頼るも頼らぬも、お好みで
 
 人間でも吸血鬼でも、他者に頼ることが苦手という者は必ずいて、助けてくれとは言えないが周りの方から助けられる、または相手によっては頼ることができる者と、頼ることが選択肢にない者がいる。自分や父などは得意な方なので、困ったら一言頼めばいい、と思うのだが彼らの場合そうはいかない。頼んだら迷惑ではないかとか、プライドの問題とか、彼らなりの心理的事情がある。それは想像はできるし理解もできる。
 しかし選択肢にない、となるとお手上げだ。自分だけではどうにもならないから人の助けが必要なのであって、その選択肢がないなんてどうやって生きていくのか分からない。自分だったら一日で死ぬ回数が倍になる。
 けれど、それはそういう生き物だと思って扱うしかない。理解は難しいが仕方がない。
 その謎の思考と行動に、ドラルクは今まさに遭遇していた。

「うわ」
 家主からの応答がない玄関を勝手に解錠し、リビングに足を踏み入れたドラルクは漂う空気に顔を顰めた。一歩入っただけで分かるアルコールの匂いと、澱んだ空気。マントでパタパタと煽ぎながら中へ入ると、家の主はソファに寝転び仰向けになって、脚を組んだ体勢で眠っていた。両腕は胸の上で組んでいて、眠っていても偉そうだった。上からまじまじ、目を開けないノースディンの顔を眺める。
 傍らのローテーブルにはスリムなボトルから角ボトルまで、複数種類の酒がさまざまに並んでいた。どれも吸血鬼用の度数の高い酒ばかりだ。これじゃインターフォンなどいくら鳴らしたって目は覚めないだろう。
 ――どんだけ飲んでんだ。ていうか何してんだこの人。
 一時期この師の屋敷にいたが、酒を飲む姿は見ても酔った姿は見たことがなかった。乱雑な空間は屋敷に一つもなかったし、紅茶や血液を飲んだあとの食器は必ず洗って食器棚にしまい、こんな風に瓶やグラスを出したままソファに転がるところなど見たことがない。
 ――ふうん。
 何だか捨て鉢みたいな男の顔を眺める。起こしてやるか、放っておくか。考えていると、髭の下の口が小さく開いた。
「……酒臭いな」
「……アンタを中心にね。ていうか人が入ってきたの確認ぐらいしないのか」
「玄関から入ってくるのはお前しかいない」
 起きてたんなら扉を開けろ、かわいい私がやってきたんだから目も開けろ、と思う。アンタそれ大丈夫なのか、とも。常々格好つけて見せている「氷笑卿」でも、おそらく手本となるべく振る舞っている「ノースディン師匠」の姿でもない。
「見ての通り今日はお前の相手ができる状態じゃない」
「そのようで。私だってアンタの介抱なんて御免なので帰りますよ」
「そうしろ」
 すかさず帰ってきた答えと、安心したように吐かれた息に眉を寄せる。だいぶ近しい知り合い――色々な意味で――が来て、見るからに調子が悪そうなのを放って帰ると言われて、ほっとする心境が分からない。
 ――それで何、一回も目を開けないで私を帰して、この荒んだ部屋でまた寝るってのか。
 見たくないものを全部、視界から締め出すみたいにして。
「……今のアンタなら私でも倒せそうだな」
「ははは」
「そこで笑うな。私だってデコピンぐらいできるぞ」
「やめておくんだな、まだ酒が抜けてない」
「……これだけ空ければそうでしょうよ」
 まあな、と答えてノースディンはまた黙った。どういう相槌だ、と思うが、弱い者いじめが趣味じゃないのは父と同じだ。追い討ちをかける気にならない。今更そんなわけはないだろうに、力の制御に不安を覚えるくらいには絶賛弱体化中だ。
 しかし、仕方ない水でも汲んできてやるか、と向かったキッチンで、げ、と声を上げる。前言撤回だ。水道からシンクまでが丸ごと凍っている。足早に戻ってまだ目を閉じたままの男へ文句を垂れる。
「おい何凍らせてんだ、あれじゃ水出ないだろ」
「……だろうな」
 そう、この男は凍らせたら凍らせっぱなしなのである。冷気が操れても温められない。なので自然解凍を待つしかないのだが、ドラルクはそんなものを待ってはいられない。さっさと現実的に片付けるのみだ。
「もー……ガスは生きてるんだろうな」
 ガス台のすぐ横まで氷が張っているが、スイッチはかろうじて免れている。カチカチ、と音が続き少し時間を要したが、青い炎が出てほうと息を吐いた。鍋に氷を入れれば湯にできる。
「そこの飲んだくれ歯ブラシ、起きてるならここに氷入れてくださいよ」
「……お前帰るんじゃないのか」
 鍋を持って師の元に戻ったのに、凍らせた張本人はいまだ動かずそんなことを言う。鍋の柄をデコにさしてやりたい。
