( にかけるに )
 2×2   [ 14 ]


 久々に日本に戻った黒子はもちろん、元々和食の好きな黒子も黄瀬の料理をとても喜んでくれた。食べ終わった頃には不機嫌のかけらも見当たらなかった。
 後片付けをあらかた済ませ、三人で食後のハーブティを飲みながら、黄瀬は大人の黒子に尋ねた。
「そういえば黒子っちさんは、朝はご飯派?パン派?」
 今朝はとりあえずトーストにしたが、今ならご飯の準備もできる。
「特別好みはないですけど、どちらかと言えばパンです」
「あっオレもオレも!パンとコーヒーで目覚めるって感じっス」
「涼太君は朝強そうですね。今朝もご飯作りに来てくれましたし」
「作りにこないと寝倒す人がいるんで」
 ちら、と隣を覗けば黒子がむむ、と睨み返してくる。手元ではハイビスカスティーに砂糖を追加していた。寝る前に飲むものをまた甘くしているらしい。
「遅刻したことはないですよ」
「でも寝坊するじゃん」
「寝坊じゃないです、時間を確認しながらぎりぎりまで寝てるだけです」
「そんで朝メシ抜くんでしょ。どう思うっスかこの屁理屈」
 視線を正面に転じ、声を立てず笑っている彼に聞くと、
「僕もぎりぎり派なので、すいませんが黒子先生の味方です」
 と返された。ほら、屁理屈じゃないんですよ、と今度は黒子がこちらを見遣る。口元がどうだ、という風に上がっていてかわいい。

 黒子は黒子で、大人の黒子を尊敬しているようだった。この自発的に喋らない二人は一見距離があるように見えるが、よく見れば分かる。大人の黒子は小さい黄瀬にするほど表に出さないが、黒子が話すのを見守るように微笑んでいるし、黒子は返事をするときの表情が柔らかい。ただ、黒子の方はどこか緊張している節もある。考えてみれば、もし自分とそっくりな年上の黄瀬涼太が現れたら、今の自分と比べて焦るだろう。自分はもう一人が六才だから、黒子に関してやきもちを焼くだけで、案外気楽なのかもしれない。

「でも羨ましいです。朝忙しいでしょうに、お隣からわざわざご飯まで作りに来てくれて」
 その一言に、黄瀬はずいっと身を乗り出した。
「そうでしょ!なのに黒子っち全然ありがたがってくれないんスよ、ひどいときなんか、朝からうるさいですって」
「そうなんですか?」
「……ありがたいとは思ってます。でも朝からこうなんで」
「あっ、またうるさいって言う!」
「この通り、本当にうるさいんですよ」
 正面の黒子は、今度は小さく声を立てて笑った。ふわりと上がる湯気のような笑い声を聞くと、確かに自分は騒がしい。でも楽しいのだから多少はしゃぐのは仕方ない。
「黒子先生は毎日楽しいでしょうね、涼太君がいたら」
「……まあ、ほどほどには」
「ほどほどなの?!」
「ほどほどです」
 しれっとした顔で、黒子はマグカップに口をつける。その答えは大変不服だ。
「オレは黒子っちが毎日一緒だったら超幸せっスけど」
「あ、お風呂が沸いたみたいですよ」
「スルーひどい!」
 ピピッと鳴った電子音に黒子は立ち上がった。大人の黒子へ「お先にどうぞ」と声をかけると、彼も礼を行って席を立つ。こちらに向かってぺこりと頭を下げるので、黄瀬は手を振って返した。二人の背中がリビングから消える。

(あーあ……)
 黒子たちが帰ってきたのは数時間前なのに、今日ももう終わりだ。食事が終わり、風呂の時間になれば、黄瀬は帰るしかない。黒子の部屋に三人で寝るのはさすがにきついし、何せ黒子が許してくれない。二人の風呂上がりを待ったとしても彼らはすぐ寝る支度を始めてしまうから、結局一層深くなった夜に部屋へ一人戻るだけだ。
(……なんで一緒じゃダメなんスかね)
 今日みたいな日にもし一緒に住んでいれば、寝る直前まで三人で話せた。黄瀬の服を貸すのだって楽だし、朝の見送りだってできるし、全部全部、楽しいのに。
(――『ほどほど』だから?)
 直前の言葉を反芻してしまい、どこかで真に受けている自分に笑った。あれは黒子の照れ隠しだ。誰かがいる前で、黄瀬君のことが大好きなので毎日楽しいです、なんて言い出した日には自分が真っ先に黒子の熱を計る。

