平日の朝一番、エクボは猫を連れて調味市内の文化センターに来ていた。本当は県内でもっとも高い文化タワーに行きたかったのだが、ペット同伴不可とあり、やむなく市営の展望ラウンジへやってきたのである。
タワーを希望したのはもちろん猫である。人の肩から箪笥に本棚、木の上など、基本的にこの猫は高いところへ登りたがる。多くの猫はひょいひょいと高いところへ上がるようだが、この猫曰く、
『男と生まれたからには、てっぺんめざしてなんぼだろ』
ということらしい。何かのドラマで覚えた台詞と思われる。それ自体はエクボとしても頷くところであり、シゲオにしーんとした視線を寄越されはしたが、そのガッツは好ましい。
七月に入り、夏休みを前にテレビでは文化タワーの展望台が紹介された。それからずっと、おれもおれも、と家族全員に訴えていたが、しかしまだ落ち着きのない猫である。人が多い土日はリスクが高く、中学生三人と芹沢は平日昼間に外出はできない。となると、連れていくのはシフト制・基本夜間勤務のエクボだった。
「いいか、絶対に一人でどっか行くなよ」
「おう」
「俺様の懐からも」
「出ない」
「人がいるときは」
「しゃべらない」
「本当に分かってんだろうな?」
「もちろんだ!」
「声がでけえ!」
しーと人差し指を立てると、猫は慌ててエクボの服の内側に潜り込んだ。腹の辺りで動く子猫の体がこそばゆい。
この日のために、エクボはファスナー付きの服を買った。半ば買わされたとも言える。猫を格納するためだ。
電車移動の際はケージを使用し、展望台に上がるまで猫はその中に入っていた。けれど数分だけでもケージの外から直接見せてやりたい、というのは影山家の総意で、結果、猫を入れられ、かつ顔を出せる服を着用することとなった。服の内側にポケットはないので下から滑り落ちないよう、また、上からまろび出ないようエクボには注意が求められる。ちなみに前ポケットも試してみたが、身を乗り出せば落ちるまでに成長していたため、しみじみと撫でた結果内側へしまうことになったのだ。
好奇心旺盛な子猫はとにかくよく動き、よく喋る。時期尚早だったかもしれないが夏休みに来ることは避けたく、かといって休み明けまで我慢させるのも、と思うと今しかなかったのである。
まだフロアに人がいないことを再度確認し、服の内側から自分を見上げている猫に再び注意を促す。
「よく聞け、てっぺん見てえ男は慎重でなきゃならねえ」
こくこく、と猫が頷く。
「野心と情熱は胸に秘めておくのがかっけえんだ」
「おとなのおとこだな」
「そういうこった。とにかく大人しくしてろよ。そうすりゃお前さんが飽きるまで見てられるんだからな」
「わかった!」
「……」
俺様はお前さんが我慢できねえことが分かった。エクボは黙って頷き、うずうずと足裏を押し付けてくる猫を抱き直した。
多くの展望スペースがそうであるようにこの展望ラウンジも円形となっており、西から北、東までの三方向から景色を望むことができる。西側の行き止まりにケージを置き、猫を抱いたエクボはゆっくりとガラス窓に沿って歩き出した。開いたジッパーから顔を出した猫は、目を見開いて広がる景色を見つめている。遠くに小さく見える山を見、空を見上げ、下をじっと見下ろしては片手をもそもそと動かした。動く車に手を出したいのだろう。
丸い後頭部は右に、左にと動き、開いた耳はアンテナのように視線と同じ方を向く。自然とエクボの腕から伸びあがっていくのを抱き降ろしても文句は出ない。でもすぐに服からはみ出ていく。磨かれたガラス窓には猫の毛の一本ずつが映り、明るい茶の瞳も透明な丸みもそのままに映っていた。ついでに自分の顔が緩んでいるのまで見てしまい苦笑する。
