カレンダーに書き込まれた予定を確認し、冷蔵庫の扉を開く。今晩の夜食と、明日一日分の作り置きはある。ジョンは今日の夜からご町内フットサル合宿&親睦会で、明日の戻りは同じく夜。間違いない。
よし、とドラルクは頷き、スマフォでメッセージツールを開いた。履歴の下の下の下の方にいる、雪の結晶のアイコンをタップする。
『今どこですか』
さてどれくらいで返事が来るか、と画面を開いたままにしていると、さして待たないうちにぽこんとメッセージが浮かびあがった。
『時候の挨拶が抜けているぞ』
『ご機嫌ようヒゲ住所ください』
『宮城だよ、うつけの弟子』
その返事とともに、住所が番地まで送られてきた。最寄り駅の名前まで。
枕詞に引きつりながら、宮城ねハイハイ、と新幹線の時間を調べる。新幹線が止まるくらいしかない、と言われるシンヨコだが、こういうときは便利だ。突発でも動ける。ちょうどあと一時間後に出発の号があり、さくさくとチケットを予約した。
『これから行くんで歓待の準備しててください』
それだけ送って、今度はロナルドへメッセージを送る。今晩は泊まりで帰りは明日になること、食事は冷蔵庫にあるが外食でも好きにしていいこと、退治人衣装が泥だらけになった場合は他の洗濯物と分けておくこと、などを告げる。長え細けえ! メシは助かる、という返事に頷けばこちらは準備完了だ。女たらしの歯ブラシヒゲ――ノースディンの元へ行くのに何も荷物などいらない。スマフォと財布とモバイルバッテリーで事足りる。
教えられた駅には二十二時に到着した。駅から遠い、と不満を言えばタクれ、と返ってくる。空を飛んで行き来できる奴はその辺の配慮がないから嫌である。タクシーは酔って死ぬ可能性があるが、降りてから三回くらいデスリセットすれば三半規管の乱れも治るだろう。
そこに住んでいるのか長期滞在なのかは知らないが、とりあえず今ノースディンが暮らしているのは駅から車で一時間ほどの貸し別荘だった。付近には民家もコンビニも何もなく、高い木々だけが周囲を取り囲んでいる。止まったタクシーを降りて別荘を見上げれば、必要のないだろう明かりが目印のように二階の窓に灯っていた。駅前とは段違いの冷たい風がヒュウと吹いて一度死ぬ。
――毎回寒いところに住むんだよな。
うっかり冷気を出したり凍らせたときに言い訳しやすい場所を選ぶのだ。いっそ極寒地域にでも行ったらどうかと思うが、そこまで行くと生活が面倒くさいらしい。と言いつつ一番の理由は、自分の父が何かと呼び出すからだと思うが。
しかし復活しても寒さが待っていると思うと、形を取り戻すペースも遅くなる。震えながら半分ほど戻ったところで、頭上から声が降ってきた。
「こちらは寒いと送ったのを読まないからそうなるんだ」
「忙しかったんですー」
「移動中は座ってるだけだろう」
「そこで読んだって遅いだろ。うー……戻れば戻るほど寒い」
もう砂のまま回収してくれ、と思っていたら、上から落ちてきた布に頭から肩までを覆われた。なに、と両手で押し上げると、男物のコートである。
「げっ、これアンタの」
「玄関まであと何回死ぬ気だ、さっさと着ろ」
えええヒゲの匂いがうつる、と言いながらぐるりと身体に巻きつけて、指先に触れる生地に気付く。柔らかくなめらかで、キメが細かい。冬用のロングコートだ。結構、というか、かなりいい生地の。軽く羽織って前を合わせるだけで外気は遮られ、コートの内側はもう体温と同じで暖かい。外に出ている顔は寒いが、それでももう死ぬことはない。
――目くらましコート。
と、ドラルクは二百年前から呼んでいる。ノースディンが着るものは基本的に同じで、季節によって生地の厚さが変わるくらいだ。よって、マントではなく正真正銘のコートであるこれは防寒が目的ではない。着るもの一つで人の目は変わる、と言って何某かの用事のときにだけそれを着ていった。当時のコートのはずはないから買い替えているのだろうが、今は何に使っているのか、ナンパにしては質が良すぎる。
――ていうかアンタは上着も着てないし。
