遠回りしておかえり side_Draluc |
ノースディンの執務室で目を回したあの日、予想に反し何の注意も苦言もなかった。普段どうしてるんだと訊かれ、どうもこうも、と答える。 『そのまま仕事してますよ。ひどければ仮眠室か、帰れるなら帰ります。寝れば治るんで』 『……睡眠以外に何か対処法はないのか』 アンタの服でも一枚くれたらいいんですけど、とはさすがに言えなかった。ノースディンの気配で酔いが治まることを本人は知らない。子供の頃のあれは、幼さゆえに抱きついていただけと思っているだろう。ドラルクだってどうしてノースディンの気配で治まるのか分からない。 ――アンタを好きだから、ではない。 それは別の話だ。そのはずだと思っている。自覚したのは二十歳過ぎだし、それ以前からノースディンの側は体が楽になった。それで好きになったわけではもっとない。この男に対し絶賛反抗期だった時期でも癪なことにそうだったのだから。 ドラルクの沈黙を躊躇と取ったのか、ノースディンが口を開く。 『手に入りにくいものならば、私の方でも手を回すが』 『さっきみたいなことが起きたら困るって? 今日は重なってただけで、じきにもっと慣れますよ』 『予想外はいつでも発生する。早く治せるものがあるなら利用しろ』 ――じゃあ黙って一・二時間服を貸せ。 それを持って仮眠室に行くのが一番早い。むっつり黙るドラルクに、なおも続ける。 『我々はお前たちダンピールの個性を把握しきれていない。任務がその能力に依っているのだから、個別の対応はあって然るべきだろう』 淡々と言われる言葉をドラルクは口を曲げて聞いていたが、そこでふと気付いた。 ――今なら服以上のものを強請れるんじゃないか? 珍しく嫌味もなく配慮を賜っているのである。ドラルクが望むことにもっともらしい理由をつければいい。 それなら答えはすぐに決まった。決まっていたようなものだ。 『なら、アンタんちで寝る権利ください』 理解が追いつかなかったのか、ノースディンが数回瞬きをし、もう一度、と促す。 『だからアンタの家で寝る権利です。車ならうちより近いし、何せあのマンションは人がいない』 『……うちか?』 『とうとうお耳が遠くなったんですか? 寮とか言い出さないでくださいよ、署もVRCも近すぎて、気配まみれで休めない』 だからドラルクは最初から寮生活ではない。仮眠室だって横になれるだけマシ、という程度だからどうしても自宅は署から離れた場所になる。 ――普通にいい案だと思うんだが。 片道二十分、往復四十分が楽なる。気配酔いもリセットできる。ノースディン宅なら気も遣わない。あくまでも自分にとってのメリットだが、それを訊かれたのだからいいだろう。 しかし大体において即答するノースディンの沈黙が長い。顎に手を当て思案中だ。却下の返答に備え、待ちながら別の案も考えるが同等のものは浮かばなかった。執務室を借りてもいいが、おそらくそれは外野がうるさい。 ――それを言ったら家も同じか。 ノースディンの縁故であることをネタに足を引っ張る輩はいる。余計な材料を与える真似はしない方がいい、その辺りは考えそうなことである。 高級マットレスでもねだって切り上げるか、とメーカー名を適当に考え始めたがしかしそこで、鍵は、と声がした。 『え?』 『鍵はまだ持ってるのか?』 『……アンタんちの? 持ってますけど』 自宅の鍵は修行に入る前に渡されていた。帰宅時間が不規則なノースディンに合わせるには同じ家に住むのが一番手っ取り早かった。反発しながらも実家に戻らなかったのは前述の通り、修業で疲労した体が楽になるのがノースディンの側だったからである。修業が終わっても返せとは言われなかったから持ち続けていた。 『私の家ならいつでも使って構わない。ただしベッドだが――』 そこで言い淀んだ。まさか、とぎくりとする。 ――恋人か? ノースディンのご面相とポジションなら「まさか」ではない。が、いるようには見えなかった。とにかくモテるし女性への愛想もいいが、持ちかけられる縁談に見せる厭気が、根本から興味がないといった風なのだ。浮いた話も昔はあったがこの数年まったくない。 ――まさか本命ができたのか。 だから別にまさかではない、と頭では理解していても感情は別だ。しかしそれが理由ならノースディンが即答しないことも理解できる。観念したように口を開くのを、耳を塞ぎたい気持ちで見つめた――のだが。 『お前が使っていたものは今私が使っている。私のベッドは諸事情でフレームしかない。お前と帰宅が重なった日は私はソファで寝るが、それで支障はないか』 『……マットレスどうしたんです』 『…………コーヒーを撒いた』 『何やってんだ』 構えていた返事に掠りもしない内容で素で聞き返してしまった。突っ込んだ流れで頭が動き出す。 ――まっぎらわしい……! さっきの沈黙はそのせいか。フレームだけってそんなもんが家にあって気にならないのか、それで恋人はどうなんだいないのか、いないことにするからな。 頭の中で捲し立て、一息つく。 答えは出ていないがいつ使ってもいいということは、少なくとも鉢合わせはないのだろう。 『近いうちに買っておくからそれまで辛抱しろ』 『いいですよ買わなくて。アンタとは退勤時間ずれてるし、さすがに毎日ってわけじゃない。かち合った場合は同じベッドでいいです』 涼しい顔で軌道修正する。新品など用意されたら効果が半減以下だ。 『お前が休まらんだろう』 『アンタの気配は慣れてるから大丈夫です。でなきゃ家が近くたって言い出さないですよ』 気配の問題ではなく物理的な寝心地の話だろうがあえてずれた答えを返す。今ならギリギリ通るはずだ。予想通り一つ考えた間を挟んだものの、ノースディンは頷いた。 『ではしばらく様子を見よう。