( にかけるに )
 2×2   [ 16 ]

 
「お待たせしました」
「お疲れさまっス」
 隣に乗り込んだ黒子がシートベルトを締めた音を聞いて、黄瀬は車を前進させた。ライトが周囲を白く照らし出す。保育園の脇から大通りへ続く細い坂道は左右に住宅しかない。帰途に着く人の姿も無く、耳に入るのはタイヤが道を滑る音だけだった。
「昨日、ごめん」
 言うと、黒子はこちらへ顔を向けた。園内での態度を始め、元気がなかったという小さい黄瀬の証言通り、今日はどうも静かというか、大人しい。
「オレの鍵、取られるみたいな気になっちゃったんスよね。ちょっと貸すだけなのに。……オレには特別だからさ、黒子っちの家の鍵って」
 まったくです、とか、鍵一つで、とか、何かそういう一言が返ってくると思った。でも最後には、呆れながらも仕方ないと許してくれる流れで。黄瀬が黒子を困らせたあとは大体このパターンだ。ところが。
「……ボクも言い方が良くなかったです、すみません」
 まさか謝られるとは思わず、運転中だったため正面から目を離さなかったものの、坂を下りきったところで素早く横へ視線を走らせた。黒子の表情に特別変化はないけれど、何せ一瞬しか目を遣れないから掴みきれない。
(いや、黒子っちは全然悪くないでしょ)
 元気がない、黄瀬を怒っていいのに怒らない、その上悪くないのに謝ってきた。
 ということは落ち込んでいる線が濃厚だけれど、理由が分からない。大通りに入り、流れ続ける車の一部に混ざってから、黄瀬は尋ねた。
「黒子っち、なんかあった?」
「……いえ、特には」
「でもなんか元気ないっスよ」
「……キミは、」
「ん?」
 途切れた続きを待っていたが、どうも続かないらしい。やはり様子がおかしい。
「どうしたんスか。なんか心配ごと?」
「……心配、ではないです。大丈夫です」
 一瞬の間の後、黒子はそう答えた。心配かどうかの判断をしたのだろう。ということは、心配かもしれない何かがあるのだ。
 しかし気にはなっても運転中だからそればかり集中できない。家で腰を据えて聞き出すか、どこかに寄ってから帰るか。考えて、ひとまず車を停めようと決める。黒子が落ち込んでいることも気になるが、車内の微妙にぎこちない空気を変えたかった。お互い――少なくとも黄瀬は怒っていないし、黒子もそう見えない。それなのに何か探り合うような距離がある。
 次の信号で脇に寄せよう、と黙って道路の先を見ていたがしかし、停めるより先に黒子が口を開いた。
「鍵、わざわざありがとうございました」
「あー……、でもタイミング遅かったっスよね」
「ああ、黒子さんがいらして……、え、」
「そうそう、保育園の前ですれ違ったんスよ。夜食リクエストされたっス。お茶漬け食べたいって。やっぱ和食がいいんスねえ」
 話して思い出したが、危うく大事な客人のリクエストを忘れるところだった。家にあるものでも何とかなるが、せっかくなら深夜までやっているスーパーで買い物をすればいい。そのときに黒子と話もできる。
「オレらは飯どうしよっか。軽くにする?黒子っちさん帰ってきてから、三人でお茶漬けで締めてもいいし。明日の予定もそんとき――」
「ボクはいいです」
「え?」
 遮る形で、黒子は口を挟んだ。ちょうど信号が変わり、進んだ先で小道に入る。ほとんど条件反射だった。見逃してはいけないサインのような気がした。スーパーに寄ってから話でも、と思っていたのは完全に頭から抜けた。
 自分の態度のせいで車を停めたと分かったのだろう。黒子が窓側へ僅かに顔を反らす。
「いいって、お茶漬けが?それとも晩飯?」
「……お茶漬けは、遠慮します。夕飯もいいです。まだお腹が空いていないので」
「食べないってこと?」
「……黄瀬君が食べて帰りたければ、それでもいいですけど」
 ぎこちなかった態度がさらに固くなった。ふて腐れたような、でも自信がないような声だった。
「ねえ、黒子っちやっぱ変っスよ。なんかあるんでしょ」