シャツとベストだけという軽装で、腰に手を当てこちらを見ている。寒さは普通に感じるらしいが、防寒着などないならないで何とかなりそうだ。
「早くしろ」
「せっかちはモテないですよ」
「レディを急かしたことはないな」
はいはいそうですねたらしヒゲ、と返しながら後に続く。すたすたと歩く姿勢の良い後ろ姿は、二百年前から変わらない。
通されたリビングには大きめのテーブルと椅子が四脚、それからコーナーソファが悠々と置いてあった。別荘というだけあって、余暇を楽しむための空間だ。テーブルには血液ボトルとグラス、あとは読みかけの本が一冊置かれている。優雅な雰囲気満載だが、何かお忘れではないだろうか。
「ちょっとヒゲヒゲ、何も準備してないんです? せっかく事前に知らせたのに」
「事前というならせめて前日に連絡を寄越せ。大体お前食べないだろう。血液ボトル以外何がいるんだ」
「プレゼントとか、お土産の名産品とか。牛タンとかフカヒレとかおいしいらしいじゃないですか」
「退治人どもへの土産なら駅で買っていけ」
「ケチケチ歯ブラシ」
ぶーぶー言いながらコートをハンガーにかけた。ノースディンはすべて右から左に聞き流している顔でボトルの栓を抜いている。ぽん、と軽く弾んだ音が立った。微かに甘い香りが漂う。それが目当てではないが、飲んでおいた方がいい。これから体力を使う予定なのだ。
それぞれ手にしたグラスを軽く掲げ、一応乾杯の形を取る。お定まりのご挨拶だ。開けたてのボトルはやはりおいしい。これだけでも来て良かったかもしれない、と機嫌良くグラスを傾ける。
「で? 今日は何の用があって来たんだ」
「迷惑料の取り立てに」
答えると、何だそれは、と片方の眉を上げる。
「私の町で大騒ぎしていっただろ。あれの取り立てです」
「大騒ぎしていたのは主にお前たちだろう」
「アンタが来なきゃ騒がなかったんですよ。あ、私帰りの新幹線は明日の夜一番なんで」
言うと、またか、という顔でこちらを見、はあ、と息を吐いた。まったくわざとらしい。最初から分かっていただろう。前置きなく、住所を聞いたときから。
「相変わらずだなお前は」
「そう言うアンタも手出さなかったことありましたっけ」
言い返せば苦々しい顔で口を結び、目線を他所へ向ける。
何年ぶり、いや今回は十何年ぶりか。定期的、というほどマメではなく、でもすっかり忘れた頃というほど間遠でもなく、用件を言わなくても伝わるくらい回数は重ねている。
いつから暗黙の了解と化したのかは思い出せないが、始まりだけは覚えている。この師の屋敷での修行が終わってから数年後のことだった。
――まだピチピチドラちゃんだった頃だな。いや今だってピチピチだが。
思い出すとわりと今でも身体が砂になるのだが、あの頃はまだ隠れ方も知らないかわいい少年だったから仕方がない。そんな時分に、見つかってしまったのだ。城の離れでしているところを。一人で大人になろうとしているところを。自慰の手前のレベルである。虚弱だったせいかドラルクの身体の発展は人より遅く、一人で悪戦苦闘の最中だったのである。
あのとき何でノースディンが自分を探しにきたのか、理由は聞いた気がするのだが思い出せない。
自分の部屋は父がよくやってきたし、城には親族たちもいた。だから誰も探しにこないだろう、城の離れにある古い家具置き場の隅にいたのに、あっさり見つかった。もちろん部屋の隅にいただけじゃない。棺桶の蓋を立てかけてガードもしていた。
聞こえた扉の音に血の気が引いて、慌てて服を戻したところで蓋をひょいと退けられた。自分を見下ろしているのがここにいるはずのない師で、しっかり目を合わせてしまったことのショックで勢い良く死ぬ。こんなところでコソコソやることなど十中八九そんなものだが、思いきり動揺を表明したことで自分でとどめを刺したわけだ。
しかし見つけた方のノースディンもそれなりに驚いたらしい。少しの間のあと、一つ咳払いをして言った。
『……そういうことは、鍵のかかる部屋でしろ』
うるさい鍵がかけられるならかけてたわ、と頭の中で返せても声にはならない。熱くなっている顔を見られたくなくて、俯いて歯を噛み締める。
