師と同居人と食事の話 |
粉末ココアに砂糖と牛乳。それらを鍋で温め二杯分のココアを作ってから、もう一杯分の牛乳を温める。今度は人肌程度で火を止めカップに注ぎ、パック入り血液を加えればブラッドミルクの出来上がりだ。仕上げにブランデーを少々垂らし、ココアにはマシュマロを一つずつ投入する。 「ほいロナルド君、できたよ」 「ジョーンできたって」 こういうときだけは素直な退治人が、嬉々とした声で我がマジロに呼びかけソファから立ち上がった。マシュマロだ、ヌヌヌヌ、と甘党組が向かい合い、きゃっきゃとはしゃぐ中に加わって腰を降ろす。 「あー……これだよこれ、ココアにマシュマロ考えた奴天才」 「甘すぎないのかねそれは」 ロナルドはこの世の春みたいな顔をしているし、味覚の基準であるジョンも満面の笑みなのだからおいしいのだろう。しかし甘いココアに甘いマシュマロとは、実は結構な甘さではないのだろうか。 「マシュマロそんな甘くないぜ。ココアのが甘い」 「ならマシュマロなくても良くない?」 「バッカお前、見た目の幸福度が違うだろ」 突然のリクエストにマシュマロ作りから始めた自分へこの若造、と思いはするが、マシュマロ入りココアの良さをジョンと語り合っているので作った甲斐はあった。ロナ戦の原稿が進まず、今日はココアだ、マシュマロ入りがいい、マシュマロ入りでなければもう一文字も進まない、と真顔で迫るゴリラに負けたのである。 とりあえず入り用なのは二つだったがそれだけ作るわけにもいかず、必然的に皿に山盛りのマシュマロが出来上がった。興味半分で一つつまみ、白い粉をまとったそれを半分にちぎる。口に入れてみると、もふ、とした食感のあとしゅわりと溶けた。 これくらいなら食べられるが、こんな味なんだな、以上の感想がないので、大人しく自分用のカップを口に運んだ。砂糖を入れて作ったマシュマロより甘く、身体に染み渡って温まる。香りもいい。はー、と温泉に浸かったときと同じ声が出た。 「冬はやっぱりホットミルク割りだねえ」 「熱燗飲んでるおっさんか」 「ダンディズムが羨ましいかね? マシュマロご希望五歳児君」 顎を上げ見下ろす目線で返してやる。言葉か拳が数秒内に返ってくると予想していたが、意外にも反応がない。様子を伺えば、どうも自分が持っているカップに興味があるようだった。 「何、まさか飲みたい?」 「わけねえだろ。お前本当にそれくらいしか飲まねえなと思ってよ」 「牛乳その他、ジュースやアルコールも飲んでるが」 答えると、青い瞳から何故か呆れたような、実は何か言いたいことがあるような、妙に複雑な視線が返された。 「血液が主食だろ。それっぽっちしか飲まねえで、すげー腹減るとかなんねえの」 「……突然というか、今さらというかな質問だな」 もうここに来て数年が経つ。固形物はまず口にしないし、特にこの家の中で飲むものは血液より牛乳の比率が高い。毎日血が飲みたい方ではないので、飲みたいときに外で飲んだ方が鮮度もいいし管理も楽だ。ロナルドの言う通り主食であるから、多少のストックは置いてあるが。 「血くどいっつって死んでんの見たのが初回だぞ。だからそんなもんかと思ってたんだよな」 「そんなもん言うな。君だってカラッカラに喉が乾いてるとき熱々の甘酒出されたらダメージくらうだろう。販売されてる血液なら死んだりせんよ」 「それだってあんま飲んでねえじゃん」 「やけに食い下がるな……。君が見てないだけで飲んでるよ。週一くらいは」 しかしそれにジョンが黙って首を傾げ、「週一以下?」と訊いたロナルドに小さな顔は控え目に頷いた。 そこは首を傾げなくていいんだよジョン、まさかジョン気にしてた? と一瞬焦ったが、まさか二百年も共にいてその心配はしていないだろう。それに週一以下かもしれないが、十日に一度は飲んでいる。二人の食事の買い出しついでに買えばいいのだが、牛乳一本だって重いから後回しになるし、血液パックをロナルドに頼む気にはなれない。夜の散歩は手ぶらでいきたいし、かけつけ一杯や自販機でもいいが、わざわざ行かなくてもいい。つまり面倒なのである。 「それメシが月三回ってことか……?」 ロナルドとジョンの視線が同時にこちらへ向けられる。想像しただけで死にそう、という顔だ。だから食欲そのものが違うと言っているのだが、どうも伝わらない。 「んじゃ好みの女の子だったら吸うのか? 吸った日には退治すっけど」 「それで何故聞くんだ君は。いただけるならそりゃ吸いたいがね。挑戦するたび斜め上から返り討ちに遭う」 朝までギルドの手伝いだとか、女子会できゃるきゃるしたり、その後ボンテージになったりとか。ああお前雑魚だから……と憐れんだ声で呟かれたので、ロナルドが手を伸ばしかけたマシュマロの皿をこちら側へ引っ込めてやった。 