「……」
「黙ってちゃ分かんないっス」
 黒子の眉間にぐぐっと皺が刻まれた。シートベルトを握りしめ、ダッフルコートの襟元に顎先を埋めながらもぞもぞと言う。
「……黄瀬君の家で、してください」
「……なにを?」
「お茶漬けでも晩ご飯でも、黄瀬君の家でどうぞ。ボクは、今日はもう寝ます」
「寝ますって……、黒子っちさんいるのに?黒子っちが寝てたら、黒子っちさん寝るとき家に入りにくいじゃないスか」
「キミの家に泊まってもらったらいいじゃないですか」
「は?」
 思わずきつい声が出た。しまった、と思う。ここで自分が怒る理由など、黒子は知らない。案の定ぴりぴりしていた黒子の機嫌も急降下する。
「ボクの家に泊めるって言い出したのは黄瀬君でしょう。どうして逆はだめなんですか。そんなに大事なら黄瀬君の家に泊めてあげればいいでしょう」
「っ、アンタはほんと、」
「なんですか」
 ――なんで肝心なとこが鈍いんスか。
 色恋沙汰が得意じゃないのは知ってる。でも、人の感情に鈍感なわけではない。それなのに、そんなことを言う。
 少し考えたら分かる、と黄瀬だったら思う。だから一人暮らしを始めたときから、ずっと当たり前に続けてきたルールだった。
 黄瀬は家に、黒子以外の誰かを泊めることはしない。女はもちろん、男もだ。
「……黒子っちは、いいワケ?それで」
「……その方がいいです」
「そ。じゃあいいっスよ」
 言い終えると同時にウィンカーを上げ、元の道路へ戻った。それなら真っ直ぐ家に帰るだけだ。
「黒子っちさんまずそっちに帰るだろうから、オレん家いつでもどうぞって言っておいて」
「わかりました」
 あっさりとした返事に溜め息はどうしても抑えきれず、口から漏れた。
 車を走らせて、マンションのエレベーターで上へ昇って、別々の扉に鍵を差し込むときになっても、お互い一言も話さなかった。黒子の目の端が揺れたように見えたけれど、何かあったのかともう一度問う余裕は、黄瀬にもなかった。







 滅多に使わない炊飯器で米を炊いて、炊きあがりの軽快な音を背中で聞いて、かれこれ一時間ほど経った。三つ葉とじゃこと刻み海苔を買いに一度外に出て、ついでに自分の夕食にとステーキ弁当を買ってきたけれど、全然食べる気にならなくて手をつけていない。
――オレばっかりだ。
 そんなことはない。頭では分かっている。黒子は自分を好きでいてくれている。
 そう思うのは自分が過剰に不安だったり心配だったりしているときだ。学生の頃、片想いをしていたときなどまさにそうだった。両想いになって、付き合ってからはそんな風に思ったことはない――ことはないけれど、本気で落ち込むほど思ったことはない。でも今回のは、久しぶりにへこんだ。明日は小さい黄瀬も混じって四人でクリスマスパーティーなのに、楽しく過ごせるだろうか。
(今日中に仲直りするなんて、言わなきゃよかった)
 あの黄瀬は聡いから必ず気付く。大人の黒子も百パーセント気付く。喧嘩中の自分たちと混ざるくらいなら、あっちの二人は二人だけで過ごした方がいいだろう。でも今さらパーティーは中止だなんて言えない。特に、子供の方に。
 となると、無理矢理でも仲直りをしないといけない。黒子だってあの二人を巻き込むのは本意ではないはずだ。その点で仲直りしたい理由は一致している。でも、黒子の落ち込みなのか不機嫌なのかを、どう解いたらいいのか分からない。自分の気持ちのリセットの仕方も分からない。
 米が炊けるいい匂いはするのに、少しも楽しくない。黒子の家でお茶漬けが食べたいと言われていたのに、仲直りは達成ならずだった。格好悪いし、申し訳ない。黄瀬だって三人で過ごす時間を、すごく楽しみにしていたのに。
(何怒ってんスか)
 普通に聞いてもあの様子では答えてくれない。何かしたなら言えばいいのに、態度で表すだけなんてまるで子供だ。先生のくせに。先生失格だ。……それは言い過ぎた。でもひどい。あんまりだ。目の端がじんわりしてきた。
