もうすぐ月が昇る。残照が完全に消え、空が濃い藍色になって、星々がくっきりと輝きだす。その手前のまだ淡い色合いの時間。ノースディンはベッドを抜け、自分が抜けた隙間を柔らかな布団で埋め、暖房を入れてから寝室を後にする。
顔を洗って身支度をし、キッチンへ向かってまず最初に茶葉を選ぶ。モスグリーンにピンクや黒、丸や四角い缶、蓋の形や背の高さもさまざまなキャニスターから一つを取った。
昨年から同じ家で暮らすようになった弟子かつ恋人が言うには、肌を合わせたあとは室内でもいつもより涼しく感じるそうだ。うかうかすると廊下の寒さで砂になりかねない身体が温まるよう、ミルクに合うものに決めた。本当なら血液も足したいが、起き抜けに血は重いなどと吸血鬼にあるまじき台詞を宣うので入れるのはミルクのみだ。
温めたポットに茶葉を落とす。乾いた音が耳に届く。ケトルから注がれた湯が茶葉を浚い、上がる湯気とともに白い陶器の内側を満たしていく。ゆらりと動くそれらに引き出されるようにして、いつか聴いた歌の一部分が喉の奥で膨らんだ。砂時計の上下を返し、ミルクを注いだ小鍋を点火前のコンロへ置く。コトン、カタンと鳴る音で、口から流れる声を気休めにぼかす。
自分の耳が自分の歌声を拾うことに、最初は慣れなかった。まず自分が何某かの歌を歌おうとしていることが意外だった。長く生きているが、理由と必要性がなければ歌ったことなどなかった。
しかしこのところ、起きて紅茶を淹れたりテーブルを整えたりしていると、自分の頭の中にはその歌が勝手に流れ、さらにはそれを口ずさもうとする。
いつどこで聴いた歌なのか。社交場での会話に困らない程度の曲名は頭に入っているが、そこに当てはまるタイトルはなかった。歌詞も音で覚えているだけで、明るいのか悲しいのかも分からない。それでも歌おうとするのが不思議だった。
――……ドラルクの影響か?
ドラルクは日常的によく歌う。歌うのだが原曲が分からなくなりそうな音程で、主人を全肯定するあの使い魔さえ、ドラルクの歌が始まると某絵画のような叫び顔をする。それでも一切気にせず機嫌良く歌うのだ。キッチンやバスルーム、ほうぼうから聞こえるガタガタの歌を思い出し、苦笑した。
砂の粒がすべて下へ落ち、美しい水色と香りの立ち上がった紅茶を予備のティーポットへ移し替える。ドラルクを起こしに行っている間に渋くなるからだ。それなら起きてから淹れればいいのだが、ドラルクが起きてくるまでのこの時間が気に入っていた。
一つのベッドで過ごしたあとの、ドラルクの眠りは深い。自分が起きると一度は目を開けるものの、布団の隙間を埋めると重たげな瞬きとともに再び眠りに落ちる。新横浜に帰っていた頃は起きると時間を問うていたが今はそれもないから、沈み込むような寝息が続くだけだ。枕からはみ出るツノのような髪の形も、広くなったベッドで腕を伸ばして寝直す姿も、毎回見ているのに見るたびに落ち着く。
そうして始まった夜だから、余韻を味わいたいと思うのも自然なことだ、などとつい理屈をつける。
――とはいえ、そろそろ起こすか。
あまりのんびりしていると紅茶が冷めるし、ドラルクが起きないとジョンの空腹が満たされない。できた使い魔は「そういう日」の翌晩は察して遅く起きてくるのだ。
一人から二人と一匹の生活になり、変化は少しずつ習慣になって、日常ができあがっている。歌もまた、その中の一つになりつつあった。
◇
歌声が聞こえる。
といっても微かに耳に届くだけで、歌詞は聞き取れない。かろうじて部分的に拾えても単語一つ意味が分からないから、ドラルクの知っている言語ではないのだろう。
ドラルクより先に起きて紅茶や軽い食事の準備をしているとき、ノースディンはごく小さな声で歌っていることがある。初めて聴いたのは数ヶ月前だろうか。リビングに入ろうとした直前声に気付き、つい壁の後ろに隠れてしまった。
