『約束だ』
そう言って笑った、よく知った声。
あれはいつのことだっただろう。
そ の 先 に あ る も の
「なぁ」
少し前まで散々仲間達にもみくちゃにされていた男が、笑いを含みながらゾロを見る。
縁を赤く染めた海色の目の光は、とろりと柔らかい。
上気した白い肌が夜目にも鮮やかな酔っぱらいのくせに、どこか真剣な表情をしていた。
遠いはずの日の事をこんなにはっきり覚えているのは、やたらと明るかった月のせいかもしれない。
久しぶりの穏やかな夜だった。
料理人を祝う宴がお開きになった甲板は、楽しかった余韻だけを残し、さっきまでの喧噪が嘘のように静まり返っている。
漆黒に見える海と風は浮かぶ船にも優しく、あの航海士が今日のために選んだ場所だというのも頷けた。
この海賊船には不文律がある。
何かにつけてバカ騒ぎをする船ではあるが、それとは別に必ず仲間の生まれた日を全員で祝うのだ。
サンジの乗船と同時にメリー号に持ち込まれて以来、仲間が増えても船が変わってもずっと続いている子供じみたルール。
最初は馬鹿馬鹿しくてやってられないと思っていたはずのゾロも、気が付けばいつの間にか、当たり前のように全員のその日を言えるようになっていた。
随分と感化されたものだと思ったけれど、それは不思議と嫌なものではなかった。
思えば少しずつ、変化はあったのかもしれない。
そんな宴会が終わって潰れた仲間達を部屋に放り込んだ後、一人で飲み続けていたゾロの前にサンジが戻ってきたのは一時間ほど前のことだ。
どうやら後片付けを終わらせてきたらしい。
足にくる位酔っぱらっていても職務を放棄しないプロ意識には感服するが、ゾロを見て、何だお前まだいたの?と嫌そうな顔をしたのは可笑しかった。
最初からわかっていてグラスを二つ持ってきたくせに。
秘蔵の酒と、相変わらず旨いつまみと一緒に。
それからしばらく他愛のない話で、軽口を叩き合ったりしながら飲んでいたはずだ。
それが何故あんな話になったのかはよく覚えていない。
恐らくただの話の流れだっただろう。
不意にゾロに向かって伸びてきた指先が、胸の傷跡にぺたりと触れたと思った瞬間、サンジは言った。
「……なんだ?」
「お前の野望はさぁ…世界最強じゃん」
「それがどうした?」
「それって大剣豪になることなのか?」
唐突な行動も、改めてそんなことを問う意図もわからず、一瞬返答に詰まる。
今更何を言っているのだろうと眉を顰めたが、恐らく見た目以上にアルコールが回っているのだろう。そう判断してなるべく平坦な口調で当たり前だと答えた。
けれどサンジが次に口にした言葉に、ゾロは目を瞠る。
「じゃぁそれ、方向変更しろ」
「…あぁ?」
「それじゃ駄目だ」
「てめぇ」
さすがに聞き流せるほど、軽い内容ではない。
言われた意味が一瞬遅れて脳に伝達した瞬間、抜刀しなかっただけで僥倖だ。
互いに気に入らなくて仕方なかった出会ったばかりの頃ならば、間違い無く問答無用で斬りつけていただろう。
けれど今は、この男が仲間の夢を軽んじるような人間では無いことくらい、当たり前に知ってしまっているから。
「……誕生日を命日にしてぇなら叶えてやるが?」
大きく呼吸をしてから続きを促すように軽口で返すと、サンジはケラケラとおかしそうに笑った。
「違ぇよ、そういうんじゃねぇ」
「じゃぁ何だ」
「ん」
どうしても苛立ちを隠しきれないゾロに反して、サンジはグラスに新たに酒を注ぎながら、もう氷ねぇな、持ってくる?などと呑気に言う。
「いいから答えろ」
その温度差にも腹が立って言外に圧を掛けると、サンジは当たり前のように言った。
「だってお前の野望は最強だろ?だったら大剣豪になったくらいで満足してもらっちゃ困るっつったんだ」
「…?」
「どうせなら最強の大剣豪になれよ」
「はぁ?」
あまりに予想外の言葉で、一気に拍子が抜けた。
悪意が無いことくらいは最初からわかっていたが、それでもやはり気持ちの良いものではなくてスッと冷えた気持ちが、ぼんやりと元に戻っていく。
それでも相変わらず意味は全くわからないままだ。
大剣豪とは最強の剣豪のことであり、最強だから大剣豪だと言うのに、一体何を言っているのだろう。
「…んだよそれ」
疑問符が大いに浮かんでいただろうゾロの見てサンジは少し笑い、何変な顔してんだよ?と言いながら続けた。
まるで種明かしでもするかのように。
「お前がなるのは『最強』だろ?」
「当然」
「だったら、なるべく長くその座にいろ。一瞬で終わった大剣豪なんて歴史に名も残りゃしねぇ」
「てめぇさっきから何言ってやがんだ?別に、歴史とかんなもんに興味は無ぇ」
ますます不可解だ。
欲しいのは最強の剣士という事実のみ。名声などではない。
そのくらいのこと、この男も知っているはずだろうに。
けれどサンジは小さい子供を宥めるみたいに、馬鹿だなぁと笑った。
そりゃ違うぜ、ゾロと。
諭すように名前まで呼ばれ、自分が随分年下にでもなったみたいで、ひどく居心地が悪かった。
「あぁ?」
「考えてみろ?現大剣豪のミホークだって、その座についてからもう何年もたつだろ?少なくてもおれらが19の時には、とっくにそうだったんだからさ」
「……」
「それよか短い時間しかその座に居れねぇなら、本当の意味で勝ったことにならねぇんじゃねぇの?」
真っ直ぐゾロを見て言われた言葉に息を呑む。
