猫の師匠、名前をもらう

 斜向かいにある小さな祠から、シゲオが公園内に戻ってきた。
「お祈りしてきたよ」
「見つけるたびにまめまめしいな」
 外に行きたがる猫を連れて、今日は三回目の散歩だ。言葉が分かる猫はテレビも見るので、日々外の世界に興味を募らせている。
「だって師匠はまだ子猫だし」
 祈願の内容は専ら、猫が元気に大きくなりますように、らしい。願われている当の猫は現在、滑り台の傾斜を下から登ろうと奮闘中だ。勢いをつけ駆け出し、ワンツーで四つ脚をついたまま滑り落ち、しかし負けずに挑戦を繰り返している。人間三人はそれをベンチから見守りつつ、ペットボトルを片手にのんびりと喋っている最中である。
「シゲオが祈るからああなんじゃねえのか?元気有り余ってんだろ」
 猫はさらに助走距離を設けて走り出した。そのうちバク転でもするんじゃないだろうか。
「そんな霊験あらたかな神社行ったかな。そういうところは人が多いし」
「……れいげん……?」
「願いを聞き届けてくれる力が強いってことだ」
「さすが律は難しい言葉知ってるなあ」
「そんなことないよ」
 照れた弟が首の後ろを掻く。兄以外にこんな可愛げのある態度を取るのを見たことがない。
「まあそこまで本気なら、そういう神さんのところに行ってもいいんじゃねえか」
「最近は住所氏名電話番号まで唱える方がいいって聞いたよ。なんなら言ってみてもいいかもね」
「師匠が?」
 ん?と三人の間に沈黙が生まれた。本来浮かぶはずのない疑問である。
「……ええと、心の中で唱えればいいんだと思う」
 その通りだ。参拝客だって手を合わせながら個人情報を口にしたりはしない。
「でもなあ……」
「無理だろうね」
「僕の服の中に入れれば、僕が喋ったように見えるかも」
「二人羽織なのか腹話術なのか微妙なところだな」
 ともかくもう少し落ち着いて、ぺろっと喋ってしまう癖が治ってからだ。
「でも近くにあったらいいね。師匠喜びそうだし。その、れいげんあらたかな……あ、」
 不意にシゲオが言葉を切った。何かと顔を見れば、既視感のある表情をしている。律もまた、まさか、という顔で笑顔を固まらせていた。
「れいげんあらたか、って名前どうかな」
「え、ええ……」
「師匠の次は霊験あらたかってお前……」
「縁起が良さそうだし、師匠は頭がいいから」
「頭がいいのと縁起がいいのは関係な……」
「それになんとなく、かっこいいと思う」
 ――あー……決まった。
 なんとなく、の癖に決めると譲らないのだ。しかしシゲオには飼い主として命名する権利があるし、名前として不適切でもない。むしろ良すぎる。
「……ま、シゲオがいいならアイツも、……?」
 滑り台の下方に目をやったエクボの口から、続くはずの言葉が途切れた。すぐに立ち上がり視線をぐるりと一周させるが、いるはずの姿が見当たらない。
「アイツどこ行った」
 この公園は滑り台とベンチがあるだけで、一周するのに何分もかからない。大人であれば簡単に見渡せる。
 ベンチは公園入り口の真横にあり、その奥に滑り台がある。猫が自分たちをすり抜け、公道に出たとは考えられない。公園を囲う柵と、入り口からは出るなと言ってある。あの猫はそういう約束は守るので、目を盗んで抜け出た可能性はないと言っていい。
「か、カラスに攫われたとか」
「あの口が黙ってねえだろ、いくら外では喋るなったって」
「待って、穴がある」
 律が言った。指差す方を見れば、柵が一部破れている。子猫なら簡単にくぐり抜けられる穴だ。
 穴の向こうは一軒家の裏手で、敷地を囲うブロック塀と、そう高くはない木が一本植えられていた。繁った葉の間から、オレンジ色の実が見える。枇杷の木だ。
「人ん家じゃねえか、アイツ……」
「決まったわけじゃないけど、行こう」
「……シゲオ、大丈夫か」
 飼い主である中学生は、きゅ、と口を結んでいた。さっきまでうろたえていたが、うん、と頷く。
「大丈夫、師匠は強くて賢い猫だから」


