星の数、砂の数より多いなら

 サク、サク、と足が砂に沈む。瞬く星々の光を浴びて、砂はほのかに明るい。
 世界中が遊び場の真祖のおかげで砂漠には何度か来たことがあったが、平素の如く動き回れる場所ではない。何より今回気にかけるべきは我が身ではない。自分は何に替えてもこの――、
「アッハハ! 沈んだ!」
「遊ぶな!」
 この弟子兼恋人を砂漠の砂と一体化させず、まして地平の彼方へ飛ばすことなく、無事連れて帰らねばならないのである。しかし本人にまったく危機感がないため、ノースディンの方は気が気ではない。
 ノースディンとドラルクがこの度訪れたのは、モロッコの南東部に位置するメルズーガ砂漠である。日本から航空機を二度乗り換え、最寄りの空港から一度宿泊地へ寄り、砂丘の麓まではラクダに乗っての移動であった。
 斜面に最初の一歩を下ろしたときはドラルクも慎重だったが、数歩で注意力は失われ、さらに十数歩で砂丘を登るというガッツも失われた。それはそうだろう、一歩ごとに足は沈み、その足は砂から引き上げるのだ。上へ進むほど砂は細かくなるから、沈み方も深くなる。それを支える足もまた沈む。
 ちら、とこちらを見たドラルクにため息を返したところ、やけになったのか「セイッ」というかけ声とともに飛び上がり、いや、飛び上がることに失敗し、たった今膝まで沈んだというわけだ。この地の砂とドラルクの塵が混ざった中へ。薄灰色の塵だけが本人の元へ戻っていくのを、頭の痛む思いで見守る。
「……中腹まであと二十メートルはあるぞ」
「体感二キロじゃないですか」
「だから言っただろう。そう容易く登れるものではないと」
「程よく砂固められません? 足が沈まなきゃ歩けるんですよ私だって」
「そう都合良く足場ができるか」
 中途半端な凍らせ方で何とかなる地ではない。仮に凍らせたとして、溶ければ今度は雨もないのに川が生まれる事態になる。
 ドラルクが麓を振り返る。苦労のわりにすぐそこだ。ドラウスの城のバラ園とエントランス間の方がまだ遠い。もう一度砂丘を見上げ一つ唸ると、当初の目標である中腹よりかなり下を指差した。この数十年で伸ばした長い後ろ髪が風に揺れる。
「あの辺で手打つんで、ふわっとどうですか。そろそろホバリングしたくなってきたでしょ」
「何故それで運ばれると思うんだ」
「じゃあ一メートルにつきキス一つ」
「呑むと思うか?」
「なんつー贅沢なヒゲだ、キス三つ」
 問題はそこではない。しかしこんなところで立ち止まっていても意味はなく、修行中でもあるまいし自分が言い出したことを云々と言う気もない。仕方なく立ったまま真っ直ぐ抱き上げると、キス三つだとそんなサービスいいんですか、とニヤリと笑われた。
 こうなるだろうとは思っていた。ドラルクが「砂漠に行きたい」などと言い出したときから。

 あれは四月の初めだった。ドラルクが、夏前にバカンス行きません? と言ってきた。行き先の希望は既にあり、それがモロッコだったことは意外だったが、ノースディンもいいんじゃないかと素直に思った。久しぶりに地中海沿いでゆっくりするのも悪くないと。
 しかしそこから続いた「砂漠も行ってみたいんですよね」には耳を疑った。ドラルクは旅先でも碌に宿から外へ出ない。それが自ら大自然を訪れようなどこの二百六十年の中で初めてのことだったし、何よりこの弟子は棺桶から出たときの室温が適温でないだけで塵になる。そもそも砂漠にドラルクなど究極の迷彩服どころか同化だ。私の塵の方が粒が際立ってる、などと真剣な顔で伝えてきたが、そんな白米の炊き上がりを評するようなことを言われても、ノースディンには気休めにもならないのである。

 飛んでしまえば二十メートルなど一瞬で、砂丘中腹を越えた辺りでドラルクを降ろすと唇が長めに当てられた。一つ目は浮き上がったとき、二つ目はドラルク妥協点の位置を越えたときで、これで三つ目だった。本当にいつまで経っても調子だけはいいのだが、ひひひ、と嬉しそうに笑われたら敵わない。
「あー頑張った頑張った、この私が砂丘を登るとは」
 ぐぐ、と両腕を上へ伸ばし、地平の彼方を臨んだドラルクのシルエットはいつもよりゆったりとしている。今着用しているのは頭からかぶるロングコートのような服で、中に薄手のダウンを着てもなお布が余ってスカスカだが、寒そうな様子はない。
 のびのびと気分の良さそうなのを見て、ノースディンもようやく景色へ目を向ける。
 ――……広い。
