( にかけるに )
 2×2   [ 4 ]

 合い鍵というのはいいものだ。
 黄瀬は鼻歌を歌いながら、ポケットから水色のストラップがついた鍵を取り出した。ちょうど黒子の髪の色を濃くしたような落ち着いた水色で、一目で気に入って黒子の家の鍵につけた。握った手の中でストラップと鍵を重ねて玩び、かちゃかちゃと音を立てる。
 自分の家の扉を閉めれば、三秒もしないうちに黒子宅へ到着する。遊んでいた指を止め鍵を差し込み、手首をひねればやや重たげな音と共に鍵は解かれる。
 初めて合い鍵を使ったときは鍵の外れたことに焦って、本当にいいのかと二回はかけ直した。そんな緊張感は今はないが、開くときの嬉しさは変わらない。彼の日々の空間に、断りなしに入ることを許されている。

 玄関を開くと中はほの暗く、家中は眠っている気配で静まっていた。廊下の右側にある寝室の扉は閉ざされている。黄瀬は静かに玄関の扉を閉め、足音を立てずに寝室に忍び込んだ。ベッドを上から見下ろすと、黄瀬にとって世界中の安息を凝縮させたような平穏な寝顔が、すうすう寝息を立てている。それと対極に、枕の上でとんでもない形に広がっている髪の先をちょいちょいと指で掬ってから、黄瀬はカーテンを思い切り開けた。

「黒子っちおはよーっス!」

 仰向けで寝ているから黒子の顔には全面的に朝日が当たる。ぱっと肌が明るくなり、同時に黒子は目を閉じたまま眉を顰めて横向きに転がった。

「……眩しいです」
「朝っスからね!」
「眠いです」
「おはよ!」
「…………」
 カーテンから手を離し、無言で布団にくるまっていく黒子の枕元に顎を乗せる。起きたくないとごねる黒子はいつ見てもかわいい。それを見たくて、実はいつも約束の時間より早めに来ている。
「今日買い出し行くんでしょ?早く行かないといいやつ売れてっちゃうっスよ」
 言うと、布団の中から唸り声が聞こえてきて黄瀬は笑った。ちゅ、と耳の端に軽く口付ける。薄く柔らかい皮膚は体温より少し低い。何をするでもなくそのまま唇だけをつけていると、唸り声は止まった。
「……起きます」

(ちえー残念)
 あと十秒応答がなかったら、買い出しは午後からにするところだったのに。

「朝ごはん作っとくから、二度寝しないで起きてきてね黒子っち」
 黄瀬が離れると、黒子はまたぐるぐると、動物のように唸った。




 ◇



 黒子の保育園では、来週からクリスマスの準備を始めるらしい。子供たちと全員で、園内を飾り付けたり、ツリーの準備をするのだそうだ。サンタクロースにも手紙を書くとか、ちらっと聞いただけでも企画は盛りだくさんで、黒子も楽しみにしているようだった。

「よく思うんですけど、黄瀬君の作る朝ごはんてキラキラしてますよね」
「へ?」
 車を走らせてからしばらくして、黒子はクリスマスカタログを見ながら全然関係ないことを言いだした。車の中で文字を読むとちょっとしたメール程度でも酔うというのに、黒子は酔う直前まで何かを読もうとする。案の定、一ページも見ないうちにカタログを閉じた。
「あー……そう?スかね?」
 今朝の朝食はグレープフルーツとオレンジのサラダだ。確かにキラキラはしていた。というか、キラキラさせた。
「ボクの家では出てきたことないようなのが出ます」
「黒子っちのとこはどんな朝飯だったんスか」
「ご飯とお味噌汁とか、たまにパンもありましたけど、基本的に簡単なのですよ。黄瀬君のおうちはいつもあんなちゃんとしたご飯だったんですか」
「まあ、わりとあんなだったっス」
「キミのお母さんはお料理上手だったんですね」
(うーん?うん)
 どう答えたものか、考えながらアクセルを踏み、まあいいか、と自信たっぷりに答える。
「だからオレもいいおムコさんになるっスよ!」
 はいはいそうですね、といつもの棒読みを笑顔で受け取りながら、黄瀬は心の中で謝った。
(でもごめん、飯は、作戦!)
 自分の実家の朝食は、特段手抜きでもなかったけれど、ごく普通であったと思う。洋食の比率は黒子の家より多いかもしれないが、質的には多分さほど変わらない。今朝自分が作ったような、どこぞのカフェのようなサラダが出てきたことはない。誕生日だとか、来客があるときにちょっと豪華に作られた料理を、黄瀬が少しアレンジしただけだ。

(まずは胃袋を掴めってヤツっス!)

