( にかけるに )
 2×2   [ 13 ]


 黄瀬は浮かれていた。隣には自分の黒子がいて、目の前には黒子にそっくりな、彼を大人にしたような黒子がいる。自分の黒子は元からの性格とバスケで培った経験からそうそう動じないし、一見物静かだから落ち着いて見えるけれど、実のところ感情の起伏はしっかりあって表に見えにくいだけだ。それにすぐに手が出る足が出るから、本当に物静かと言われると首を捻る。けれど、大人の黒子はそういう感情の波が見えてこない、というよりは、波立ってないように見える。包容力が半端ではない。
 彼の手は少し筋張っていて、体つきはやや細い。身長は黒子より数センチ高いくらいだ。影は薄いといえば薄いけれど、黒子のような透明な薄さではない。ふわりと周囲の空気に滲んでしまうような、柔らかい気配がある。どうやら少し抜けているところも、それで周囲を慌てさせるところはそっくりだ。
 黒子と似ていて、でもやっぱり違うから、最初はどう振舞うべきか戸惑ったけれど、彼のゆったりとしたリズムに黄瀬はすぐ馴染んだ。自分がいつでも一緒にいたい人と半分くらい雰囲気が同じだから、慣れてしまえば居心地はすこぶる良かった。

 ガチャリと鍵の回る音がして、黄瀬は立ち上がった。ガスコンロに一つ火をつけ、玄関へ向かう。メールで言われていた通りの時間だ。

「おかえり!黒子っちと黒子っち!今日は黒子っちのために和食っスよ!」
 昨日は帰りが遅くなったし、何の材料もなかったので、近所で買ったお惣菜とお茶漬けくらいしかできなかった。二人とも小食だし、黄瀬も夜遅くにはあまり食べないからちょうど良かったが、帰国初日にしては寂しかった食卓を今日は挽回したい。
 自分のテンションに黒子は物言いたげな目をしていたが、部屋に漂う出汁の匂いに表情が和らいだ。小さなお礼の声のあと、隣の黒子も口を開く。
「涼太君が作ってくれたんですか?」
「っ、そうっスよ!けっこー得意なんで、期待してて」
 しかしまだ『涼太君』という呼び名には慣れない。彼の顔と声で言われると、自分が小学生にでもなった気がする。それを自分の黒子の前で言われるのが恥ずかしい。格好つけたい恋人の前で、親に子ども扱いされる感じだろう。
(顔に出てたらどうしよ)
 涼太君呼びのことを思い出したおかげで、彼の褒め癖も思い出した。それも心の準備が必要だ。彼はものすごくストレートに、何故か愛情たっぷりに褒めてくれるのだ。黄瀬の普段が普段なだけに、一言二言で許容量を超えてしまう。

「外寒かったっしょ?入って入って。あ黒子っち、部屋着黒子っちの寝室に置いといたっス。そっちのが楽だから着替えてね」
 告げると、大人の黒子がきょとりとした顔を上げた。
「部屋着ですか?」
「買い物行ったついでに買っといたっス。あと三泊あるし、あった方がいいと思って。あ、そのスリッパも黒子っちのね」
 あ、サンタ。
 同じ髪色の頭が二つ、足元を見下ろし、同時に呟いた。もこもこのひげと赤い帽子のサンタが、彼の足先に装着される。
「こんなに色々……、ありがとうございます」
 ささやかな表情の変化ながら、そんなこと考えてもみなかった、という顔で喜んでくれるのが嬉しい。一人を寝室へ送り、それからもう一人の、最愛の黒子と並んで――並ぼうとしたらすたすたと先に行ってしまった背中に三歩で追いつき、そこから並んでリビングへ向かう。