喋るのも忘れて景色を見つめていた猫は何かを発見したらしい。こちらへ顔を上げ、辺りを見やる動作をして、もう一度エクボを見る。人がいるかと聞いているのだ。まだ小さい顔にクリーム色の耳をぴんと立て、大きい目を好奇心いっぱいに見開いて、やわっこい毛玉がまるで探偵のようにしている。
うちの猫は、世界で一番かわいい。真顔で思う。かわいいだけではない、賢さも世界一だ。間違いない。喋っていいぞ、と小声で言う。
「あれ、ぶんかタワーか?」
そろりと出した白い手の先には、逆台形の展望スペースを指輪のように嵌めた、尖った建物がある。周囲から群を抜いて高い。
「お、よく分かったな」
「こっから見ると小さい」
「足元から見るとでけえぞ」
「そうなのか」
「今度足元まで行ってみるか。上までは登れねえが、それはそれで観光旅行だ」
行く、と答えた猫の尻尾がたしたしとエクボを叩く。興奮なのか嬉しいのか体を擦りよせてくるのをどうどうと宥め、案内図のある場所まで歩く。
「あそこに青い屋根の家が三つあるの見えるか?」
「見える」
「屋根の斜め右に、煙突があるだろ。煙突っつうのは……真ん中に穴が空いた細長い棒だ。今は大分減ったから目立つ。あの煙突と青い屋根の真ん中に、商店街がある。お前さんも通ったことがある商店街だ」
「まつむらしょうてんか」
ふは、と笑いがこぼれた。シゲオと律が駄菓子を買った店が松村商店で、猫の中では商店街イコール松村商店なのだ。
「松村商店を超えて、米屋を過ぎたら右が川で、ざっと左側が俺様たちの家……どうした」
服から身を乗り出し、ガラスに顔をつけんばかりにしていた猫がこちらに顔を向けている。丸い手を二つともシャツに引っかけて。
「……なあ、もっと上から見たい」
「上?……あー、上な」
普段ならとっくに肩に登っているだろう。少し考えたが猫自体許可はされているし、人が来たらすぐに降ろせばいいかと体を持ち上げた。わ、と猫は小さく声を漏らしたが慣れたもので、四つの足は危なげなく肩の上でバランスを取った。とはいえ落ちないよう、一応やんわりと支える。
――また少しでかくなったな。
重くなったし、前より顔の位置が高い。エクボの頬に当たる毛は変わらずふわふわしているが、体つきはしっかりしてきた。
「……いえは、いっぱいあるんだな」
自分たちの家がある方向を見つめていた猫が呟いた。声に自分で気付き、はっとして左右を見回す。近くに誰もいないことは確認済みだし、それくらいなら聞こえないだろう。大丈夫だと体を撫でると、猫は首を回して手のひらに頭をぐいぐい擦り付けてきた。これが案外力が強い。もっと撫でろと仕草で示す猫に苦笑し、体を支えながら、耳の付け根や丸い頭を撫で回す。
「満足したか?」
「んん、まだ」
撫でてほしい場所に自ら体を押し付け猫が答える。でも服の中でもいい、と言うので軽く前を広げてやれば、すとんとそこに潜りこみ、ぴょこりと頭だけ出した。随分慣れたものだ。
そうして景色を指差しながら中学生たちの学校、大人たちの勤め先を教えているうち、親子連れがエレベーターで上がってきた。猫は腹の辺りまで潜って身を隠したが、子供の視線が何故かエクボの腰周りに吸い寄せられている。見れば、クリーム色の尻尾の先が裾からはみ出ているではないか。コイツも俺様も詰めが甘かった、と指先でつつくと尾は勢いよく引っ込んだ。笑う家族に軽く片手を上げ、ケージを置いた場所まで戻る。
「降りていいぞ」
エクボが膝をつくと、手すり下に置いたケージに猫は自ら入った。が、開いたままの扉を不思議に思ってか、顔だけ出してエクボを見上げる。周囲から隠すように立ってにやりと笑って見せれば、猫は目を丸く広げ、その場で前足を立て行儀良く座った。ケージの中でぱたんぱたんと尻尾が揺れている。数ヶ月後なんかじゃなく、今日、今、連れて来て良かった。