見られたこと、まだ自分が「ちゃんと」できていないこと、「次」だってできる見込みがないこと、それらすべてが混ざり合って何も言い返せない。師の靴が向きを変えるのをただ見ているだけだ。しかしその足は何故か途中で止まり、躊躇いながらも踵を返した。
『……、あのな』
戻ってきたノースディンが、数歩離れたところから声をかけてくる。いつになく気遣うような気配が居たたまれない。
『別に悪いことじゃない。誰でもする』
誰でもするのだ、それくらい知っている。でも自分はまだできない。他にもできないことは色々あるが、それはかわいさで補えるからいい。でもこれは、できなくても構わないとは思えなかった。さらさらとまた身体の端が崩れていく。
『っオイ待て、聞いてたか、そんなに気にするような――』
言いかけたノースディンが言葉を切る。二人の間に僅かな沈黙が生まれた。
『……お前まだか……?』
ざらざらざら、と激しく身体が塵と化した。それが何か、と言い返したいのにさすが自分の繊細な心はそうさせてくれなかった。師の慌てた声を聞きながら床に砂山を築く。
『待て待て待て、そんなことで死ぬな。いったん話を聞け、戻れ、』
ドラルク、と真剣な声で呼ばれ、常よりだいぶ遅い速度で身体を再生させた。いつの間にかしゃがみ込んでいた師が安堵したように息を吐いたが、こちらは何も安心できる要素はない。変わらず黙ったまま足元に目を遣るだけだ。
『……見せてみろ』
『……え?』
突然言われたことに、ようやく声が出た。それは出るだろう。何を言ってるんだ、見せるって、何が、何を、え? と混乱しながら首を横に振った。無理だろうそんなこと。
『……できそうなのか?』
『……』
『ドラウスには言わない。他の誰にもだ。こういうことは先に知ってる奴に聞く方がいい。それとな、焦るとまずうまくいかない』
声に実感が伴ったように聞こえて、初めて師の顔を見た。料理など振舞わなくとも吸血など容易い、と言う男にもそんな経験があるのだろうか。
『……アンタでも、焦るとか、』
『…………ある』
数秒目が泳いだあと、目の前の師は答えた。微妙に嘘くさい顔だ。疑いの目を向ける自分に、もっともらしい声で続ける。
『焦ればうまくいかないのはごく一般的な話で、何だってそうだろう』
『……』
『お前が無理だと思ったらそこで止める。もちろん力は使わない』
『…………』
そんなことを言われて、じゃあお願いしますなんて言えるか? と思うが突っぱねることもできない。他に聞ける相手はいないのだ。父は無理だ。ものすごく前向きに心から励ましてくれるのが目に見える。羞恥と、生まれてきて一度も感じたことのない情け無さで多分死ぬ。
磨かれた靴の先が、間を持て余すように動いた。時間切れだろう。きっともう去ろうとする。でも言えるわけがない。
『……まあ、そうだな。困ったことがあれば呼べ』
しゃがんでいた師がとうとう立ち上がるのを見て、床についていた手に力を籠める。
――……別に、そのうち。
そのうち何とかなる。誰に言うわけでもないし、寿命は長いし。
だからいい、そんなこと、と諦めた頃、はあ、と溜息が聞こえた。ノースディンがおもむろに手袋を外し、え、と見上げているうちマントも脱いで、その辺の古い椅子の背にかけた。
『先送りしても悩む時間が増えるだけだな』
『は?』
『医療行為だと思え。後ろに回るから少し壁から離れろ』
言うなり、壁に貼りついていた自分の背に手を回し、あっさりと身体を手前にずらした。背後の隙間に腰を降ろし、脚を広げて自分の身体を挟む。当たり前だが身体のサイズが全然違う。囲い込まれたら逃げようがない。
『……あの、……あの、師匠? 何か抵抗とか、イヤだとかないんですか』
『あったら最初から言わん』
『私の方の心の準備が、』
『今からするんだな』
『この状況で?』
『見るぞ』
『……っ』
ぎく、と身体を強ばらせると、やめるか、と短く問われる。悩んで、迷って、見慣れた大きい靴を見、背後の体温を改めて感じ、ぐおおおおと唸った。
――完璧ドラちゃんに撤退の文字はない……!
