遠回りしておかえり side_Northdin

 酔いやすい子供だった。
 乗り物全般に始まり、水族館の大きな水槽、プラネタリウム、展望台、雑踏、それから吸血鬼の気配。
 幸か不幸かダンピールとしての能力が高かったドラルクは、幼い頃から吸血鬼の気配に敏感だった。窓の明かりを一つ二つと数えるように、小さな指は吸血鬼の居所を迷いなく指した。当時既に吸血鬼対策課にいたノースディンは、それが正確に当たっていることを知っていた。
 すごいな、と素直に感想を漏らすと、今はなき控えめさをまだ失っていなかったドラルクははにかむように笑った。本人も二つ三つを当てるのはゲームのようで楽しいらしい。しかしそれが増えると気配に酔う。五ヶ所を超えると大体の場合、口を結んで眉を寄せた。酔ったのかと尋ねると、こくりと頷く。しかしまだ帰りたくない。酔いやすい体質とは裏腹にドラルクは外出が好きだった。だから何か一つ土産を買ってドラルクに持たせ、ノースディンはそれをドラルクごと抱き上げ、なるべく人と吸血鬼の少ない通りを選んでゆっくり帰る――というのが時折二人で出かけたときの帰宅姿だった。





『今日行きます』
 ドラルクからRINEが届いたのは二十二時前だった。時計を見、机上の書類と作成中の報告書を見、返事をする。
『構わないが、私は帰れそうにないぞ』
『寝床借りるだけなんでいいです』
 返されたメッセージを見て、ドラルク隊から今日の報告書が届いていないか確認する。メールボックスにも、未決の書類箱にも入っていない。隊長本人がそんな連絡を寄越してきたのだから、自分に緊急連絡するほどの問題はなかったのだろう。大物を取り逃がすこともなく、隊員も無事で、隊長はいつも通り倒れそうだが倒れないレベルの疲労で済んでいる、と思っていい。あの酔いやすい子供は今ではすっかり吸血鬼対策課の隊長の顔になり、ノースディンの部下というポジションにまで上がってきている。
 ドラルク隊の今日の見回りルートと近辺を縄張りにしている吸血鬼の一覧にざっと目を通す。中級程度の吸血鬼が出没しやすいエリアだ。その程度なら手こずりはしないが、下等吸血鬼の群れなどが加わると厄介ではある。
 ――数が多かったか、長引いたか。
 子供の頃以上に、今のドラルク探知能力は高い。その上作戦の成功率が特段に高いから、通常の退治であれば成果の程度に差こそあれ、出れば治まるといった状態だ。
 しかしドラルクには極端に体力がない。身体を守る筋肉も運動神経も残念ながらない。五感に直結する能力はそのまま身体に疲労をもたらす。
 とはいえ吸血鬼の力や距離を探らなければ始まらないから探査は避けられず、数が多ければドラルクの負担は大きくなる。窓の明かりを数えている最中、辣油と酢味噌とガラムマサラが同時に銅鑼を叩き出す――というのがどこまで本当かはともかく、本人曰くそんな状態らしい。終わる頃には三半規管が音を上げている。だから五感プラス、気配感知分の一感を白紙に戻したい――と言って、やってくるのが自分の元だった。
 ――二時なら帰れるか……?