 再び扉が開き、黒子が戻ってきた。自分を見ても特別表情に変化はない。それはそうだ。長期のフライトから帰ってきたわけでも、今日初めて会ったわけでもない。離れていたのは数分・数メートルで、顔を輝かせる理由なんかない。
 夕方からずっとここにいたからか、一日経った分、昨日よりも三人で楽しく話ができたからか、今は無性に帰りたくなかった。訴えるつもりではないけれど、黙って黒子の顔をずっと見ていたら、どうしたんですか、と彼は二人分のカップを片付けながら尋ねた。黒子二人分の。もう一つは黄瀬がまだ手に持っている。

「黄瀬君は時間大丈夫なんですか」
「うん、明日もいつも通りっスから。今日休んだし」
「そうですか。食事、ありがとうございました。他にも用意してくれたでしょう」
 冷蔵庫の中がぎゅうぎゅうです、と黒子が静かに笑う。
「……おいしかった?」
「はい」
「なら良かったっス」
 そうだ、良かった。二人とも喜んでくれた。
 行儀悪くテーブルにもたれ、手の中のカップから最後の一口を飲み干す。これで本当に帰る時間だ。空になったカップの底を何となく眺めていると、黒子が隣にやってきた。
「……疲れたんじゃないですか。ちょっと張り切り過ぎですよ」
「料理はそんな大変じゃないスよ。作るなら喜んでほしいし」
「……そうですね」
 二人で誰かをもてなして、リビングの一箇所で隣り合って、小声で労う。こうしてると一緒に暮らしているみたいだ。
 これの何がだめなんだろう。そう問う自分が今日はしつこい。
 テーブルに後ろ手をついて背を反らすと、出すつもりのなかったため息が出て自分で驚いた。まるで本当に疲れているみたいだ。

「……明日の朝は来なくていいですよ」
「――え?」
「ボク、明日鍵空け当番でいつもより早いんです。黒子さんも園に寄らないで、お仕事の打ち合わせがあるそうですし」
「なら、早く行くけど」
「夜また一緒に食べるんですし、明後日はパーティでしょう。その後キミはフライトです。ちゃんと休んでおいた方がいいです」
「別にそれくらい」
「それくらいじゃないです。あと……黄瀬君の鍵、あ、ボクの家の合鍵ですけど、貸してもらえますか。明日は黒子先生に持っててもらった方がいいので」
 黒子にしては珍しく黄瀬に口を挟ませず、むしろ言葉をかぶせるようにして話しきった。その上、黄瀬には承知できない話が含まれている。
(――鍵?)
 今も後ろポケットに入っている、黒子の家の鍵。自分の家の鍵はコートに入れっぱなしでも、黒子の家の鍵は、いつもすぐ確認できる場所に入れてある。
 眉がぐぐっと寄ったのが自分でも分かった。

「……黄瀬君?」
「やだ」
「はい?」
「黒子っちの鍵、貸してあげればいいじゃないスか」
「……いや、でもここボクの家なので」
「嫌っス」
「、あの」
「オレだって明日別行動だから鍵いるっス。……もう帰る」
「っ黄瀬君」
 ほとんど駆けながら黒子の寝室に寄ってコートと鞄をひったくるようにして抱え、玄関を出た。冷たい空気が頬を刺す。人の体温と料理で温まった部屋とは気温が違いすぎる。たった数歩の間に冷気が身体を包んで、吐いた息は白く上がった。
 いまだにキーホルダーもつけない裸の鍵を差しこみ扉を開ければ、そこは外と同じように寒い部屋。黒子の家と左右対称の作りにある電気を端からつけて、ヤケのようにシャワーを浴びて、不貞寝同然にベッドに潜った。

 ――『ここボクの家なので』。

(知ってる)

 どんなにオレがそこにいても、そこはオレの家じゃないんだ。




 ◇




(やらかした……)

 朝起きて、出勤途中、勤務中、今も黄瀬は鍵を片手に沈んでいる。ハンドルに両手を乗せ、その上に額をつけて突っ伏して、朝から何度同じことを繰り返しているか分からない。
 黒子の家なんだから、自分が持っている合鍵を渡すのが当然だ。きっと黒子は自分の鍵を貸しただろう。朝はそれで良かったのだろうが、帰りはどちらが早いか分からない。朝が早いということは、黒子は遅番ではないはずだ。ということは、家に入れない可能性が高い。
 黒子の保育園の前まで来たものの、いつものようには入りずらい。人前で普通の顔を作る自信はあるけれど、黒子の顔色を窺うだろう。きっと不審だ。実渕には確実に気付かれる。もしからかわれたとき笑える自信まではなかった。今だっていつもより離れた場所に車を停めて、とっくに落ちた日の中で明かりもつけずに潜んでいる。既に不審者だ。