必要なものは都度揃える』 『リラックスのお供にヌンテンドー』 『くだらんことを言ってないで早く上がれ』 あっさり仕事に戻った男に、ではお先に、と挨拶だけして退出した。自席に戻り、盛大に息を吐き、小さくガッツポーズを作った。全員帰ったあとで良かった。綱渡り成功だ。 仕事の会話と思えば同じベッドでも、なんてセリフもあっさり言えた。何一つ拒まれなかった。 部下だから、身内だから。だとしても、嬉しいものは嬉しかった。 こうしてドラルクは再びこの家の敷居を跨ぐことになった。それも半年以上になり、酔いが早くに治まるので体調も良い。 ――それはいいんだけど。 隣で静かに眠るノースディンの横顔を見、小さく息を吐く。 ――なーんも意識せんなこの男。 同じベッドで寝ようが風呂上がりに半裸だろうが、顔色ひとつ変えない。数年ここで暮らしていたのだからそんなものだろうが、多少擦り寄っても一向に無反応だ。あまりに無反応なので、気配に酔っていなくてもノースディン宅に来るようになってしまった。その点も特に言及されない。 言っていた通り、ドラルクが先にベッドで寝ているとノースディンはソファへ行く。基本的には事前に一言入れるが、最近は予告なしも増えてきた。そういうときはノースディンが先にベッドにいるので、同衾のチャンスである。ドラルクとしては同じベッドの方が回復が早いので、私情とは関係なく助かる。 『恋人いないんですか』 とは一ヶ月ほどしてから訊いた。初めて連絡なしで夜中三時に上がり込み、ノースディンが寝ているベットに侵入した翌朝に。そのときは狙ったのではなくRINEひとつする余裕がなかったのだ。 ドラルクが用意した朝食のパストラミサンドをかじっていた男は一度目を上げると、口の中身を空にしてから答えた。 『いるように見えるか』 『見えないですけど。一応』 『見た通りだ。いたとしてもここには上げんから安心しろ』 『うわ自宅に上げない主義ですかこれだから』 これだからとはなんだ、と言いながら続きを食べるのを、安堵と嬉しさと諸々が混ざった気持ちで見つめた。 自分が恋人より優先されている事実と、でもそれは吸対の隊長職だからである、という可能性と。しかしそうだとしたら、自分が恋人になれば最強ということだ。 問題は、どう恋人にのし上がるかということである。身体的な距離は近くなったがこれは保護者モードに戻っているだけで、こうなると恋人への道のりは遠のいてしまう。 ――同衾も裸もダメならどうしろっつーんだ。 ドラルクがベッドに潜り込むと、最初の頃は多少体をずらしたりしていたが、最近は体を横にして終わりである。ドラルクの背中まで布団をかけようと数秒は自分を抱いたような体勢になるのだが、そこまでしても何も起きない。目など閉じたままで、確認が済めばすぐ眠りの世界に戻ってしまう。 この無反応男どうしたらいいと思う? と愛しのアルマジロに問うたが、具合が悪い部下に手を出す方がどうかと思うヌ、と至極まっとうな答えを返されてしまった。しかし明け方に寝ぼけてうっかりとかあってもいいと思う。そう来ればどんなささやかなアレでも既成事実に持っていく自信がある。しかしそれもジョンから、うっかりなんかヌンが許さないし捏造もダメ、と釘を刺されてしまった。 自分の外泊が増えてジョンはいささかご機嫌斜めであるが、いっときより顔色がいいので我慢してくれているらしい。ジョンの腹毛が至福なのは言うまでもないが、ノースディンの気配はマイナスからゼロへのリセットで、効果が違うので許してもらっている。この男の気配でうっとりはしない。 ただ、雑多な音も混沌と混ざる匂いもすべて消えて、雪の日のような静けさが神経を鎮めていくのだ。 ――ダブルベッドで良かった。 もう一度布団に鼻先まで埋めて目を閉じる。起床時間まであと三十分はあるから、まだ隣から伝わる体温と静かな気配に身を浸していられる。 ドラルクの修行が始まるとノースディンは客間をドラルクの部屋とし、このベッドを用意した。いっときのことなのだからシングルでもセミダブルでも良さそうなものだったが、実家に合わせたのだと思われる。 お前が休まらないだろう、と言った男は自分のためにはベッドを買おうとしない。それともそろそろ買おうとしているのか。 ――ずっと買わないといい。 そのうち恋人のポジションも獲得したら、フレームだけのベッドなんか捨ててもらうのだ。 ◇ ――だから、いりません、って言ったのもう忘れたのか。 プライベートのスマフォを開いた三秒後には、それをデスクの端へ追いやっていた。届いたのはメッセージが一通と写真が一枚。寒々しい木枠が主役だった客間が整えられ、新しいマットレスとついでに買ったのだろう新しい掛け布団が堂々たる様子で映っていた。 ――どうしてあの男はこうなんだ。 机に突っ伏すと、紅茶? コーヒー? 放っとく? と大して潜めていない声で相談が始まった。そこへジョンが混ざり、ミルクと砂糖多めのコーヒー、に決められた。声はまだ続く。しばらく調子良かったのに、本部長との舌戦も比較的平和だった、この間のアレが効いてるのかしら。 この間のアレとは、吸血鬼親子お見送り事件である。街中で親とはぐれた子吸血鬼を保護したところ、体長三メートル超の羽つきカンガルーみたいな吸血鬼がやってきた。襲撃かと思いきやその子供を目指してやってくる。まさか親御さんかね? と尋ねれば、子供は空飛ぶカンガルーに笑顔を見せた。 変身だったとしても頭が痛くなるほど強大で、捕縛は骨が折れそうだったし、何より相手に敵意がなかった。結果、ドラルクは木に登り自らその子供を返した。地面には降りないでくれると助かるのだが、と頼みながら。もちろん住民の避難はさせていたが、地面や建物、木々が被害を蒙る。 あの大きさの吸血鬼に至近距離で手を出されたらドラルクなどひとたまりもない。