「はいこれぜーんぶジョンが食べていいからねー」 ヌーイ、と声を上げたジョンに、テーブルの向かいからずりずりと腕が伸びてくる。ちょっと怖い。 「お裾分けちょうだいジョン……」 せめてココアに入れる分だけでも、と差し出された手の平に、優しきマジロは一つ、また一つとマシュマロを掴んでは置いていく。顔を緩めた退治人が、そのうち一つを口に入れた。それを見たジョンも半球型のマシュマロを一つ頬張る。まったくこの二人には作った甲斐しかない。 ――毎日三食、おやつも休憩も楽しくていいねえ。 だから作る方だって楽しくなる。食事はそういうものだといい。自分は食べるより作る方が向いているだけのことで、筋肉や体力がつきにくいことを除けば、やたらと腹が減るより断然楽でいい。 ――空腹なんてね。 あんなもの味わいたいと思わない。空腹が食事をおいしくする、それは確かだが、前提がある。空腹は満たされると知っていること、食べたいものを食べて、誰も傷つかないこと。もしそうでないのなら。 ――あんなもの、ないに越したことないだろう。 ついでに余計なことまで思い出して渋面になる。ジョンに会うより前のことなのに全然記憶から消えてくれないあれだ。 「お、いけた」 「……? は、オイコラ何して」 呑気な声で我に返れば、自分のマグカップにマシュマロが浮かべられていた。 「これくらいなら溶ければ食えるだろ」 「食べられるけどね、私は別に」 「見た目よくね? 和むじゃん」 「いやまあそうだろうけど」 急に何、と戸惑っていると、こちらを見上げているジョンの目に僅かな心配が浮かんでいた。思い出してつい顔に出ちゃったからな、と丸い甲羅を撫でる。正面の退治人はジョンの表情から何か察したのかもしれない。 「ま、ドラドラちゃんのお菓子は味良し見た目良しだからな」 「お前が百面相してる間にマシュマロは空です」 「は? 明日の分まで食ったのか?」 「マシュマロは味がついた空気」 「食感あるだろが」 「いいから早く飲めよ」 「何なんだ……」 カップに落とされたマシュマロは、底からじんわり溶けて広がっていた。飲んでみると確かに、思っていたより味にあまり影響しない。もこもこした柔らかい雪のような白は、まだぷかぷかと浮いている。お風呂場のアヒルみたいだ。 「な? なんかいいだろ」 ヌンヌン、とココアを空にした二人が自分の感想を待っている。食べることに関して、ドラルクは彼らと欲求も味覚も異なる。そんなことはとっくに分かっている二人が真面目な顔で。 ふ、と笑いが漏れた。 ――こういう食事ならいいんだろうな。 「確かにね」 良かったな、と思う。あれから一度も空腹を訴えない身体で良かった。ブランデー入りブラッドミルク・マシュマロ乗せをおいしいと思える身体で。これで十分だと感じる身体で。 ◇ 約二百年の間にたった一度、一時期だけ、ドラルクの身体は血液を欲したことがある。 好きなもので薄めれば、口に合えば、上等なものなら、という条件つきで飲んでいるような今、そして幼少期とは違う。そんな整えられた血液では満たされず、詰まるところ求めていたのは吸血行為だったのだと思う。 ならば街や村に出て、人間の血をもらいに行けばいい。一時期ドラルクの師であったノースディンがしていたように、平和的に。平常時の欲求ならそうしていた。滅多になかったが、ドラルクにだってその経験はあった。師のようなチャームは使えなくとも、紳士的に丁重に恭しく接し、手ずからの料理でもてなせば、そもそも少食なドラルクには十分満足できる量の血をもらえたのだ。 でもそれが、そのときはできなかった。たとえ取り繕って城に招いたとして、その人間を無事に帰せる自信がなかった。そんなことは生まれて初めてで、それほど強い欲求を自分が持つことに驚いた。我慢しすぎれば死ぬし、やり過ごそうとすると衰弱する。息子の不調をすぐに察した父が調達してくれた血液を飲んでも、どうにもならなかった。 そんな日が数週間続いたある日だった。一番見たくない顔が、ドラルクの自室の扉を開けて現れた。ほう、と訳知り顔で感心した声を出す。 『……扉を開けるのはノックの返事を聞いてからだと、口うるさく言ったのはアンタでしょうが』 『急に開けられて困るのはやましいことがあるからでしょう――と散々言い返してきたのはお前だな』 『何のご用ですか』 一番見たくない顔といえば、いちいち癪に触るヒゲに他ならない。おそらく父が呼んだのだろう。気持ちはありがたいが人選がアウト中のアウトだ。 血液なら十分摂取しているはずの身体はしつこく吸血衝動を訴えて、一向にやまない渇きと空腹で神経は尖っていた。もう何日もだ。それでも両親や親族にぶつけることはしなかったが、この師だけは別だ。他の誰より百倍制限できない。 『ストレートじゃろくに飲めなかったお前がね。