  ◇


 ぽってりと丸い、オレンジ色の実が地面に落ちている。
 ――これ、びわってやつじゃねえか?
 テレビで見たのだ。オレンジ色をしているが、みかんでもオレンジでもない。まん丸より少し長く、片側が細くなっている。
 びわ、という果物はこれから食べごろらしい。お、いいねえ、と一緒にテレビを見ていたエクボがおっさんぽく言っていた。
 滑り台登りをしている最中だった。オレンジ色の実が地面に落ちているのが見えた。途中草がぼうぼうと生えていて邪魔だったが、すぐそこだったのでやってきたのだ。
 実に鼻を近づけると、甘い匂いがした。かじってみようかと口を開けたが思いとどまり、手で押してみる。見た目よりも重かった。ふむ、と考え、地面に落ち着くそれを見つめた。
 ――あいつらみんなで食うには足りねえな。
 顔を上げると、大きな木には同じような実がなっていた。
 あの家には人間が五人いる。兄弟なのはモブと律だけで、あとは兄弟でも親子でもないらしい。よく分からないが五人で住むことになったから、五人家族みたいなものだと言っていた。
 だからあの実も五個落ちてくるといいのだが、そう都合よくいかないだろう。木の周りを回り、幹と高さを確認する。登れないことはなさそうだ。木に爪を立てる。

 自分にも、生まれた家では兄弟がいた。毛の長さは大体同じだったが、もっと色が濃かったり、トラ模様があったりしたが、自分には特に模様もなく、色も一番薄かった。しかし歩けるようになったのは一番早かったし、人間の顔を覚え、何を言ってるか理解できるようになったのも一番で、言葉を真似できるようになったのは自分だけだった。
 かわいいかわいいと、生まれたばかりの自分たちに、人間たちは言ってきた。トイレはここだとか、エサがどうとか色々教えてくれた。人間たちは猫がそれを覚えればいいらしく、特に話をすることは求めていないようだった。が、人と同じように話ができたら面白いと思った。話しかけてくるんだから返事をしたかったし、自分の話も聞いて欲しかった。だから言葉を覚え、発声の練習をした。
 ――なにせおれは天才だからな。
 だから、天才は普通と違うから、きっと彼らはエクボが言うように『慣れない』人間たちだったのだ。生まれ持った毛並みが良く、模様や色が人目を引き、さらに無邪気でかわいい――彼らが思う子猫の魅力とは、そういうものだったのだろう。
 喋らなければ自分は、普通の子猫だった。普通の猫でも充分かわいがってくれた。それでも良かったけれど、少しだけ物足りなかった。もっとやればもっとできるのにな、と思った。

 今の家では好きに話すことができる。あそこの人間たちは喋っても困った顔をしないし、普通に話してくれる。うっかり噛みついても、それはだめだと普通の言葉で教えてくれる。
 でも、猫の自分がヒトと喋れることで何かが起きるかも、という心配もしている。
 言葉を理解し、話せることを「助かる」と初めて言ってくれたのはモブだった。第一声から普通に言葉を返してきたのは――本人は驚いたらしいが――、エクボだった。律は全体的に厳しくよく小言をくれるが、撫でるときだけは静かだ。あの家で一番そっと自分を撫でる。花沢はまるで普通で兄弟みたいだし、芹沢は何故か口調が丁寧で、たまにトーク集から言い回しを教えてくれる。
 あの五人に自分のせいで「何か」が起きるのはいやだ。だから外では気をつけている。考えながら歩いていると咄嗟にヒトの言葉が出てしまうので、なるべく景色を見るよう心がけていて、……それで。
 ――ここ、公園じゃねえな?
 びわを見つけたからびわの元に来ただけだ。それが何故、公園ではないところにいるのだろう。木の上にいるのは自分のせいだが、公園の柵から出た覚えはない。
 枝の上から周囲を見渡すと、滑り台が目に入った。遠くにきたわけじゃない、と分かってほっとする。あそこまで戻ればいい。枝から飛んで、塀を越えたら茂みに着地する。
 ――やくそくは、守らねえと。
 とにかく早く戻ろうと、枝の先に足を踏み出した。枝が小さな音を立てる。それに瞬間足を止め、しかし進もうとしたとき、大きな声に再び足を止められた。

