( にかけるに )
 2×2   [ 15 ]


 玄関の重いガラス戸を押し開け、来賓のスリッパに履き替える。お迎えどきのピークはもう終わったようで、遊戯室から数人の声が聞こえてくる程度だった。黒子はそろそろ上がりだろう。
 いつもなら真っ先に遊戯室に行くのだが、先に保育士ルームをノックする。残っているだろう女性の、努力の結果落としてくれている歓声に応える笑顔の準備をして扉を開けると、予想に反してそこには実渕しかいなかった。デスクワーク中らしい、珍しく眼鏡をかけている。

「あら、黄瀬クン?黒子先生なら遊戯室よ。そろそろ上がりだけど」
「あー、そっスよね。お邪魔しましたー……」
 ワンクッション挟みたかった、とはとても言えない。からから、と扉を閉めようとすると、あ、待って、と実渕の声が追ってくる。扉の隙間越しに話を続ける。
「何スか?」
「あんまり苛めないであげて。慣れてないんだからしょうがないわ」
「……誰が、誰を?」
「黄瀬クンが、黒子先生を」
「……苛めるわけないじゃないスか」
 もしかしたら、助言に従ってちょっと苛めるかもしれないけれど。
 しかしまだどう苛めていいのか見当もつかない。黄瀬が黒子を苛めるのはベッドの上だけだし、その三倍はかわいがっている。
 答えると実渕は意外そうに瞬いた。
「あら、じゃあ一人でああなの?」
「『ああ』?てか、『慣れてない』て何スか」
「ちょっと、黄瀬クンも気付いてないの??」
「もーだから何がっスかー」
 さっきの黒子といい、実渕といい、彼らは一体何の話をしているのだろう。
 聞いたが実渕も教えてくれなかった。さっさと行ってらっしゃい、と追い払われる始末だ。
(慣れてない?ってマジ何なんスか)
 慣れてないから苛めるな。少しくらい苛めたら本音が出るかも?
 どちらが正しいのか。どちらにしろ、黄瀬は苛める側なのか。この状況で?何しにきたんですか、くらい言われそうだというのに?
 悶々と悩みながら遊戯室へ向かう。黒子に会わなければおそらく解けない。

 黄瀬には低い天井の、しかし広い部屋にある絵本置き場の前に、黒子は座っていた。案の定、隣には小さい黄瀬がいる。他の園児はパズルやらマットやらで思い思いに遊んでいた。
 扉が開く音で顔を上げた黒子は、自分を見つけて僅かに目を見開いた。すぐに表情を戻して小さい黄瀬に声をかけ、こちらへやってくるが、外の庭を見たり、壁のポスターを見たりして、黄瀬と目を合わせない。
(……これ絶対怒ってるやつじゃないスか)
 黒子と喧嘩をするのは初めてではない。学生の頃は何度かあった。でも働き出してからは初めてだ。会える時間も減ったから喧嘩する時間がもったいなかったし、衝突するような出来事もなかった。
(ていうか今のこれって、喧嘩なんスかね)
 そんなことを考えているうち、黒子が目の前にやってくる。不自然な沈黙が流れた。いつまでも黙っていても仕方ない。重い口を開く。

「お……」
「か……」
「……」
「……」

 かぶった。その後のため息までかぶった。どうして重ならなくていい呼吸はぴったりなんだろう。しかし次は黒子の方が早く、黄瀬君からどうぞ、と譲られた。

「……鍵、渡しに来たっス。今頃っスけど」
「……それは、どうも」
「……」
「……」
 右を見て、左を見て、手持ち無沙汰を堪えつつ続きを待ったが、黒子が口を開く様子はない。
(え、これだけ?)
 お礼が足りないの意味ではない。昨日のあれは何だったのかとか、色々あってもいいはずだ。何よりおかしいのは、機嫌が悪そうに見えた黒子の方が、落ち着きなく視線を彷徨わせていることだ。まるで自分の方が、悪いことでもしたように。
 ふと、昨日の夜を思い出した。帰ってきてからすぐ、不機嫌なのにどうしてかかわいく見えた、あのつんつんと針を出したはりねずみのような黒子を。