 吸対職員の勤務は吸血鬼の活動する夜が中心だが、日中勤務もありシフト制になっている。階級が上の者が徐々に昼へ移行するのは、上層部や外部機関との打ち合わせがあるからで、ノースディンも今は半々だ。本部長と言えども自分の上にはまだまだ分厚く面倒な層がおり、下は下で炭鉱のカナリア呼ばわりされている自分の弟子とその隊員が、夜な夜な暴れる吸血鬼たちの相手をしている。つまり、上下内外に挟まれ年間を通して多忙なのであった。
 書類の山から急を要するものだけ選り分けて、残りをキャビネットにしまう。壁時計を見上げて目標を一時と定め、ペンと付箋の束に手を伸ばした。


 残りの仕事をすべて明日の自分に託し、何とか二時前に自宅玄関を開けることに成功する。コートをハンガーにかけ寝室を覗くと、ベッドがこんもりと膨らんでいた。黒い髪の先だけが布団からはみ出ている。扉からの細い光で目が覚めたかもしれないが声はかけず、シャワーを浴びてから戻った。
「ドラルク」
 ベッドの脇で、簀巻き状態の塊を見下ろし声をかける。頭部以外完全密封だ。この弟子を転がさないことには布団をめくることさえできない。
 数秒待つと、もそ、と塊が微動した。亀が甲羅から顔を出すようにして、弟子が顰めた顔を自分に向ける。人のベッドを占領しておいて向ける顔ではないと思うが大目に見る。
「いったん布団を放せ。入れん」
「……またシャワー浴びてきたな……」
「シャワーぐらいで匂いは変わらないだろう」
「余計な匂いがするからいやだ」
「お前がそう言うから風呂のものはすべて無香料だろうが」
 色気もムードも何もない。特段肌が敏感でもないのに、そしてこんなときぐらいしかドラルクだって匂いなど気にしないのに、ノースディン宅のバスルームには超低刺激・無香料の肌に優しいものしかないのだ。
 不満そうにしながらもドラルクは掛け布団を持ち上げ、ベッドの奥へ身体をずらした。ノースディンがそこへ入ると、あれだけ嫌そうな顔をしたくせに背を丸めて胸元に顔を寄せてくる。
 ――巣か。
 何となれば裸で身体を重ねる間柄であるが、リセット中のドラルクにそうしたムードは皆無である。幼い頃の、酔っては抱き上げていた記憶が土台なのだろうが、それがまさか三つ子の魂になるとは思っていなかった。だから「今もこう」だと気付くのがだいぶ遅れ、結果、今でもドラルクに恨みがましく言われる。
『めちゃくちゃ頑張ったんだからな』
 隊長になった前後半年はそれはそれは大変だった。大体アンタが私の進路に渋い顔をするから悪い――と、この話になると必ずセットで文句を言われる。
 ――渋い顔もするだろう。
 ノースディンにもたっぷりと言い分はあるのだが、この話題のときは素直に謝ることにしている。
 自分の懐に潜り込んでいるのは今現在もれっきとした己の弟子であり部下であるが、自分が何度も抱き上げてきた子供であり、今では恋人でもある。宥めるのは自分の役目というものだ。


 ◇


 ドラルクが吸血鬼対策課を目指すと聞いたのは、人間と同じ中学校に通いだしてからだ。反対こそしなかったが、ノースディンは素直に応援できなかった。酔いやすい以上にこの身体の弱さだ。いくら能力が高かろうと頭がキレようと、新人隊員がいきなり指揮官になれはしない。入隊できたとしてドラルクがやっていけるのか、甚だ疑問だった。自分の影響もあるのではと責任も感じていた。
 しかし頑として進路を変えようとせず、いよいよ吸対への配属が現実に迫ってきたとき腹を括り、ドラルクを弟子とした。警察学校では教わらないことも、自分が培ってきた経験と知識も、ドラルクに合うやり方に変えてすべて教えた。
 後になって本人から聞いた話では、ドラルクが吸対を目指すことをノースディンは喜ぶと思っていたらしい。それがずっと渋い反応だった上、入隊が決まる直前自分が言い出した「修業」が応援なのか駄目出しなのか分からず、感情が大いに拗れた。ドラルクの反抗期――ノースディン限定の――が始まったのはこの頃からだ。

 ドラルクは異例の速さで昇級したが、進路云々からの感情を引きずり続けていたことを、ノースディンはまるで気付けなかった。不甲斐なくはあるが、ドラルクにもプライドがあり、本当はずっと黙っておくつもりだったらしい。
 しかし隊長になってしばらくしたある日、とうとう爆発した。隣県の吸対に評判のいいダンピールが入隊したそうだ、とドラルクからの提出書類に判を押しながらノースディンが何気なく口にしたときだった。
『……へえええ、それはそれは。期待の膨らむ話ですねえ』
『……お前のその、他のダンピールの話をすると不機嫌になるのは何なんだ』