でも自分が適任だと思った。吸血鬼は敵ばかりじゃないと、教わる前から知っている自分が。 言葉が通じているのか不明だったが、その吸血鬼は子を受け取ると大きすぎるポケットにしまい、空を飛んでどこぞへと帰っていった。高層階の窓に多少ヒビが入ったがおそらく被害は最小限で、ドラルクの判断が正解だったとその場にいた者は理解した。――のだが。 上層部と警察中央組織が口を出してきた。そんな危険な吸血鬼を何故取り逃した、戦意が欠けているのではないか等々、的外れ甚だしい指摘を受け、それを全面からかぶって対応に追われたのがノースディンだった。 吸血鬼に手を出さなかったドラルクの判断をノースディンは是とした。報告を受け、ちょうど子供を返したあたりで現場に到着したらしい。リスクは高かったぞと一言寄越したくらいで、ノースディンからの評価としては上出来な部類と受け取ったというのに。 ――くそ、こっちの見極め失敗した。 この一ヶ月、ノースディンの家には行っていなかった。ドラルクのカバーのため東京まで報告に行き、戻れば署内上役への報告、補足資料の作成、再度の説明、とやっているのだ。日常業務と同時並行で。それがあの男の仕事だと分かっていても躊躇われた。そうしていたら先程のRINEだ。 『揃えておいた』 写真の説明はその一言だけである。 いい加減まともに寝たくなったのか、ドラルクの寝心地を考えたのか、それともあの一件の後では来にくかろうと気遣ってのことか。そんな気遣いなどする男ではないと分かっていてもタイミングが悪い。 昔からこういう、何で今、というタイミングで意図の見えないことをする。近付いたと思ったら遠くなる。近づいて遠のいて、また近づいては遠ざかる。それを何度繰り返したのだろう。 ――いつになったら、アンタに。 ことん、とデスクに置かれたカップの音に顔を上げた。甘いカフェオレの香りと、仰向けで大の字になっているジョンの姿に苦笑する。存分に吸うといいヌ、というポーズだ。 「ありがとう」 カップを置いてくれた希美隊員に礼を言い、ふかふかの腹毛に顔を埋める。スー……と息を吸い込めば靄も苛立ちも薄まっていく。 こんなことなら素っ裸で迫ってやれば良かった、という呟きは腹毛に吸い込まれ、くすぐったいと笑うジョンの声に消されて、誰の耳にも届かなかった。 一週間後、自分で何とかできる程度の軽い気配酔いではあったが、ノースディン宅へ向かった。深夜二時だ。家主はもう就寝中らしい。廊下の明かりはつけず客間に向かう。自分用のベッドを用意され、部屋まで昔のように整えられては、ノースディンの寝室に潜りこむわけにもいかない。 かつて知ったる動きで扉を開け、明かりをつけた。落ち着いたグレーとブルーで統一され、彩度も色数も抑えられているのは酔った自分の感覚を刺激しないためだ。掛け布団はいかにも暖かそうに膨らんでいて、ベッドの足元にはラグが敷かれていた。 他意など何もない。ただドラルクが快適に過ごすための部屋だ。 ――いつも、近くて遠い。 大人になれば、その上同じ職場で働けば嫌でも分かる。この仕事をしながら弟子を指導することがどれほど大変か。いくらダンピールでも、体の弱い者には安易に勧められないことも、誰よりドラルクに厳しい理由も。 ――分かるたびに、アンタが遠くなる。 シャワーを浴びて、新品の、まるでホテルのようなベッドで数時間眠って、ノースディンが起きるより早く家を出た。宿代がわりに作っていた朝食を、食べる姿を見ないまま帰るのは初めてだった。 ◇ ――卵がそろそろだな、冷凍庫のアボカドもだ。 ノースディン宅の冷蔵庫に中身に思いを馳せる。作ることが不定期のため、朝食用の食材はある程度日持ちするものを選んでいたが、最後に作ったのが三週間前だ。ノースディンの自炊はパンを焼く、卵を焼く、くらいだから、冷凍庫など開けられている可能性すら低い。かつて冷蔵庫が充実していたのは成長期の自分を気にしていたのと、ドラルクが食事担当だったからだった、ということは突発で乗り込んでから判明した。 年末年始の警備計画を画面に打ち込みながら、近々行くべきか、と考える。しかし行けばあの真新しいベッドがふんわり優しくドラルクをへこませる。ノースディンのベッドで寝られるならば、今日にでも行きたいところだった。時刻は二十三時で、今隊員は全員パトロールに出ている。朝の会議で早出だった自分は、本当はもうとっくに上がっていい時間だ。 一度泊まったきりまた訪れなくなったことに対し、ノースディンから何か言われることはなかった。署内で顔を合わせればいつも通り、報告と回答、指示たまに小言、その繰り返しである。 ――そうなんだよな。 計画書の作成を一通り終え、パソコンを落として机の上に両腕を乗せ、顔を伏せる。 ノースディンはドラルクが困っていなければそれでいい。助けは惜しまないがそれ以上干渉しない。 ――まったく、できた人間で。 できすぎて、綻びがないからドラルクの指は滑るだけで掴めない。 何か他の方法を……、と考えているうち微睡んでいたらしい。壁を一つノックされた音に、ぱっと顔を上げる。立っているのは自分を悩ます張本人だ。朝同じ会議に出ていたからだろう、ノースディンも帰宅前のようだった。もうスーツ姿に着替えている。 「いたのか」 「……いましたね」 「こんなところで寝るなら帰れ」 「今まさに帰るところです」 微妙に重い頭を動かし、引き出しを施錠して立ち上がる。ノースディンの気配でリセットできていたのが半年強、楽を覚えた体に今は若干ハードモードだ。 「ドラルク」 「もう業後でーす」 「最近は問題ないのか」 コートを羽織り努めて軽く、おかげさまで、と答える。近くにいたら吸い寄せられそうだ。欲している気配の塊の横を、メンタルに鞭を打ち通りすぎようとしたとき。 「私は今日遅くなる。