「……さっき、何言いかけたんスか?」
「……大したことじゃないです、……あの、」
「ん」
「もうじき、上がりなので、」
「待ってていいなら待ってるっスよ」
「……う、」
 何故か黒子はそこで苦しそうに呻いた。黒子っち?と聞くと、くっと歯を食いしばる。もしかして具合が悪いのか。しかし聞けば、違うと言う。
「……すいません、ちょっとだけ、失礼していいですか」
「え?いいけど、何でそんな丁寧なんスか」
「諸事情が……、あ、帰り、待っててくださ、い」
「え、あ?うん」
 ありがとうございます、蚊の鳴くような声で礼を言った黒子は、小走りで出て行ってしまった。遠くでがらがらピシャンという音がしたから、保育士ルームに駆け込んだのだろう。
(…………??なに??)
 機嫌の良し悪しも、怒っているのかどうかも、まして苛めていいのかどうかなど、黄瀬にはまったく分からなかった。あんな黒子は見たことがない。

「黒子っち先生になにしたんすか」

「うっわ」

 腕組みをしながら唖然としていると、視界の外れ――足元から、小さい黄瀬が自分を睨みつけていた。さらっさらの地毛の金髪に、既に長い睫はまったくそっくりで嫌になる。そんなまん丸の目で睨まれたって怖くもなんともないけれど。

「……りょーたクン」
「なんすか」
「散歩つきあって。肩車してやるから」
「は?そんながきっぽいこといやっす」
「…………へーえ、じゃあ手繋ぐ?オ レ と 」
 口だけ笑ってしゃがんだあと、目を見据えて、黒子っち先生のことで話があるんスよ、と小声で言えば、しかたないっすね、と偉そうに首に跨った。
 多分この黄瀬も黒子のおかしさに気付いている。聞き出すなら今がチャンスだ。
 とりあえず園内でも歩き回るかと腰を上げたら、途端に小さな腕が頭にぎゅうとしがみついてきた。
「いっ、ちょっと、髪引っ張んな!」
「あんたこそ、きゅうにたちあがるって なんなんすか!」
「乗ったら立つっしょ!」
「こえかけるのがまなーっすよ!」
「……ハイハイ、すいませんっした」
 つまりは怖かったのだろう。肩車なんてしたことがないけれど、とにかく落とさなきゃいいんだろ、と肩を揺らしてバランスを取った。小さい身体はそれで落ち着いたらしい。しがみつく力が弱まる。それはそれで気になって、背中の位置を手のひらで確認した。よし、乗っている。
「……そと」
「は?」
「そと行きたいっす、きょうはほしが見えるんすよ」
「…………嫌々だったくせに、」
「うっさいっすね」
 黒子っち先生もどってくるっすよ、と子供のくせに声を落として言ってくる。察しのいい、こまっしゃくれた子供である。
 それでも日中の黒子のことはこの黄瀬に聞くのが一番だ。他の保育士に一声かけ、仰せの通りに庭へ下りた。