体質とは分からないものだな』 『……はるばる感慨に耽りに来たとはド暇ですか』 『お前のそれは血液だけ飲んだって治まらんよ』 そんなことは言われなくても分かっている。今の自分はただ血を欲しているのではない。味も香りもないものを食べて、栄養はあるから満足しろと言われているのと同じだ。どうしても満たされない。使われない牙が早くしろと急かす。早く。 ――直接、ここから。 牙を立てたそこから、溢れるものを取り込みたい。鼓動を打つ心臓から送り出され、生命の証をギラギラ湛えた、熱くて生々しい、ドラルクが苦手としてきたそれを。何故急にこんなことになったのか、自分でも理解できない。頭では少しも欲しくないのだ。 『お前は吸血も食事もサボっていたからな。必要なものは身体が欲する。ツケというか身から出た錆だ』 『感慨の次はお説教ですか』 『いいや』 『私今ヒゲヒゲの相手どころじゃないんです。おもてなしならお父様に』 『人の話は最後まで聞くように。これも何回目だったかな』 靴音を立て近付いてくるのを、避けるのも面倒でそのまま立っていたのがまずかった。最後の数歩を一度に詰められ、驚いた隙に目を見つめられる。瞬時に察した通り、頭が軋むような音とともに身体の自由を奪われた。 ――ほんっとうに腹が立つなこの歯ブラシヒゲ……! しかしまだ意識はある。その程度にかけた、ということだ。お得意の能力を。 使われた力の程度は一時期に何度も浴びたから分かる。あと少し力が強まれば、自分の意思も苛立ちも反抗心も煙のように消えるだろう。このレベルならかろうじて振り払えるが、欠乏を訴える身体に鞭打つ気力がない。 ――……何をさせる気だ。 無理矢理人の血を吸わせようとでもいうのか。いやそれはないはずだ。何故自分が堪えているか分かっているだろうし、人間に危害を及ぼすことは一族の意志に反する。何より彼の大事な友人である父本人が望んでいることを、蔑ろにするとは思えない。 ぎり、と歯を噛みしめると、頭が軋むような感覚はあっさりと消えた。話を聞け、という程度の威圧だったのか。やむなく顔を顰めながら続きを待つ。 『聞く気のないお前にはるばる説教などしにくるか。私の血をくれてやろうという話だよ』 『――……は?』 『首からの吸血はお互い絵面がきついだろう。とりあえず腕から飲め』 は? 以外の言葉がしばらくの間浮かばなかった。牙を立てられるなら最早誰でもいい、と思いはすれど、現実的にはいいはずがなく、それがこの師だなんてあり得なかった。 『……何を……、冗談じゃない、遠慮しますよ。誰がロートルヒゲの血なんか』 『それが治るのを待っていたら衰弱死だ。お前が遠慮なくふんぞり返って牙を立てられる相手が私以外にいるか?』 『……かわいい弟子に言う言葉ですかそれ。そうであってもお断りです』 『怖いか? 心底血を欲したとき吸血するのは初めてだものな』 反射的に眉が寄った。これだから嫌いなんだ、と目を背ける。 『補講と思えばいいだろう。お前にその欲が生まれないと教えようがなかった』 『結構です』 『……私もお前はそう答えると思った上で来たわけだが』 やれやれ、と緩く肩を竦めた次の瞬間には流れるような動きで首元を引き寄せられていた。強引に結ばされた視線、その先の瞳から、先程よりも強い波動が流れこんで脳を揺らす。 『ッ、……』 『どちらか選べ。自分の意思で吸うか、私に言われるまま吸うか。私は後者のが楽だがね』 見開かれた目から視線が逸らせない。どちらも嫌に決まっている。 ――それなら人間の血を飲みに出た方がマシだ。 と。そう思えたらどれほど良かっただろう。この師の言う通りにさせられることより嫌だった。正確には、怖れていた。いかに身体的に弱くとも自分は吸血鬼という種族であり、血を飲み干したら人間は死ぬ。両親が抱くような、人間への友好的な感情から思ったことではない。ただ単純に、純粋に、どうしても嫌だった。その光景に少しも良さを見いだせない。 ――……これ以上は、まずい。 渦を巻く感情の諸々が、こうしている間に少しずつ遠のいていく。それでも答えず睨みつけていると、能力の発露で焦点を結んでいなかった瞳が一瞬、力を解いた。静かで、しかし有無を言わせない声が告げる。 『私はね、お前がくだらない意地で衰弱死するのを見る気はないんだよ』 あと三秒で決めるように、とかつての口調で付け足した。 腹が立つ、敵わない、ヒゲのくせにヒゲ、と三秒分無言でしっかり罵ってから、答えた。吸いますよ、と。お望み通りふんぞり返って。 ◇ あの夜、空にかかっていた月は細く鋭く尖っていた。自分の目にはその程度でも、また月があってもなくても移動に障りはなく、親友とその息子兼弟子が住まう城に着いたのは十二時を過ぎた頃だった。 もう二百年以上前になる月の形まで覚えているのは、目的の扉を開けたとき室内を満たしていた深い青と微かな月光の中、こちらを向いた瞳が煌々と赤い光を灯していたからだ。