修行中も、恋人として一緒に暮らしだしてからも、ノースディンが自分から歌うところなど見たことがなかった。隠れる必要などないのだろうが、あのひそやかな歌い方だ。きっと自分の姿を見たらやめてしまうだろう。
――同じ家で暮らしててもレアだからな。
一切歌わないわけではなく、ドラルクがあの歌なんだっけ、と歌ったものを、とんでもない修復をされた茶碗を見てしまったような顔で、歌い直して確認することはある。しかし大抵はワンフレーズだから、歌ったとはあまり言えない。
しかし地声がそもそもいい声なのだ。今は素直に認められるのだが、自分はこの男の声も好きなので、その声で歌われれば聴いていたい。そこへ来てこの歌い方だ。
――そんな風に歌えるなんて知らなかったぞ。
「己とはかくあるべし」が優先されるノースディンが表す感情は限定的で、格好つけでもあるから、ストイックであることに安心しているような部分がある。楽しむという行為すら、作法や伝統に則ることに満足感を覚えるような。
それが、始まりも終わりも少しずつ違う、歌詞も多分うろ覚えの歌を歌っている。微かにではあるけれど、楽しんでいるように聞こえる。普段自分に課しているものを取り去って、今まで得意としていなかったことを表に出して。
それが自分と暮らすようになってからの変化だとしたら、少しでも長く聴いていたいと思うものだろう。
――しかし何の歌なんだろうな。
壁に背を預けてその場に腰を下ろし、耳を澄ませる。
聴こえるのは二、三の旋律で、大きな抑揚や複雑な音の移動はなく、ゆったりとして、伸びやかなフレーズがある。切なげであるが、ほのかに明るい。
子供が歌う歌だろうか。でも子供向けといえるほど単純なリズムでもない。歌劇の一節、民族音楽、宗教歌……讃美歌はないだろうが、どこかの国の祈りの歌はあり得る。
――ワンフレーズでも歌詞が分かればググるんだが……。
そう真剣に考えてしまっていたのが悪かった。いつもは気付くはずの、歌が終わる合図――ティーポットの蓋の音――を聞き逃していたらしい。コン、と頭上で軽い音が聞こえ、はっとして顔を上げれば、絵に描いたような笑みを浮かべるノースディンが立っていた。扉に寄りかかり、小首を傾げている。
「おはようドラルク。聴覚強化の特訓とは感心だな」
うわー面倒くさい、と思いながら、同じように笑みを返す。
「おはようございます師匠。それはもう、自己研鑽を怠らないドラドラちゃんですから」
「読唇術も加えようか?」
「いえいえ、せっかくですが習得済みで」
「はいといいえとありがとうだけな」
こんにちはだって覚えたわ、と言い返したかったが、乗れば乗っただけこの不毛な会話が続くのは目に見えている。むう、と口を結ぶと、上から手が差し出された。それを取って立ち上がる。
「……恋人のかわいい盗み聞きじゃないですか」
「いたずらを仕込んだ弟子の姿に見えてな」
ノースディンの手が軽く握り込む動きをした。素手だから手指の形が直接感じられる。昨日も肌に染み込むほど触れられた指だ。固くて重みがあるがすらりと長く、関節に色気がある指だと思う。自分の指を包み込むと、部屋を温めた意味がないだろう、と呆れ混じりに零した。
「だってアンタが珍しいことしてるから」
「普通に入ってくればいいだろう」
「そしたら歌うのやめるでしょ」
「私じゃなくても、入ってきた相手を無視してまでは続けないんじゃないか?」
「ミュージカル風でいいじゃないですか」
デュエットもやぶさかではない。面白そうだから明日やります? と聞いたのに、起き抜けにそんな高度なことができるか、と渋い顔で断られてしまった。まあ一人でひっそり歌う男にデュエットはまだ難しいだろう。