 あまりにも棒読みな返事にノースディンは尋ねた。前々から気になっていたのだ。今も口を曲げて、あからさまに不貞腐れた顔をしている。
『……褒めるべき相手を間違えてませんか』
『他にいると言いたいのか?』
『いるでしょ』
『ほう、気になるな』
 たっぷり十秒は黙って、ドラルクは言った。
『……アンタの目の前にいませんか』
『……お前か?』
 今ここにドラルクがいるのは、本日の下等吸血鬼退治に関する始末書――ドラルクの隊員がうっかり道路を陥没させてしまった――を提出しに来たためだった。手元の資料に目を落とす。
 確かに退治自体は問題ない。一度に十体以上現れたにも関わらず怪我人はなく、復旧の速さも見事だった。しかしドラルクの部隊にとってそれは最早当然となりつつあって、今更褒める方が不自然だ。が、ドラルクからは何かを訴えたい気配が伝わってくるから、いつものようにこれくらいで満足するなと戒めるのも躊躇われる。
 そういうノースディンの戸惑いを察したのだろう。ドラルクは、ぐ、と眉を寄せて、
『ハイハイもういいです分かった』
 言い捨ててくるりと背を向けた。
 ドラルクは元来感情豊かであるが、こういう怒り方はまずしない。いつにない様子に引き留めようと手を伸ばしたが、身体を捻って躱されてしまう。オイ、と声をかけると、こちらを睨みつけてくる。
『っ私はなあ、アンタが――』
 いい加減溜まりかねた、という様子で何かを言おうとした。しかしその視線の先がすいと横にずれ、窓の外の一点に絞られる。ビルの明かりが点々と浮かぶ夜の光景、その更に向こうに目を懲らしているようだった。
 ノースディンには何も見えなかった。気配も、音も、五感で捉えられるものは何もない。しかしドラルクは小さく何か呟いたかと思うと、視線を外さないまま口にした。
『三分で来る』
『方角を』
『北東に五度、八十メートル上、あと二分で月の左端に映る』
 聞きながらデスク下に置いてある麻酔銃に弾を篭める。窓を開け、身を乗り出した。ぬるい風が頬を撫でる。スマフォが震えたのは見回り部隊がそれを捉えたからだろう。ならば迎撃は間に合わずとも落下の対応はできるはずだ。普段ならドラルクに指示を飛ばすが、当の本人がここにいる。
『対象に見当は?』
『知らん奴ですね。侵攻じゃないでしょう。暇潰しか度胸試しじゃないですか』
 そのままいけばヴリンスホテルに激突だ、と呆れ混じりに言う。
『よそでやってもらいたいものだな』
『まったくですよ』
 十、とドラルクが数を読み上げた。月に銃口を向ける。ちら、と視線を向けるとドラルクは腕時計に目を落としていた。速度も進路も変わらないようだ。
『ニで引いてください』
 静かに言う声に、短く了解と答える。カウントが到達したと同時に引き金を引いた。月をよぎろうとした黒点が落下する。鳴り続けていたスマフォを取れば予想通り吸血鬼の出現報告で、話の途中で確保の報告へ変わった。ドラルクの方も部下へ連絡したらしい。指示が終わるとスマフォをポケットに戻しながら、机に立てかけた銃へ目を向けた。
『さっきの微妙にフライングでは?』
『お前たちの銃より古いんでね。それよりお前……』
 前よりも精度が上がったんじゃないか、と言いかけて、ドラルクの額の白さに言葉を切った。元々顔色がいい方ではないが、更に青白くなっている。それに見覚えがあった。
『――まだ酔うのか?』
 否定も肯定もなかったが、再び見せた不機嫌を全面に押し出した表情が答えだろう。気付かなかった自分にも気付かせなかったドラルクにも驚きを覚え、先程の溢れかけた感情が一層気がかりとなる。
『始末書はそれでいいでしょ。今日はもう上がりますよ』
 しかしドラルクに続ける気はないらしい。あーヤダヤダ働きすぎた、と軽口を叩いて扉へ向かう。
『ドラルク』
『どーせまだまだって言うんだろ、耳タコですよ。これでも前より、……』
 強気な顔で振り返ったドラルクが、言葉の途中で壁に手をついた。ずるずるとしゃがみこむ身体の前に数歩で回り込む。自分にもたれかからせると、壁から浮いた手が位置を確かめるように、ノースディンの背と肩に触れていった。
『……振り向いたら目回った』
『少し休め』
 掴んだ手首は冷えきって、肩は微かに上下していた。抱え上げる自分の動きを一瞬拒もうとしたが、ノースディンが立ち上がる前には首に腕を回してきた。首筋にかかる息遣いは浅かったが、微かに力が抜けたのが分かった。
 入隊前に行った修行中に酔ったことはほとんどなく、だから完全ではなくとも相当克服したと思っていた。他の隊員からの報告でも、相変わらず過労だと言って倒れ込んでいるが、立ちっぱなしや吹きっさらしが主な原因で、ダンピールの能力使用によるものとは聞いたことがない。
 ――褒めろと言いたかったのはそれか?