(いっそ実渕サンに鍵渡してもらえばいんじゃね……)
 どのみち夜には顔を合わせるのだが、引き伸ばしたい。人がいると黒子は余計厳しくなるから、できれば最初は二人がいい。
 なんだそれ、と黄瀬はまたハンドルにもたれかかる。
(つーか、何でこんなときに)
 今までだって待てた。最初から、一年は一人暮らしがしたいと言っていたのだから、待つつもりだった。多少は寂しいと感じることもあったけれど、お隣さんならではの楽しさもあった。溜め込むほどの我慢もしていない。
 こんなときに。せっかく大人の黒子がいて、明日は小さい黄瀬も来てパーティだというときに。

(……とりあえず、鍵)
 真剣に通報される前に返すだけ返そう。のそりと身体を起こし、車のキーを引き抜いた。直後、運転席側の窓がノックされる。顔を右に向けた黄瀬はびくりと身体を揺らした。
「っ、黒子っち、さん」
「こんばんは」
 慌てて窓を開けようとするが、キーを抜いてしまって開けられない。焦りながら車から抜けだす。今日も彼は自分のコートを着て、首にはぐるぐるとマフラーを巻いていた。そのこんもりとした巻きつけ方に、ふ、と笑いが洩れる。でも手を伸ばそうとは思わないから不思議だ。
 包容力なら宇宙一じゃなかろうかという彼だけれど、黒子よりも若干おっとりしていて、世間に疎い。年上風を吹かせない年上だからか余計に心配になる。その上見た目はほぼ黒子だ。黄瀬の庇護欲をかきたてて当然のはずだ。
 しかし会ったときから今までずっと、彼は何故かそういう気を起こさせない。それよりもただ大切に――黒子のように言うなら丁重に――扱いたいという気になる。
 いつの間にか肩の力が抜けた自分を見て、彼は口を開いた。

「お仕事はもう終わったんですか」
「っス。黒子っちさんは?打ち合わせ終わったんスか?」
「さっき終わったんですけど、これから食事にお付き合いで行くことになって……、その前に黒子っち先生に鍵をお返ししようと」
「……スマセン」
 黄瀬は小さく呻き、軽く頭を下げた。彼が目を丸くするのを、視界の端で捕らえる。
「何でですか?」
「オレの合鍵渡せば良かったんスよね」
「僕がお邪魔してるんですから、キミが謝ることはないでしょう」
「や、手間取らせたし……。あと、気遣わせてるっスよね」
「…………」
 訪れた沈黙に胸が重くなってくる。彼の目が見られない。きっと許してくれるだろうその目を見たら、甘えてしまう気がした。
(あーくそ、かっこわりー……)
 落ちていた気も底まで沈みきったか、と思ったとき、自分の頭がぽよんと揺れた。それが何度か繰り返される。
 顔を上げれば、彼が腕を伸ばして自分の頭を撫でていた。黒子より硬い手指だ。でも、ものすごく安心する。
「……」
「涼太君はいい子ですね」
 また不意打ちされて、かっと顔が赤くなる。だから子供扱いするのをやめてほしい。嬉しさと照れくささが血の巡りを良くするのだ。

「黒子先生の鍵を、キミから返してもらってもいいんですけど……」
「?」
 それはそれでまたこじれそうですし、と彼は拳を顎に当て、ふむ、と考え深く目を閉じた。何を意味しているのか良く分からない。
 彼はじきに目を開け、黄瀬を見上げた。黒子と同じ青い瞳にどきりとする。お互いの間を白い呼気が漂うが、少しも寒さを感じなかった。
「今のままだとキミがちょっと不利ですね」
「……何がっスか?」
「ちょっと荒っぽいですけど……少しだけなら意地悪してもいいかもしれません。キミができるなら、ですけど」
「え?」
「そうしたら、本音が出てくるかもしれませんよ」
「え、え、意地悪って、黒子っちに?」
 黒子先生には内緒ですよ、と笑って保育園の中に向かおうとする彼を呼び止める。
「待って待って意地悪って?今そんなことしたら本気で嫌われる気がするんスけど」
「するかどうかはお任せします。あ、それと、僕食事が終わったら、黒子先生のおうちでお茶漬けが食べたいです」
「……っ」
 つまり黄瀬にお茶漬けを作って、黒子の家で待っていてほしいということだ。――仲直りをした上で。
 甘かった。黒子テツヤと名のつく人間が、優しいだけの人であるわけがなかった。

「黒子っちー……」
 どちらの黒子を呼んでいるのか自分でも定かではなかった。
 呟きは聞こえなかったのか、彼はもう振り返らなかった。

 黄瀬が保育園の門をくぐったのは、情けなくも彼が出てきて、車からもう一度手を振った、その十五分後だった。










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