ヒュウ、と足元に冷気が忍びこんできた。オーブンからはついさっきジンジャーブレッドが焼き上がったばかりだし、ガスコンロの上ではトマトスープが湯気を立てている。シャツの裾を捲っても寒くないほど暖かいキッチンで突然の冷気。犯人はいまだに起きてこないあの男に違いない。
ドラルクはコンロの火を止めエプロンを外し、いつものジャケットにブランケットを羽織った。次いでお玉を携え、廊下へ出る。自分を凍えさせることは決してないが、室温が下がるくらいのことはある。あの能力の前にはエアコンなど形なしなのだ。
「ゲエエ寒っ」
扉を開けて一度死ぬ。自分が起きたときは暖まっていたはずの寝室が、まるで屋外のように冷えきっていた。断熱素材で外気を通さない濃紺のカーテンに、二つの棺桶を受け止めて余りあるホットカーペットはまだスイッチをつけたままだ。ゴウンゴウンと音を立てている暖房は見えないクーラーに負けじと戦っていて悲壮感さえ感じられた。
「ちょっとヒゲ、何してくれてんです」
コンコンと棺桶をノックしてから、吹き出す冷気を覚悟して蓋をそっと持ち上げる。案の定ドライアイスでも敷き詰めたかの如く白い煙が流れ出したが、腕を極力伸ばし体を離していたため髪の端が塵になった程度で済んだ。空いた隙間にお玉を差し込み、しばらく待って冷気の塊を外へ逃す。いきなり全開にしたら全身死んでしまうし、微妙な隙間を保ち続けるなどすれば、腕が疲れて蓋が落ちるのは目に見えている。
「ヒゲ、ノース、師匠、……何でもいいけどそこのクール歯ブラシスノーマン、起きてこれ止めてくれないと、せっかくのクリスマスディナーが冷凍食品になるんですが」
棺桶の前に座り込み、突っ込んだお玉を揺らしてノースディンの体を叩く。するとようやく、隙間から手袋を嵌めた手が現れた。冷気もぴたりと収まる。既に充満したもので寒いことに変わりはないが。
しかし蓋がそれ以上開かれる気配がない。お玉は中で掴まれているらしく、もうドラルクが動かすことはできなかった。
「起きました? 起きてなかったら次はフライ返し突っ込みますよ」
言って、自分のものより僅かに重い蓋を両手で持ち上げる。反応がないのは寝ぼけているか二度寝かのどちらかだろう――と予想していたから、中のノースディンの赤い目がばっちり開いていたことに驚いて軽く死んだ。
「……ドラルク」
「っ、そ、ういう、吸血鬼ホラーに出てくるみたいな目覚めやめてくれます?」
眠っていると思ったら突然目を開き、首筋にがぶっといくやつだ。高等吸血鬼はあんな恐ろしい血のいただき方はしない。偏見が生まれるからやめてほしい。
あーびっくりした、と蘇りながらノースディンの顔を覗き込むと、お玉を胸の辺りに捕まえたままゆっくり視線を自分に移し、それから辺りに目を遣った。
ごくごく稀に、ノースディンは悪い夢を見る。内容はまず話さないが、寝起きがこうなるため言われなくても普通に分かる。そうでなければドラルクとジョンを寒さに晒すわけがない。
「お前……」
呟いて、お玉を見て、再びドラルクを見つめた。何故ここに、とでも言い出しそうな顔をしていたが、もう一度状況を確認すると、納得した息を洩らす。夢を見ていたことに気付いたらしい。
「やっとお目覚めですか。寝ながらブリザードすんのやめてください」
「……そこまで」
「ひどくはなかったですけど」
でも見て、そのお玉冷えっひえでしょ、と指差すと、起こし方を考えろ、とため息混じりに言う。悪夢から救出した相手に随分である。頑丈なキッチンウェアにも感謝してほしいものだ。
「それで? 私がいなくなっちゃう夢でも見ました?」
あらかた冷気が外に流れたのを見計らい、棺桶の中に潜り込む。寒いぞ、とドラルクが死なぬよう注意をくれるが拒みはしない男の横に寝そべって、頬に子供がするようなキスをする。これが現実、可愛い弟子は恋人にもなったという、まことに素晴らしい現実を分からせるのが一番手っ取り早い。強張っていた腕もドラルクを抱きしめるためならすんなりと動く。
「……恋人ができたと、紹介された」
珍しく夢の内容を話す気になったらしい。しかし悪夢と呼ぶには俗っぽく、俗っぽいで片付けるにはだいぶ面白くなさそうだ。
「私が? アンタ以外に?」
「だからもう、家には帰らないと」
「――ハ? アンタと付き合ってるのにそんなこと言ったんです? 私が??」
自分が? とつい主張してしまう。そんなの浮気ではないか。あり得ない。いかに楽しさ最優先に生きている自分とて浮気はしない。しないというか、欲しいのはたった一人、好いた相手がいたら他は対象として目に映らないのだ。
「それで、そんなこと言われてどうしたんです」
