( にかけるに )
 2×2   [ 3 ]


 日暮れから夜にかけ、園児たちの大半を送り出して一段落ついた黒子は室内に戻った。これより後に残っているのは、時間延長組である。毎日遅いお迎えの子供もいれば、日によって延長する子供もいる。
 黄瀬のお迎えは、日によって時間が違う。一・二時間のばらつきはよくあることで、ただ、閉園時間直前になることはまずないようだった。今日は少し遅い方であるらしい。

 保育室には他にも何人かの園児が残っていたが、黄瀬は少し離れて、一人で絵本をめくっていた。日中は外でボールを転がしたり、専ら身体を動かすことにしか興味を示さないが、夜は室内にいるしかない。パズルやら知恵の輪やら子ども用の玩具は飽きてしまったらしく、このところは絵本へ向かっている。
 黄瀬としては最終手段だろうから、すぐ本を枕に寝てしまうかと思われたが、一度広げた絵本を彼は熱心に眺めていた。今日読んでいるのは前回と同じ本だ。床に伸ばした足の上に広げている。

「りょうたくんはそのお話が好きなんですか」
 時期的には少し早いが、黄瀬が読んでいるのは古いクリスマスの絵本だった。サンタクロースが寒さにぼやきながら、世界中を飛び回ってプレゼントを届ける話である。

 腰を屈めた黒子が横から声をかけると、黄瀬はぱっと顔を上げた。しかし答えようと口を開いたところで、なぜか眉を寄せ、難しい顔になってしまった。そんな内容だったろうか、と開かれたページ見るが、サンタクロースがせっせとそりに荷物を詰めている場面だった。
 黄瀬は黒子の視線を追うように、また絵本に目を戻した。そして考え深い声で呟く。

「おれ、さんたくろーすってあやしいとおもうんす」
「……怪しい、ですか」
 黒子は思わず瞬きを繰り返した。絵本自体に興味のなさそうな黄瀬が、それを読みながらそんなことを考えているとは思っていなかった。
 黄瀬はページを戻して、なかなか布団から出ようとしないサンタクロースを指差す。
「だって、さむいからっておきないんすよ。くりすますなのに」
「……それは……寒いからですね」
 寒いと起きたくない人間の代表的な一員である黒子は、つい肩を持った。黄瀬は珍しく、きりっとした顔を黒子に向ける。
「くりすますは、とどけるところがいっぱいなんすよ。なのに、ねぼうしたらどうするんすか」
「りょうた君は……随分しっかりしてますね」
「……おれはさんたくろーすをしんようしていいのか、しんぱいなんす」
 どうやら深刻な悩みらしい。しかしサンタクロースの体質や職場事情を知らない黒子には、寝坊しませんよ、お仕事ですから、と言って安心させることもできない。万一黄瀬ががっかりするようなことがあっては、黒子の信用もサンタの信用も下がった上、一度安心した分余計に落ち込むだろう。
 黄瀬はまた心配そうに、ほら、えんとつにつっかえてる、と小さい手から出した人差し指で、黒子に示す。おうちに入れなかったらどうするんすか、と一つ一つが心配の種らしい。仕舞いにはしょんぼりとし始めた横顔を、黒子はしげしげと見つめた。

(ということは)

「りょうた君は、プレゼントがちゃんと届くか心配なんですか?」
「……」
 黄瀬は迷った末、小さく頷いた。届かなければこの世の終わりのような顔だ。
 何が欲しいんだろう、と黒子は考えた。聞けなかったのは、黄瀬の様子がこの間と似ていたからだ。昼寝をするとクビになる、と言った途端、普段の明るさを消してしまった黄瀬に。また何か、黄瀬がひっそりと隠しているものに触れている気がする。

「おれがさんたくろーすのところに行けたらいいのに」

 切実に言う黄瀬の力になってやりたいのはやまやまだったが、黒子もサンタに関しては尽力のしようがなかった。ツリーにはサンタさんが寝坊しないように短冊を飾りましょうね、と言うしかない自分の無力さが悲しい。そんな黒子を横に黄瀬は、いい子で待ってるっす、とおそらく周りから言われたのであろう言葉で、自ら健気な指針を立てる。
 いい子ですよ、と決して慰めでなく口にすると、黄瀬はお礼のように笑った。



 ◇


 一日の仕事を終え、やや重たい足取りで家路に着いた黒子は、玄関を開けて立ち止まった。電気の灯されている室内、温かい空気、そして――奥から駆けてくる足音。軽い疲労を先取りして、その場で頭を垂れる。