展望ラウンジ見学は何事もなく終わった。想像していなかったほど順調だった。市民センターの庭で昼食を取り、まだ明るいから散歩でもするかと二駅手前で降りる。移動中ケージで一眠りした猫は元気で、石垣に乗ったり道路に降りたり、初めて通る道を弾むように歩いていた。
「なあ、エクボはモブにもらわれてきたのか?」
足元から唐突に問われ、エクボは吹き出した。
「もらわれてはいねえな……、成り行きっつうか」
シゲオに会ったのは、自分の力を大いに振るっていた頃だった。力比べの結果エクボはシゲオに敗れ、その力に惚れ込んだ。エクボのスカウトに色よい返事は今ももらえていないが、とりあえず防犯的にちょうどいいからという理由で家に居つくことになった。花沢も芹沢も、あの家にいる理由は似たり寄ったりである。
「ひとまず間借りしてるってとこだ」
「ひとまず?」
「シゲオが大人になりゃ俺様がいる必要はねえからな。そうしたら出るかもしれねえが――」
くん、と裾を引かれた感覚に足を止め、下を見る。猫とばっちり目が合った。猫は後ろ脚二本を伸ばし、エクボの膝下に両手をかけて掴まり立ちをしている。
「エクボ、いなくなるのか?」
「今すぐの話じゃねえよ。決めてるわけでもねえし」
「なんで……?」
「なんでってまあ、いつまでも世話になってるってのもなあ」
「モブがだめって言うのか?」
「言われてはねえよ。けど大人として対面がだな……。つうかお前さんここ一応外だからな」
猫と立ち話している自分が不審者通報されてしまう。そう、しゃがみ込んだとき、
「おれ、モブにそーだんしてやる!」
猫はたん、と地面を蹴り、エクボの肩に乗るとそのままフェンスへ飛び、一瞬にして木の上まで移動した。
「おい?」
「まってろ!」
「いやおい、霊幻! 待て!」
樹上の猫は素早く周囲を見渡すと、目的を定めて飛び降りる。姿が消えるまで十秒もかからなかった。消えた先には、煙突が見える。展望ラウンジで教えた煙突だ。
――アイツ、すげえな。
呆然としながら感心し、しかしすぐに我に返って走り出した。電車か、タクシーか、それともこのまま走るか。猫より先に家に帰らないと、不要な騒ぎを起こす気がしてならない。
◇
結局走って帰ることを選び、信号で止まっていたエクボの携帯が震えた。汗を拭いながら取り出し、表示された名前につい呻く。シゲオだ。
猫がいないことに気付かれたらまずい。この世から消される。しかし、もし迷い猫の情報でもシゲオが掴んでいたとしたら。
「……おう」
『エクボ、師匠は? 今一緒?』
どう答えるべきか。瞬間の迷いはあっさり伝わってしまった。
『答えないってことは、まだ会ってないんだね?』
「……まだ?」
『師匠、さっき家に帰って来たんだ。でもエクボに伝えてくるって、すぐ飛び出しちゃって』
言われて天を仰ぐ。
――速ェなオイ。
子猫とはそんなに速く移動できる生き物だったろうか。いや、それより。
「……家から出たのか……」
『エクボを探しにね』
「俺様が悪ィ。探して戻る」
展望ラウンジ見学を無事済ませることが今日最大の目的だった。それを達成したというのに、まさかここではぐれるとは。あの猫のことだから迂闊なことはしないだろうが、夜になれば暗くなるし、やはりまだ子猫なのだ。外にだってそれほど慣れていない。
悪い、ともう一度低く言う。
『僕も行くよ』
「いや、シゲオは家にいてくれ。また戻ってくるかもしれねえし、お前がいた方がいい」
『じゃあ、律と花沢くんにも探してもらう。見つけることさえできれば、念動力で止められるから』