生来の眠たげな目蓋は変わらず、瞳自体も大きくはない。しかしその小さな二つの光――というには重く激しい赤だったが――は、再生能力以外皆無の弱すぎる弟子が宿すとは思えないもので、一方ようやく納得できたようにも感じていた。 ――ドラウスが泣きついてくるはずだ。 これまでもドラルクの瞳は、目立たないなりに赤く透き通る美しい色をしていた。そう、目立たなかったのだ。暗闇であろうと、明かりに包まれていようと。それが今は受け継いだ血と吸血鬼の本能で、恐ろしいほど深い赤が瞳の奥で揺らめいている。 ――ようやく様になってきたな、と言いたいところだが。 不穏な赤は渇望からくる力の片鱗であり、どれだけ堪えているかは本人しか分からないが、放っておいていいものではない。竜になりうるコウモリが、空腹をじっと耐えているのと同じだ。 ドラウスは子に滅法弱いが力では遥かに強く、あの真祖が父である。ノースディンを頼ってきたのは当然恐れなどではなく、彼が言うところの、宇宙一完璧で何よりかわいい最愛の息子がそんな状態のまま、どういうわけかまったく頼ろうとしてこない、ということだった。 『苦悶を抱えた息子に頼ってもらえない俺は針穴を前に折れる糸くず』 そうさめざめ嘆いてしなびていた。確かにこの状態はやや問題だが、あのドラルクが血を――吸血行為を欲しているのは喜ばしい。 私が行こう、と答えたときには、やることは決まっていた。それをドラウスに話しはしなかったが。 『零すなよ、服はまだいいがこの靴は気に入っていてね』 『アンタの屋敷に山ほど似たような靴あるでしょうが』 やっとのことで腹を決めたドラルクを椅子に座らせ、シャツを捲った腕を差し出した。手袋を着けたままの細い手指が、手首と肘を軽く掴む。牙を立てる血管を見定めたときか、渇きと本能が迷いを消し去ったときか、ノースディンの首筋に軽い寒気が走った。数秒も待たず牙が食い込む。溢れた血を吸い込み、喉を鳴らして最初の一口を飲み下したドラルクは、尖った耳を微かに震わせた。衝動と勢いに呑まれないのはプライドと、そもそもガブ飲みなどできない体質によるものだろう。 ――とはいえ、躊躇うだろうな。 そのままの血など濃くて飲めないなどと言っていた子供にとって、突然暴れるような食欲が湧いてしまったわけだ。しかも本能は人間からの血を求める。ならば飲めばいい、吸血鬼なら誰でもそう思うし、腹がくちるまで吸うだろう。それを自分の欲求に正直で、考えなしに動くこの弟子はよしとしない。話を聞いて最初は驚いたが、ああ、嫌なのか、と思ったら腑に落ちた。嫌なことは徹底的にしないと、自分は多分誰より身をもって知っている。 ドラルクはとにかく楽しく面白く、何が起こるか分からないものが大好きな享楽主義であるが、その楽しさを他者と共有したがる。溺愛され甘やかされて我儘放題である一方、人をもてなしたり、気遣ったり、与える側に立つことを厭わない。むしろ得意だし好きな方だろう。 だから相手が人でも吸血鬼でも動物でも、会話をし、共に何かすることを好む。裏を返せば辛かったり苦しいような状況は、自分はもちろん、相手がそうであることも好まない。だから今までにない吸血衝動を伴って人里へ行くなど、この弟子が拒むのは当然のことだろう。両親が心を砕いている人間との友好関係などはもちろん頭にはあるだろうが、根本的なところはおそらく理屈ではない。 ――『イヤだからです』。 自分の城にいたときも本当に嫌なことは、理由を聞いてもその一言だけだった。普段の屁理屈も一切なかった。そういうときはノースディンも分かった、と答えてそれ以上続けなかった。今回ドラウスに頼ろうとしないのは心を開いていないのではなく、答えが決まっているだけのことだ。解決に結びつく答えでなくとも。 ――しかしお前、本当に遠慮がないな。 噛みついてから一度も腕を離すことなく、さして勢いはなくとも止めどなく飲んでいくので、身体からみるみる血が減っていくのが分かる。 ドラルクだけ座らせたのは、立っていた方が自分の状態に敏感でいられると思ったからだ。そろそろ満足してもらう頃合で、そうでないとこちらも後が困る。ちょっと吸われすぎたくらいで死にはしないがドラウスが青くなるだろうし、吸った本人が訳の分からないキレ方をしそうだ。下手に転ぶと吸血そのものを忌避しかねない。そんな吸血鬼がいてたまるか。ただでさえそんなにすぐ死ぬ奴があるか、という話だというのに。 『……ドラルク』 ぴく、と腕を支える指が反応した。声は届くらしい。 『今日はここまでだ、私の血がなくなる』 言うと徐々に吸う勢いが弱くなり、そしてぴたりと止まった。しかしまだ足りないのだろう、未練がましく牙は立てたままだし、何なら続けようとする気配を感じる。この弟子は本当に……、と呆れと笑いが込み上げたがぐっと堪え、真面目な声で再度呼びかけた。 