 時に豪華に、時に素朴に、黒子は華やかなものを好む方ではないが、好奇心は旺盛だ。だから黄瀬は緩急つけ、小さな胃袋をくすぐっている。何しろ放っておくと、ゆで卵と煮卵、みたいな朝食で黒子は満足してしまう。黄瀬としては普通にバランスの良い食事をしてほしい。そしてついでに、というよりこれが本音であるが、自分と一緒に暮らすのもいいなあと、黒子の気持ちを同棲の方向へ持っていきたい。

「あ、看板の端っこが見えてきました」
「おーなんか渋い感じっスね」
 赤信号で止まったついでに、ナビを確認する。あと少しで目的の問屋街に到着だ。
 週末から黄瀬はまた国際線のフライトで、十日ばかり戻ってこない。車の運転は二人ともできるが、大きなツリーを運ぶには黄瀬の方が適している。それで今日は、以前から買い出しの付き合いを頼まれていたのだ。

「今日はツリーが一番でかい買い物なんスよね?」
「はい。あとはツリーの飾りと、サンタの服と……」
「え!」
 思わず走りながら助手席の黒子を見た。瞬時に赤と白のもこもこ衣装を身につけた姿を想像する。とんでもないことだ。
「ミニスカサンタは絶対ダメっスからね!買おうとしても止めるからね!」
「……そんなのボクもお断りです」
「オレの前でだけならいいっスけど!」
「誰の前でも間違っても着ませんから。……あ、」
「?」
 自分の方を向き、何かを言いかけた黒子はその前に信号が変わったことに気付き、青信号を指さした。先のカーブを越えると、話し出す。

「黄瀬君サンタクロースに会ったことないですか」
「あ、会ったこと?」
 突然の質問に、黄瀬は目を瞬かせた。どうやら黒子は真剣である。
「北欧にサンタクロース村っていうのがあるらしいじゃないですか。詳しい様子が分かるといいんですけど……」

(あ、良かった)
 ソリで屋根に到着し、煙突から侵入するサンタのことを言っていたらどうしようと、割合早い時期にサンタの正体を知ってしまった黄瀬としては今かなり焦った。
(でもサンタ待ってる子供の黒子っちとか、絶対かわいいっスよね)
 靴下をつるして眠る姿を想像し、そこではっと気付く。その質問は、もしかして。
「……黒子っち」
「はい?」
「……りょうた君スね?」
「……」
 あれ、とかあいつ、と言うと怒られるので、黒子に合わせてあの小さい黄瀬を「りょうた君」と呼ぶことにしている。しかしますますライバル意識が強くなるのはなぜだろう。
 黒子が「りょうた君」を気にしているのは丸分かりである。その話をすると厄介だと思っているから誰のこととは言わないが、滅多に相談などしない黒子が黄瀬に何か聞くときは、大抵「りょうた君」絡みだ。
(別にいいんスけど)
 黒子があの小さいのを気にかけているのは、自分に似ているから、である。バレると分かっていながら一応隠す体で相談してくるのも、黄瀬を気にするが故である。自分のことを好きな証拠だ、と黄瀬は思っている。
 しかし、だ。
 黄瀬は中学から高校・大学と、黒子を狙う魔の手から死守してきた。そんな相手は一人もいない、と黒子は言うが、黄瀬がまとわりつかせなかったからだ。本人は自覚していないが、その笑顔をコンマ一秒見ただけで恋に落ちる輩は山ほどいるに違いない。
 だから相手が子供であっても、黒子には近寄らせたくない。その上あの小さい黄瀬涼太は、既に黒子に独占欲を持っている。
 ただ、そこはやはり子供だから、黒子の受け持つ園児だから、ということで一応大目に見ているだけなのだ。