「頼む」
じゃあ、と言って通話を終えた。それなら別れた場所まで戻った方がいいだろう。去り際に言った「待ってろ」は俺に任せろの意味だろうが、あの場で待ってろ、の可能性もある。猫扱いをした方がいいのか人間扱いをした方がいいのか、とりあえず思うことは。
「携帯持たせてえ……」
自分のそれをポケットに突っ込み、ため息混じりの呟きを地面に落とした。
辛子公園に、猫がやけに集まっているらしい。
情報は花沢からだった。帰宅途中のシゲオから連絡を受け、自身も探しながら、ガールフレンドたちに情報収集を頼んだらしい。さすがである。
丈夫で体力もあるのは今日のためだったのかと思うほど走り続けているが、初夏の午後にランニングはきつい。自販機で買ったスポーツドリンクを一気飲みし、息を整える。
――熱中症になんかなってねえだろうな。
猫がなるかどうかエクボは知らない。遊びたければ遊ぶ、休みたければ休む、という猫ならいいのだが、あの猫は夢中で走り回って己の体調に気づかない可能性がある。ケージを持っては走れないから細い路地の隙間に一旦置いてきたが、使わないで済むことを願うばかりだ。
『大丈夫、師匠は強くて賢い猫だから』
シゲオの台詞が頭をよぎる。一度深呼吸をして、空を見上げた。日差しはそこまできつくない。緑には勢いがあり、木陰は多い。影に入ればいくらか涼しい。
――本当に危ないことはしねえ、はずだ。
外を歩いてもいいが、してはいけないことはよくよく言い聞かせてある。暗くなる前に帰ってくる、という約束を破ったこともない。あの猫は何故それをしてはだめなのか、ちゃんと分かっている。
何せれいげんあらたかという立派な名前がついた猫である。シゲオの元にやってきたというだけでも強運だ。汗をぬぐって、公園を目指す。幸いなことにエクボが一番そこに近い。
公園に近づくにつれ、猫の気配は増えてきた。エクボは超能力者ではないが、場の空気や違和感に対して敏感だった。不思議と勘が働くのだ。だから夜警という仕事をしている。主な理由は時給の高さだが。
敷地に入ると、猫の長く伸びる声がした。何かを訴えるようにしきりに鳴いている。一匹だけではない、集団の気配だ。
――いた。
ジャングルジムの一角で、薄茶色の子猫は鳴き続けていた。怪我がない様子にまずはほっと息をつく。どうやら遠巻きにしている猫たちに何か語りかけているようだった。遊具の下には十数匹が集まっていた。
霊幻の近くには、一匹の太った猫が立っていた。少し離れた場所に数匹固まっているグループは霊幻と相対するように向き合い、太った猫は双方に目を向け顔を左右させている。
霊幻が鳴くと反対側の猫が鳴く。声からして、おそらく年寄り猫なのだろう。その側にいた若い黒猫が、霊幻に向かって歩き出した。尾を立て、威嚇するような歩き方に、エクボは腹の底から声を張り上げた。
「霊幻!」
びくっと跳ねた猫たちは一斉に散っていった。太った猫は逃げ足が遅かったが、それでも茂みへ身を隠した。
そして肝心な自分の猫は。
「エクボ!」
一声叫んで駆け出し、胸元へ飛び込んできた。抱き上げて、背中をがしがしと撫でる。
「ばかやろう、探したんたぞ! すげえさがした!」
「悪かった、動いた俺様が悪かった。怪我ねえな?」
ねえよばか! とまた馬鹿馬鹿言われる。しがみつく手から爪が出ていて痛い。でも離せとは言えないし言う気もない。いつも白い手の裏側は真っ黒だ。本当にどこにも怪我などないか、撫でながら全身を確かめる。猫はそんなエクボの手の動きなど気付いてもいない様子で熱く訴える。
「おれ、すぐさっきのとこに戻ったのに」
「お前さんは足の速さも世界一だな……」