「黒子っちおかえりーっス!」
「……ただいまです」

 この一週間ほど、遅番で戻ると黄瀬が黒子の家で待っているのだ。それは構わないのだが、靴を脱ぐ間もなく黄瀬は抱きついてきて、気が済むまで深呼吸しないと離れない。

「あの……これ何とかならないんですか」
 黄瀬の身体に視界を覆われながら黒子が言うと、頭上から返事が降ってくる。
「なんないっスよーだ。不平等は良くないんスからね」

 黒子っちせんせ。

 と。

 そう、ついに先週、小さい黄瀬の存在が、大きい方に見つかってしまったのだ。
 こんなことならさっさと言ってしまえば良かった、と黒子にしては珍しく後悔をしている。

「……少しも不平等じゃないと思うんですけど」
「だってあのちっこいのは毎日黒子っちに抱きついてるんでしょ」
「キミだってそうでしょう」
 抱きつく以上のことだってしているのだから、不平等どころか、大なり記号の口は間違いなくこの黄瀬の方に開いている。しかし黒子が黙っていたことをしぶとく根に持っている黄瀬は、事実がどうであろうとこの件に関して譲ろうとしない。
 とにかく見つかったタイミングが悪かった。小さい黄瀬が帰り際、黒子に抱きついて挨拶をしているところに、予告なしに迎えにきた大きい黄瀬が鉢合わせたのだ。

『黒子っち何それ!』
『黒子っち先生あれ何?!』

 と互いに指を差し合い、始まった闘いは黒子一人では収拾がつかず、玲央先生に黄瀬を外へ引っ張り出してもらって何とか事なきを得た。表面的には。あれが小さい黄瀬のお迎えが遅くなった日で、保育士の多くが帰った後で良かったと黒子はつくづく思っている。
 小さい黄瀬は、翌日まで門の辺りを注意深く見回していたが、それくらいですぐに警戒を解いた。しかし大きい方はそうもいかない。

「抱きつくのは別にりょうた君だけじゃないですよ。他の子だってしますし、抱っこもします」
「ちっこいのは別っスよ!これが初恋で、十年後黒子っちをかどわかすかもしんないじゃないスか」
「十年後……って、十六歳ですよ。そんな青春真っ盛りに」
「だって黒子っちっスもん!オレ十六で黒子っち見たら絶対口説くもん!!」
「……初めて会った頃ああだったくせに」
 ぼそ、と黒子が言うと黄瀬は瞬間押し黙ったがすぐに、
「それを経て今があるんじゃないっスかーー」
 とわあわあ嘘泣きを始めた。
 どうして黄瀬は大小揃って、普段は楽観主義を貫いているというのに、突然とんでもない心配性モードに突入するのだろう。大きい黄瀬は全部が全部ではないにしろ、何パーセントかは本気なのだ。しかも彼らは未来とか遠い北欧とか、彼らにも黒子にも手の出せない領域を案じる。
(まあ、こっちの黄瀬君はいいんですけど)
 大きい方は放っておいても何とかなるが、小さい方は気にかかる。
 はあ、と未だに自分を抱え込んでいる身体に額を預けると、黄瀬の嘘泣きがぴたりと止まった。

「今日は杏仁豆腐もあるっスよ」
 遅番お疲れっス黒子っち。
 ふわりと腕の力が緩められ、黄瀬の声が落ち着いたものに変わった。今日の分の駄々はこね終わったらしい。
「晩ご飯は中華ですか」
「チンジャオロースー!すぐ食べられるっスよ」
 黒子が遅番の日は、黄瀬が夕飯を作る。そしてたまに、甘いものも買ってきてくれる。
「チンジャオロースって切るの大変なあれですよね」
「そうでもないっスよ。タレはあれだし。くっくるー」
 ああ、くっくるーは便利ですね。うん便利。話はあっという間に切り替わり、短い廊下を歩きながら二人で居間へ向かう。

 黒子の遅番を待つと、夕食は十一時過ぎになる。黄瀬にはこの生活を始めた頃から何回か、自分を待たずに食べていていいと言った。彼は元々遅い時間にものを食べないし、大体家が違うのだから、待つ必要はない。でも黄瀬は何度言っても曖昧に返事をするだけで、いつも待っている。そのうち黒子も言わなくなった。
 日付も越えようかという頃に食事が終わり、あとは寝るしかない時間だから、黄瀬もそのまま黒子のベッドで寝る。先週フライトから戻ってきたところだし、小さい黄瀬も見つけてしまったしで、このところ泊まっていくことが多い。しかし翌日のことを考えて、大人しく寝るだけだ。それでも黒子の布団に入ることが、黄瀬はいつまでたっても嬉しいらしい。

 駄々はこねるけれど、頃合いを見て引くところも。黒子を本当には困らせないところも。隣にいるだけで嬉しそうにするところも。

(似てると言ったら、また拗ねそうですけど)

 先に寝付いた黄瀬の前髪をそろりと撫でると、満足そうな声が喉から鳴った。






>> 続
<< 戻