これから早めの忘年会でな」 「……はあ」 「不在の方が都合がいいなら、使うといい」 「――は、」 あまりに見当違いなことを言われ、ぽかんとしたあと一周回って力ない笑いが出た。意識どころか一ミリも気付いていない。立っている場所がまったく違う。寝惚けてうっかりそんなムードに、なんてなるはずがなかった。 返事も口から出ないほど力が抜けたがしかし、突然閃きが降ってくる。 ――飲み会? そうだその手があった。日頃飲まないせいか頭から抜けていた。急に力を取り戻し、あくまで会話の流れに沿って返事をする。 「アンタなら大丈夫って言ったはずですけどね、まあそれならお言葉に甘えて」 「ああ」 じゃごゆっくり、と見送ったあと、即座にスマフォで深夜営業をしているスーパーを検索する。 手立てがあるというのは、実に素晴らしいことだ。 軽く丸い音を立てて赤い液体がグラスに注がれる。安くもなく高くもない、ちょっと飲みたかった、で買うにふさわしいカジュアルな赤ワインだ。一口飲んで、よしまあまあ、と頷く。残りは料理に使うから早々に栓をした。 ノースディンのベッドに潜り込むまっとうな理由がないなら、間違えてもやむを得ない理由を作ればいい。つまり、酔っ払ったことにすればいいのである。グラス一杯くらいなら酔わないが、ノースディンはドラルクの酒量を知らないはずだ。誤魔化せる。 あえてグラスを片付けずに寝室へ向かう。ベッドで体を伸ばし、布団を引き上げると自然と息が洩れて疲れが溶けていく。特別な匂いはしないはずなのに、自分の五感が何かを拾う。理由や原因を探すことはとっくに止めていた。自分の体がこれがいいと言っているのだから、それ以上の理由などない。二ヶ月ぶりの気配に包まれれば、眠りに落ちるのはあっという間だった。 それから何時間経った頃か、扉が開く音で目が覚めた。足音は一度止まり、ベッドサイドまでやってくるとそこでまた止まった。きっと中にはいってくると布団を持ち上げようとしたが、眠気のせいか腕が持ち上がらない。そうこうするうち頭上からため息が聞こえ、足音は遠のき、限りなく静かに扉は閉められた。 ――なんで。 アンタのベッドなんだからここで寝たらいいだろう、それとも私と寝るのが嫌なのか。この眠気はもしかして本当に酔ったのかそういえば体調悪かったんだクソ。と動かない頭で悪態を吐いて、唸りながら力を振り絞り、無理矢理体を起こす。幸い強烈に眠いだけで目眩もない。気配の残滓によるだるさもない。 一度リビングで水を飲んでから、まだ残る眠気と戦いながら客間へ向かう。夜闇に満ちた部屋に遠慮なく入ってベッドの脇に座り込み、布団の上にぼすんと頭を乗せた。当然最初から気付いていただろうノースディンが、またも長々とため息を吐く。 「……何がしたいんだお前は」 それは多分「師匠」の声だった。何割か「保護者」が入って、「上司」の要素はほとんどない。「上司」なら、説明を、の一言だろう。 「……どうした」 答えない自分に、声のトーンが変わる。「保護者」の割合が増えた。増えてほしくない筆頭だ。この距離でその声を聞いているだけで、体の一部が落ち着くとしても。 ――保護者でも師匠でも上司でもないものがほしい。 仕事で認められたい。その上で恋人になりたい。ただ守られるだけも、甘やかされるだけも嫌だ。でも今までの関係だって消えないし消す気もない。その間だってずっと好きだった。これまでの関係全部に、恋人を足したい。 でももう、手持ちの札がない。 「…………アンタのことが好きです」 「…………」 「……何とか言ったらどうですか」 ベッドに顔を伏せたまま言う。この静けさで聞こえなかったはずはない。しかし体を起こした気配はあったものの応答がない。そのまま沈黙は続き、落胆と眠気が混ざりそうになった頃、ようやく返事があった。 「……何故今言おうと思った」 「聞くのそれですか」 「何かに溜まりかねたんだろう、その様子は」 その「何か」を表すのは難しかった。いまだにノースディンの気配を必要とすることか、一向に意識されないことか、そこにあるのに手を伸ばせないことか。 口に出せそうなものだけ選んで答える。 「……一緒に寝ても、なんにもないんで」 「……ないに決まってるだろう。お前がそんなことを考えているとは知らないんだぞ」 「知ってたら何かあったんですか」 「だとしてもない」 迷いなく断言され、ぐっと腹に力を入れてこみ上げるものを堪える。容赦がない。続いた応酬に隙間が生まれ、幾分落ち着きを取り戻した声音が問う。 「だから部屋を分けたのが不満だったのか?」 ――不満? 不満か。間違ってはいないなと、見えない角度で苦笑し顔を上げる。 「そう、ご明察通りです」 「待て」 ドラルクが立ち上がるより先に、ノースディンは手首を掴んだ。この部屋に来てから初めて目が合った。暗闇の中で、ノースディンは朧気にしか見えていないだろうが。 「……まだ何か、聞きたいんですか」 僅かに視界が波打ったとき、ノースディンが動揺したのが見えた。自分の目が金色なことを思い出し、ふいと逸らす。 「……任務に支障は出しませんよ」 「その心配はしていない」 「じゃあ何です」 「私と付き合うか」 言われ、カッとなって手を振り払った。床から立ち上がり睨みつけると、ノースディンもベッドから降りた。 「……馬鹿にするな」 「していない。何故そう思う」 「私をそういう目で見てないくせに何言ってんだ。さっきだって、一緒に寝たって何もないって言っただろう」 「会話の断片だけ取り上げるな。お前はそんな体から入るような相手じゃない」 「こんなときまでご指摘どうも。つーかさり気なく自慢すんな」 「どうでもいいところで揚げ足を取るのも、」 一歩踏み出され、合わせて後退する。腕でも掴まれたら逃げられないし、その体温と匂いを拒みきる自信がない。 