( にかけるに )
 2×2   [ 17 ]


「どうして誰も呼ばないんですか?」
 その話は、今隣で不貞寝中であろう黒子にもしていない。一瞬答えるべきか迷ったけれど、こちらの黒子には誤魔化してもばれそうだ。結果、一番素直な言葉で話すことにした。
「信じてほしいから」
「……」
「オレには黒子っちしかいないって、信じてほしいんスよ。……大した理由じゃないんスけど」
「大事なことでしょう、それは。でも……」
「?」
「黒子先生は十分キミを信じているように見えるので、少し意外でした」
「オレもそう思うっス。でも、もし黒子っちが不安になったらって考えるとオレのが怖くて。……そんな風に思うことなんか、ないんだろうけど」
 黄瀬がずっと貫いていた決めごとである『家には黒子以外誰も泊めない』。本当はそれだけじゃない。玄関から奥へも誰も上げない。正しくは、決めていたというより、黄瀬が嫌だからさせていないだけだ。
 黄瀬の家に友達が出入りすることくらい、きっと黒子はなんとも思わない。今日だって大人の黒子を泊めていいと、それどころか、その方がいい、とまで言っていた。
 でもそれは、他に不安要素がないからだ、と黄瀬は思う。これからもそれが続くとは限らない。自分たちはもう子供じゃないのだ。社会人になって大人たちの世界に入った。学生なら彼女は?で話は済むが、大人は違う。その先がある。自分はもう黒子以外考えられないから、何とか躱していくつもりだけれど、もし。
 ――もし黒子が、結婚というものを考えるようになったら。自分と付き合っていることに疑問を感じ始めたら。
 そのとき、黒子の記憶の中に、黄瀬の家にやってくる誰か――特に、女の姿なんてものがあるのとないのでは全然違う。
 黄瀬ならすぐ彼女ができるとか、女の人の方がいいんじゃないかとか、間違っても思ったり口にしたりしてほしくない。自分との関係に不安になってほしくない。
 だからバスケ仲間以外では男友達だって呼ばないし、頼まれても家になど上げない。人の口づたいに何が起こるか分からないからだ。自分が女たちにどう見られるか、見られやすいか、学生の頃から知っている。黄瀬にとっては煩わしいそれで、万が一の誤解だって生まれたらたまらない。
 でも、薄々分かってはいる。
 それは黄瀬自身の不安の裏返しだ。さっきだって、そんなことを考えているのは自分だけだと思い知らされた。それが堪えた。思い出せば簡単に落ち込めるほどに。
「……慣れていないのは、黒子先生だけかと思ってました」
 何を?と顔に書いて彼の顔を見れば、はあ、と大きな溜め息が吐き出された。
「涼太君の場合、慣れていないというより、発想がないんですね」
「発想?何のっスか?」
 黒子の顔を見つめて問うと、ボクも疎い方なんですけど、と前置きして彼は続けた。
「これ以上こじれると明日に障るので言います。焼きもちですよ」
「…………へ?」
「ボクが来てからずっと黒子先生が少し不機嫌なのは、ボクに焼きもちを焼いているからです。黒子先生はもう分かってますよ。キミに対して頑ななのはそのせいです」
「…………やきもち?黒子っちが?」
「キミがそうだから、黒子先生は一度も誰かに嫉妬せずにいられたんでしょう。今の話を聞いてよく分かりました。黒子先生があそこまで戸惑っている理由も」
「戸惑って……るんスか」
 そんなバカな、と思うのに、顔が先に緩んでいく。
 そうだ、あれは焼きもちだ。何で気付かなかったのだろう。それならこの数日の態度が理解できる。でもまだ信じきれない。黒子が嫉妬をするのが初めてなら、黄瀬も嫉妬されるのは初めてなのだ。
 本当に焼きもちだとしたら、それが理由であんなにしょげて不貞腐れていたのだとしたら、とんでもなくかわいい。どうしよう、何と言って安心してもらったらいいのだろう。不安になんてしたくなかったのに、今、すごく嬉しい。
「……涼太君」
「っハイ」
 軽く頭の中に花を咲かせていたら、さっきまで味方だったはずの黒子の声が厳しくなっていた。つい背筋を伸ばす。
「今までのキミの状況からすれば嬉しいのは分かりますが、その顔はいけません。黒子先生は結構真剣にお悩み中です」