『いったん離せ、噛みついて離れない猫か。それとも私の血がそんなにお気に召したのか?』 実はお前私のことが大好きだったのかそうかそうか、と言ってやると、ふるふると手が震え始めた。久しぶりに見る屈辱のわななきが懐かしい。ははは図星か、と追い打ちをかける。 口が離れ、ハンカチで口を拭ったドラルクが立ち上がった。目を合わせないまま、入れ替わりで椅子を譲られる。 『御老体に無理をさせまして』 苦々しい顔でやっとこちらを向いた顔は、見慣れた弟子の顔だった。顔色の悪さは日常レベルに近付いているし、二つの瞳ももう不穏で美しい赤ではない。まだ多少揺らめいてはいるが、落ち着き、静まろうとしている。 『飲んだ分はお返ししますよ』 スタスタと歩いて戸棚を開けたドラルクが、濃色のボトルを持って戻ってきた。 『足りなくないか』 『そこまで飲んでないでしょうが』 『私の血は市場に出れば破格だぞ』 『それを言うなら私に吸われた名誉のが高値でしょうねええ、大体これはお父様とっておきの』 『それはさぞいいグラスで飲ませてくれるんだろうな』 ハイハイ分かりましたもーうるさいヒゲ、とよく回る舌を動かしながらドラルクは部屋を出て行った。一人残されてから稍して、急に身体から力が抜ける。軽い眩暈と安堵に襲われて、欠伸混じりの笑いが溢れた。上等な血のボトルのおかげで貧血が回避できたことを憶えている。窓から見上げた空には来たときと同じ細い月が、溶けかけの砂糖のように浮いていた。 ◇ ――あれから二百年近くになるのか。 縦長の紙袋を小脇に抱えて空を移動する。預かりものだが、自分用ではない血液ボトルを持って運ぶのは久しぶりだ。空から目的の建物を見つけ、高度を落とした。 新横浜なる駅が目立つからまだいいものの、仕事場兼住居というならもう少し装飾がほしい。初めてここへ来たときなど見当もつかず、道を尋ねるついでに血をいただいていたらお尋ね者扱いになっていた。気持ち良く差し出してくれた血を飲んだだけだというのにうるさいものである。 彼らの窓には前回同様鍵がかかっていなかった。一応軽くノックしたあと念動力で横へ引くと、ブラインド越しの人影が勢いよくこちらを向いた。手で掴まれた平たい鉄の束が強引にたくし上げられる。 「……アンタ」 「やあ、ドラルクはいるかな」 同居しているという退治人は一瞬警戒するよう身構えたが、自分の様子を見、失礼にもため息をつくと、何故かあっさり緊張を解いた。 「アイツなら出かけてるぞ。……一応聞くけど、道々吸血してきてねえだろうな」 「今日は預かりものがあるからな。それが優先だ」 「ならいいけど、帰りもしてくなよ。あと来るなら普通にドアから来てくんねーかな……」 アンタだって入りにくいだろ、とふわふわとした銀髪の退治人はブラインドを開けようとする。 ――……ん? 紐を引く姿を思わず見つめ、言われた言葉と合わせその意味を考える。いや考えるまでもないのだが、予想外だったのだ。ジャコジャコと気の抜ける音を立て終わると、窓が開け放たれる。 「入んねえの? え、狭い?」 そう言って窓枠に手をかける退治人に、いや待て、とつい片手を立てる。 「留守ならこれを渡してくれればいい」 「何で? ちょっと買い出し行っただけだからすぐ戻ると思うぜ。中で待ってればいいだろ」 「私を入れることに抵抗はないのか?」 不思議そうに問われたが、疑問符が浮かんでいるのはこちらも同じだ。しかし退治人もまたぱちりと瞬きをする。 「別に悪さしてなきゃ退治することもねえし。ドラ公の顔見にきたんだろ? まーアンタ見たらアイツ騒ぐだろうけど」 「それを含めて、だ」 怪訝な顔で首を傾げ、少しく黙って考えてから答えた。 「アイツ結局、アンタのこと本気で嫌いじゃないだろ」 それにはさすがに目を見開いた。 「――よくそう言えるな」 「アイツ嫌いなものには向かってかねえし、興味ないものには無反応じゃん。アンタが煽るからめっちゃ噛みついてっけど。……それより」 「何だ」 「そこに浮いてられると目立つから入ってほしいんだよな……」 ドラルクが騒ぐことより、以前彼らのギルドを本気でなくとも占拠した吸血鬼を入れることより、その方が余程困る、という顔だった。また窓から来る奴が増える、とか何とかぼやいている。 ――変わった男だな。 吸血鬼を疑わないのか、自分に自信があるのか、どうも読めない。 それはともかく退治人の言い分はもっともなので、いったん中へ入ることとした。城の窓と違って狭いから確かに入りづらい。入るつもりがなかったからだ。そのつもりなら最初から扉を叩く。 繰り返すがまさか退治人に、招かれるとは思っていなかったのだ。 室内は外観同様あっさりさっぱりした空間だった。絵や像は一つもなく、人間の事務所とはいえもう少し……と思うがこういうものかもしれない。