「帰るわこの惨状片付けたら。だからここに氷。水飲めないだろ」
「飲みたいなら風呂にいけ」
「私じゃなくてアンタだっての。……でもまあそうか、風呂があったか」
 どうしても動かない師のことは諦めた。人には人のペースがあって、槍でつついても動かないときは動かない。人間と暮らして早何年、元々の寛大さに磨きがかかり、気も長くなったのだ。
 言われた通り風呂は無事で、鍋に温水を入れて軽く火にかけ、ゆっくりとシンクから溶かしていった。溶け出して薄くなった氷はカシャンと繊細な音を立て、排水口へ流れていく。何度も湯を流して水洗レバーを上げて下げて、ようやく細い水が出始めた。それをグラスに入れて、また戻る。
「ほら水、優しい私がシンク生き返らせてやったんだからありがたく飲め」
 これでも目を開けないならさすがに頭からぶっかけよう、と待っていたら、やっとのことでノースディンの目蓋は持ち上がった。組んだ腕を解いてこちらへ手を出すのでそこに押し付けてやる。百億点満点の優しさだ。のそりと上半身を起こしたのを見、ふん、と息を吐いて窓辺へ向かった。ガラス窓の両端を開けて換気をし、次はテーブルに散乱するボトルの片付けだ。燃えないゴミか資源ゴミか、分別はどうなっているのか。気になったがそこまでしてやる義理はないので、とりあえず種類ごとにまとめておく。
 ちら、とノースディンの様子を見れば、しっかりグラスを傾けるくらいに飲んでいた。本当は喉が渇いていたのだろう。でも面倒で放置して寝たに違いない。
 ――そういうのは分かるんだよ。
 疲れたらすぐ死ぬから何をやって何をやらないかは当たり前に取捨選択している。家事周りは好きな部類だからあまりサボらないが、それ以外はやりたいことしかやらない。必要だから、そうすべきものだから、なんて理由で動く気なんてまったくない。
 ――まったく、今日はいい夜だってのに。
 開けた窓を通る夜風が部屋の生ぬるい空気と入れ替わっていく。窓の外では初夏の木々が葉を茂らせているし、その上に輝く満月も黄金色で美しい。昨日は一部の地域で雹が降ったらしいが、今日は終日心地の良い天気だった。
 ――……雹?
 窓辺から振り返ってノースディンに目を向ける。空にしたグラスをローテーブルへ置いた師は、またソファに寝転んでいた。
 ――関係ないよな。多分。分からんが。
 師匠と弟子であったり、身体の関係があったりするが、ノースディンのことはあまり多く知らない。父に何か聞くと、たまに困ったように微笑んで言い淀むことがあった。だから父は知っていても自分は知らないし、本人は自身のことを話さないから、今日のこれも推定したって答えは出ない。
 月明かりが差し込むようカーテンを開けて、ソファの側まで戻って床に座る。
「……アンタ一人のときこんな飲んだくれてんですか」
「そんなわけあるか」
「けど、たまにはあると」
 黙ったということは当たりだ。分かって潰れている。来たときからずっとそういう空気だ。
「……お前はないだろうな」
「ないですよ、そうなる前に死ぬ」
 何があったんだ、と聞くような関係じゃない。何かなければこんな飲み方はしない。遊んだって羽目を外したって、きっと。
 月光で薄く光る青い前髪を、指の背に乗せて持ち上げてみる。
 ――酔っててもいい艶だな。トリートメント何使ってんだ。
 日頃の生活と手入れがなっていなければ、少し乱れただけですぐパサパサになる。自分が事務所に居候を始めた頃のロナルドがそうだった。
「……うかうか触るな」
「酒が抜けてないから?」
「凍りたくないだろう」
「凍らせないでしょ」
 言うと、両目が薄く開いた。でも返事はない。本当に普段とテンポも反応も違う。
「今どれくらい酔ってるんです。ほろ酔い?」
「お前にこんな姿晒してる時点で泥酔じゃないか」
「アッハハ」
「最悪だ」
 だろうな、と同意してニヤニヤ笑ってやる。そう言いながらも見せる姿を改める気はないらしい。
「寝ればいいんですよ酔っ払い」
「……今、何時なんだ」
 水すら面倒がる男が寝起きの顔で体を起こそうとするので、十一時、と教えてやる。半端だな、と呟いたということは、起きる意志があるのかもしれない。しかし起きたところで座り姿の置き物だろう。
「お暇なご隠居ヒゲは丸一日寝ても大丈夫でしょ。私はゲーム進めてから帰りますよ」
「ここでか?」
「私に酒瓶の片付けとシンクの解凍だけさせて帰れってのか」
「……そういう意味じゃない」
「じゃ好きにしていいだろ」
 ソファの座面に背中を預け、取り出したスマフォでゲームアプリを立ち上げる。一度身じろぐ音が聞こえてからは、声もしないし動く気配もない。寝ることにしたようだ。ゲーム音だけが部屋に響く。