「りょうた君がサンタに会いたいとか言ってんスね?」
「……会いたいとは言ってないです」
「やっぱりょうた君スか」
 黒子はそろーっと顔を窓側に向け、尖らせた口から口笛を吹いた。この上なく典型的な誤魔化し方な上、スカスカである。
(漫画っスか!)
 咄嗟に笑いを堪えたが、突っ込めば声に滲む。下手な口笛と似合わないごまかし方の、全てがかわいい。
「吹けてないっスよ!」
「で、サンタさんには会ったことあるんですか」
「開き直ったし!」
 駐車場に入り、出やすい場所を探してカーブを続ける。まだ空きだらけだ。車の動きにつられ、身体を前後左右に振られながら、黒子が言い返す。
「黄瀬君は心が狭いです」
「あっ、そーいうこと言うんスね。いいっスよー、じゃあサンタの話はここまでっスねー」
「……」
 カタログを丸め、ぞうきんのように絞っていた黒子の手がぴた、と止まった。こちらに視線を送ってくる。早く言え、と言いたいのはやまやまだけれど、一言頼むべきかと迷っている顔だ。
 この件に関しては、黒子は何故か黄瀬に優位を譲ってくれている。そして、絡んで構ってほしいだけの黄瀬に付き合ってくれる。
 実のところ黄瀬はサンタクロースにあまり興味がないので、北欧がどれだけ寒いかくらいしか知らない。
(会社の誰かに聞いてみよ)
 白線の中に車を停め、とりあえず気候の話だけしておこうと思ったときだ。

 車が止まるのを待っていたかのように、突然、黒子はぱらぱらとカタログをめくり始めた。まるで今までの会話などなかったかのようである。
(あ、あれ?)
 もしかして調子に乗りすぎて怒ってしまったのだろうか。
 車の鍵に手をかけたまま困惑していると、黒子はページをめくる手を止め、大きく広げたカタログを黄瀬の目の前に掲げて見せた。近すぎてよく見えないが、とりあえず各種ツリーが並んでいるらしい。
「えっと……黒子っち?」
「これどうですか」
「?」
 カタログの端を掴んでいる黒子の両手にそろりと触れ、目との距離を開ける。やはりツリーだった。ごくスタンダードなもみの木の写真が並んでいる。
「右から二番目ので」
「二番目?……ん?うん、いいんじゃないんスか……?」
 サイズが予定よりも少し小さいように見えるが、形は整っていて、緑の色も濃くていい。それ以前に黄瀬はクリスマス会の規模を知らないし、買い出し担当の黒子が選ぶのならいいのだろう、としか判断できないのだが。

「じゃあ決まりですね。重くなりますけど、よろしくお願いします」
「?平気っスよ、そんなに重くなさそうだし」
「それ一本だけならそうですけど」
 黒子は黄瀬に見せたページの角を折り、また別のページの角も折った。もはやツリーのことしか考えていないような横顔だ。
「買うの一本じゃないんスか?」
「園に一本、家に一本で合計二本です」
「家?」
 反芻すると、黒子はようやく黄瀬を見た。決まりきったことを確認するように、言葉を続ける。
「キミの家かボクの家か、どっちに置くかは後で考えるとして、飾り付けは一緒にしますよ」
「一緒に」
「はい」
 話がじわじわと頭の中で繋がっていく。二本のツリー、一本は家に、飾り付けは一緒に。

(飾りつけは、一緒に)


 ――二人で過ごすクリスマス用のツリーだ。


「……黒子っち!」
「はい」

 もちろん一緒に過ごす予定だった。けれど、まさか黒子からこんな風に、まるで当たり前のように誘われるとは。

「黒子っち〜!」
 感極まって抱きつけば、彼は首をもぞもぞ動かして、黄瀬の肩の上に顎を乗せた。慣れた動きがまた黄瀬を喜ばせる。
「てっぺんに星をつけるのは、黄瀬君に譲ってあげます。なので」
「そんなのいいのに!」
 それにどうせ飾るなら黒子の写真を飾りたい。オーナメントとかも全部黒子の人形とかでいい。
 オレ黒子っちツリー作りたい、と言うと、これ以上変態を悪化させないようにしましょう、と背中をぽんぽんと叩かれる。

「ということで黄瀬君」
「なになに!」
「サンタの情報、しっかり集めてきてくださいね」
「……サンタ?」
「そう、サンタです」
「……」
「……」
 すっかり忘れていた。サンタの話の途中だった。それの元はもちろん。

「やっぱりりょうた君じゃないスかー!!」

 抱きついたままわめくと、おまけもつけるんで、と黒子は頬にキスをしてくれた。



 ライバルも登場したし、一刻も早く一緒に暮らしたい。
 そうは思っているけれど、黒子との恋人かつお隣さん生活は、思っていた以上に順調で、小さいライバルの存在も案外と悪くないのであった。






>> 続
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