「じゃあ私とできるんですか、もし付き合ったとして」 「できる」 「……なんで、」 即答できる根拠が何も分からなかった。険しい表情だったノースディンがこちらを見てぐっと詰まる。 「……ベッド、用意してくれるみたいなものですか」 アンタは結局、何でもくれるから。寝具も部屋も、知識も時間も。必要なものなら、全部。 ◇ それからも変わらない日常は続いた。署内で顔を合わせれば喧々諤々、頻度は落ちたもののノースディンの家に行くのも止めていない。「睡眠時間確保のため」が口実なのだから、急に止めると話がおかしくなる。新品のベッドも慣れれば快適だ。行く度に傷が甦るが、それも慣れるだろう。 が、その日は違った。ドラルクが寝る直前帰ってきたノースディンは、話がある、と顔を見るなりそう言った。ずっとこのタイミングを待ち構えていたように。 あ、面倒くさくなるやつ、とドラルクは内心顔を顰めた。せっかく作ったホットミルクも多分冷める。だったら牛乳など温めていないで、あと一分早く客間に入れば良かった。 「……できれば手短にお願いします」 「腑に落ちない点がある」 「はあ」 「私の家に来るようになってからしばらくの間、お前の調子は悪くないように見えた」 早々に予感が適中しそうでげんなりする。誤魔化す理由をでっち上げないとまずい。 「通勤時間の差と快適な住環境のおかげですな」 「が、客間を整えてからはそうでもないな」 「枕に慣れるまで時間がかかるんですよ、繊細なんで」 「私の寝室でもそうだったか?」 「あの頃は疲れが溜まってたんで、横になったら即落ちてたんです」 「ほう、今は楽になったと。年度末の報告や臨時パトロールはお前には軽いらしい」 「……私の体調は私にしか分からんでしょうが」 「分が悪くなると不機嫌になる癖は直した方がいいな」 「アンタはそうやって私を煽るの直した方がいいですよ」 言い返したが、ノースディンはフッと笑っただけだった。その表情に血管が数本浮いたと思う。修行中この手の問答で何度悶絶していただろう。 今でも未練はある。憧れから始まって拗らせて、十年近く片想いをしていたのだからそう簡単に消えてはくれない。だが腹が立つものは立つのである。しかしこうやってドラルクを動揺させるのが手だと知っていて、易々と乗るわけがない。 「睡眠時間以外に、ここに来る理由があるのか」 「ありませんね。腑に落ちようが落ちまいが、ないものはない」 「本当か」 「しつこ……っ、て、ちょっと、危な」 すい、と伸びてきた手にマグカップを持っていた手首を取られ、カップの縁までミルクが揺れる。それをもう片方の手で支えている間に、体はノースディンの両腕に囲われていた。抱きしめられているというよりは薄く触れられている程度だが、ドラルクの目の前には青い髪があり、真横には頬がある。五センチ下を見れば、ダークグレーのスーツに包まれた肩がある。 ――……ひ、卑怯な……! 寝室云々の辺りで大方当たりはつけていたのだろう。それでこの不意打ち、警察官にあるまじきではなかろうか。今本気で気配に酔っていたら全部ぶん投げて息を吸いこむところだ。背中に腕を回して、顔を埋めて、目を閉じて。 ――一分でも、十秒でもそれができたらって。何回。 何回も思って、でも克服できたら、アンタも認めてくれるかなって。 真っ直ぐに伸びた後ろ姿を目蓋の裏に描いて、ベッドの中で丸くなった。 ――……あーあ、餌につられて、欲出して失敗した。 ここで寝たいと言ったのも、抑えきれずに告白したのも失敗だった。なくてもやっていけたのだから、もう少しタイミングを選んで、状況を整えて、それで、もっと。 喉の奥にこみ上げてくる重い塊を飲み込む。欲しい気配にも淡い体温にも囲まれているのに、今日も手は伸ばせない。 「……推測でしかないが、」 雨のように落ちる涙をそのままにして話し出すのを聞いていたが、どんどん濡れていくのがさすがに気になり頬を拭った。やけに静かなことも訝しんだのだろう、こちらを窺い見たノースディンがぴたりと言葉を止めた。そっと腕が解かれ、微かでも自分を包んでいた体温が逃げていく。 解かれたかったのか、そのままでいてほしかったのかは分からない。何か言おうと口を開いても何も出ず、また黙って涙を拭う自分の手からカップが取り上げられた。濡れた右手を、左袖の裾で拭く。何か反論をとか悔しいとか、いつもなら浮かぶ感情は遠くにあった。 呼吸がいったん落ち着くと、ノースディンが静かに尋ねる。 「……私がここにいるのは苦痛か」 「……だったら、来ませんよ」 それ飲みたいです、と指をさすとカップが戻ってきた。温くなって飲みやすい。飲んでいるうちに感情も落ち着いてくる。 「……私にしてほしいことはあるか」 依然として目の前にいる男が問う。いいなあ、と胸の辺りを見て思った。何も考えないであそこに顔を埋められたら。 「……何でも?」 「……言うだけ言ってみろ」 「……検討で終わるやつ」 「で、なんだ」 「…………アンタの部屋のベッドで寝たい」 元を正せばそれだけだ。服一枚あればいいと思っていたくらいなのだから。 「……それくらい、いくらでも構わない」 「じゃあ今からあっちで寝ていいですか」 「ドラルク」 返事を聞く前に向かおうとしたが、呼び止められた。腕に囲まれて以降ずっと逸らしていた目を合わせる。 「私はそこにいた方がいいか」 「…………」 真剣に、おそらく心からの親切か心配かによって、ドラルクにはどちらとも答えにくいことを聞く。一応真面目に考えてみたが答えが出ず、唸った末顔を顰めた。 「顔ではなく言葉で返事を」 にこりともしないが、その方がいいと言えば間違いなく来てくれる。多分それが分かっているから頼らなかった。どうしようもないなと苦笑して、一つ息を吐いてから答えた。 