 ソファに寝かすとドラルクは蛍光灯の光を遮るように腕で顔を覆い、最終的には背もたれの方を向いて顔を隠した。横たわる身体に自分の上着をかけてから、室内の照明スイッチを切る。
 おそらく今の探知だけでこうなったのではなく、今日の退治で駆使したのだろう。吸血鬼の数も多かった。道路の破損は隊員を優先させた結果かもしれない。負傷者ゼロはそれこそドラルクの成果である。
『隊長になったら、隊員を守れ』
 修行中から繰り返し、口うるさいほど教えた。それがドラルク自身を守ることになる。戦闘力がないなら能力と頭を使うしかなく、そのためには本人が無事でなくてはならない。ただしあくまでも、隊長になったら、だ。階級がただの隊員ならば逃げた方がいい。自分が伝えたことには、隊長としての責務でも心得でもないことが含まれている。
 ――私は、お前が。
 上司としても吸対の一員としても、ふさわしくないことを考える。自分はここでやるべきことがある。だがドラルクは。
 ――紙一重なんだ、お前は。
 虚弱さを差し引いても吸対にとっては戦力だ。しかし万一の可能性は常にある。そういう職業だと、相手がドラルクに限っては割り切れない。
 一つ息を吐いて、心の波を静める。自分がどう思おうとこれはドラルクが選んだ道で、ここまで上ってきたのも本人の努力だ。それよりも、今かけるべき言葉は別にある。吸血鬼が現れる直前、もういい、と背けた顔に浮かんでいるのは不満だけではなかった。
『……よく鍛えたな』
 言うと、ドラルクはノースディンの上着を顔の半分まで引き上げ、ぐるりと巻きつけた。くぐもった声が返ってくる。
『………い、』
 聞き取れず、ドラルクの顔の方へ近づける。もう一度、と小声で言うと、服に埋めた顔を僅かに上げる。
『…………褒めるのが、遅い』
 そうだな、と答え頭に軽く手を乗せると、ドラルクはまた布地に鼻先を埋め、しばらくののちぐっすりと眠り込んだ。



 その後ドラルクの告白騒動や、膝を突き合わせ腹を割っての相談等々を経て恋人となったのだが、関係性は常に流動的でころころと入れ替わる。
「……少しは良くなったのか」
 腕の中で未だ動かないドラルクに声をかける。自分が不在でもベッドがあればいいとは言うが、週の半分ほどしか使わないベッドで眠ったところで、リセットできるほどの効果はないのではないか。大体匂いというのは比喩であって気配そのものに香りはない。しかし返事の声は、顔を見せたときよりもだいぶ穏やかになっていた。
「……レバニラ炒めから卵スープくらいには」
 そのたとえで言うと私は卵白か、と頭をよぎったが言及はしない。気分は悪くなさそうなので会話を続ける。
「お前レバニラ食べられたのか?」
「三分の一くらいですけどね。あとはジョンが」
「今日はどうしてるんだ」
「希美くんのところに」
 ああ、料理上手らしいな、と言うと、彼女の家だと文句が出ないんですよ、と少し笑った。布団とシーツの擦れる音に、二つの声が混ざり合う。真夜中は声が響いて聞こえるが、それは嫌いではないらしい。ひそめた声で話しているうち、外からの刺激を遮断するよう丸まっていたドラルクの身体が緩く伸びた。細い身を軽く抱き寄せ、二つの身体を布団でぐるりと囲む。
「……あー……くやしい」
 今にも眠りに落ちそうな温かい呼気を揺らし、ドラルクが言う。
「何がだ」
「……アンタ帰ってくるなら、したかった……」
 ふやけた声の誘い文句に、笑いを零す。
「次すればいいだろう」
「……次が、いつなんだか……」
 多忙なのはお互い同様、休日どころか帰宅が重なる日も多くはない。それでも、お前が望むならいつでも、と言いたい気持ちだけはある。数時間でもこうしていれば、自分の疲れだって格段に取れるのだから。