あとについてリビングに入ると、ノースディンがミルクを温め始めた。今だって歌えばいいのにやはり歌わない。椅子に座って待つ自分の前にいつもながら完璧な色と香りの紅茶が運ばれ、ミルクポットもやってきた。顔をじっと見ていると、こちらに軽く目を向ける。
「何だ」
何だじゃないわ、この流れで窺う話題なんて一つだろうが、と思いつつ、いただきます、とカップに口をつける。最初はストレートがいい。
――……おいしい。
自分のだっておいしいのにノースディンの味には何でか敵わない。ミルクに合うよう淹れているのだろうに、ストレートでも濃く感じない。何なんだ何が違うんだ、と思っているとふと正面からの視線を感じた。自分の悔しさを読んだのだろう、少し愉快そうな色を浮かべ、でも最後には満足そうに笑って、自身のカップへミルクを注いだ。
――そういう顔、見せるようになったし。
やっぱり変わったなと思う。
「……訊いていいです?」
「お前がお伺いを立てるとは」
「人の配慮を……」
ふ、とノースディンが笑う。見当はついているはずだから、続けていいのだろう。
「さっきの、何の歌なんです?」
さっきというか、いつもの歌だ。訊くと、ノースディンはカップを置いて答えた。
「それが思い出せなくてな」
「……誤魔化すにしては雑では?」
「本当だ。実際歌詞の意味も分からん」
本当に? と念押しで訊くと、こくりと頷く。
「……気にならないんです?」
「調べるほどのことでもないからな」
「……」
自分の振る舞いが、言葉遣いが、表情が、他人にどう映るか常に意識してる男の言葉と思えない――のに、今は自然と受け入れられた。
「……実はすっごい歌詞かもしれなくても?」
「聴いているのが壁越しのいたずら小僧だけならいいだろう」
「立派な紳士に育ったでしょうが」
「それは失礼紳士殿、おかわりはいかがかな?」
「……いただきます」
答えると、二杯目のお茶がポットから注がれた。新しい湯気と香りがふわりと広がる。
「気になるなら調べていいぞ」
「……アンタが知らないのに?」
そういうの嫌じゃないんですか、と訊くと、ノースディンは緩く微笑んだ。
「お前が調べるなら構わん」
「……も??……」
「?」
そんな風にいわれたら調べる気など消えてしまう。
気分が良ければ、今まで歌わなかった歌も歌う。どんな歌なのか、歌詞も曲もこれで正しいのか分からなくても。
それを聴くことが許されて、ノースディンが楽しんで、気持ちを緩められる姿を見ることができるのなら、歌詞の意味も元の歌も知る必要なんかないと思ってしまう。
「……全然分からないけど、私その歌好きですよ」
言うと、ノースディンが笑って繰り返す。
「全然分からないがな。……ああ、そういう意味では」
そこまで言うと、ぴたりと言葉を切って、とってつけたように紅茶をかき回した。引き上げられたスプーンが、ソーサーの端に横たえられる。
「……ちょっと、今何か失礼なこと考えたでしょ」
「言葉を慎んだだけだ。紳士なのでね」
「私の正確な音程がお分かりにならないようで……?」
「そろそろジョンを起こしに行く時間じゃないか?」
「ジョンに助けを求めることを覚えおって……」
しかしこちらのぼやきを無視し、目の前の男は素知らぬ顔で紅茶の続きを飲んでいる。
――気付いてるんだかいないんだか。
変化の度合いは緩やかであってもノースディンの方が高い。関係も習慣も見せる顔も、少しずつ増えて近づいている。本人にも多少の自覚はあるのだろうが、見ているこちらの方が、開いたばかりの花に触れるような気持ちになるのだ。だからそれを一つずつ、心の奥の方に取っておいている。
そうしていつかそれらが当たり前になったとき、取り出して見せてやろうと思うのだ。
|