「……今はいいです」 「……そうか」 じゃ、と軽く言って、久しぶりのノースディンの寝室で布団に包まって目を閉じた。今日は特段不調だったわけではないが、数分前のダメージが大きい。その相手の布団だというのに、振られた上プライドも傷つけられたというのに、この感覚は変わらない。呼吸が深くなる。 ――だからずるいんだよこの気配。 近くなって、また遠くなっても、感じられなくなるほど離れたりはしない。 ◇ 突然のお呼び出しは昨夜だった。休日前夜、さて明日はジョンと日がな一日ゲームでも、と話していた矢先、ノースディンから連絡が入った。明日予定はあるのか、と言う。あります、と返せば、ならいい、とあっさり止まった。そういうところだよ、とスマフォを睨んだ自分を見上げていたジョンは、ガラ空きですって今から言うヌ、とかわいい頬をまんまるに膨らませた。 振られたからあっちに行くことは減るよ、と報告したのに少しも喜ばなかった彼にそう言われてしまい、やむなく、空いてないこともない、と返事をした。そこからノースディン宅に泊まりに行くことになり、昼近くまでぐっすりと睡眠を取らされ、ドラルクは今――海を見ている。 「……何ですこのデートスポットみたいな場所」 車で高台を上り、車が数台停められる平地で降ろされた。少し先に灯台があるようだがここは何もない。自動販売機があるだけだ。ただ、見晴らしだけは文句なしに良い。真っ青な海が遠く横長に広がって、水面がきらきらと光っている。人もおらず、山も海もほどよい距離にあるから、そこに潜む吸血鬼の気配もない。自分の日常とは別世界なほど平和で眩しかった。時折吹く風は春先の冷たさが混じるが、暖かい車内から出た体には心地良い。 「たまにはいいだろう」 「いいですけど、アンタに連れてこられると修業でも始まりそうで」 言っただけのつもりがノースディンから返事がない。手摺りにもたれていた体を起こし隣を見遣ると、ふむ、と何か確認する顔でこちらを見ている。 「え、マジで?」 「今の体調は」 「休みなんですけど」 「悪くはないな」 「そのための泊まり?」 詐欺、詐欺だよジョン、と特に用向きは知らされていなかったが心の中で訴えていると、体をこちらに向き直した男が腕組みを解いた。ええ……と遠い目で青空を仰ぐ。 「せっかくいい気分だったのに……」 「ここまで来た甲斐があったな」 「五分以上は休日出勤にしますよ」 「そこまでかからん。目を閉じて三秒堪えろ。堪えられない場合は即言うように」 「何するんですか」 「教えては意味がない」 「トンデモ吸血鬼呼んだり」 「そんなものが三秒で呼べるか」 嫌なんですけど、と目で訴えても聞く耳なしだ。仕方なく目蓋を下ろす。危険に晒すことだけはないと分かっているから、三秒で済むなら諦めた方が早い。 とはいえ多少の緊張とともに待ち構えていると、ふわ、と抱きしめられたのが分かった。一瞬びくりとしたが、鼻先まできたノースディンの気配につい顔を寄せる。自然と動いた体を寸前で止めたときがちょうど三秒だったらしい。腕が離れると同時に、ぱ、と目を開く。青空とコンクリートの地面と青い髪が視界に入り、感覚が強引に引き戻された。 ――……こ、こいつ……! 一度ならず二度までも、と憤っても混乱が上回って頭が動かない。そういう自分をよそに、体を離したノースディンが問う。 「今の気分は」 「…………傷口に塩とかドSかクソヒゲ今に見てろ、と思ってます」 「だから三秒と言っただろう。そして今は私への文句ではなく、お前の感覚的なものを聞いている。触れられて不快だとか違和感はないのか」 聞かれ、今度はぱかりと口を開けて絶句した。 ――あったらこうなっとらんわ。 危うく擦り寄るところだったろうが何すんだ、が裏に控えている感想である。もう分かっているはずじゃないのか。まったく真意が読めない。 「……なんでその疑問が出るのか分かりませんがね、残念ながら不快とかはないです」 「気配に酔っていなくても変わらないのか」 「アンタの気配が?」 「私の気配?」 お互いの頭上に疑問符が浮かび、おかしな間が生まれた。話が噛み合っていない。ノースディンの方はまるきり分からない顔をしているから、自分がこのズレを解消しなくてはいけない。というか、おそらく自分しか解けないのだろう。 これまでの経緯、ノースディンの思考と性格、傷口に塩の認識でいるハグをあえて試したこと、等々を考えると薄らぼんやり、まったく面白くない意味が浮かび上がってくる。 「……もしかして、私がアンタの気配を好……あくまで少しですけど、酔ったときだけとか考えてませんか」 「中間何をぼそぼそ言ったんだ」 「調子悪い時アンタの近くにいると治るから、それにつられて好きだと思ってるんじゃないか、とか考えてそうだって話です」 「……混同する可能性はあるだろう」 「……ッアンタな……」 殴りたい気持ちだが筋肉に阻まれて自分の手が痛くなるだけだ。脱力し、手摺りに腕を投げ出して顔を伏せる。 「落ちるぞ」 真隣に来たノースディンがすぐ側に手をついた。すらりとした手の甲を横目で盗み見て、また視線を前へ戻す。 「……そんなこと確認するために、休み合わせて、ここまで来たんですか」 「たまに市外へ出るのもいいと思ったのは本当だ。それと『そんなこと』ではない」 ハア、それはそれは、と体を起こし、変わらず輝く海を眺める。情緒がめちゃくちゃで落ち込みそうだが、景色があまりに明るくて落ち込みきれない。 ――一番懲りてないのは私か。 こんなに腹が立つのに何故近くにいると楽になるんだと何度思ったことだろう。告白を勘違い扱いされた今だって、横に居れば心地良い。結局まだ諦めきれないでいる。 「……ベッドを用意するようなものか、と聞いただろう」 「塩に次ぐ塩」 「いいから聞け。二度言わんぞ」 ひゅう、と涼しい風が通り抜ける。