボはシゲオの手の平で寝たふりをしている子猫を掴んでひっくり返した。
「オスだな。ほれ、ついてるだろ」
「あ」
 ひっくり返され、まだ長くはない尾の下側へ、みなの視線が集中した。その、直後。
「……〜〜まなーってもんが!あるだろ!」
 この家で聞いたことのない幼い声がはっきりと響き、手の平でくるりと身体を回転させた猫は思いきり、エクボの親指に噛みついた。
「いって!」
「あたりまえだ!おれの牙はだんぼーるもつらぬくんだぞ!」
「お前さては、悪戯が過ぎてもらい手がつかなったクチだな?」
「ちっげーよばか!おれはいたずらなんか……、……あ」
 はっと我に返った猫は周りを見回した。ぽかんと見ている四人を見、大きく開いていた口を閉ざす。そしてもう、どうしようもなくなったのだろう。まったく今更なことに、にゃあ……とぎこちなく鳴いて見せた。人間の言葉の方がよほど流暢に聞こえた。

「話ができるなら、逆にいいんじゃないかなあ」
 その芹沢のひと言がなかったら、話し合いはさらに長引いていただろう。猫は必死でこくこくと首を降っていた。
「言っていることが分かるのと、言うことが聞けるのは違いますよ」
「律は、飼うの反対かな」
「……反対では、ないけど」
「弟くんは心配なんだろ? ちゃんと面倒が見られなかったら、辛いのは猫の方だからね」
 この家は中学生である子供三人と、成人男性二人の五人家族である。人間を含め、生き物を育てた経験のある者はいない。さらには喋る猫とくれば、不測の事態が起きる可能性も高くなる。
 タオル一枚が敷かれた箱の中で、猫は立たせた前足を揃え、ふわふわの毛をまとった体を微動だにさせず会話を聞いている。いい子ですし言うことも聞きます、というのをこれでもかと主張している。
 ――どんなもんだかなあ。
 人間の話が分かり、自分に求められていることも理解できている。大人しく飼いやすい猫を演じるだろう。けれど実際には気も強く自分の意志がはっきりあり、おまけに喋ることまでできる。「いい猫」であることを前提にこの家で飼うことが、この猫にとって幸せなことか分かりかねた。
 噛まれた親指には小さな小さな穴が空いたが、丸く浮いた血はあっさり止まった。噛むなと教えて噛まなくなるもので、最初から人が望むように振る舞う猫などいない。
 続く会話に猫の目線が下がりかけたときだった。シゲオの両手が、猫の身体を抱き上げた。あんなに威勢良く喋っていても、まだ中学生の両手に収まってしまう大きさだ。
「キミは、どうかな」
「……?」
「僕たちは猫を飼ったことがないんだ。頑張るけど、気がつかないことがあるかもしれない。だからできれば、そういうときは言ってほしい。喋れることに頼って申し訳ないんだけど」
 喋ることを知られてからずっと、きゅ、と閉じていた口を開くまでには、少し時間がかかった。猫がおそるおそる、声を出す。
「……いいのか……?しゃべって」
「喋ってくれると助かるし、楽しいよ」
 猫はそれから、律へ顔を向けた。シゲオからも同様に視線を向けられ、ため息をついて猫に返す。
「……まあ、兄さんを噛まなければいいよ」
「オイ俺様は」
「決まりだね」
「スルーか」
「何食べるんだろう、やっぱり魚かな。えっと、好き嫌いはありますか」
「何で丁寧語だ」
 それで?と全員で猫に答えを促すと、え、え、とうろたえながら、シゲオの両手の中から猫は答えた。
「……なんでも、くう」
「なァに急に大人しくなってんだ、さっきの勢いはどうした」
「う、うるせーな」
「エクボは乱暴なんだよ。びっくりしたら誰だって噛むでしょ」
 噛むか?と思ったが言いたいことは分かるので口を噤む。膝の上に降ろされた猫はシゲオから離れようとしない。他の誰かに撫でられることを嫌がりはしないが、シゲオの手が一番のようだ。
「随分シゲオに懐いてんなあ。かーちゃんだと思ってんじゃねえのか」
「へへ」
 照れたシゲオを、猫は見上げた。それからエクボを見、また視線を戻す。白い毛に包まれた丸い手が、もふ、とシゲオのパーカーの腹に当てられた。
「もぶ、じゃないのか?」
「それは学校での呼び方だよ。僕のあだ名。キミの名前も決めなきゃね」
「すごいな。影山くんのあだ名まで覚えてるのか」
「人間だったら営業向きだな。シゲオ見習ったらいいんじゃねーの」
 からかっただけだと分かっているだろう。なのにシゲオは何かひらめいた顔で、そうかもしれない、と力強く頷いた。
「じゃあ、キミは師匠だ」
「?」
「えっ」
「は」
 猫は首を傾げ、律と自分が声をあげた。変化の幅が狭いシゲオの表情に、珍しく何かきらきらとしたものが漂っている。
「だめかな、師匠って名前」
「ししょうって何だ?」
「先生ってことだよ」
「待て、俺様たちも師匠って呼ぶのか」
 言うとシゲオは、そうか、と考えた。
「じゃああだ名を師匠にして、本名はゆっくり考えよう」
「幼名みたいだね」
「ますます人間だな……」
 こうして猫はこの家の一員となり、名前が決まるまではキミとかお前とか、オイだのあのう……だの各人好きに呼ぶこととなり、そのどれにも猫は反応した。反応しつつも、「子猫のよびかたは、ほんとはとういつした方がいいんだぞ」とシゲオにひそりと言っていて、やっぱり師匠だ、などと褒められ調子に乗りながら照れていた。
 ――おかしな関係築いてやがんな。
 まあ好きにすりゃいいが、と見やるエクボにはたっぷり「うるせー」と乗せた視線を薄茶の瞳から返してくる。やはり自分に、猫はかぶらないらしい。