 次の機会、は意外にも早く二週間後にやってきた。当日はノースディンが、翌日はドラルクが休みという理想的な日だった。が。
「……う〜〜ううう」
「またか」
 玄関を開けると、げっそりしたドラルクが現れた。黒一色のロングコートに、ライトグレイのマフラーを鼻まで上げ、眉間には深いしわが刻まれている。あと二時間遅かったら通報やむなしの風貌である。
 とりあえず室内に入れるとふらふらと靴を脱ぎ、リビングで渡した白湯を飲むと、無言でノースディンの首筋に顔を埋めた。背中を支え好きにさせながら、やれやれと目を閉じる。
「今日も無理そうだな」
「……今日はする」
「その調子じゃできんだろう」
 誰だって車に酔った直後にセックスしたいとは思わないだろう。それだけでなく、直後はドラルクの感覚が過敏になっている。ならば普段より過激なことができるかと言えばまったく逆で、入れている最中で泣きが入ることもあるから、むしろ不向きなのだ。
 しかしドラルクは自分に抱きついたまま、いやだ絶対する、と言い張る。熱烈なお誘いのはずなのに、言い方と雰囲気のせいでまったくムードというものが醸し出されない。
「明日休むためにパトロール中の指示も調査依頼も出して溜め込んでた報告書と計画書だって」
「溜め込むな」
「多すぎんですよ」
 言っとくけどアンタのも入ってるんだからな、とこちらを睨む。私のものは必要だから仕方ない、と返せば、だから作ってきたんでしょ、と牙を剥かれた。明日見ておく、と背中を叩いて答える。
「そこまでしたのに寝て終わりなんて浮かばれんでしょうが」
「……ならまずそれを治せ。いったん寝るんだな」
「……絶対起こしてくださいよ。朝まで寝かせた前科三犯」
 これだけ口が回れば元気そうなものだが、まだ顔は少し青白い。ノースディンがアラームをかけたのを見届けて、お風呂借ります、とドラルクはリビングを出て行った。今日は断固として諦めないようだ。
 ――入浴込み一時間半だな。
 顔色と足取りから判断する。身体を温めて一度熟睡すれば、できないことはないだろう。
 アラームの時間を三十分延ばし、読みかけの本を片手にノースディンも寝室へ向かった。

 ピ、と小さな電子音が鳴る。音が繰り返される前に、光った画面にタッチしてアラームを止めた。
 ベッドに座り本を読む自分の隣で、ドラルクはよく眠っていた。起こさねば恨まれるが、毎回躊躇う。今日はあと十五分くらい寝てもいいのではないか。明日登庁するのは自分だけだ、多少朝にずれこんでも問題ない。ドラルクの寝顔とデジタル表示を交互に見、新たなアラームをセットすべく画面ロックを解除する。と、下から掠れた声が発された。
「……また、罪を重ねる気だな……」
「……起きたか」
「起きたかじゃない、起こせって言っただろ」
「結果起きたからいいだろう」
 反省の色がない、とドラルクが口を尖らせる。
 読んでいた本をサイドテーブルに置き、読書灯を消す。ドラルクの隣に身体を横たえ、身体の片側を下にして向かい合った。
「気分は?」
「もうすっかり」
 答えると、もぞりと動いて肩口に顔を埋めた。髪の先端を指先で遊びながら問いかける。
「すっかり、なんじゃないのか?」
「恋人がこうしちゃいけないとでも?」
 その返事に軽く笑み、いいや? と答えて背中に腕を回す。身体がいつもより温かい。短時間でもよく眠れたようだ。
「ただ、コアラにでもしがみつかれている気になってな」