「そうか、と」
「オイ」
声を低くして詰めると、抱きしめる腕がいくらか強くなった。
「お前は怒ってほしいようだった」
「……」
聞けば聞くほど顔の中心に皺が寄る。つまり怒らせて確かめたかったのだろう。まったくもって腹立たしい、名誉毀損ばりの偽物だ。
「アンタの中の私どうなってるんです、そんなことでもしないと信じられないんですか」
「夢の話だ。現実のお前がするとは思わん」
でもそう言われて、夢の中のノースディンはドラルクを手放し、結果この寒冷前線がキッチンまで到達したのだろう。
「まったくなんだってそんな夢……」
「昨日は寒かったからな」
「寒くなるたびそんな夢見られちゃ堪らんですよ。今晩から着る毛布でも着て――」
「お前に出て行かれては困る」
静かに落とされた言葉に、顔を上げた。僅かな苦笑は自分自身に対してのものか、夢を本気にして言い出したわけではなさそうだ。とはいえさっきまでの冷気といい、なかなか堪えたのだろう。
「お前を愛しているが、口にしない癖がついている。それがああいう夢になったんじゃないか」
「……寒いからじゃなく?」
「お前がいなければこの家の温度は下がる」
暖房、パネルヒーター、ホットカーペット、ストーブ等々、片手では収まらない暖房器具を数え上げ、ノースディンが笑う。
「キッチンも私一人では紅茶を淹れる程度だ」
「……なるほど、私のありがたみが分かったと」
「春が来ると忙しない理由もな」
空き箱と本体が毎年一つずつ余る、と言いながら、確かめるように体を抱き直す。そんな夢を見たから眠りも浅いのだろう。まだ眠いのかもしれない。
「そうやってすぐ反省するところが原因じゃないです? 私を褒め称える時間を増やした方が生産的なのに」
「お前が一切しない分私が省みてるんだ」
「あ、じゃあ引き続き」
「お前な……」
ふふ、と笑って閉じ込められた腕から少しだけ這い上がり、両腕を首に回した。引き寄せれば自然に唇は重なり、冷たく乾いたそれが温かく濡れていく。静かで、穏やかで、動かないままでいると鼓動も溶けていくみたいだ。
長い口付けののち、触れ合った胸から深い息が吐き出されたのが分かった。塵に返さないギリギリの力加減もいつの間にか緩んでいる。そこから何度か軽い触れ合いを繰り返せば体も温まって、エアコンもようやく通常運転だ。
「……ね、やたらと省みなくても、解決できればいいんですよ」
「……一理あるのは認めるが」
「寝直します?」
「いや、起きる。私も手伝おう」
体を起こしたはずみでお玉が棺桶の底で音を立てた。そうだった、と微妙な顔で拾い上げたノースディンが、不意に苦笑する。
「お前ぐらいだな、魘されている私をこれで叩き起こすのは」
「人聞きの悪い。優しく起こしたでしょうが」
文句を言ったわりに何故か気分が上向いたらしい。愛でるような視線をお玉へ向ける。変な扉を開けさせてしまっただろうか。
「明日はブランケットでも買いに行きません? クリスマスだし。格好つけてないでパジャマもあったかいの着たらいいんですよ、着ぐるみもアリ」
「お前が着てるようなサメか?」
「おやサメはお気に召さないと」
あれで迫ろうと思ってたのに、と言うと、やめてくれ、と遠慮された。せっせとサメを剥く氷笑卿という愉快な導入になると思うのだが、理解を得られないようで残念である。
「まあヒゲの好きなのでいいですよ」
ついでにゲーム売り場に寄ってプレゼントを強請ろう。そうほくそ笑んでいたら、するりと腰を抱かれた。
「ならば、こちらを」
寝室から出かけていた足をぴたりと止め、横を見上げる。寝起きの凍ったような赤は嘘のように消え、ほおづきのような橙が灯っていた。にやりと笑って返す。
「それはお目が高い。ですが一点物でして」
「私のすべてをつぎ込んで、ではいかがかな?」
「……んっ、ふふ、ならば仕方ありませんな。しかしもうお手元にあるはずでは?」
ぱち、と一度瞬いたのちに細めた瞳を、浮かんだ笑みを、これを向けられて一体何を不安に思えというのだろう。言葉になどされなくても、あの頃より遙かに分かりやすい。それは自分が大人になったということで、ノースディンも頑なに保護者であり続ける必要がなくなったということだ。
「いつでも添い寝させていいんですよ」
「ジョンが許す限りな」
「よくお分かりで」
笑いながらキッチンに戻り、スープを温め湯を沸かす。エアコンの温度は上げなくてもすぐ暖まるだろう。ミンスパイを軽く焼き直してもいい。悪夢なんて一昨日来やがれである。今になって欠伸をしている男のほしいものならいつだって差し出せる、有能なサンタクロースがここにいるのだから。
|