  ◇


 猫は最初こそあまり喋らないようにしていたが、二週間もしないうちに人間の家族と同じくらい話すようになった。なお、マナー違反アタックを食らわせたエクボへの警戒を解くには丸二日を要したが、それが長いか短いかは分からない。エクボとしては案外短いような気持ちである。
 それはともかく喋るということは元々言葉に興味があり、話すことが好きなのだろう。たまに遊びに来る律の友達などがいる前でも普通に話しそうになり、自分で「やべ」という顔をして誤魔化している。
 この家の誰かの友達ならおかしなことにはならないだろうが、外の人間にはそれなりに気をつけた方がいい。本人が分かっているからあえて言う必要もないのだが、自分たちがいないときに、と思うとやや不安である。しかし本当はそんなことを、気にせずいられたらよいのだ。本当は。

「なあ」
「んー?」
 新聞を読んでいたエクボに登り始め、肩まで到着した猫に訊く。この猫は何故か肩に登りたがるのだ。来た頃は綿毛のような軽さだったが、最近はみかんくらいの重さになってきた。
「お前さん喋んなって言われたことあんのか」
「ねえよ?」
 じゃあ何で、とは聞かなかったが、猫はエクボの肩に落ち着いたまま、庭の木を眺めながら話しだした。
「最初は真似しただけだったんだ。でもそのうちうまくなっちまってさ。そしたら、なんか……変な感じになった。人間も猫もな。だからやめたんだ」
「そうか」
「おれはおもしろかったんだけどな。人間が言ってること分かんの」
 瞳が庭木を映せばいつも、あれにも登る、ときらきら光るのに、話す猫は静かだった。人差し指で頬をちょい、と撫でる。猫は指を見てから一拍考え、かむ、と牙を立てずに歯に挟んだ。練習した甲斐あって、甘噛みもだいぶうまくなった。エクボを始めこの家の人間には、言葉が通じる恩恵の方が大きい。
「普通と違うってことに慣れてねえ奴はいるわな。つってもま、それだけのこった。もっと普通じゃねえのがお前さんの飼い主だから安心しろ」
「モブのあれな!ボール浮かせてくれたやつ!またやってくんねえかなー」
「お前さん自分も浮いたのが面白かったんだろ。ありゃだだっ広い場所じゃねえとダメだ」
「ちえ」
 ある日シゲオの部屋から派手な物音がして何事かと駆けつければ、本棚の中身がどっさり落ち、猫とボールが宙に浮いていた。
『喜んでくれたから、へへ……失敬』
 猫が飛び回った結果だったらしい。以降、超能力を使っての遊びは禁止となったが、二人のときにこそこそ楽しそうにしているから、何かはやっていると思われる。皆それに気付いているが、危ないことはしなくなったので、律が焼きもちを焼く以外大きな問題はない。