 ――辛いとかしんどいとか、語彙から消えてるなこの人。
 本人が言う通り酔っているからか、自覚がないのか、相手が自分だからか。どう見たって普段では考えられない状態なのに、悲壮感がない。ただ酔ってやり過ごそうとしている。だから本当は一人になりたいのかもしれないが。
 ――まあ、知ったこっちゃない。
 機嫌が良かろうが悪かろうが好きにする。そういう自分と同じ空間にいることなど、とっくの昔に慣れているはずだ。



「おい、夜だぞ」
「……?」
 声をかけられ、ドラルクは目を開いた。何だか寝床が記憶より快適だ。左右へ首を回せばそこは寝室で、ベッドの脇ではいつも通り、かっちりクラバットまで巻いたノースディンが両手を腰に当てて立っていた。えーと何だっけ、と昨晩からの記憶を手繰り寄せ、真っ昼間にここへ移動させられたことを思い出す。
 最初に寝たのは確か朝の四時頃だった。潰れている師を後ろにゲームをしていたら眠くなり、仕方がないから寝室から毛布と布団を持ってきて、師に毛布を投げ、自分は羽毛布団に包まった。それでまあまあ熟睡していたら、今度はノースディンに起こされたのだ。
『寝るならベッドで寝ろ』
 さっきまでソファに転がっていた奴が何言ってんだ、と思ったし、普通に眠かったので無視したら、布団ごと寝室に運ばれた。あのときもう復活していたのだろう。そういえば隣で寝てたな、と思い出す。
「……おはようございます」
「おはよう。紅茶が冷めるぞ」
 屋敷での修行中も、朝はノースディンが紅茶を淹れてから一日が始まった。そのときとまったく同じ顔で、半日前に見せたあの気怠さも、まして酒の香りなどはきれいさっぱり消えていた。ドラルクが遠慮無く眺めていても、視線の意味は分かるだろうに表情は動かない。神経が細いんだか太いんだか、と鉄面皮から視線を外し、一つ伸びをしてベッドを抜ける。
 ――ま、私がそれに乗ってあげるわけはないんだけど。
 扉の前に立つノースディンににっこり笑って、で? と問いかけると、今度はあからさまに嫌そうな顔でそっぽを向いた。
「それで師匠、私に何か言うことは」
「……」
「今紅茶が淹れられるのは誰のおかげですっけ」
「…………」
「たーった一言の礼も言えない紳士なんてこの世にいないですよねえ。ね、ノースディン師匠」
 畳みかけると、苦虫を噛みつぶした方が百倍マシ、みたいな顔で、師は声を絞り出した。
「……礼を言うよ不肖の弟子」
「ひひひ」
「嬉しそうだな……」
「そりゃあ」
 そうに決まっている。こんな顔をさせられるなら、シンクの一つや二つ、何なら風呂場だって溶かしにくる。でも、凍ったら凍った分だけ酒瓶は増えて、師が目を開けない時間は長くなるのだろう。
 ――そういうものなんだろうな。アンタにとっては。
 ドラルクだって、他人がどうにもできないことを頼れとは思わない。自分が死にやすいのを何とかしてくれと言うのと同じだ。
 でもだったら余計に、頼めるところは頼んだらいいと思うのだ。水がほしいとか、時間が知りたいとか、凍ったシンクを溶かしたいとか。
 ――百年に一回くらいならね。ヤケ酒もアリだと思うけど。
 この寿命の長さで、毎回真っ正面から向き合ってもいられないだろう。それも分かるので、廊下を歩きながら師の背中に声をかける。
「ヒゲヒゲ」
「正式名称みたいに呼ぶな。なんだ」
「付き合ってあげてもいいですよ、今度ヤケ酒するときは」
 そこらの物が凍る前に誰か呼んでおけばいい。しかしせっかく申し出てあげたというのに、ノースディンは顔を軽く仰け反らせ、これまたものすごく嫌そうな顔をした。失礼千万のヒゲである。
「……気持ちだけいただこう」
「いただく顔じゃないですけど」
「いやいや、ありがたくいただいた」
「既に全身で逃げてるだろ」
 そんなことはない、ある、とくだらない応酬をしながらリビングに入れば、キッチンは磨かれていたしテーブルもソファもいつも通り整っていた。ポットに入った紅茶からはスパイスの香りが漂っている。隣を見上げれば、まだ何かあるのか、という師の顔がこちらを見下ろしている。かっちり整えられた衣服と髪と、手入れを欠かさない髭、正しい姿勢と佇まい。真っ白な手袋と偉そうな腕組。
 ――まあ、この方がヒゲっぽいか。
 歯ブラシだってくたびれたり新しくなったりするからな、と納得して頷く。
 早く座れという声にハイハイと答えて席に着き、カップを手に取る。向かいに座る格好つけマンが淹れる紅茶は大変癪だが、多少冷めていたっていつでも美味しい。