ドラルクは憂鬱だった。元来憂鬱というものを引き摺らない性格であるが、この数日間はため息の吐き通しであった。
机には地図が広げられている。ローキャビネットの上には筒状に丸めた毛布、着慣れないローブ、肩掛けのバッグなどが並べられていた。普段の倍は荷物が多く、野外仕様の装備の数々は、これが余暇を楽しむ旅行ではないことを示している。
――ローブ一つで防御力上がると思うか? 私だぞ?
出発を明日に控えた今になっても文句たらたらである。
ドラルクの住まうルマニーア国には吸血鬼と人間だけでなく、太古の昔からの竜が生き続けている。数は多くないが長命の竜は吸血鬼よりも長生きだ。どの竜も穏やかな性格で、この国では吸血鬼も人間も竜も、これといった対立なく共存している。
しかし彼ら竜も穏やかではあるが生き物なので、大欠伸ととも火を吹いてしまったり、軽い散歩で川の流れを変えてしまったり、自覚なしに気候や地形を変えてしまう。朝起きたら山がなかった、などということは、環境に即して生きる者としてはなかなか困るのである。
人間は竜と対話する力を持たない。それを持つのは吸血鬼、その中でも長である竜の一族――この場合ドラルクの一族――が出向いて竜を連れ戻したり説得したりするのだ。一族の若い吸血鬼は、一度はその役を担う。見聞を広め、人間たちからの畏怖を集め、友好関係を維持するためである。
そしてこの度、約百年ぶりとなる人間側からの要請に対し、白羽の矢が立てられたのがドラルクであった。
――私はパスだと思ってたのに……。
ドラルクは一族でも類を見ない虚弱な吸血鬼だった。父や祖父は死と縁遠いスーパー吸血鬼だが、自分は違う。小石の一つでも飛んでくればすぐに塵になる。すぐに生き返るからいいのだが、塵を吹き飛ばされたり燃やされたらさすがにまずい。だから竜の相手は無理だろうと言われてきたのだ。しかし。
『今回はドラルク向きだと思う』
そう言ったのは祖父だった。隣にいた父は固まった。竜を探し対話するには、自らもまた竜を連れて行かねばならない。城の周辺には若い竜がおりドラルクも好かれているが、じゃれつかれると死んでしまう。共に旅をするのは困難だ。
そう伝えたのだが、別に竜は連れて行かなくてもいいよ、と祖父は答えた。エッじゃあ今まで連れて行ってたのは……? と全員無言のうちに思ったが、それより今回どうするかである。一人では当然無理であり、父や親族がついて行ったのでは格好がつかない。人間たちへのお披露目の場でもあるのだ。
悩みに悩んだ父は相談した。昔からの親友、かつ約ひと月前にドラルクが一応卒業した師・ノースディンに。
そして、その男の一考により決まった。
ノースディンが竜に変身し、ドラルクに同行する。
ハア?! とドラルクの出した大声は、周囲の賛同の声にかき消された。それなら人間たちにも、今回竜のお供はナシ……? と首を傾げられることもなく、ノースディンが一緒ならばドラルクの身は間違いなく守られる。いいえ私一人でやってみせます、と宣言できるほど無謀でも、周囲からの愛情と心配を分かっていないわけでもない。引きつりながら、ありがとうございます、と返しはしたが。
――何で! このタイミングで! まだ一ヶ月も経ってないんだぞ?
ノースディンの館を卒業と共に去ったのは十一月のことだった。修行が始まる前までの優しい「おじさま」ではなくなった「師匠」と三年間、毎日顔を突き合わせ、小言を適当に流し、能力の訓練はそこそこに、座学だけはみっちり。腹の立つことなんて山ほどあって、それで、最終的に。
――別にあれは告白なんかじゃないけど!
嫌いなところを挙げ連ねたら両腕で抱えきれないほどあるのに、そうじゃないたった一握りが手の中でキラキラと光って、指の隙間から光が溢れそうだった。握り潰すこともできず、今を逃したら一生これを後ろ手に持って生きる気がした。だから言おうとした――というのに。
――あんの唐変木の朴念仁……! なーにが氷笑卿だ、かまくら作って雪だるまとご一緒してろ!
