( にかけるに )
 2×2   [ 1 ]

 更衣室でエプロンをつけた黒子に、黒子先生っと弾んだ声がかかる。扉の方を向けば、同じ頃入った保育士が手招いていた。今日は遅番で昼からだったが、どうも変わったことがあったらしい。保育園の低い門をくぐったときから、どうも園内がさわさわと揺れていた。
 黒子が保育士たちの集まる部屋に行くと、大きな窓から庭を見るよう視線で促された。その目はきらきらと輝いている。他の女性保育士たちも一様に同じ目をしている。

「新しい子が入ったの」
 ほら、あの金髪の子、と彼女が示す先を追って黒子はぎょっとした。砂場の縁に腰をかけている園児に、間違いなく初対面なのにとんでもない既視感を感じたからだ。
 染めているのか地毛なのか分からないが、オレンジを混ぜたような濃い金色の髪、遠目でも分かるはっきりした顔立ち、着ているものは襟付きのシャツにざっくり編んだ青いセーターだ。走り回って転がって泥だらけになっても丸洗いできる服、とは対極にいる格好である。本人もそれを汲んでいるのか大人しそうだ。いや大人しいのは周りをたくさんの――保育園中から集めたのかと言うほどの――女児に囲まれているからかもしれないが。
 
「かわいい子が入ったわよね〜」
「……そうですね」
 今朝方自分を起こしたのはあの小さい彼のサイズ違いだ。一体これはどういう状況だろうと黒子が固まっていると、背の高い一年上の先輩保育士が意味有り気な笑みを浮かべて隣にやってきた。長身で体つきも良く、間違いなく性別は男であるが物腰が柔らかい。口調も大変女性らしい。そのせいか飲みの席では姉さんと呼ばれている、玲央先生である。
「そっくりじゃない?特別扱いしちゃだめよ〜?」
「しませんよ」
「今日は来ないの?見たら絶対びっくりするわよ」
 黄瀬君、と面白がるように目を細めた彼は言った。
 黄瀬はここに何回か来たことがある。休みの日だとか、帰国した日だとか、身体が空くとひょこりとやってくる。どうして合格できたのか分からないが、パイロットになった彼の勤務スケジュールは不定期だ。そして自分を迎えに来たがる性格は高校から引き継いだまま治らないらしい。

 女性陣が精一杯感情を抑えながら、ちっちゃいキセリョよ!やだ何でもっと早く来なかったの、でも今もかわいい!かわいい!と歓声を上げている。どうやら彼は来年の春には卒園する年長組らしい。随分変な時期に来たものだ。
 それにしても朝からこの調子だったのだろうか。保育士ルームの隅では男性保育士達が渋い顔でそれを眺めている。
(……何かすごく良く分かりました)
 黒子の脳裏に、ユニフォームを着て、または制服に身を包んで、気軽にひらひらと手を振って笑顔を振りまいていた彼の姿が思い浮かぶ。
 こうだったから、ああなった。時間を巻き戻して経過を見ているようだ。小さい彼は名前もそのまま、黄瀬涼太君だという。
 しかし、あの小さい黄瀬は今のところそれほどサービス精神が旺盛ではないらしい。大勢に囲まれて嫌そうにもしていないが、特別嬉しそうな顔もしない。何か聞かれると、口を開くといった程度だ。

 黒子がそれを眺めていると、ふいに視線を巡らせた黄瀬と目が合った。大人しく座っていた小さい身体がすくっと立ち上がり、庭に面した保育士ルームの、黒子が立っている窓の方に一人で歩いてくる。黒子は外へ繋がるガラス戸を引き、サンダルを履いて外へ出た。
「どうかしました?」
 後半小走りでやってきた黄瀬は、黒子の腰の高さほどの身長だった。くっきりと縁取られた瞳を開いて、自分の顔をじっと見上げてくる。どうしてか、驚いているように見えた。不思議なものでも発見したようだ。

「りょうた君、ですよね?初めまして」
 呼びかけながら、不思議な感じがした。
 同じ名前の子供なら今までにも会ったことがある。保育園では下の名前で呼ぶ決まりになっているから、そのときもりょうた君、と呼んだ。でも、黄瀬を名前で呼んでいるような気分になったことなど当然ない。今回はあまりにも似ているからだろう。

「……はじめまして」
 少しの間があったが、黄瀬はひたすら自分を見つめたまま、言い慣れた様子できちんと挨拶を返した。薄茶色の瞳に、自分の顔が丸く写っている。
「黒子テツヤです。よろしくお願いします」
 挨拶をすると今度は、ぽかんと口を開いた。我知らずといった風なのに、教わった名前で正しく呼ぶ。
「……くろこ、せんせい?」
「はい」
「くろこっちせんせい」
 言い直されたそれに黒子は目を見開きかけたがそれはせず、膝を曲げてしゃがみ、目の高さを合わせた。
「……『っち』ってなんですか?」
 出来る限り優しく問う。間近に目を見ると、琥珀のようにそれは光っていた。黄瀬は視線を離さないまま、おれ、と呟くように言った。

「おれ、すきな人には、『っち』ってつけます」

(……黄瀬君……!)

 どんな遺伝ですか、とつい大きい方を叱りつけたくなった。彼が産んだわけではないと分かっていても、こうもそっくりな顔では責任を取らせたくなってしまう。この見た目で生まれるとこの癖から逃れられないのだろうか。

 内心はともかく、そうなんですか、と穏やかに答えると黄瀬はもう一度「黒子っち先生」と呼んだ。いつの間にか、小さい手がエプロンの端をつかんでいる。
「何ですか?りょうた君」
 すると、その呼び方が認められたと分かったのだろう。黄瀬は幼い顔に、はにかんだような満面の笑みを浮かべた。大人の方からは最近とんと見かけなくなった控えめさである。黒子は今度こそ目を見開く。
(……ちょっと、これは)
 大きい黄瀬に通じるところのある勝気そうな表情も、子供なのに妙に大人慣れしていそうな様子もある。まったくの天真爛漫という風ではない。頭では、見慣れた顔がちょっと幼くなっただけだ、と思い込もうとしているのに。

 これはどうにも、かわいい。


「くーろこ先生?りょうた君呼ばれてるわよ〜」
「……」
 黒子の様子を見て取ったのだろう、玲央先生が通りすがりを装って声をかけてきた。砂場の方から、りょうたくーん、と呼ぶ声は確かに耳に入ってきてはいた。
「……分かってます」

 黒子は黄瀬の手を取り、立ち上がった。体温の高い手が、ぎゅうと自分の手を握り返す。子供の力は大きさのわりに意外と強い。それでもその手は自分の指を三本握り返すのが精一杯の大きさで。

 この黄瀬が入園したことは、しばらく大きい黄瀬には黙っておこう、と黒子は思った。
 黄瀬は絶対に気付く。今自分の心に沸いているような感情に絶対気付いて、拗ねて妬いて面倒なことになるに決まっている。







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