「ハイ……」
「ボクも少し軽率でした。まさかキミがそこまでしていたとは」
「え?」
「とにかく、黒子先生にはここに来てもらいます。あとはよろしくお願いします」
「よろしくって……つか、あの、それ持ってくんスか」
 表情を引き締め、黒子は立ち上がった。手には、食べかけのお茶漬けどんぶりを持っている。
「まだ食べ終わってません。器は明日お返しします」
「いやそれはいいんスけど」
 戻るなら黒子にも持っていってほしい。そう言おうと思ったけれど、どうやら黒子をこちらに寄越してくれるらしい。大人の黒子が言えば、意地になって逆らうことはしないだろう。
 片手の塞がる黒子のために玄関を開け、外の冷気に二人で身を竦めた。コートも着ないでお茶漬けどんぶりだけを持つ黒子が心配になったが、いいから早く戻りなさいと目で言われ、大人しく自分の家に引っ込んだ。
 隣同士で行ったり来たり、変なことをしているなあと思いながら、ほんの少し楽しかった。不謹慎だと、また叱られそうだけれど。



 黒子が出て行って二十分ほど経った頃だろうか。鍵の差し込まれる音が聞こえ、黄瀬はすっくと立ち上がった。足早に玄関へ向かう。黒子は合鍵を持っているからそれを使ったのだろう。言葉通り、大人の黒子は黄瀬の黒子をこちらに寄越してくれたのだ。しかし現れた姿に、黄瀬は間の抜けた声を出してしまう。
「……何でマスク?」
「……キミと別れた直後に風邪を引いたんです」
「…………」
 おおかた、突然黄瀬の家に行ってくれと大人の黒子に言うための理由作りだろう。
『オレん家いつでもどうぞって言っといて』
 意地悪にそう言ったときは、なんと言ってこちらに来させるつもりなんだろうと思っていたけれど、まさかそんな典型的な手を使うとは。とはいえ百パーセント仮病とは言い切れない。避ける隙を与えず片手を上げ、黒子の額に手を当てる。
「っ、熱はありません」
「そうみたいっスね」
 手のひらに触れる体温はばっちり平熱だ。
「……ひき始めです」
 まだ言うか、と思ったが、黒子も引くに引けないのだろう。口を一文字にして、黄瀬と目を会わせず、そっぽを向いている。普段の変化にとぼしい表情が嘘のようだ。
「外していいっスよ、マスク。多分それうつらないやつだから」
 大層不満げな表情を浮かべたが、彼は一応言われた通りマスクを外し、着ていたパーカーのポケットにしまった。そういえばこの黒子もコートなしだ。靴の中は素足だし、パーカーの下は長そでのTシャツとスウェットだった。真隣とはいえ十二月の夜にこの恰好で放り出すとは、あちらの黒子はちょっとスパルタかもしれない。
「……とりあえず、上がって」
「……お邪魔します」
 焼きもちで不機嫌になるなんてかわいい、とついさっき思ったはずなのに、今だってちょっと嬉しいのに、顔を見るとうまくいかない。普段だったら、黒子っち焼き餅?と軽くからかうノリで言えるのに、今の黒子にその軽さは許されない気がする。本気で怒っているわけではない。それは分かるのに、この固さはなんだろう。
 何もないと言われた通り、黄瀬の家に家具は最低限しかない。ダイニングテーブルなんて立派なものはなくて、小さなテーブルと椅子が二脚、クッションが床に二つ。寛ぐためのもの、つまり、今の黒子の心を和らげるようなものはここにはない。その前にもう一枚上着か、と黒子をリビングに残して寝室へ足を向けた。
「……すいませんでした」
 声をかけられ振り返れば、黒子は椅子の背に掴まるようにして立っていた。かろうじて黄瀬の方へ身体を向けているけれど、やはり目を合わせようとしない。
「……すいませんて、何が?」
 まだ本人の口からは聞いていないけれど、今回の喧嘩の原因はおおよそ黒子の焼きもちで当たりだろう。それなら黄瀬の腹立ちや落ち込みはほとんど解消された。でもそう思い詰めた顔で謝られると、こちらも真面目に受け止めなくてはという気になるし、やっぱり、黄瀬だって少しは傷ついた。態度ばかりで言葉にしないのも良くないと思う。そこはすっきりさせておきたい。しかし、黒子に口を開く気配がない。
「黒子っちさんに何か言われて、とりあえず謝っとこうって?」