小さく首を竦めると、ノースディンが半歩近づいた。視線を海に向けたまま話し出す。 「私は、お前にはすべて渡していいと思っている」 「…………え?」 「ベッドや部屋など取るに足らん。私自身もそう変わりない。だからお前の問いは、ある意味その通りだろう」 「……」 「お前に対して欲を発散したいという感情は現時点ではない。が、恋愛感情やそうした欲求の有無は、私には大きな問題じゃない」 ぽかんとして見上げていると、こちらに顔を向けたノースディンと目が合った。陽の光の下で見る瞳の縁はうっすら青みがかっている。 「お前がそれを辛く思うなら付き合うことはしない。私は悪くないように感じるが」 はー……、と瞬きを繰り返して聞いているとごく真面目な顔で、風で落ちた前髪を掬われた。額に沿って流したあと、指が離れていく。 「で、どうする」 ――どう……あ、付き合うかどうかか。 手前の発言を受け止める方に時間がかかって理解が遅い。うっすら感じていたことも、そこまでとは思わなかったことも、まとめて言葉にされてしまった。 「……一応、再確認なんですけど」 「なんだ」 「私相手にたつんですか」 「……またそれか。そればかり重視すると恋愛観が爛れる上、」 「そのお説教こそ今いらんでしょ。だって欲はないって言うし、アンタご老体じゃないですか。何か用意した方が」 「お前だけで十分だ」 「、え、あ、そう」 そう……とさり気なく口元を手で押さえていると、察したノースディンがふ、と笑った。 「決まったならそろそろ戻るぞ」 「情緒全消しか」 とは言え冷えてきたし頃合いだ。腕をさすると、一歩先を行く男が手のひらを差し出す。ちら、と顔を見上げ、素直に取った。固い指同士が軽く絡まって、少し温かい。 ――昔は抱き上げられて帰ってたな。 手を繋ぐのも腕を目一杯上に伸ばしていた。それが今は肩も並んでいる。緩く握り返すと、同じ力で返される。とりあえず、ものすごくこそばゆい。 「……結局デートスポットだったんじゃないですか」 「そうなったな」 「……」 「……照れるのは構わないが手を本気で握り締めるな」 「そこはかわいいなと思うとこですよ」 「さらに力を入れるな、折れる」 「アンタこれくらいじゃ折れんでしょ」 「だからお前が指を痛めるだろう」 ぐ、と詰まった隙にするりと手を解かれ、しかしすぐ柔らかく握り直された。 「……何人にやってきたんですこういうの」 「外で手を繋ぐなどしたことはないが」 「ハ〜〜さようで」 この男にドラルクへの恋愛感情はない。多分本当に、今は。けれどもっと底から滲む感情は疑えないから、不満も不満と言いきれなくて困る。 いつか手放せなくなるほど執着させてやる、と意を決し、深く指を絡ませた。 ◇ 多分それが最初のデートで、体を繋げたのは二度目のデートより先だった。吸対の隊長と本部長が揃って休み、のんびり外出、などそう頻繁にできることではなく、半日でも重なった日に家で過ごすだけでも恋人らしい気分になるものだ。 よって、必然的に行為も濃いものになるのだが。 「……ん、」 意識はあるか、と確認するように、後ろから回った指が頬をとんとんと叩く。座った脚の間に座らされ、後ろを深く貫かれて達した一瞬落ちていたらしい。 背後の体に頬を擦り付けると、腹に回されていた腕が片方持ち上がり、肩をぐるりと囲んだ。密着した体を引き寄せるのはノースディンが動く合図だ。根本まで入ったそれに下から揺さぶられて息が止まり、体が落ちる一瞬掠れた息が洩れる。 「ッ、ア」 次第に大きくなる動きと膨らむ熱に堪えている最中、耳の後ろを舌が這った。それだけで首筋から震えが走り、かぶりを振る。 「嫌か?」 その問いも耳元で囁かれ、腕を掴む手に力を込めた。首を振るのは嫌の意思表示だろう。だというのに唇は肌の表面を柔らかく滑り、うなじを通って肩へ下りていく。 「性……悪……っ」 震えとともに涙が落ち、踵が力なくシーツの上を滑る。一度眠ってから始めたものの、やはり強めに酔ったせいか感覚は少し過敏だ。後ろからでは見えないくせに、やけに的確に涙を拭った男が言う。 「随分な言われようだな」 「自覚、あるだろ……」 「目の前に晒されていれば触れたくもなる」 だめか、と訊く声はだめだと返されることなど少しも想定していない。 もう少し動くぞ、言われ腕にしがみつくと、激しくはしない、と付け足してから再開した。さっきよりペースを落としているが、ゆっくり大きく動かれるとそれはそれで全身で感じてしまう。腕の中で捩る身を撫でられて、また訳も分からないうちに達している。 ――欲はないとか、何をもって言ったんだ。 大変悔しいが多分持続時間もノースディンの方が長く、自分に合わせて終わらせているように見える。精力剤だの余計なものを導入しなくて本当に良かった。 特に今日は慣れない体勢で入れられているせいか、普段当たらない箇所を擦られるたび声が上がるし、感じ方も強くて消耗が早い。そろ……と片手を挙げる。 「……なんだ?」 「……この体勢、もう、無理……」 「……だから大丈夫かと聞いただろう」 「やって分かることもあるでしょうが……」 せっかく翌日も休みだし、いつもと違う体位でやりたい、と言ったのは確かに自分だ。でも予想以上によすぎた。これではノースディンがいくまで保たない。 「続けられるのか」 「……対面なら、多分」 やれやれ、と言う口調にそぐわないものを、一度に引き抜かれて声が洩れた。動きが丁寧であっても擦られる距離が長いし、それが動けば気持ちがいいと体は覚えてしまっている。 腰を、と促されるまま浮かせると、入り口に当てられたノースディンのものは容易く奥まで入ってきた。抜かれた直後の寄る辺ない感覚など一瞬でかき消える。反った体が倒れないよう腕に抱かれて、いよいよ逃げ場がない。 