覚悟を決め、やりなさいひと思いに、とヤケになって答えると一瞬遅れて、ふは、と吹き出された。人が死ぬ気で挑んでいるというのに、だからヒゲはデリカシーゼロ歯ブラシなのだ。
結局その日、見せるだけでは終わらなかった。見せたら触られて、ぴりぴりと痺れる刺激と快感とともに、ドラルクは初めて射精を覚えた。羞恥と疲れで砂になったが、復活してみたらノースディンが動揺で固まっていて、今度はドラルクがぽかんとした。今日既に何度も死んでいるし、驚かれるなんて今更すぎる。しかし、
『焦るものは焦る』
そう答えて片手で額を押さえた師はいまだに、最中自分が死ぬと続行不可になる。
――いつの間にか手順が増えたよなあ。
始めるときはいつも前後に座って、後ろから触れられる。あの日、離れでしたときと同じ体勢だ。何回もしているとはいえ、お互い頭がまとも――まともと言っていいかはともかく――な状態で、顔を突き合わせながら抱き合うのは少々ハードルが高い。
それで耳を後ろから指で擦られたり、舌を這わされたりしているうち息は少しずつ上がり始め、上半身を撫でる手の平の感触に目を閉じればもう、あまり余計なことは考えなくなっている。こうして触れることも最初の頃はなく、ノースディンはただドラルクを抜いて終わりにしていた。言っていた通り、これは疑似的な医療行為であって、自分の欲求ではなくあくまでドラルクの我儘に付き合っている、という体を貫こうとしていた。というか実際そうだった。
しかし回を追うごとに気持ちの良さは増して、頭も茹だって身体もくたくたの白菜のようになったとき、多分あれはうっかりだ。ノースディンの手が自分を撫でた。それが気持ち良かったりしたから、なし崩し的にあれもこれも崩れてしまい、今に至る。
「ん、」
自分の身体が勝手にぴくりと動いて、アレ、と目蓋を持ち上げた。昔の記憶と現実の感覚が混ざっている。耳をすりすりと擦っていた二本の指が、耳朶をぎゅうとつまんだ。死なない程度に。
「……お前今寝かけたな?」
「……ヒゲの触り方がゆるゆるなので」
「きつくすると死ぬからだろう。せめて起きてろ」
「こんなときにお小言なんて野暮野暮で、」
言い返している間に耳の中へ舌を入れられ、ん、と口を結んだ。大きく開いた手の平が、胸を中心に円を描きながらゆっくり撫でる。長い舌はぬるぬると自在に動き、指は時折胸の先端を遊ぶように引っかける。不規則な動きに息は乱れるし、不意を突かれればこれくらいでも声が洩れるのだから、覚えてしまった快楽は恐ろしい。身体を捩ったところで背中も脚も腕も、背後の厚い身体に囲い込まれているから逃げられない――ような気がするが、実際には少し押せばすぐ解けるくらいの力しか入っていない。
「……ッは……」
乱れた息が浅く速くなって、酸素を求めて顎が上がる。と、すうと波が引くように舌と手の動きが止まった。追い上げられる刺激から解放され、大きく肩で息をする。
――別のとこに目でもついてんのか。
後ろからでは顔も見えないのに、これ以上続けると死ぬ、という線ギリギリでいつも手を止める。ドラルクの息が整うまで本当に何もしない。腕も緩く回っているだけだ。
「……なんか、パラメータでも出てんですか」
もうすぐ死ぬとか、まだ死なないとか。訊くと、ふ、と小さく笑ったのが伝わった。
「出してる自覚がなかったのか?」
「……そんな自覚あったら消しとるわ」
そういう言い方をするから自分も噛みつくのだ。いい加減学んでほしい。