「…………違います」
「じゃあ何に悪いと思ってんスか。んな膨れっ面で」
「……膨れっ面でも悪いと思ってるんです」
 腰に手を当て、はあ、と息を吐くとまた黒子が口を引き結ぶ。
「ほかに言いたいことあるんでしょ」
「…………」
「黙るより言ってくれた方がいいんスけど?」
「っ、嫌でした」
 語尾にかぶせる勢いで、黒子はそう吐き出した。その様子に少し驚いたがすぐ、努めて熱のない声で返す。
「何が嫌だったの」
「…………ぜんぶ、」
 黄瀬は目を見開き、その三文字を頭の中で復唱した。声は小さかったけれど、はっきり聞こえた。こみ上げてきたものに思わず顔を上に向け、口元を手で覆う。
(マジスか)
 黒子が俯いたままで良かった。ニヤけたのを見られてはまずい。
 あの黒子が、どこそこが嫌だ、ではなく、全部なんて答えた。子供みたいに。
「……全部じゃ分かんないっス。たとえば?」
 苛めてみたら、と言われたのをここで思い出した。黄瀬が今しているのはちょっとした苛めだ。でも、いつでも裏返すことができる。本当は今すぐ、優しくして、甘やかして、かわいがりたい。
 黄瀬の表情に気付かない黒子は、再び絞り出すように告白をする。
「…………って、呼ぶのが」
「ぜーんぜん聞こえないんスけど」
「っ、キミが、黒子っちって呼ぶのが!嫌でした!」
「黒子っちを?」
「分かってて言ってるでしょう……!」
「うん」
 ちら、と黒子へ目を遣れば思いきりこちらを睨んでいた。半ば涙目である。
(悔しいんスよね、自分だけ嫉妬してんの)
 緩んだ顔を隠さず、開き直って黒子へ近づいていく。黒子の方も吐き出して多少は楽になったのか、帰りの車で見せたような寄るな触るなという態度ではない。
「黒子っちさんに何て言われたんスか」
 聞いた直後、黒子の見せた顔に再び吹き出しそうになった。目も口も額も、顔の全部を使って、盛大に嫌な顔をしている。中学の頃から知っていて付き合ってまでいるのに、そんな顔は見たことがない。しかし、彼の返事に黄瀬の顔も笑ったまま固まる。
「――キミを、取られてもいいんですか、と」
「――――は??」
「本当に涼太君の家に泊まっていいんですか、って言われました」
 いやその前の、取られるってどういうこと?と激しく聞きたかったが、そこに執着すると喜んでいるように見える気がして質問を変えた。
「それは、黒子っちなんて答えたの」
「答えてません」
 黒子の嫉妬に浮上していた気分が、空気の抜けた風船のように落ちてくる。
「……黒子っちはその方がいいって言ってたもんね」
 嫉妬はしたけど、大人の黒子に自分のものだと主張するところまではいかなかったらしい。答えない、はちょっと、というかだいぶ不満だけれど、「いい」と言われるよりマシだ。黒子にしては嫉妬も独占欲も表してくれた方だろう。
「……そんな顔をするなら」
「え、」
「そんな顔をするなら、黒子先生が泊まりに行けばいいんですよと、言われて」
 黄瀬の顔のことかと思ったら違ったらしい。大人の黒子から見れば、分かりにくいと言われるこの黒子の感情も手に取るように分かるのだろう。しかも、今はかつてないほど表情が動いている。
「それで来ました。……キミに謝らないと、とも思っていたので」
 これでも、とぽそりと付け足した。さっきの会話を意外と気にしていたらしい。本当に珍しいこと続きだ。
 黒子の顔にはもう特別激しい感情は浮かんでいなかった。けれど瞳の表面がつるりと潤ってみえる。
「……子供みたいなことをして、すいませんでした。ボク、その辺で勝手に寝るんで」
「え?」
 言うなり、彼はリビングの角に向かって歩き出した。大して広くもないから数歩でベランダ側に到着する。カーテンを背に座り込もうとするのを、かろうじて腕を掴んで引き留めた。
「ちょっと、なに、まだなんか怒ってる?」
「……怒ってません。黄瀬君こそ、怒ってないんですか」
「オレ?何を怒るんスか」
「怒ってたでしょう、車の中で」
「……ああ」
 そういえば怒ったけれど、黒子がちゃんと、自分以外を泊めるのは嫌だと思ってくれたからもう別にいい。
「もういいっスよ。解決したから」