そんな中、確かドラルクの城にあったセキュリティ装置が一体置いてあった。大きな目がこちらをじっと見ている。 ――作動中か? 何だ? 身構えた気配を察したのか、一つ目の周りに眩い光がふわんと浮かぶ。 「あ、メビヤツ、ソイツはロックオンしなくて大丈夫」 ソイツとは何だ、そういえばさっきから気安すぎないか、セキュリティ装置と何で会話ができるんだ、という諸々を頭に浮かべる自分をよそに、なあ、とやっぱり気安く声をかけてくる。 「親父さん毎回紅茶だけどアンタも?」 茶淹れてくるけど、と言ってデスク横の扉を開ける。言葉遣いがなっていないが、もてなす気持ちはあるらしい。いただこう、と頷く。 「毎回というほど来てるのかドラウスは」 「まあまあ来るよ。でもまずあのクソ砂出かけてんだよな。だからアポ取れって言ってんのによ」 と言いながら扉の向こうへ消えていく。 ――いや客人と話しながら移動するな。身内か。だめだ距離感が分からん。 前回はこの退治人と話す機会も、人物を確かめるゆとりもなかった。それより人間の町で本当に弟子が暮らせるのか、その方が気になっていた。退治人はおそらく、ドラルクのあの弱さと性格でうまく油断させたのだろうと。 ――油断はしているかもしれんが、何と言うか……。 身を守るために、みっちり教えたことがまったく活かされていない予感がする。あの退治人の態度はそうだろう。うまく騙せているのならクソとか言わないはずだ。馬鹿にしているイントネーションでもなく、普通にあだ名になっている。まったく一切見えなくてもあれで竜の血を引いている、血筋は最高位の吸血鬼だというのに。 ――名前は、ロナルドといったか。 ドラウスからは「ポールという退治人ロナルド」と聞いている。どっちだ、と突っ込んだところ、ポールでいいんだポールで、という返事だった。その声には既に情が入っていて、いくら人間友好派でも簡単に信じすぎじゃないのか、と思っていた。 やはり自分が厳しく確認すべきだな、と開けっ放しの扉へ顔を向けると、ちょうどそのタイミングで退治人がひょこりと顔を出した。手にはティーポットを持って、難しい顔をしている。 「どうした」 「紅茶ってさ」 なんだ、と頷いて先を促す。 「……どれくらい茶っぱ入れるもん?」 三秒ほど沈黙が流れた。さっきの、いかにもいつも淹れているような口ぶりは何だったのだ。 「何? お前さっき」 「いや、茶葉入れてお湯入れりゃいいことは分かんだよ。でも量とかなんか、あんだろ」 「ドラウスは毎回紅茶だと」 「親父さんはいつの間にか自分で淹れて勝手に飲んでる」 ドラウス……と口から勝手に呟きが零れた。何に対してなのか久しぶりに諦観の念が浮かぶのを感じ、ソファから立ち上がる。 「私が淹れるからお前は横で見ていろ」 「おお、あ、俺湯は沸かせるぜ!」 初めて使うキッチンでも、湯ぐらい沸かせる。しかし得意気に言う退治人にそう言えるほど冷たくはない。なら頼んだ、と言えば、任せろとばかりに胸を張る。 この訴えたい気持ちは誰に向けるのがふさわしいのか。とりあえず誰でもいいから紅茶の淹れ方くらい教えてやれ、という思いを胸に、粛々とキッチンへ向かった。 キッチンには調味料と、最低限だが毎日使っていると見える調理器具が並び、乾いた布巾や手袋が吊り下げられていた。紅茶も入れられない退治人が料理をするとは思えない。ドラルクが使っているのだろう、よく整えられていた。紅茶一つ淹れるだけでも、使いやすい。 邪魔という名の手伝いをしようとする退治人を追いやり紅茶を淹れ、もうここでいいか、というもてなす側にあるまじき一言により、居住スペースのソファに腰を下ろす。自分が飲むより先に紅茶を口にした退治人が、へえ、うまいな、と感想を宣った。 ――どうなってるんだドラルク。 ドラルクと違い素直なのだが妙に疲れるのは何故なのか。何か色々な前提が違う。いや人間と吸血鬼だから当たり前なのだが。 はあ、とため息をついていると、蒸しパンあるけど、と勧められた。 「いや……遠慮する」 「人間の食い物食えねえ人? あ、でもにんにく食ってたよな」 「食べられるが、必要がない」 答えると、一瞬しんと静かになった。一応気遣いだったのに素っ気なかったかと口を開きかけたが、それより先に、訊きたいんだけど、とお伺いを立てられる。目で先を促せば、いくらか遠慮がちな口調で尋ねられた。 「必要がないと、食べようとは思わねえもん?」 「それはそうだろう。身体が必要とするから、その欲が湧く。たとえばお前が紙を食べられるとして、食べたいと思うか?」 「……思わねえ」 そっか、と言うとぴたりと退治人は口を閉ざした。 ――だから何で急に静かになるんだ。 普通に答えただけだというのに、落ち込ませたように見える。会話と思考の繋がりもよく分からない。