エクボももちろんあれから戻った。すれ違いだったのだろう。それにしても、待ってろと言って駆け出した子猫が、本当に同じ場所に戻ってくると誰が思うだろうか。それも今日初めて通った道である。能力の高さを見誤っていた。
「モブが、お前いなくならないでいいって、」
「そうか」
「なのにお前いないから、おれ猫集会に飛び入りさんかして」
「お、おう」
「探してもらおうとおもったら……、くっそあのジジィ〜〜」
猫は憤懣やるかたなしといった様子で、んニャアァァと大きく鳴いた。そこからはすっかり猫の言葉に戻ってしまって、腹を立てていることしか分からない。
「分かった分かった、落ち着け、」
背中を撫でながらその場で腰を下ろす。鳴き声にはああとか、そうかとか返事をした。意味は分からなくても、いつもと同じだ。話したい、という一心で本当に話せるようになった猫は、一生懸命に語りかけてくる。
鳴き続けていた声はしばらくすると落ち着き、唸り声に変わった。しかし何やら猫はぷすんとした顔をしている。
「れーげん」
「……」
「ありがとな」
この一連はエクボのための頑張りである。目を見て礼をいうと、多少は機嫌が直ったのか尻尾が腕に巻きついた。しかしまだそこまで長くない、子猫の尾だ。この体で駆け回って、猫集会にまで飛び込んで、エクボを探そうとした。
――あんまり無茶してくれんなよ。
不用意なことを言った自分に原因があるが、ここまで頭が回って動けてしまうとこちらの肝も冷える。それに比例して情が増す。かわいい、だけでは収まらなくなっていく。うちの猫だがシゲオの猫だ。面倒を見ているだけだというのに。
そんなことを考えながら一息ついていると、ふと、茂みで光る二つの目に気がついた。
「……霊幻、あいつ友達か?」
「……?」
逃げたはずの太った猫だ。エクボの視線に一度隠れたが、何もしないと分かったのか、また顔を半分だけ出している。
しばらく目を合わせたあと、太った猫は短く鳴いた。それに霊幻が答えると茂みの中で立ち上がり、ゆったりとした足取りで去っていった。黒い斑模様が首周りについた、白黒の猫だった。
「……お前さんのこと心配で見てたんだな」
「むにのもとだ」
「……なんの素だって?」
「ともだちの」
「そりゃ無二の友だ」
「……むにも」
「……眠いんだな?」
うん、と答えた猫の目蓋はもう落ちかけている。走り回った距離を考えたら当然だ。寝ちまいな、と顔の脇を撫でると、エクボの腕に手を引っかけた体勢で、電池が切れたようにすこんと眠ってしまった。
◇
『いちだいじなのに、あのジジイがなわばりがどうとか言って』
『そんなことより、いえがなくなったら困るだろ』
『でもだいじょうぶだ、モブは大人になっても、いていいって』
そこまで伝えてから、今自分がヒトの言葉を喋れていないことに気がついた。でもエクボは頷いていて、撫でる手も、そうか、と言う声も優しかった。ほんの少ししょんぼりしたが、でも、不思議と悲しくはなかった。言葉は伝わっていないけど、自分の声から何かは伝わっている。エクボの手や、細めた目からも伝わってくるものがある。ありがとな、と言う声はエクボが本当に思って、きちんと自分に向けられたものだった。
良かったな、と友達になった猫が言った。
――良かった。
エクボは家を出て行かなくていいし、腕の中は心地が良かった。
目的を果たしたら眠くなったので、ぐっすりと眠った。
「師匠まだ寝てる?」
声に、目を開けた。視界にエクボの脚が映る。顔を上げれば、頬の赤い丸がこちらを見下ろしていた。伸びてきた手の平が頭を包むように撫でる。
「今起きたぞ」