 意識まで広がる錯覚を覚えるほど、一面の砂、砂、砂だ。なめらかな曲線を描く砂丘の陰影は濃く、風も砂も冷えている。高低の異なる隆起が果てまで続く様は砂の海のようだった。砂の最果てからは白雲が立ちのぼるように天の川が夜空にかかり、色も等級も様々な星がそこかしこで輝いている。
 余計な光のない、これほどの星空を見たのはいつぶりだろうか。我知らず息を吐くと、隣のドラルクがこちらを見て笑った。
「やっと見れましたか、気色」
「ここまで来ればな」
「アンタがそれだから、ガイドさん気の毒がってラクダ横につけてくれたんですよ」
 指摘の通り、ここサハラ砂漠に最も近いエルラシディア空港へ降り立ってから、ドラルクとその周辺しか見ていなかった。
 ラクダでの移動は通常縦に連なるのだが、常にノースディンがドラルクの姿を確認しているため配置を変えてくれたらしい。しかしそれはガイドたちも不安だったからに違いない。事前にドラルクの体質の説明はしていたが、まさかラクダの鼻息で死ぬとは思わなかっただろう。
「……それで?」
「何です」
「砂漠は何が目的だったんだ。まさか本当に星を観るだけではないだろう」
「おや、恋人のロマンチックなお願いをお疑いで」
「天窓つきのホテルで、というならまだ分かるが」
 星空の美しい場所ならば、これまで一族で何度も訪れた。たとえ砂漠まで来なくとも、かつてはどこの空も星が輝いていたからいくらでも観賞できたのだ。が、幼少期はともかく大人になったドラルクはそれらにさほど興味を示さなくなっていた。
 問われたことが不服だったのか、ドラルクは口を尖らせると、ふいに足元の砂を踏み固め始めた。といっても固まりはしないが、つられて視線を向けたノースディンの耳に、つい先ほども聞いたかけ声が届く。
「セイッ」
「は?」
 顔を上げると同時にドラルクが出来損ないのジャンプをし、自分へ飛びついてくる。咄嗟に抱き留めたが足は左右とも砂に沈み、重さで揺らいだ足場は見る間も無く下へ崩れていく。背中が大きく後ろへ傾いだ。身が投げ出される浮遊感。
「お、前……っ」
 倒れ込む直前に念動力で体を浮かせ、ドラルクを固く抱いたまま斜面へゆっくりと着地した。自分の後頭部が砂地に触れたのが分かる。フードの中も服の中もこれで砂まみれ確定だ。息を吐き出す自分をよそに、ドラルクが楽しげな笑いを零す。
「ウッフフ、リアル空飛ぶ絨毯」
「洒落にならん……」
「寝転がった方がもっと見えるのでね」
「普通にそう言え」
 久方ぶりに速くなった鼓動を落ち着かせるべく腕を緩めると、乗り上げていた軽い体も隣に転がった。ドラルク本人がいそいそ詰め込んだレジャーシートのことは考えないことにする。
 仰向けになったドラルクの口から白い息が上り、濃紺の中に白く溶けた。星空を背景に上がる吐息は天の川のようにも見える。細い横顔は西から東、南から北へ視線を動かしている。何度か繰り返すと、むむ、と眉を寄せた。
「……何回数えても違う数になる」
「基準の星を決めるか、黄道の南北で分けたらどうだ」
「そっちのが難しくないです? つーか黄道曲線でしょ。分けるなら直線にしてくださいよ」
 かつて星の見方を教えたのも満天の星の下だったはずだが、復習を怠っていることが分かる返答である。やむなく腕を上げ、西端のレグルスからアークトゥルス、そしてアンタレスまでを繋いでやる。アンタレスは間違いようがないし、アークトゥルスはオレンジ色で目立つから分かるだろう。
「とりあえずその線で区切ったらどうだ」
「ンー、もうちょい真ん中辺がいいです」
「それならアーサーの車から南に降ろすか、逆に南西の……」
 南西にも一等星がある。乙女座を構成する星の一つ、スピカだ。それがふと記憶の何かに引っかかった。
 ――あれの距離は確か……。
 記憶の地層を掘り起こしていると、ふふ、と笑い声が聞こえた。
「何だ」
 右へ顔を向けると、先にこちらを向いていたドラルクが愉快そうに口角を上げていた。
「昔からアーサー呼び捨てですよね。歴史の授業のときは王ってつけるのに」
「……歴史であれば位階込みで覚える必要があるだろう」
 まあそれはそうですけど、と意味ありげな視線を寄越し、ふわ、と一つ欠伸をした。数はもう諦めたのか、幾らか眠たげな目を空に向ける。この弟子にしてはよく動き回った方だろう。降るような星の光を浴びて、青白い肌は燐光を纏っているように見える。
 ――あの子供がこうなるとはな。
 ピスピス泣けばなんとかなる、と甘やかされてきた子供は一定の教養や処世術を身につけたものの、成長してからは享楽主義を極め、なんと人間の、しかも退治人の相棒となってしまった。いつまで続くかと思えばもう五十年となり、外見の年齢まで上げて今も楽しげだ。