「お前はなんでびっくりしなかったんだ?」
「何を」
「おれがしゃべったとき」
「いや、驚いたが」
「見えなかったぞ。ふつうに返してきたし」
「あんまり普通に喋るから普通に返したんだろうな。まあお前さんの猫かぶりが怪しいとは思ってたから、喋ったときのが腑に落ちた」
「ふにおちた」
「納得したってことだ」
 よし覚えた、と猫が言う。こうしてするすると覚えていってしまう。こんなに小せえ頭なのになあ、と耳の付け根を撫でると、少し長くなった尻尾が肩の後ろでほんのり揺れた。まだまだやわっこい毛に薄い耳だ。
「でもあれ、おれとしては結構いい出来だったんだぞ。かくじつに引っかかると思ってた」
「お前さんほんとに子猫か」
「親猫に見えるのか?」
「口の減らねえ……」
 へへ、と猫が笑う。他の家族の前でももう取り繕ってはいないが、エクボの前では一番遠慮がない。
 猫の演技は実際いい出来だった。エクボが気付いたのは猫が片目を開けたからで、そうでなければ猫とはこういうものかと納得していただろう。
 かいぜんのよちありだな、と生まれてまだ三ヶ月も経たない子猫が言う。
「でももう、必要ねえだろ?」
 言うと、毛並みと同じ薄茶色に光る目がこちらを見つめた。シゲオに抱き上げられ、キミはどうかな、と聞かれたときと同じ目だ。
「猫が猫かぶんなくてもよ」
 濡れた目がぱちんと開かれたままなので、うりゃ、と喉を掻いてやる。
「なん、なんだよ、」
 そう言いながら喉はくるるると鳴る。
 肩から降ろして全身を両手で揉むように撫で回すと、やめろおと言いながらも笑って手足をばたつかせる。するりと手から抜けた猫が勢いをつけて飛び上がる。胸元へ激突せんとする毛玉を捕まえて、あぶねーなと笑う。
 日中一緒にいる時間が長いせいだ。たまたま面倒を見ているだけで、猫もたまたまエクボを構う対象にしているだけ。ついでに言えば子猫とはかわいいものと相場が決まっている。
 だからとんでもなくめちゃくちゃかわいがってるわけではないのだ――と言い訳が必要なくらい、エクボにはこの喋る猫がかわいかった。