 腹の辺りにいるときはナマケモノの子のようだし、背中だと小動物に乗られたカピバラになった気分になる。そう考える余裕はドラルクが成長して大人になったからだろう。幼い頃は、このしがみつく子供を全方位から守るのが自分の役目だと思っていた。ドラウス夫妻から預かった日などは特に。
「……もう少し色気のある喩えなかったんですか」
 不満げな顔がこちらを向いた。顔色もいいし、隈も少しだけ薄くなった。頬に手を添えて、顔を傾ける。触れた唇を離すと、口を尖らせながらも両腕を首に巻きつけてきた。
「お前がこちらを向かないことには、色気のあることもできないだろう」
「向かせてなんぼでしょうが女たらし」
「向かせる必要がなくてな」
「ワーー全世界のモテたい男を敵に回す」
 発言、の途中で再び口を塞いだ。する、と舌を忍ばせ撫でるように絡め取ると、ドラルクの腕が自分を引き寄せる。息継ぎに一度離し、暗闇でもほのかに光る金色の瞳と至近距離で視線を合わせ、お互い同じ熱が灯ったのを見てまた深く口付ける。
 唾液の濡れた音が甘く聞こえるなど、考えたこともなかった。あえて音を立てて繰り返せばドラルクも夢中になる。そうしながらシャツの中、温かい肌へ手を滑らせた。滑らかな肌の下はすぐ骨だ。触れる度にもっと食べろ、という気持ちと、それでも大きな怪我もなく、こうして温かい体温を保っていることへの安心感が同時に湧いて、背中から掬い上げて体温を味わう。肌と肌を擦り合わせれば、ドラルクの口から心地よさげな息が洩れる。
「ふ……、スイッチ、はいりました……?」
「とうに入っていたが」
 笑い声を息に乗せたドラルクが、たった今のくせに、と続ける。たった今じゃあない。嘘だね。もう少しは前だ。と言い合いながら、耳の縁の下から尖った先端まで唇に挟んで濡らしていく。曲線を描く骨と骨の窪みに舌を這わせているうち、重ねた身体がふるりと震え、ドラルクの胸がゆったりと上下し始めた。宥めるように、同時に熱を与えるように、胸の上を手のひらで撫で、僅かに形を主張してきた粒を指の間でそっと挟む。
「……っ」
 ドラルクの息遣いが乱れ、細い指が自分の髪に差し込まれた。胸の先を指の背で撫でるたび、ふ、ふ、と短く息を吐き、先端は固く丸く膨らんでいく。平たく固い胸の上だから存在は際立つし、撫でやすい。感触が戯れるのにちょうど良いし、確実に息を上げながら、それでもまだなんとか落ち着いた呼吸をしようとしている姿がかわいいと思ってしまい、つい繰り返す。軽く顎を上げさせて首筋の肌も吸い上げれば、胸を反らせて切なげに息を吸い込んだ。
「……ノ……、ス」
 降ろされた前髪をかきあげて、正面から顔を覗き込む。艶をまとって光る金色の目はもう堪えられないと訴えながら、もっととねだる。
「気持ちいいか?」
「……いい」
 そうか、と微笑んで、すっかり膨れた丸みを三本の指できゅうと摘む。ア、と高い声を上げたドラルクが首を振った。固くなった分をほぐすように指を擦り合わせれば、反らせた胸を震えさせ、煽る動きで逃げようとする。その動きは「もっと」と同義だな、と苦笑する。
「ッん、ア、や、やだ、それ、あ……ッあ」
「あと少しな」
「すこし……でもっ……ん、やめ……」
 自分の手を止めようと上から重ねてくるが、力の入らない手では意味を為さない。下肢に手を伸ばし、布地に押さえつけられているものに触れればもう熱を持っていた。下着から解放するために軽く触れると、喉の奥で声を呑み込む。
「……も、胸、くるし、……」
「でも嫌じゃないな?」
「だ……っ、も、さっきから、やだって、……ぁ、あっ、ほんとに……っ」
 やだって言ってんだろ、とまともに口が動けば返すだろう目はこちらを睨むが、すり潰す指の動きに次第に細められ、ついにぎゅうと固く閉ざされた。それに合わせ、下をするりと撫で上げてやる。