 遊戯室のガラス戸を開けたときから寒風に見舞われたが、小さい黄瀬はものともせずにゴー!と外を指差した。サンダルをつっかけ、一歩二歩と進んでいくと、たけーっすね、と単純に喜び始める。
「ちょっとアンタ、寒くないの」
 自分は子供体温がマフラー代わりになってむしろ暑いくらいだが、黄瀬は上着も着ていない。
「さむいけどいいんすよ」
「風邪引いたら明日ウチ来れねっスからね」
「黒子っち先生のいえっす」
「……似たようなもんっス。じゃなくて、オレが聞きたいのは今日の黒子っち。どんな感じだったんスか」
「げんきなかったっす」
「たとえば?」
「ためいき七かいと、おそうじまちがえ一かいと、きゅうしょくのこしてたっす」
「給食残したんスか?」
 今朝は黄瀬が行ってないのだから、ほぼ確実に朝食を抜いているだろう。それで昼も残したのか。それはとてもいただけない。
「のこしたら大きくなれないっすよ、って言ったらたべてたっす」
「……やるっスね」
 悔しいが、やはりこの黄瀬に聞いて正解だ。黒子が落ち込んでいるかどうかなんて、よほど付き合いが長くないと見極められない。せいぜい感じるのは、ちょっと変、くらいである。それによほど張り付いてなければ、これだけ具体的には挙げられない。
 しかし感心した矢先、前髪をぐい、と引っ張られた。
「だから引っ張るなって、何?」
「なにしたんすか」
「……あのね」
 さっきからどうも自分がいじめっ子扱いだ。黄瀬だって昨日は結構泣きたかったというのに。
「何もしてねーっつの。てか何でオレが何かしたってなんの」
「黒子っち先生がさっきわらわなかったから」
 幼い声ではっきり言われ、押し黙った。率直な分、突きつけられる。
「あんたがきたときわらわなかったの、いままでないっす」
「……怒ってたんでしょ」
「どこみてんすか、すこしもおこってないすよ」
「そりゃりょーたクンには怒んねースよ」
 自分より黒子を見ているようなのが悔しくて言い返すと、ごん、と頭頂部を小さい拳で叩かれた。小さいくせになかなか痛い。
「おれしってるっすよ、そういうの、わからずやって言うんス」
「……よくご存知で」
 分かっていても、見たままを素直に受けとめるには、今までの記憶や抱えているものが邪魔をする。
(……子供はいいっスね)
 子供の不自由さも覚えているから戻りたいとは思わないけれど、少し羨ましい。
 庭の端にある池の前で立ち止まり、水面を見下ろした。小さい黄瀬には星空が見えているのかもしれないが池には何も映っていなかった。ここで自分まで空を見上げたら大騒ぎをするんだろうな、と思うが、やってみたい気にもなる。とりあえず今はやらないけれど。

「他は?昼間、変なとこあった?」
「クリスマスツリーにおいのりしてたっす」
「…………何それ」
「おひるねのじかん、みんないないときに、ぱんぱんって」
 小さい黄瀬は、肩の上で手を二回打って、ぺこりと頭を下げたようだ。後頭部に重みがかかる。
(何してんの黒子っち……)
 ミスディレクションを極めた人がそんなところを子供に目撃されるとは。気をつけるように今度教えてあげよう。
「てか、アンタは昼寝しないで何してんスか」
「黒子っち先生ひとりじめできるのに、おひるねなんてできないっす」
「独り占めすんな。オレのっスよ」
「ほいくえんにいるあいだはおれの先生っす」
「かわいくねー……」
 かわいくないが、頭に抱きつく手が少し冷えてきた。戻るっスよ、と声をかけると、素直にうん、と頷いた。気になって背中を撫でると服がすっかり冷たくなっている。これが黒子なら抱き締めるところだが、これにやったらお互い砂を吐きそうだ。摩擦熱で済ませようと乱暴にさする。ざつっすね、と文句を垂れたが、止めろとは言わなかった。こうこうと明るいガラス戸の方へ足を進める。

「……ねえ、けんかしたんすか」
「……そんなとこっスね」
「なかなおりは?」
「これからする予定っス」
「きょう?」
「そっスね、今日」
 ならいいっすよ、と言う声は、遊戯室の扉を開きながら聞いた。
 扉の横では黒子がブランケットを用意して待っていた。肩から降りるなり、広げられた毛布と一緒に黒子に抱きつく。
(子供はいいっスね)
 もう一度そう思った。いつの間にか、前ほどの焼きもちは焼かなくなっていた。









>> 続
<< 戻