  ◇


「僕がいない間、随分仲良くなったね」
 三日間の連休中、合宿に行っていたシゲオは自分たちを見て言った。あぐらをかいた脚の間では、猫が丸くなって眠っている。
「……昼間は俺様一人だから、そりゃ多少はな」
 エクボの仕事が夜間警備のため、猫がやってきた翌日から日中の遊び相手兼躾――特に人を噛まないことと甘噛みについて――はエクボの担当となっている。最初に噛みついた経緯もあり、この猫が一番猫かぶりを忘れる相手であるからだ。何よりエクボは体が丈夫だ。
 猫は遊び道具を持ち出すと興奮する。興奮して、エクボを噛む。その結果生傷が絶えなかったのだが、この数日で少しだけ減った気がする。それに比例して、エクボの側で眠ることが増えた。単純に遊び疲れてそのまま寝落ちているだけなのだが。
 話し声で目が覚めたのか、猫の耳が小さく跳ねた。あくびをして、脚の間で器用に伸びをすると、ん?と斜め上を見上げる。
「ただいま、師匠」
「……モブ、かえってきたのか!」
 シゲオを認識すると、ぴょいと飛び起きて足元にまとわりついた。足の間を縫うようにうろちょろし、右足に身体、左足に尻尾を絡みつかせ、今にも踏まれそうなことなど気にもしていない。この猫は飼い主が純粋に好きで、そしてシゲオも歩きにくいことを嬉しそうにしている。花でも咲きそうな相思相愛だ。
「さてと、俺様はそろそろ行ってくるぜ。芹沢と花沢は買い出し中で、律はそろそろ帰ってくるだろ」
「あ、うん、行ってらっしゃい」
 足元で転がる猫を撫でながらシゲオが答える。エクボが出勤するとき大体何か声をかけてくる猫は今、三日ぶりの飼い主の手にじゃれるのに夢中だ。
 ――ありゃシゲオしか見えてねえなあ。
 飼い主不在で寂しかったのだろう。合宿って何するんだ、と聞く以外何も言わなかったが、この家に来て二週間程度だし、まだ子猫だ。甘噛み練習中もこれまでより素直で、加減が出来なかったときもごめん、と素直に謝った上、なんと傷跡を舐めてくれた。舌がちょっと痛かったが、尻尾の先がふわふわとエクボの手に当たっており、かわいさゆえの震えというものをエクボは初めて体験した――などと。本来の飼い主にバレるのはまことに恥ずかしいので、猫を猫可愛がりしていることは黙っていようと思っている。



 朝方仕事から戻り、入れ違いのシゲオたちを見送ってから風呂に入る。それから昼まで寝て食事をし、夜になるとまた出勤する。これがエクボの生活の基本形だ。
 帰宅後の風呂はエクボにとって一日の終わりの入浴だが世間で言えば朝風呂で、実際朝風呂の気分も味わえるから悪くない。制服で凝った肩は楽になり、消灯したビルの中や夜闇ばかりを見てきた目に、窓から入る光は清々しい。
 湯船に入ってくつろいでいると、かりかりと扉をかく音が耳に入った。猫だとすぐに分かったが、扉で爪研ぎをしないことは覚えたはずだし、爪研ぎにしては音が小さい。
「どうした、メシか」
 声をかけると、半透明の扉の向こうに浮かぶ薄い茶のシルエットが返事をした。
「メシじゃない」
「風呂入りてえのか?」
「おそろしいこと言うな」
「じゃあなんだ」
「……」
 シルエットが僅かに揺れた。扉の下に手をついたらしい。肉球が透けて見えたが、水の気配が嫌なのだろう、すぐに離してぺぺぺと手を振った。普段は湯気で曇るそれにも触れたがらないのに珍しいことだ。なあ、とも、にゃあ、とも聞こえる声のあと、猫の言葉は続いた。
「まだ、出ねえの?」
「……」
 一瞬ぽかんとしたが、すぐに理解した。口の端が緩む。
「あと十は数えねえと風邪引いちまうなあ」
「かぜは、困るやつだな」
「そうだ」
「ろとうにまよう」
「……誰だ教えたの。まあ、ことによっちゃあそうなるが」
「なら十まっててやるから、エクボ」
「……」
 ぱち、とエクボは目を瞬かせた。
 ――こいつ、初めて俺様の名前呼んだんじゃねえか?
 少なくとも自分の前では呼んでいない。おお……とちょっとした感動を覚えていると、猫は言った。
「早く出て、早くあそぼうぜ」
 猫撫で声じゃない猫の声がかつてこんなにかわいいことがあったろうか。睡眠を後回しにして構えという声が。
 平静を装っておう、と返事をしたものの思わず浴槽の湯に顔をばしゃんと沈めると、どーした!と猫が慌てた声を上げた。