 黒子は真意を探るように自分をじっと見つめたが、しかし変わらず、その場に腰を降ろそうとする。
「そうですか。でもボクはもう少し反省したい気分なんで、ここで」
「いやいやいや待って、黒子っち実は結構へこんでるでしょ。まさかオレが黒子っちさんと、とか考えてないよね?」
「考えてません。考えるだけで頭が煮えそうになるので」
「コワイ!じゃあ何?」
「……何って、なんですか」
「何我慢してんの」
「……」
「あっ、またそういう顔する。……もー」
 目は口ほどに、というか、顔が口以上にモノを言う黒子というのはものすごくレアだ。レアでかわいいけれど、話してくれないと分からない。
 顰めた顔をむぎゅうと両手で挟むと、驚いたのか黒子が目を瞑った。ちょうどいい。さっきから寄りっぱなしの眉間に、唇を落とそうと思っていたところだった。ちゅ、と触れると黒子が薄目を開け、怪訝な顔でこちらを見上げる。
「……カレシのちゅーに対して、何してんですか、って顔はなくない?」
「何してるんですか」
「まんま返したし。まあ、焼きもちに効くクスリってとこっスね」
「……」
「胡散臭そうな顔しないで!結構効くんスよ、ほら」
 今度は目蓋に、額に、頬に、耳元に。僅かに揺れた背を撫でて、それから唇に。啄んで、唇を唇で挟んで弱く吸って、軽い音を立てて続けながら抱き寄せれば、強張っていた身体が黄瀬の腕に沿うように緩んでいく。絡めた舌に再び背を緊張させたけれど、殻に閉じこもろうとしていたさっきまでとは違う。黒子の両手がそろりと自分のシャツを掴んだのを感じて、合わせた唇を深く掬い上げるようにして貪った。洩れた声は甘い。
「……する?」
 息の上がった黒子を見つめて問う。けれど、何か躊躇っているらしい。返事を待ちつつ、嫌ではないと顔は言っているからもう一押しかなと考えたが。
「……明日、朝早いので」
「あー……でも黒子っち、今したくない?」
 正直自分はすごくしたい。今なら黒子が通常の四割増しくらいで素直になってくれる気がする。普段は断られるプレイもできるかもしれない。
 しかし、再び悩んだあと彼は言った。
「……我慢します」
「…………が、ぅ、」
「がう?」
「……なんでもないっス」
 がっかり感より、我慢する、と答えたかわいさが遥かに上回って変な声が出た。そんなこと言われたことがない。今日はしなくていいですとか、そういう断りじゃない。したいけど我慢するのだ。言い方といい、表情といい、見たことのないいじらしさに危うく身悶えするところだった。
「隣の家に黒子さんがいますし」
「う、うん」
「明日の朝お会いしたとき、居たたまれないので」
「そっか、りょーた君も来るしね」
「はい」
 こんなに未練なくやましい気持ちを捨てられたことがあっただろうか。確かに今のキスは甘やかした。体温の安心感と快楽をちょうど半分ずつ。嫉妬して落ち込んでねじくれていた心が少しは元に戻るかと思っていたけれど、予想以上に効果覿面だった。裏を返せば、それだけ困惑していたのだなと分かる。たかだか嫉妬で真面目だなあと思うけれど、相手が相手だけに分からないでもない。自分だって六歳児に結構本気だ。
(それでも、しない、っていうのが黒子っちなんスよね)
 今晩を逃したら次はもうクリスマス当日だ。明日は大人の方の黒子が日本滞在の最終日だから、小さい黄瀬も泊まる予定になっている。今の黒子を前におあずけはちょっと惜しいけれど、その分クリスマスにたっぷりと楽しめばいい。
 したいのにできなくて、でも一緒に眠るだけでも実は結構嬉しい――なんて付き合いたての頃の気持ちが蘇った。広いけれどいつも一人分の体温でしか温まらない黄瀬のベッドが、今日は二人分だ。
 昼まで抱き合ってはいられない惜しさと、早起きしてクリスマスの準備をする楽しさを両方噛み締めながら、ベッドで少しだけ話をする。グラタンをオーブンに入れるのは何時で、小さい黄瀬には何を手伝わせて、飲み物はあれを買ってきて。
 そんな話をしているうち温かさと夜闇に誘われて、お互い静かに眠りに落ちた。



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