塵になりそうな緊張と悔しさを必死に堪え、何とか口を開いたというのに、すべてを言いきらないうちノースディンはドラルクの言葉を遮った。落ち着いた声音で、ドラルク、と名を呼んで。
『私はお前をそういう対象としては見られない』
言われた瞬間頭に血が上り、すかさず条件反射で言い返した。
『なァにを勘違いしてるんです? アンタを好きだと言うとでも? 私が日光を浴びても死なないくらいありえないですね!』
『それなら安心だ。それから、いちいち全力で言い返す癖も直しなさい』
『アンタ以外にしませんよ!』
そんなやりとりで、ドラルクの告白は未遂に終わった。未遂だが振られたことは確かだった。それが数週間前のことである。
その傷も癒えぬうちにたった二人で、いまいち居場所の分からない竜に会いにいくというのだ。
広げた地図を避けて机に突っ伏する。明日から向かうのはドラルクの住まうルマニーア国に含まれる半島で、少しひょろ長い三角形をしている。話によれば、竜は最北端の城にいるらしい。
――行けば分かるらしいから何とかなるだろ。それよりよっぽど……。
と再びこぼしていると、ノック音の後に扉が開かれた。三年間聞き続けたリズムと固い音で相手が分かるのが嫌だ。
「出発前の確認は済んだのか?」
振り返れば、黒マント姿のノースディンが立っていた。明日からドラルクと旅立つとは思えないいつもの服装、修行中とまったく変わらない態度と口調だ。
「……完璧な支度がそこに積まれてますよ」
「地図はできるだけ頭に入れておきなさい。気候やその土地の作物も念のため」
「言うと思ったので調べました?。そういうアンタはどうなんですか。何か足りなくなっても分けてあげませんよ」
言うと、フ、と口の片方を上げた。
「私は道中竜の姿だ。不足があったとしても他の人間の姿を取ればどうとでもなる」
「お財布は私預かりですからね」
「好奇心のまま無駄遣いしないように」
「アンタの話してるんですけど?」
このやりとりからも解放されたはずだったが束の間の平穏だった。明日からまたか、と思うと顔も渋くなる。
「最終確認だが、これで問題ないな」
何が、と言うより先にノースディンの姿はふわりと溶けた。
――あ。竜。
変身が始まると、とげとげしい気持ちが引っ込んだ。動物が好きだからでもあるが、それを措いても毎回目を奪われる。
白い煙は足元から形をつくっていき、まず乳白色の爪と、床をしっかりと掴む足が現れた。足だけみると竜というより、大型の鳥のようだ。床に沿う尻尾はジェイブルーの鱗に覆われている。鱗は背中から頭にかけて続いているが、上へ向かうにつれノースディンの髪色のような濃い青みを帯びてくる。深い青のグラデーション。最後に顔が現れると、くっきりとした赤い瞳がこちらを捉えた。
色が美しくて目元が涼しげな――子ドラゴンだ。四足で立ち、顔を上げても、ドラルクの腰より少し高いくらいの。
「見た目はこれで通すぞ」
「……いいですよ」
――これだから、まだいいけど。
竜の姿であれば意識することも少ないし、竜の姿自体は文句なしにいい。大きさもお供っぽく、ドラルクが爪や固い鱗で死なないように、全体的に柔らか仕様なのもいい。
――どこかにふわふわ要素があったら完璧だな。
できれば腹の辺りだとベストだ。道々休憩したいときに最適じゃなかろうか。
しかし見つめながら考えるドラルクの視線をどう捉えたのか、フウ、と竜はかわいげのないため息を吐いた。
「中身は私だからな」
言われて口を引き結ぶ。竜の姿のまま両腕を胸の前で組みそうだ――と思うと同時に、竜の輪郭はするりと解けた。背が伸びてもまだ追い越せない、ドラルクより少し背の高い師が目の前に立つ。
「さっきくらいの身長もお似合いですよ師匠」
「背が気になるなら厚底という手もあるぞ」
「ハー? まったく全然気にしてませんー。大体まだ第三次成長期が残ってんですよ」
「それなら今回はいい機会だな。だいぶ運動になる」
ウエエという顔をした自分に、今日は早く寝なさい、と言い残して、ノースディンの後姿は去っていった。
――今回のが、クリアできたら。
そうしたら、あの取り澄ました師匠面も、子供扱いもなくなるのか。卒業したら何かは変わると思ったのに、自分の扱いは三年前とまるで同じだ。
すべてが終わり晴れがましく帰ってきた暁には、もう子供扱いは止めていただこう、と正面切って宣言してやる。
そう意気込んで、棺桶に入り蓋を閉じた。明日から当分棺桶では眠れない。
やはりノースディンにはふかふかの毛皮つきドラゴンか、さもなくば棺桶に変身してほしい。
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