境界を見定められているのは良し悪しで、死なないのはいいがデスリセットできないままの耐久レースになる。もちろん耐久する体力はないから、ノースディンはひたすら自分のペースに合わせるしかない。自分から押しかけておいてなんだが、毎回よくやると思う。
それなら自分は楽かと思いきやそんなことはなく、ゆるゆる熱を与えられ、上がったところで落ち着かされ、呼吸が整えば再開だ。熱を溜めたままの身体は少しずつ苦しさを認識しなくなって、それでも気付けば手は止まって休まされ、頭と身体の芯が溶けるまで繰り返される。受け入れるための入り口を慣らすときも同じだ。IQが二兆あったって馬鹿になる。
「……ちょ、もう、長い……」
止めて、再開して、ようやく入った三本の指がずっと内側を撫でている。もう四肢に力は入らないし、何度も軽くいっているのが自分でも分かる。もう慣らすのも休憩もいいから次に進んでほしい。
「この辺がもう少しな」
伸ばした指で中を軽く押され、大袈裟に身体が跳ねた。入り口はきつく指を締めつけるが、足りない、と奥が言う。
「というかだ、お前普段まったくやらんだろう」
「……してますよ、人並みに、多分」
「こっちもか?」
「ッ」
指の腹が前立腺をそっと撫でた。もう駄目な気がする。次何かされたらもう出る。そろそろ焦点が合わなくなってきた。
「来るたびゼロからスタートだからな。お前を慣らすのは時間がかかるんだよ」
膨らみの周りを指の腹で撫でられて、もう頭が動かない。いきたい。でもいきたくない。一番気持ちがいいのは今じゃない。だからそこまでは。
焦らされて意識が遠のいたとき、中からゆっくり指が抜かれた。その感覚に目を開く。開かされた両脚に、ようやく手が添えられた。
「死ぬなよ」
朦朧としている自分にそう言って、ひたりと当てていたものを中へ押し込んだ。十分慣らされたそこは何の痛みもなく先端を呑み込むが、押し開かれる感触は指とは別のものだ。まだ先だけなのに飛びそうになる。歯を食いしばって耐えて、ゆっくり入ってくるものを受け入れた。奥まで埋められて初めて、身体の内側に隙間があったと気付く。中を満たされることが気持ちいい。
今更取り繕う相手ではないとはいえ、あまりにみっともない声は出したくなくて、眉をきつく寄せていた。そこに上から指が触れる。躊躇うような、気弱な触れ方だ。薄く目を開けば、赤い瞳と目が合った。口元の髭で表情は読みづらいけれど。
――見れば、分かるでしょうが。
余裕があるなら言っている。気持ち良くて仕方ないだけだ。そうじゃなかったことが今までに一度でもあるか。
それなのに心配して不安になる。本当に大丈夫なのか、と聞きたいのを堪えている。
籠った力を和らげるように、指の背が眉間を撫でた。この状況にそぐわない、眠らせるような動きに目を閉じる。これから身を任せるものに覚悟を決め、眉間の力を解けば抑えていた快楽が体内から迸った。跳ねた背を反らせ、息を詰めて達する。出すごとに中のものを締めつけるから快感のループだ。断続的に思考が途切れる。
「――――ッ……、ン、う」
「……息を止めるな、ホラ」
そう言われても息をすると腹の中にまで震動が響きそうで、声も息も口からうまく出ていかない。すべて出し尽くしたのにまだ熱が引かない。奥まで熱いものが入っているのだから当たり前だ。
「……ハ、……ぁ……ッ」
「……抜くか、抜くぞ」
無理矢理動かした首を横に振る。でもそのはずみで耳の端が砂になった。
――う、やばい。
間違いなく気持ちがいいのに、良すぎて息が吸えない。吸ったらまたいきそうなのだ。しかし自分が死ぬと師の方が強制終了になる。だから死ねないしいけないし、息も出来ない。どうしろっていうんだ。暴れたい気持ちである。