「ン、ぅ、ん――ッ……!」
 ベッドから浮いた背が大きく反りかえる。身体の中心で立ち上がっていたものから僅かに体液が飛び、腹へ落ちた。それを拭い、乱れきったシャツを脱がせ、息を整えようと腐心している身体に寄り添う。ドラルクが仰向けのまま、こちらに顔だけ向けた。
「もうちょっと、ひとの、話を……」
「聞いてはいた」
「あれを、聞いたとは言わないんですよ、……あ、っ」
「ん?」
「そ……いう、とこを……!」
 隣に身体を横たえたまま、まだ固いままの性器を手で包む。甘く達したあとの方がドラルクは我慢ができず、促されるまま快楽に浚われてしまう。事実、うう、とかもう、とか口では言うが、ノースディンの方へ向けた身体をすり寄せてくる。その貴重な素直さを見たいがために、文句を覚悟の上で諸々スルーしているのだ。口と行動が噛み合わないのもノースディンはかわいいと思っている。
 背中を抱きながら、ゆっくり上へ立ち上がらせ、芯を固くしてやる。再び忙しない呼吸を始めたドラルクが、首元に顔を埋める。当然ながら顔が見えない。本人としてはそれがいいのだろうが、ここは譲ってほしいところだ。
「ドラルク」
「……いやだ」
「まだ何も言っていないが」
「わからないと、思うか……?」
 まあそうだろうな、と思う。自分がここで言うことはいつも同じだ。しかしそれなら結果も見えているだろう。
「なら話は早いな。顔を、ドラルク」
「だからやだ……って、んん、さっきも」
「見たい」
「……そうやって、言えばきくと……アっ、ぁ……ね、え……もう……」
 とろとろと雫を零す先端の口を、やんわりと刺激しながら待つ。今日は些か頑なだ。このまま達するならそれでも構わない。けれどまだ応えてくれるのを待っている。額の上に口付け、もう一度名前を呼ぶ。
「……私にも、欲しいものはあるんだが?」
 言うと、悔しげに頭をぐりぐり押し付けたあと、敗北の表情でこちらを見上げた。ほんのり上気した顔が、目を合わせるともう一段濃く色づく。手の中のものをなぞり上げれば、合わせたままの目が細められた。瞬きも惜しんで溶けつつある金色を見つめ、欲する通り熱を与えていくと、意地も悔しさも流れた表情で自分を必死に見つめ返す。
 ――たまらないな。
 自分が誰にどんな顔で見つめられていて、あとどれくらいで昇りつめそうか分かっていて、与えられる刺激が、視線が、囲む気配が気持ちいいのだと訴える表情をノースディンは見たい。入れたあとの必死さとは愛おしさが少し異なる。まだ思考も理性も残っているこの目が自分を見つめてくるのが好きなのだ。それが自分の欲で、親愛でのみ付き合っているわけじゃない、という証でもある。
「っも……、い、く……」
「ああ」
 消え入りそうな声で言い、ドラルクは身体を跳ねさせノースディンの手に精を放った。最後まで出しきるよう手を動かしてやると、語尾の溶けた声がその都度洩れる。激しすぎない絶頂感と繰り返される余韻に揺れながら、力の入らない腕をノースディンに伸ばした。後頭部を引き寄せて頭を腕で囲うと肌にすり寄り、微かな吐息の音を立ててもう一度身体を震えさせ、脱力した。こうなるともう力は入らない。
 輪郭が溶けるくらいかわいがってやりたいと思う。穴埋めではなく、庇護の気持ちからでもなく。
 ――ない匂いでも、吸い込みたい気持ちが分かるな。
 匂いのないはずの自分に埋もれにくるドラルクの気持ちが、最近少し分かるようになってきた。弟子に教わる日も来るものだ。
 などと考えていると、指先にぺちぺちと腕を叩かれた。もう……とか細い声が耳に届く。
「……浸ってないで、はやく……」
 察しの良い恋人から、呆れる眼差しと苦情を寄越された。