( にかけるに ) 2×2 [ 2 ] |
そろそろかな、と保育室のモップがけをしていた黒子は、掛け時計で時間を確認した。一時三十五分だ。予想通りその数分後にかけられた、黒子っち先生、という小さな声に、黒子は目を半分に細めて斜め下を振り返る。 「りょうた君、今日もですか」 「だってつまんないんすもん」 園児たちが集まる広い保育室には今は誰もおらず、がらんとしている。昼寝の時間だから全員布団に入って眠っているのだ。もちろん、黄瀬も眠っていなければいけない。 「つまんないじゃないです、ちゃんとお昼寝してください」 「ねむくないっす」 そうは言うが、彼は黒子と一言二言話せば気が済んで、昼寝部屋に帰っていく。昼寝時間が終わって起こしに行けばちゃんと寝ぼけ眼になっているので、眠れるのである。ただ黒子と話したいだけなのだ。入園してから今日で一週間と少しになるが、彼は毎日昼寝を抜け出し、黒子の足元にひょこりとやってくる。 「りょうた君はもう保育園の中を覚えちゃったんですか」 「うん、ぜんぶおぼえたっすよ!」 黄瀬は得意気に答えた。それは確かにすごいことで、園児達の昼寝の時間、彼は居場所の一定しない黒子がどこにいても探し出すのである。昼寝部屋に戻るときも、迷う気配はない。 「あっちがぴあののへやで、あっちがごはんで、あっちがばんそーこーのへや!」 腕と指を真っ直ぐ伸ばし、くるくる回りながら方々の空間を差していく。絆創膏の部屋とは、医務室を指しているらしい。 「どこか怪我でもしたんですか?」 「ううん、連れてってあげたんス」 それは優しいですね、と頭を一撫でし、ぴかぴか光った笑顔にもう一つ聞いてみる。 「先生たちのお部屋も分かります?」 「そこのむこうっす!えんちょう先生は、かどっこ!」 「……すごいです」 えへーと笑った黄瀬は黒子のエプロンの端を掴んだ。きゅう、と握り締めるのだが、黒子が引っ張られることはないささやかな力だ。初めて会ったときも同じようにされた。どうも彼の癖らしいのだがしかし、何故か他の園児がいるときはしない。二人になったときだけだと、最近黒子は気づいた。 入園してから一週間以上経ち、黄瀬の様子に気になるところがちらほらと出始めている。 「黒子っち先生もおひるねすればいいのに」 「そうですね、できたらいいですけど」 じゃあする?と言わんばかりに黄瀬はぱっと顔を上げた。 「でも先生はお昼寝するとクビになっちゃいます」 「くび?」 「ここに来られなくなっちゃうんですよ」 口の中で黒子の言葉を反芻した彼は、意味を理解すると、まさしく草木がしおれるようにしょんぼりと俯いてしまった。黄色い頭はつむじまでも元気を無くしたようだ。 「…………それはだめっす」 「りょうた君?」 「先生おひるねしちゃだめ」 「……はい、大丈夫です、しませんよ」 うん、と頷いた黄瀬はへなりと頭を下げたまま、ほてほてと歩いて昼寝部屋へ戻っていった。電気の消えた部屋に小さな背中が消えていくのを見送り、黒子はとりあえずモップがけを再開した。しかしモップを動かしているだけで、あまり身が入っていない。 (何か、変だったな) 来られなくなる、という一言で、黄瀬の元気はみるみる消えてしまった。 黄瀬は普段、駄々をこねて困らせることはしないが、口は達者だし気も強い。構ってほしさに我儘なふりをする節があるから、さっきのような一言二言で急に黙るなど、まして落ち込むとはあまり考えられない。自分が懐かれているのは分かるが、他に理由があるような気がする。 その日は帰るまで様子を見ていたが、昼寝後には既にいつもの黄瀬に戻っていた。そこは子供らしい。おやつを食べ、お絵かきをし、お迎えが来ると先生またあした、と黒子の首根っこにしがみついて、にこりと笑って帰っていった。帰るときに黒子に抱きつくのも、彼は入園してから欠かさない。 ふむ、と黒子は考え深く、顎に手を当てた。 自分は子供に嫌われるタイプではないが、出会ってすぐにこうも好かれたことはない。 一週間、うっすらと纏わり続いてきた疑問が、はっきりとした形になってきた。 (やっぱり、何かあったんだろうな) おそらくこの保育園に、転入してくる前に。 ◇ くつくつくつ、とカレーが鍋肌のところで沸騰する。焦げる前にそれをかき回し、また泡が浮き上がればお玉を回す。ルウが足りないから、まだとろみが足りない。 「黒子っちただいまっ」 数分前に出て行った黄瀬の二度目のただいまに返事をすると、黄瀬は玄関口からあれこれ喋りながらリビングにやってきた。 「新しいの発見したっスよ。前にスーパーでおばちゃんがおすすめしてくれたやつ。玉ねぎの何かがいいって、簡単だって言ってたっス」 たとえ情報がものすごく雑でも、これくらい何でも自分から喋ってくれればいいなと思いながら、またカレーをかき回す。あの黄瀬にそういう様子はない。 「あれ?