「…………っ」 薄く開いた目から落ちていく涙が一通り止まると、睫毛の先から顎の端までそれを掬った男がこちらを見つめて苦笑した。感覚が鋭すぎて本当に辛いときもあるが、今日はそこまでじゃない。そう分かった安堵に、まったく仕方のない、という呆れが多々含まれているが、ドラルクが腕を伸ばせば、先んじて迎えるよう体を引き寄せる。 ゆっくりと、大きな抽送に体がゆらゆらと揺れる。海の中で波に揺れているみたいだ。意味が分からないが自分の顔を見たがる男は、今もこちらを満足気に見上げている。 「……ね、え」 「ん?」 「欲……ないって、なんだったん……っぁ、あ、また、」 話している途中でいいところを当てるな、と都度言っているが、声が聞きたいなどと言って頷いてくれた試しがない。しかしいつも取り澄ました瞳に欲が灯っているのを見るのは悪くなかった。腰を固定されて中や入り口を擦られるのに堪えながら、ノースディンの頬の真ん中に指を乗せ、瞳を間近に覗く。しっとりと濡れた黒目はまた熱を帯び、そのまま甘く唇を塞がれた。口の中を愛撫するよう舌は口蓋や歯列を柔らかく撫ぜて、ドラルクが肩を揺らして反応すると、唇を啄んで離れていく。もう慣れたもので、牙に当たらぬよう気をつける必要も無い。いくらかの陶酔のあと、吐息が絡む距離でやっと問いに答えた。 「だから心配ないと言っただろう」 「……アンタのせいよく、どうなってんです」 ノースディンは薄く微笑むだけで、まったく全然分からない。初めての夜もいつも通りの態度で、本当にできるのかだいぶ疑ったが無用の心配に終わった。 「……余計な心配するんじゃなかった……」 「最初から素直に言うべきだったな」 「それを言うなら、アンタが最初から、」 「一応反省はしている」 それは人の首筋に顔を埋めながら言う台詞か、と言い返したくとも口を開けばろくに言葉は紡げない。その上繋がった箇所から後ろの割れ目を通って、指が背をなぞり上げる。細切れの声を零せばまた律動が始まって、体が浮くほど奥まで押し付けられてはまた落とされる。 「ア、ぁ、ッ」 「……声を殺すと苦しくなるぞ」 「……っん、そ、そっくり、かえす、わ、」 ノースディンだって短い息で呻きを誤魔化しているのだ。腹の奥に力を入れれば案の定、微かに引き攣った笑みを返す。当然自分にも刺激は返ってきて、一瞬しか目に入れられなかったが。 「まったく、口の減らない」 震える腰のせいで不安定に揺れる上体を、口調と裏腹に抱き止めてノースディンが動き出す。首根にしがみついて、ままならない呼吸を繰り返しながら肌を擦り寄せる。これ以上ない、ゼロの距離。 気持ちいい、と零せば微笑のあと、頭と背中に手を回され一層強く抱き締められた。全身を埋め尽くす気配に体が大きく跳ねる。何度目かも分からないそれに身を任せている間も揺さぶられ、声はもう止めようがなく、それに反応してか中のものが硬度を増す。 ――あ。 くらりと目が回ったとき、ノースディンの喉からも押し殺した声が聞こえた。奥へ、と押し込む動きを背中に抱きついて受け止める。 この僅かな時間に沸き上がる感情は、こうなるまで知らないものだった。もっと、二度でも三度でも欲してくれたらいい。 などと思うからつい、抜こうとする動きを足を絡めて阻止してしまう。 「……ドラルク」 「……やです」 「また朝までこのままになるぞ」 言われ、朦朧としながらも本当に朝まで入っていたことを思い出して、うう、と唸る。 「朝までよりは……手前で」 「お前が落ちるまでか?」 じゃあそれで、と頷くと、ノースディンが微かに笑ったのが伝わってきた。このまま私がもう一度始めたらどうするんだ、と睦言にしか聞こえない小言を言う。望むところに決まっているだろう、そう言ってやらねばならない――のだが、今はノースディンの手が一撫でするごとに眠気が増すので難しい。 いつ意識が落ちたのかは分からないが覚えている限りずっと、心地良さが体中に満ちていた。 「行ってくるぞ」 んえ、と目を開けると、スーツ姿のノースディンが自分を見下ろしていた。ベッドを抜けたとき一度起きたはずが、即二度寝に入ったらしい。 「……あ、ああ〜」 「なんだ」 「たまには純和風な朝食にしようと」 早めに起きてセッティングして、自分はそのあと寝直すつもりだった。鯛の塩焼きに春菊のお浸し、粕汁に浅漬けと炊きたてご飯……、冷凍庫と野菜室のもので何とかなる献立だった。そろそろ使い切りたい食材も含まれている。 「夕食に回せるなら、早めに帰宅するが」 「……休日明けのアンタが?」 「……」 「明日の朝食だな」 「明日?」 「……連泊は不可ですか、ちなみに世界一かわいいアルマジロも同室希望なんですけど」 言うと、目を見開いた。スーツ姿でもそんな顔ができるらしい。ジョンの許しは親への挨拶に近いレベルなので、それは驚いたのだろう。 「それは、何泊でも構わないが」 「決定ですね。では行ってらっしゃい本部長殿」 そう呼べばやっと驚きから戻ってくる。それでも署内より遙かに柔らかい顔で口を開いた。 「隊長殿はよく眠るといい」 「おや、珍しく優しいお言葉」 に、と笑うと頬を撫でられ額に口付けられた。甘いご出発である。寝室から出て行くのを見送って、三度寝をすべく布団に顔を埋める。次に目覚めたらシーツも布団カバーも洗濯だ。しかし自分には、もう一台のベッドがある。ノースディンが何度か使っているからこなれてきた頃だろう。たとえ物足りなくても夜になれば本人が戻ってくる。 ――何時に帰ってくるか分からんが。 お互い出勤してしまえば使命や任務が優先だ。自分の今日の休みだって儚く消える可能性もある。 それでもここで待っていればおかえりなさいと言える。自分の方が遅ければおかえりとも言われる。 そうして、同じ朝を迎えることができるのだ。 |