どうやら家に帰ってきたようで、モブとエクボが居間に残っていたらしい。食後と分かるのは、食べものの匂いは残っているが他三人の気配はなく、火の気もないいからだ。小さな音でテレビがついている。
「まだ眠そうだな……、寝とくか? 飯食いっぱぐれちまうが」
頭上の手の平に顔を押しつけ舌を伸ばす。ついでに両手でエクボの手を挟んで、人差し指に向かって大きく口を開けた。体勢が崩れ、膝の上で仰向けになりながら指の端を噛む。
「っはは、くすぐってえ、やっぱり腹減ってるか」
俺様の手は飯じゃねえぞ、などと言うがそんなことは分かっている。ただ今、どうしてもこの手に噛みついていたいのだ。自分の口から抜け出そうとしない指をまた甘噛みする。
「師匠はエクボが大好きだなあ」
別に好きじゃねえよ、ふつうだ、ふつー、と答えたいのだが、噛むのに忙しくて答えられない。来たときは僕から離れなかったのに、とモブの柔らかい声が耳に届いた。モブの声はいつも穏やかだ。
『エクボがいたいだけいていいんだよ』
大人になったら、出ていかないとだめなのか? そう飛びついて聞いたときも、同じ声で答えた。だから安心した。モブの指も近づいてきて、ニャア、と本来の声が自然に出る。
「出たな、シゲオ専用ボイス」
「そうなの?」
「シゲオの前だけだろ、お前その声で鳴くの」
「わかんねえ」
「エクボ、やきもち?」
「へっ馬鹿言え」
「どうかなあ」
エクボの膝の上で転がりながら、モブに喉元を撫でられる。大変気持ちがいい。
「師匠」
「なんだ?」
「エクボを飼い主二号に任命しようか」
「……二号?」
「師匠の飼い主をエクボにするってこと」
「シゲオ?」
ごろごろと鳴っていた喉の音がぴたりと止まる。それは、どういうことなのだろう。
「…………モブは?」
聞く自分の目をまっすぐ見て、モブは答えた。
「僕は師匠の弟子で、飼い主一号だよ」
「…………?」
難しい。ひっくり返ったまま首を傾げた自分を、エクボが抱き起こした。
「エクボが飼い主になれば、師匠は安心でしょ? 勝手にどこか行ったら僕が懲らしめるし」
「オイ」
「て言っても、エクボも師匠もうちにいるから今と変わらないんだけど……。でもええと、エクボが飼い主なら、師匠がエクボと離れることはなくなる。だよね?」
視線を向けられたエクボは、弱った顔をして額に手を当てていた。指の隙間からちらりと自分を見ると、はあ、と息を吐く。ためいき、だ。
「モブ、おれ……、っうわ」
今と同じでいい、と言うより早く、エクボの両手が自分を抱え上げた。乗り慣れた肩の上に、ちょうど顔が乗せられる。強面の、でも笑うとやけに明るい顔が、こちらに視線を流す。
「シゲオが一号で、俺様が二号か。贅沢な猫だなァ」
「……」
「とりあえず明日はお前さんのケージ回収に行くからな。付き合えよ」
「……うぅう」
「なに、……いって!」
「びっくりしただろーが、ばか!」
「シゲオ! こいつの八つ当たりで噛む癖なんとかしろって」
「今のはエクボが悪いんじゃないかな」
「そーだそーだ!」
「お前らいつもそうやってなあ」
怒りながら言うエクボの手は自分を離さない。肩に乗り上がり、頬にすり、と体を寄せると何故かまた頭を抱えて蹲った。モブがふふ、と笑っている。
「お見通しってな……大人の面目丸つぶれじゃねえか……」
「だったら余計うちにいればいいよ」
「それがいいぞ!」
「お前なあ……」
手の平が毛並を撫でる。気持ちがいい。飼い主の、いなくならないエクボの手だ。
こうして、エクボは飼い主二号になった。
腹減った、と言うとはいはいと立ち上がる。足元にまとわりついたらいつものように、肩に乗せられた。
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