「れーげん!」

「――……?」
 れーげん、の意味は分からなかったが、エクボの声だった。視界に長身の黒いスーツが映り、反射的に振り返りながら口を開く。
「エクボ!な、……」
 なんでお前がここにいんだ、とすべて言いきる前に止められたのは不幸中の幸いだった。
 振り返った先に、確かにエクボはいた。しかしエクボより手前に知らない人間がいる。それが長身スーツの正体だった。
 ――やっちまった。
 知らない男はぎょっとした顔でこちらを凝視している。その奥ではエクボが、あーという顔で額を押さえていた。そうだ、エクボは今日はスーツじゃないのだ。あの家で黒いスーツを着るのはエクボだけだから、つい反射で思い込んでしまった。
 逃げた方がいいのか、どうするべきか、動けずにいるとスーツの男は首を回し、周囲に目をやった。声の主がほかにいないか探しているのだろう。逃げるなら今だ、と枝の上を後ずさる。その時、今度は少し高い、子供のような声が飛んできた。
「エクボ!」
 ――??
 エクボも、その男も振り返る。ついでに自分も首を傾げた。
 ――おれ?じゃねえよな?
 視線の先にはモブと律が立っていた。モブも驚いているから、今の声は律なのだろう。律以外の全員が驚いているから、とも言える。律はにこりと笑った。
「腹話術だよ兄さん、驚いた?」
 ――うわ、顔がぎこちねえ。
 笑顔は完全に余所行きで、頬も強張っている。しかしエクボが即座に反応した。
「オイオイ、外ではやめろっつったろ〜」
「そ、そうだよ、やめてよ律」
 練習は家でやれっての、なあ?と演技がうますぎるエクボと、弟以上にぎこちないモブが笑い、首を傾けた男がもう一度こちらを向く。
「ニャァ、ニァ」
 枝から降りれません、と訴えるような渾身の猫らしい鳴き声で鳴くと、まだ狐につままれたような男と自分の間に、エクボが割って入ってきた。伸びてきた手に向かって幹をそろそろ伝い降りると、両手で受け止められたあと、胸の辺りに降ろされた。エクボの手は大きいから、身体に挟まれた自分はほとんど隠れることになる。
「ったくおめーはどこほっつき歩いてんだ」
「突然すみませんでした、うちの猫が」
「……ああ、いや、見つかって良かったね」
 モブがぺこりと頭を下げた。突然すみませんなのは余程腹話術の方だろうが、相手が子供だからか、男は戸惑いながらも穏やかに返す。突っ込まないことにしたのだろう。
「それじゃ、お邪魔しました」
 三人が挨拶をし、家の門から外へ出る。
「怪我してない?」
「してなさそうだな」
 その会話にも、まだ庭にいるかもしれない男にはっきりと聞こえるよう、にゃあにゃあと鳴いて答える。数分歩いてからようやく、もう平気だぞ、と小声で言われ声を止めた。エクボの腹に潜るように丸くなる。
「……どうした、降りるか?」
 ふる、と首を振る。いつもなら自分で歩くか肩に乗るのだが、その気にならなかった。手の中から、視界に映る景色を流れるまま、ただ眺めていた。