――もおお面倒くさいんだよこの人。何でここだけ駄目なんだ。
どうせまた黙って焦ってるんだろうと、呼吸困難を押して顔を見れば案の定である。何か青いし、手は行き場を失ってるし、格好つけ氷笑卿の姿はどこにもない。
――ほんとに、ああもう、その顔。
「っぶは」
「は」
「ハハハ、っ、ふ、ふは、……っあ、ア、まだ、くるし、っハハ、」
笑ったら必然的に息ができた。ぽかりと口を開いていたノースディンが我に返って、苦々しげに口を引き結ぶ。
「笑う余裕があるなら息を吸え」
怒られてまた笑って、しかしやっぱり苦しいので真面目に酸素を取り込んだ。笑うのも大変だ。
「笑う要素がどこにあったんだお前」
「……いやァ、必死、なんで、師匠が」
「……好き放題な弟子に手を焼かされていてね」
それはさぞかわいいんでしょう、とニヤリと返して、もう一度深呼吸をする。放置されていた重い熱が次第に揺り起こされていく。本当にこの状態で、いつも、いつまでも待つのだから敵わない。
「……で、いい加減、動いてくれないと、本当に死ぬんですけど私」
「やめろこっちの寿命が縮む」
「いつになったら慣れるんだ」
「慣れないだろうな」
開き直られた。まったくいっさい改善する気はないし予定もない、という言い方はちょっと師匠としてどうかと思う。
――じゃあまた次も、この気が遠くなる、死ぬほど気持ちがいいのに死ねないセックスか。
もー、と思っていると、お前がもうって顔をするな、と呆れた顔で師が言う。ゆっくり、驚かせないよう腰を動かしながら。下から揺する動きはまだ穏やかだ。それを続けるから死ぬんだというのに。
「……ん、あ」
少しずつ動きが大きくなって、奥を突かれるたび全身が揺れる。抜けるギリギリまで引いて、一度に埋め込まれても痛みも苦しさもない。入り口と中を長いもので何度も往復され、それだけで十分だと思うのにもっと強い刺激を欲しがるように腰がゆらめく。
もうどう見られてもいい、と思うけれど、欲しがることを一度も揶揄われたことはなかった。片脚を抱えられ、奥まで押し付けられて背中が反る。と、再び立ち上がっていた性器の先端に濡れた感覚が走り、目を開けた。上から包むように柔らかく握られ、手のひらが窪みを丸く撫でる。宙に浮いた脚が跳ね、頭上の男を睨んだが本人は素知らぬ顔だ。
「……それ、するなって、……前に……っ」
「ん?」
ご丁寧に首を傾げて見せる。絶対覚えているのにすっとぼけているのだ。
――それいやだって言ってんだろクソクソヒゲ……!
一番最初に覚えさせられた出し方だ。この師の手で。どうしても我慢できない。シーツをきつく握りしめ、全身に力を入れても先走るものが溢れて、幹に触れる指がそれを塗り広げる。小さい敏感な粘膜を絶え間なく刺激され、ちかちかと視界が点滅する。
「――……ッ……!」
呆気なく、二度目の精を吐き出した。は、は、と荒い息を繰り返し、今度は完全に落ち着く前にノースディンが動き出す。もう声は抑えられないし、何をされても気持ちがいいのに、それでも激しくしようとはしない。それじゃアンタはいけないだろ、と思うのだが、体力も意識も限界だ。すぐに落ちようとする目蓋を何度も瞬かせて顔を見ると、気付いた師が珍しく、ニ、と楽しげに笑った。いやそれこそ今笑うとこあったか、と心の中で突っ込んでいると、師が口を開く。
「堪え性があるんでね、誰かと違って」
「……っ!!」
――腹立つ〜〜!!