 外見に関しては、自分だけピチピチのままではおっさんゴリラより年若のようで畏怖みが減るから、とのことだった。それがいつか心を傷めることにならないよう、ノースディンは半ば諦めながら願っている。
「……少し前に、映画を見たんですよ」
「また支離滅裂な映画か」
「失敬な。ギルドで上映会を催しましてね、名画とやらだったんですが、その俳優がイケメンだと女性陣が大盛り上がりで」
「ほう」
「造形だけならうちの年季入り硬め歯ブラシのがいいな、と思ったわけです」
「……褒めるなら素直に褒めろ」
「というわけで、実際確かめるかと」
「つまりそれが砂漠映画だったわけか」
 その通り、とドラルクが笑う。外見を褒められ慣れているノースディンでも、今や恋人となった相手にそう言われれば嬉しくないことはない。が、そんな理由でよりによって砂漠まで、と思ってしまうのは致し方ないことだろう。
「それで? 確かめた結果は」
「思ってた以上に似合いましたよねその衣装」
「……その話を引っ張るな」
 ドラルク同様、ノースディンも現地のジェラバという衣装を身につけている。これはフードがついているのだが、試着時目深にかぶったところ妙な威厳が出たらしく、周辺からどよめきが起こった。王だ……族長だ……、と続々と見物人が集まり、大急ぎで支払いを済ませ逃げるように店を後にしたのである。ククク、と笑うドラルクが続ける。
「まあ、そういうことですよ」
「どういうことだ」
「この私の恋人となれば、異国のイケメンなんか目じゃないってね」
 ドラルクの中では映画俳優よりノースディンに軍配が上がったということだろう。素直な賛辞は聞こえてこないが、横顔は満足げだ。

 目を閉じたまま話していたドラルクがもう一度欠伸をもらした。薄く結界を張ると、風が止まったことで気付いたのか片目を開ける。
「張ったな」
「私もこの景色を堪能したいからな」
 言って、視界一面に瞬く星々を目に映す。確かに数えきれるものではなさそうだ。さすがに絶景だな、と魅入っていると、隣からにゅ、と眠たげだったはずの恋人が顔を出し、邪魔してやる、と笑うと体の上にのそのそ乗り上げてきた。身長を考えれば軽すぎるほどだが、一応二人分の重さになる。長身を受け止めつつ、偏る重心を均等にするのはなかなか難しい。
「……懲りん奴だなお前は……」
「ちょっと沈むの面白いじゃないですか」
「少しで済めばな」
 肩や踵、背中が砂に沈むたびノースディンはひやりとするが、ドラルクはお構いなしだ。自分の体をビート板代わりにして、砂の手触りを楽しんでいる。
「砂の中の方があったかい」
「崩れたら砂みれだぞ」
「私の恋人でしょ、今さら何です」
 至近距離でふふ、と何故か得意げに笑う。手や腕で砂を掬い、かき寄せながら抱きついてくるから服の隙間にみるみる砂が溜まっていく。確かにほのかに温かく、ドラルクの塵よりも細かく軽い。比べるものでもなく、そもそも塵と化すことなく過ごしてほしいのだが、ここまで細かくなくて良かった。回収がどれほどの労力になるだろう。
 手指の砂だけ払って、青白い頬に触れる。肌は思った以上に冷えていて、唇を合わせれば口の中の方が温かい。砂地を崩さないようゆっくりと背中に腕を回し、一つに束ねた後ろ髪を指先で弄ぶ。やはり少し寒いのか服に潜り込むように顔を首元に埋めてきたが、砂っぽい、と顰めた顔を上げたのでつい笑う。
「お前の塵に顔を埋める私の気持ちが分かったか」
「私のはすぐ私に戻るからいいでしょうが」
 最愛ドラちゃんの塵なんだし、とぶつぶつ言うのへ、そうだな、と返す。そうでなくては困る。
 二百六十年、どれだけヒヤヒヤさせられたか知れないが、何度塵になろうと必ず戻り、今こうして自分の腕の中にいる。西の端で輝く星を見つめながら直に無事を確かめられる。何と贅沢なことだろう。
 ――あの光が、瞬いたときからか。
 この子の無事と幸福が自分の願いだった。
 心配し続けることは今も変わらないが、それももう自分の一部である。そんなことを考えながらドラルクの髪を梳いていると、ノースディンの視線を追ってかドラルクも顔を星空へ傾けた。
「……お気に入りでもあるんです?」
「ん?」
「ろくに星も見ないまま帰るかと思いましたよ」
「今しがた思い出してな」
「何を?」
 腕を上げ、二百六十光年先の星を指す。
「お前が生まれたときの光だ」
 目を見開いて、素直に見上げる顔は幼い頃のドラルクと重なる。この夜空すべての星の光を集めても、双眼の深紅の輝きには勝らない。
 そんなことを言えばまた始まったと言われそうなので、こちらを向くのを待って再び口付けを贈った。