行動も子供のようだったり、退治人としては堂々としていたり。 「吸血鬼の生態が気になるのか?」 「吸血鬼っつうか……アイツ毎日メシ作んのに、自分は食わないからさ」 それも料理に対する感覚の違いだろう。趣味で編んだセーターに食欲は湧かないのと同じだ。 「食べさせたいということか?」 「いや、本当に食わねえんだなってのは見て分かるから、そういうんじゃねえんだけど」 「分からん、それで何が気になる」 訊くと、うううう、と頭を抱えて唸った。何故唸るのか。人間が考えることは、というよりこの退治人の考えることが分からない。 「アイツに絶対言わないでほしいんだけど」 ――だから私はお前の友人でも何でもないんだが。 でもどうも無下にできない。きっと断らないだろうと思っているのかいないのか、こちらが返事をする前から相談を始めるこの感じに既視感がある。認めたくないが。 退治人はぽつぽつと話し出した。 「アイツのメシうまいんだよ」 「……そうだろうな」 「疲れて帰ってきたときとか、生き返るって思う」 「……それで?」 「そういうの、アイツはねえのかなって。血だってろくに飲まねえし、買うの面倒とか言って牛乳飲んでっけど」 「……」 「さっきも言ってたけど、身体が必要なモンなら欲しくなるんじゃねえの?」 真っ直ぐ目を合わせられて、退治人の目が光を湛えた青色をしていることに気がついた。対極だな、と冷静に思う。外見も振る舞いも。 ――直接見なければ、信じなかっただろうな。 ノースディンは人間贔屓ではい。敵対心はないが、人間そのものを簡単に信じるほど友好的ではない。人間は吸血鬼より弱く、それゆえに疑い、騙すものだ。友人が何のために何と戦ったか忘れてはいない。 だからその質問は、言葉だけ聞けば警戒心を起こさせるものだった。一瞬で能力をかけられる距離で、自分の目を見て問われるのでなければ。何を聞こうとしているのか、何が気になるのか、言葉や話し方から伝わってこなければ。 「……それは、ドラルクが実は人間の血を欲しているんじゃないか、という懸念か?」 「へ」 聞き返すと、青い目が丸く見開かれた。長い睫毛が一度上下に動く。 「弱いふりをして虎視眈々と狙っていると?」 ぽかんと口を開いていた退治人が、ぶは、と吹き出した。こちらはまだ真面目な顔を装ったままだ。質問には答えてもらう必要がある。推測で安心できる性格ではないのだ。 「……笑っていないで答えろ」 催促すると、ふ、と何か楽しげに目を細めた。やっぱ蒸しパン食おうぜ、とキッチンから皿を持ってきて一つを寄越す。ドラルクとやっていけるのはこういうところかもしれない。アンタも心配してたんだなあ、と呟かれたが、それには答えずパンを口に運んだ。中に小豆が入っている。豆は下拵えがいるのだと友が言っていた。手間も楽しいものだと。 「アイツが血飲みたいなら飲めば良くてさ。俺が知りたいのは、生き返るみてえな気持ちになることあんのかなって……あ、毎日死んで生き返ってりゃそんなのいらねえか」 「……」 「でもうまいメシ食って満腹になったときってすげー幸せじゃん。……えっと、いや、なくてもいいならいいんだけどよ。マジで。あの、……絶対ドラ公に言うなよ」 「一人で喋って一人で照れるな」 「突っ込まれねえと調子狂うんだよ」 こちらの調子はここに来てから狂いっぱなしである。ふう、と何度目かも知れぬため息が零れた。 曲がりなりにもあの弟子は吸血鬼で、この退治人は人間だ。それを本当に分かってるのだろうか。食事をして、ああ幸せだ、と思うとするならそれがどういうことか。 「――もし、血を」 わざわざ訊くことはない。警戒させるだけだ。弟子がここを、人間たちを気に入って暮らしているのは分かったのだから、波風を立てることはない。そう思っているのに口は次を紡ごうとする。 「ドラルクが、」 言いかけたとき、向こうの部屋の扉が音を立てて開かれた。バタン、と壁にぶつかった音に、退治人がすぐさま立ち上がる。 「テメェこの砂! 扉と壁が傷むつってんだろうが!」 ドカドカと足音を立てて退治人が事務所側へ行くと、間髪入れずに声が返る。 「君が醤油買うの忘れたからだろう! 醤油持って静かにドアなんて開けられると思うか? 私だぞ?!」 「醤油だけっつったからついてかなかったんだろーが! あっテメェまた牛乳で済ませようとして」 「まったく最近のそれは何なのだ牛乳を見くびるなよ若造め。栄養のみならず消化吸収のしやすさが牛乳の良さなのだ。分かったらさっさとこれを冷蔵庫に」 台風が扉を開けて入ってきたような騒がしさである。そして意外と静かに話していた退治人も触発され、二重の台風が居住スペースに戻ってきた。靴を脱ぎかけた弟子の動きが止まり、鼓膜の準備をしていれば案の定ボリュームが最大値になった。いっそ安心すらする。 「ハアーー?! 