「だからお前は大剣豪になるだけじゃだめだ。大剣豪になって、最強で居続けんだ。ミホークや歴代の大剣豪よりも長くな」
それでこそ大剣豪の中の大剣豪じゃね?と。
いたずらっ子のように笑ったサンジに、ようやく彼が言わんとした意味を理解する。
同時にひどく愉快な気分になって思わず吹き出した。
「ははっ…!」
言われてみればそんなこと、考えた事も無かった。
夢の叶ったその先の事など、まだ遠く遠くて。
けれど、人の夢はその生がある限り続くのだ。
「お前、本当バカだな」
「え?」
「まだ大剣豪にもなってねぇのに、どんだけ気が早ぇんだ」
「あはは!確かに」
でも、お前はなんだろ?と。
向けられるまっすぐな信頼と、仲間としての強い願い。
なんて、美しい。
純粋に、綺麗だと思った。
「どうよ?」
「悪くねぇ」
「だろ!」
「あぁ」
「なれよ、きっと」
「なるさ」
「うっし。約束だ」
「あぁ、約束だ」
『約束だ』
(あぁ、クソ……)
長い長い夢を見ていた気がする。
ゾロは暗い冷たい水底からもがきながら水面を目指すように、微かな意識を浮上させた。
ここに倒れてから一体どのくらい時間がたったのだろう。
一瞬だけのようでも、長い時間のようでもあったが、勝利と引き替えに完全な致命傷を負った体は、相変わらず指一本自由に動かすこともできないままだ。
あと少しすれば、この心臓は鼓動を刻むのをやめるだろう。
死は目前まで迫っていた。
このまま時が過ぎれば自分はロロノア・ゾロという人間ではなく、かつてそう呼ばれていた、ただの塊になって大地に還ってゆく。
それはもはや可能性ではなく、ただの確定事項だった。
恐怖も未練も無い。
幼き日の誓いは今、親友の魂と共に果たしたのだ。
それが全て。
その、はずだった。
かつての自分ならば。
けれど。
『約束だ』
(チクショウ)
なんてことだ。
(あのバカ、なんてもんを…)
ぐずぐずと闇に解けるような意識の中で、唐突に理解した。
『なれよ、きっと』
なぜあんな事を言ったのか。
同時にあれがゾロの何を縛ったのか。
いつだってサンジは、死ぬなとは言わなかった。
けれどあいつは最初から、いつかこうなることが分かっていたに違いない。
その時のために。
そしてこれから何度も訪れるであろう時のために、あんな形で。
(なんて野郎だ)
よく思い出してみれば、あの時の目は少なくても酔っぱらいのものなどでは無かったなんて、今更気がついても遅い。
こんな状況であっても、ゾロはもう、命を手放すことを許されない。
そしてこれから先の、いかなる時も。
あれはそういうことだ。
そして、もう一つ。分かってしまったことがある。
本当はそっちの方がゾロにとっては驚くべき事だった。
例えあんな約束をしていなかったとしても、今はもう。
(未練なんて、大アリなんだよ…)
いつの間に、こんな風に変わっていたのだろう。
気安い言葉に。罵りに。冗談に。皮肉に。
何気ない日常の中の一つ一つに織り込んで、サンジは心に誓いと野望しか住まわせず理解の遅かったゾロに、少しずつ時間を掛けて教えた。
不要と切り捨ててきた幾つも欠片をそっと救いあげて。
『いらねぇモンなんて本当はなにも無ぇんだ。簡単に捨てんな』
心の成長は決して弱さではなく、強さだと。
『周りを見ろ。お前は一人で生きてるわけじゃねぇ。お前を大切に思ってる存在を無いものにするな』
今は知っている。知ってしまった。
大切な存在から返ってくる優しさも。暖かさも。
その全てがゾロを生かす。
(こんなところで終わってる場合じゃねぇ)
意志の力で目を開くと、真っ暗闇の中から緩やかに世界が戻った。
『カミサマとやらに祈ったりはしねぇよ。けど、お前を取り巻く風とか海とか空とか。そういうもんになら祈ってもいい。うちの迷子ちゃんが無事に帰ってこれるように手助けしてやって下さいってな?』
同時に目の中に飛び込んでくる空の青さ。
無くしたはずの感覚が捉える海風。
そうだ。
帰るのだ。
あの船に。
起き上がるための力を込めようとすると、眠りを待つはずだった細胞の一つ一つが生命を叫んだ。
これはそうなるように内側からずっと守られてきた体なのだということを、今更思い知る。
『お前の体にゃ、強力な呪いがかかってる。何の呪いかは教えてやらねぇ。それはお前が無様に死にかかりやがった時に発動する』
憎たらしい声を思い出すと同時に、条件反射のようにあいつの飯が食いたいと思う自分を笑った。
これがそうだというなら全くたいした呪いだ。
『それを解いてやれるのはおれだけだぜ?』
あぁ、そうだな。
早く、そうしてもらわなければ。
今年の誕生日には間に合わなかったけれど、大剣豪の称号が手土産ならばきっと多少の遅刻は多めに見て貰えるだろう。
そう期待しながら、もう一度ゾロは体に力を込めた。
サンジの愛が深すぎる・・・!
一回ぐっとこらえても、次々と涙腺を揺るがすのですこのサンジは。
るうさんのお話はいつもそこにいるゾロやサンジや誰かの目が何かを言っていて(人も目も出てこなくてもそんな気がする)、それがこの空間を作ってるような。読み始めるとこちらまですとんと包まれるような。温かいのに輪郭がはっきりとしていて、すごく好きです。
このサンジの根気強さを思うと頭が下ります(誰に)。愛だ・・・。
るうさんありがとうございました!
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