セックス中こんなに腹を立てることがあるだろうか。これは絶対さっき笑った仕返しだ。大人気ないにも程がある。しかしまた身体を揺らされればそれも持続しない。押し込むたび、自分のいいところを擦っていく。鼻から甘い声が抜けるのが悔しい。ここに来て声なんか殺せるか、と悪態をつくことで意識を繋ぐが、身体の奥がざわざわと騒ぐ。ものが考えられなくなっていく。
「……イ……っ、ぁ、……ッ」
またいく。そうしたら止まらなくなるし、もう保たない。
でももう口は言葉を紡ぐことなんかできない。喉を反らせて喘いでいて、何が言えるというのか。気持ちはいいけれど身体は疲れて限界で、どちらに倒れていいのか分からない。
くらりとした目眩を覚えたとき、目の脇に手の平が添えられた。薄く目を開けると、いつもより穏やかに見える赤が映る。
「…………」
動きは次第に緩くなり、止まる頃、親指が目蓋の端に触れた。自然と両方の視界は閉じていく。体内の熱はまだ残っているけれど微睡みが混ざって、溶け出るように身体から力が抜けていく。
――だから、体力ゲージでも見えてんのか、って。
手が離れるのを感じたのが最後、意識は睡魔の奥へ沈んでいった。
「お前随分ゆっくりしてるが、夜一番て何時なんだ」
いつもより早めに起きて風呂を借り、ノースディンが淹れた紅茶を飲みながら日課のエゴサをしていると、そう尋ねられた。
「え? 確か六時過ぎの、」
「六時?」
はっと気付き、壁掛けの時計をノースディンと同時に振り仰ぐ。
「ウワー! しまったここ山奥だった!」
「今から出ても間に合わ……いや、その前にお前まだ外出られないぞ」
「エ、まだ落ちてないの」
見ろ、とノースディンが顎をしゃくってカーテンの上を指す。分厚い遮光カーテンで室内は完全に陽を遮断しているが、上部の隙間からは微かに光が漏れる。室内より壁の色が明るい。つまりまだ残照があるということだ。
「死ぬじゃん」
「死ぬな」
はああ、とため息を吐いてスマホで時刻表を確認する。一時間はずらさないと死なずに帰れない。
「新幹線て時間変えられるのか……? 普段乗らないから分からん」
遠方の退治についていくこともあるがそう多くないし、ドラルクも同行する場合はロナルドが取る。
「時間変更くらいできるんじゃないか」
「アンタ乗ったことないでしょ」
「馬鹿にするな。それくらいある」
スマホをいじりながら答える師の横顔を見る。飛んで移動できる吸血鬼が何で。
「……何で? え、どこ行くのに?」
「北陸に。飛んでもいいが微妙に疲れるからと」
ふる、と口元が震えるのを手で抑えて続きを聞く。手元を見ているノースディンはこちらの表情に気が付かない。
「……な、何しに」
「和菓子作り」
「わ、和菓子……っ、あの、なんで?」
「ドラウスがミラ嬢に作るのだと、……おい何大笑いしてるんだお前の父だぞ言い出しは」
「ヒーーーー、何やってんだアンタたち」
腹を押さえて蹲る。旅先体験コースしかも和菓子。おそらく多いだろう女性旅行客に混ざって、高等吸血鬼二人が餡を練ったりしたのかと思うと笑い過ぎて死ねる。
「何その面白ネタ……お祖父様誘ってあげてくださいよ」
「そ……っ、んなことでお呼び立てできるか」
祖父の名前に一瞬慄いたがすぐに取り直す。絶対はちゃめちゃで面白いことになるのに、もったいない。
あー笑った、と涙を拭いて椅子に座り直す。さて新幹線をどうするか、と思ったところでノースディンが口を開いた。
「変更できるらしいぞ、ほら見ろ」
「へ」
ダイニングテーブルの上を、師のスマホが滑って手元までやってきた。見ればネット情報で、新幹線に乗り遅れたら云々と書いてある。
「……ロートル歯ブラシがググれるとは」
「いちいち煽らないと死ぬのかお前は」
「ヤダ褒めたんじゃないですか〜」
言うと、もう知らん、という顔で席を立った。血圧にご注意である。吸血鬼の血圧など知らないが。
置いていかれたスマホを取り、ページをスクロールし大体把握してから、ついでにそのままご当地土産を検索する。
――私だって調べられるんだけどね。
父は正真正銘の過保護だが、あの師も稀に近しいときがある。過保護というよりは心配性の方だ。本人は気付いていないに違いないが、どうも黙って見ていられないらしい。
――ま、相手がこのドラドラちゃんだからな。
心配で甘くなるのも致し方ないことである。存分にかわいがるといいのだ。
さてその師は一体どこへ行ったのか、開いたままのリビングの扉に向かって声を張る。
「師匠、お祖父様にRINE送っておきますよ!」
どこからか氷がスコンと飛んできて、やめろ馬鹿弟子! と遠くで怒鳴るのが聞こえた。
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