何でヒゲがここにいるんだ、うわその紅茶! あの茶葉触るなって言っただろうバカ造! 五歳児に淹れられたら風味が消」 「うるせえ俺は淹れてねえわバーカ良かったな!」 醤油とその他買い物袋の中身が、退治人の拳で塵になった弟子と共に床に散らばる。 生まれたときから、さらに十年、十五年と経っても、到底見ていられない死にやすさだった。だから人間に殺されないよう粉骨砕身して教育した――はずだった。弱さを武器にし、油断させ、影から操れと。自分だけが見ていた夢の記憶かと思いたい。 「それでヒゲは何です、いい大人がまさか手土産もなしに寛いでるんじゃ」 「これを見ろ」 「……え、えっ、これ激レアのメッチャいいボトル。ヒゲヒゲもやっとドラちゃんに相応しいお土産が」 「ドラウスからだ」 「……ヒゲは?」 「師匠せんせい」 「……師匠せんせいは何をお持ちくださったのでしょう」 「お前の父の代わりにはるばる持ってきてやった」 「ファーーーーー」 信じられない、と騒ぐドラルクに再び拳が入る。お前もお前でばかすか殺すな、と言いたいが、こちらに向ける脱力した顔はドラルクの態度を代わりに詫びているようで、若干の共感もあるため文句の言葉が消えていく。 「あー、その、引き留めて悪かった」 分かってたけどマジでうるさい、と退治人が言う。足元では使い魔が泣いているが、弟子は砂から腕だけ復活させて元気に怒っている。 「事実やかましいな。用も済んだことだ、お暇しよう。……最後にさっきの答えだが、」 焦った顔をした退治人に、分かっている、と頷いてみせる。言うなと言われたことを言うつもりはない。 「たとえば、お前が空腹の家族や友達を食事に連れて行くとしよう」 声は落としたが、やはり気になるのだろう、復活しかけの弟子をちょいちょい蹴っては砂に返している。吸血鬼の世界では考えられない。真祖の孫を足蹴にすることも、その孫が退治人の足元で砂のまま不貞腐れていることも。躍起になって復活しないところを見ると、聞き耳を立てているのだろう。 「お前も空腹だが彼らほどではない。まず何をする?」 「……何って、そりゃ、メシ食わせる」 「お前の料理はまだ来ないが、彼らはうまいと食べている。その時間はつまらないか?」 「……」 素直に想像したらしい退治人の眉が、ふ、と下がり頬が緩んだ。食べる必要のない吸血鬼の心配をする人間だ、答えは簡単だろう。 足元へ目を遣れば、半分砂のままの弟子が口を尖らせたまま床に片肘をついていた。己の同居人が何を知りたがったか、想像はついたに違いない。 「良かったなあドラルク、相棒君はお前より出来が良くて」 「ゴリラと会話できたのがそーんなに嬉しいか」 「誰がゴリラじゃ」 「ではな」 半身を蝙蝠にして、今度は居住スペースの窓から外へ飛び立つ。感覚を強化すれば、室内の声はまだ耳に届いた。ジョーン塩持ってきて塩! 盛り塩するから! と弟子は種族も宗派もめちゃくちゃなことを叫んでいる。高等吸血鬼の品性や物腰、立ち振る舞いが皆無なのは一概に退治人のせいだけとは言えまい。 ――『あの子はあの町が楽しいんだ』。 楽しいで片付けていい話か、と思っていた。同居しているのは退治人というが、もし他の退治人や吸血鬼がドラルクを襲おうとしたらどうする。万一のとき誰が助けるのか。人間の退治人が吸血鬼を守るために、仲間の人間や自分より強い吸血鬼を相手に戦うとでもいうのかと。 だから試そうとした。あの日ドラルクへ能力を使おうとしたのも、彼らがどういう行動を取るか見てやろうと思ったのだ。人間たちに、自分がいくらか危険な吸血鬼であると映る状況で。 ――合格点にはほど遠いが。 作戦は勢い任せで見通しが甘いし、味方の退治人たちもまだまだだ。ドラルク以外の吸血鬼たちも、戦闘能力の高い者は見当たらなかった。女装して全裸になって謎の種を飲んで、めちゃくちゃとしか言いようがない。そのめちゃくちゃな全員が、ドラルクとともに自分を倒そうと向かってきた。結果、思わぬところで隙を突かれ、とんでもない衣装を着させられたことは思い出したくない。 子供も弟子も、知らない場所で知らない間に成長し、変わっていくらしい。人間との関係も。まさか人間に食事の心配をされて、幸せかどうかまで考えられているとは。共存などという距離はとっくに超えている。 ――あのときの選択は間違ってなかったな。 人間の血を吸いに行けばいいだけの話だった。それが吸血鬼だ。何も悪いことなどない。けれど我慢など大嫌いな弟子はそれを選ばなかった。楽しく面白いことしかしたくない、もそこまで徹底すれば見事と言える。とはいえもう少し血は飲んだ方がいいが、それももう本人と同居人と、仲間達に委ねるものだろう。うっかりするとつい口を出したくなる。 親馬鹿ウスのことばかり言えないな、と首を振って、町明かりから遠く離れた夜空へ身を翻した。 |