 そう怒ったり落ち込んだりしているところに、インターフォンが急に鳴った。鳴らされる予定なのだからさして急でもないのだけれど、一人きりのリビングに、やけに大きく響いて聞こえた。この家に人が尋ねてくることがないから音にも慣れていない。
 廊下に出て何も言わずに扉を開けると、想像通り大人の方の黒子が苦笑して立っていた。状況はほぼ把握しているだろう。引き続き無言のまま、部屋に招き入れる。
「キミにはハードルが高かったようですね」
「……苛めるどころじゃなかったっス」
「苛められたっていう顔ですもんね。二人とも、ですけど」
「……黒子っちも?」
 聞くと、一層困った顔で苦笑した。それ以上何か言う様子はないので、リビングに通してお茶漬けの準備を始めた。その間にカウンター脇に置いていた弁当を目にしたらしい。黒子が聞いてきた。
「このお弁当は、黒子先生用ですか?」
「……や、オレが食おうと思ったんスけど、食べそびれて」
「ということは、黒子先生も食べてない可能性大ですね」
「……めっちゃ大っスね」
「いいんですか?」
「……」
 良くないけれど、どうしようもない。この状態で顔を合わせたらまた喧嘩になる。
 小鍋には少し甘めの出汁ができている。今日の分は大人の黒子用だから、緑茶を使った本当のお茶漬けにしようと思ったのに、手が勝手に出汁茶漬けの方を作ってしまった。満腹でないならば、少し甘い方が黒子の好みだ。
(でも黒子っちさんに持ってってくれとは言えねーし)
 伝書鳩でもあるまいし、そもそも仲直りをしろと言われているのだから持っていくなら黄瀬が持っていくしかない。ただ、今のところ持っていく気力は無い。
「涼太君の家は物が少ないですね」
 答えられないでいる自分を気遣ってか、黒子はそう話題を変えた。はは、と何だか変な笑いを返す。
「オレほとんど黒子っちの方に入り浸ってるから。こっちは物置状態っス」
「寂しくないですか」
 丼に白米をよそい、じゃこと三つ葉を乗せ、上からだし汁をかける。最後に海苔を盛って、スプーンと共に黒子の前に置いた。
「どーぞ」
「ありがとうございます。すごくおいしそうです」
「お褒めにあずかり光栄っス」
 ごく普通のどんぶりに、金属のスプーンだ。黒子が澄んだ出汁と米を掬い、静かに湯気を遠くへ吹く。木のスプーンの方が雰囲気が出るけれど、それもみな黒子の家にある。
「……普段は、寂しくないっス」
 先ほどの問いに答えると、一口目を飲み込んで、ふう、と息を吐いた黒子が顔を上げた。
「『普段は』?」
「だってほんとに、オレ黒子っちの家で飯食ってるから。オレがフライトで家にいないことはあっても、黒子っちが家にいないことってまずないんスよ。ってなると必然的に黒子っちが来るよりオレが行くから、あっち充実させた方がいいじゃないスか。オレはここに誰も呼ばないし」
 そこまで言って、黒子がぱちりと目を瞬かせたのに気付き、慌てて言い足す。
「あっ、呼びたくなかったって話じゃないっスよ!黒子っちさんは別!」
「少しも別ではない気が……。あの、本当に今まで誰も、ですか?」
「誰もっス。ここに入ったの黒子っちさんが初めてっスよ。黒子っち以外は、っスけど」
「……すいません」
 完全に食べる手が止まってしまった。黒子が謝ることなんて何もないから返って申し訳ない気持ちになってしまう。
「さっきも言ったけど、ほんと気にしないでほしいっス。それよりオレらぎくしゃくしてて申し訳ないっつーか」
 やっぱり今からでも仲直りにしに行くべきか。こちらの黒子と話しているうち段々心も凪いできた。今ならもう一度、最初から話ができる気がする。黒子が食事を再開したのを見、正面に座ってぼんやり仲直りの手段を考える。
「そういう顔を見せられたら、話は早いんですけどね」
「……?」
 




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