黒子っち?」 (黄瀬君が小さい頃ってりょうた君みたいだったんですかね) だとしたら少しは参考になるだろうか。でも結局は別の人間だから、余計なフィルターを通して見ないほうがいい気もする。 「もー、カレー持ってきたっスよっ」 「わ」 のし、と頭の上に重みがかかり、目の前にカレールウのパッケージが現れた。中辛の文字と、つやつやとしたカレーの写真が大きく印刷されている。 「ああ、ありがとうございます」 「料理中に考え事してたら危ないっス」 「すいません。あ、これ未開封ですけどいいんですか」 黄瀬の手から吊るされているカレールウの箱を受け取り、開け口を確認する。箱全体から冷気が漂っていて、冷蔵庫に長い間しまい込まれていたのが分かる冷たさだった。 「だってオレうちで飯食わないし」 「たまには自宅でどうぞ」 「黒子っちの家がいいんス!」 はいはい、と返事をしながら箱を開け、ブロックを二つ入れるとちょうどいいとろみになった。 黄瀬は黒子のマンションの隣の部屋に住んでいる。黒子は六0六号室で、黄瀬は六0七号室だ。 黒子が保育士に、黄瀬がパイロットになってそれぞれ実家から離れると決まったとき、黄瀬は一緒に部屋を借りようと言った。そのとき二人はもう手を繋いだりキスをしたり、それ以上のことをする仲だったから、一緒に住んでも構わなかった。しかし黒子は言った。 『ボク、一人暮らししてみたいんです』 夜遅くまで本を読んでいても怒られない、夜中にコンビニに行っても構わない生活。アイスしか入っていない冷凍庫。こたつの中で眠る冬。いつかはやってみたいと、ひそかに思い続けていたのだ。これをやらなければ人生悔いが残る。 黄瀬はむむむと唸ったあと、『一緒でもそれやっていいから!』と言ったが、許されてやるのではなく、気ままにやるのがいいのだ。だから断った。 しかし驚くべきことに、黄瀬は黒子が引っ越した一ヵ月後に、隣に越してきた。隣が空いたら即連絡をもらうよう、不動産屋に端から言って回ったらしい。そうして彼は、恋人兼お隣さん、の地位を獲得した。 「キミのその力はどこから出てくるんですかね」 「愛からっスね!」 「ラッシー、マンゴーとプレーンとどっちがいいですか」 「……プレーンで」 黄瀬の言葉を流し、帰りに買ってきたラッシーを冷蔵庫から取り出す。二人分買ってきている自分もどうかと思うが、黄瀬は日本にいるとき九割方黒子の家で食事をするから、それも習慣になりつつある。 「そうだ黒子っち、オレまたフライト決まったっス」 食器棚からスプーンを出し、並べながら黄瀬は言った。魚型のカレー皿とおそろいの、魚の柄がついているスプーンだ。どこかの国で黄瀬が買ってきた。 「今度はどこですか?」 「スリジャヤワルダナプラコッテ」 「……はい?」 「スリジャヤワルダナプラコッテ。スリランカっスよ」 「……キミがそんなに長い外国の地名覚えられるなんて、人生って分からないものですね」 県庁所在地はおろか、都道府県すら怪しかった中学時代を考えると、それこそ奇跡としか考えられない。遠征した先も地名は半分くらいしか覚えていなかった。方角に至ってはそれ以下だ。彼にとって、乗り物に乗っていく先はワープだったというのに。 それが今では、聞いたこともないような首都の名前まですらすらと口にする。黒子が感心していると、黄瀬はむう、と膨れて言った。 「黒子っちオレはね、結構方角には強いんスよ」 「方向音痴じゃないのは認めますけど、名前を覚えているということが驚きです」 黄瀬は初めての場所でもあまり迷わない。行き先の名前が分かれば、地図を見て辿り着ける。ただいかんせん、その名前を覚えていないことが多かった。よく行く場所はすぐに覚えるくせに――。 「あ」 「あ?」 そういえば黄瀬は、誠凛の敷地内もいつの間にか把握していた。体育館の裏手にはどうやっていくのか、正面玄関への近道、何故か職員室が何階にあるのかまで知っていた。 保育園のあちこちを指差し、いくつもの部屋を正しく言い当て、自分を見上げた笑顔が脳裏に浮かぶ。 「黄瀬君」 「な、なに?」 カレーを掬う手を止め黄瀬を振り返ると、彼もしゃもじを持ったままこちらを見た。 「キミ小さい頃、医務室のこと何て呼んでました?」 「小さい頃?え、医務室なんてあったっけ。保健室……はガッコっスね」 黒子が保育士になってからは、小さい頃、と言えば小学校に上がる前を大体指すので、黄瀬もその辺りにずれはない。しかしそんな時期に医務室の記憶などない方が普通だろう。質問を変えようかと黒子が考えたところで、黄瀬は言った。 「あー……、ばんそーこーの部屋?」 「…………当たりです」 当たりって何が?ねーねー黒子っち当たりって?と言い続けている黄瀬から、黒子っちラッシー溶けるっス!と言われるまで、黒子はカレー鍋の前で考え込んでいた。 >> 続 << 戻 |