 家に入り扉を閉めると、三人は脱力して靴も脱がず、玄関に座り込んだ。
「律……!!」
 モブが律に抱きつき、エクボが大きく息を吐き出す。
「ナイス機転だったな」
「腹話術の話をしてたからだよ……。できれば忘れてほしいんだけど」
 両手を玄関マットにつき、はあ、と天井を仰ぐ律に近づくと、兄より切れ味のある顔がこちらを向く。
「ありがとな」
「……だから忘れてほしいんだってば。苦し紛れが過ぎて恥ずかしい」
 ふい、と横を向く耳の端はほんのり赤い。態度ほど嫌われていないと思っていたが、まさかあそこで庇ってくれるとは思わなかった。
 ――『喋れることがバレて、何かあったら』。
 何があるのかは分からない。でも、よくないことは分かる。さっきの男は多分いい方だ。驚いただけだったのだから。
 でもこの家で、人と話すことに慣れてしまったから、忘れそうになる。
 ――猫は、喋れなくっていいんだよな。
 この家の中が、特別なのだ。
「外にいるときは、気をつけるな」
 律に、というより三人に向けて言うと、上からエクボの手ががしがしと頭を撫でた。
「いて、っおい、つぶれる」
「おうおう充分気をつけろ。明日から俺様が引っかけてやる。服と声色変えてな」
「エクボのそういうの師匠に教えないでほしいんだけど」
「飲み込みが早そうで心配」
 迷惑そうに言う兄に続き、律がぼそりと呟いた。エクボはそれに構わず口の端を上げて笑う。
「良かったなァ、見どころあるってよ。知恵はいくらあったって困らねえんだぜ?」
「知恵っていうか……、あ、師匠に大事なことがあったんだ」
 呟いたモブが、開いた両手を自分に向けた。顔を見ながら、吸い寄せられるようにその中へ収まる。まだ小さくて柔らかいのに、ここの中はいつも不思議に安定した。
「師匠の名前、さっき決めたんだ」
 そういえば「師匠」は仮の名前だった。そうだったな、とぼんやり頭の中で返事をする。
「師匠の名前は、れいげんあらたか、だよ」
「……れい……?」
 ぼんやりしていたせいか、一度では覚えられなかった。聞いたことのない音の並びだったし、人の名前みたいに長い。
「霊験あらたか、ってね、神様の力が強いことを言うんだって。だから、きっと師匠の事を守ってくれるし、れいげんあらたかって、かっこいいと思うんだ」
「……」
「いいんじゃねえか? ちっせえのに偉そうなお前さんぽくて」
 脳みそと舌は神がかってるしな、とエクボが言う。そうか、さっき聞こえた「れーげん」は自分のことだったのか、と理解する。
 探して、庇って、連れ帰ってくれた。それが今になって、急にじわりと広がる。
「……師匠?えっ、嫌だった?」
「なんだ?一丁前に感動して泣いてやがんのか」
「っないてねえ」
 頬をつつく指に噛みつくと、いてェ、とエクボが口を曲げた。
「今のはわざと牙立てたろ」
「うっかりだ。おれまだ子猫だから」
「……コイツ絶対ェ俺様より口回るようになるぞ」
「師匠は賢いからね」
「れーげんあらたかだからな」
 言うと、ふふ、とモブが笑った。撫でられると喉が鳴る。ぐるぐる鳴らしながらふと目を開けると、エクボと目が合った。すぐにからかうような視線を向けてくるので、んべえ、と舌を出すと、エクボも手を伸ばしてくる。じゃれているうち他の二人が帰ってきて玄関が満員になった。
 その晩、れいげんあらたか、の名は改めてお披露目されたが、呼び方はれいげんさん、れいげん、名付けてくれたのにやっぱり師匠、とみなそれぞれで、しかしどの名前で呼ばれても全部洩れなく返事をした。
 ――おれは天才だからな。
 名前のとおり本当に強くなって、全員まもってやるから安心しろ。
 心に誓って、また自分を呼ぶ声に振り返った。