「お疲れ、黒子っち」
「いえ、そんな疲れてないです」
「……そう?そんならいいけど。ね、晩メシめちゃくちゃ張り切ったっスよ、黒子っちもいっぱい食ってね」
「はい」
 いつも通りの短い返答、淡々とした話し方。しかし何か違和感を覚えて黄瀬は黒子のつむじを見つめた。うっすら冷気を感じる気がして、彼がまだコートを着たままなことに気が付いた。普段ならリビングに向かう前にクローゼットのある寝室に寄るのに、忘れてしまったのだろうか。それともあちらの黒子に遠慮したのか。それとも。
「黒子っち?」
「なんですか」
 リビングに入ったところで黒子の正面に回り、両腕をやんわり掴むと、彼はようやく顔を上げた。目が据わっているようないないような。
「調子悪い?」
「疲れてないと言ったでしょう」
「じゃあ、機嫌悪い?」
「普通です」
 ふい、と逸らされた目に、なるほど機嫌が悪いんだな、と分かったが理由が分からない。
「リフティング勝負、負けたの根に持ってる?」
「…………持ってません」
 妙な間を置いて顰められた顔に、黄瀬は首を傾げた。言われれば悔しさが蘇るようだけれど、多分違う。普通の勝負ごとなら、黒子がいつまでも根に持つことはない。

 黒子の保育園で読み聞かせが終わったあと、黄瀬は約束通りリフティングを披露した。百回でもいいが、百回だとやっている方も見ている方も次第に飽きてくる。だから二対二の勝負をすることにしたのだ。
 もちろんそれぞれにハンデはつけた。リフティングなんてやろうと思ったことがない、という完全文系の大人の黒子が二十回、ボクはバスケ一筋ですから、という黒子に十五回、実は侮れない小さい黄瀬に十回分。組み合わせは黄瀬と大人の黒子、黒子と小さい黄瀬だ。妥当だろう。百回くらいはまあ、という黄瀬の能力を考慮して、落としてもそれまで続いた回数はカウントすることにした。
 結果は黒子がむすっとした通り、黄瀬と大人・黒子チームの勝利だった。リフティング未経験の黒子に、黄瀬が懇切丁寧にコツを教えたのが効いたのだ。小さい黄瀬も黒子に頑張って教えていたが、二十何歳が教えるのと、六才が教えるのとでは差がある。つまり獲得点数としては、黒子が最下位だったのである。
 
「ていうか黒子っち、あんとき全然集中してなかったでしょ。前よりヘ……」
 しまった、と口を閉ざしたが遅かった。ことスポーツに関しては、思ったまま口から出る癖が抜けない。でもそれは、それくらいではもう揺らがないと分かっている相手にだけだ。
「ヘタですいませんね」
「……いや、いいと思うっス。あの……ほほえましくて?」
「疑問形にしないでください。その遠まわしな言い方も腹立ちます」
「だって『黒子先生頑張って』の応援めっちゃすごかったし、黒子っちも……」
「っそれ、分かりにくい、です」
「へ?」
 思いがけず強い口調で遮られ、黄瀬は目を丸くした。やはりご機嫌が斜めのようである。『です』も思い出したように付けられた。しかし心当たりがない。黒子の言葉を待っていると、彼は気まずそうに顔を下げた。
「……ボクか黒子さんか、 分かりにくい、ので」
「あ、あー……、そっスね、確かに」
 そんなこと?という疑問はいったん隅に置いた。まずは候補を考える。黒子っち、黒子サン、黒子君……は黒歴史を思い出すので却下として、あとは下の名前だろうか。
「……黒子っちさんか、テ……」
 ぱ、と黒子が顔を上げた。上げただけで、何も言わない。
「……?」
「……」
「…………えっと、何か希望ある?」
「……ないです」
「…………」
 昔から変わらない大きな瞳は、いつだって逸らせなくなるような真っ直ぐさを持っている。けれど、これはたじろぐようなものではない。なんだろう。理由はまったく分からないけれど。

 ――めちゃくちゃかわいがりたくなる顔をしている。

(なに、なんなの、キスしていいの、)
 何かをすごく訴えてきているのだが、絶対口にも顔にも出すまい、という決意が見られる。それがもう、とにかくかわいい。
 黄瀬も真顔で黒子を見つめ返した。しかしもう一人、大人の黒子がいることを忘れてはいない。ここでそんなことをしたら間違いなく怒られるか、最悪口を利いてもらえなくなる。
 そう、黒子がいるのだから、食事の準備をしないといけない。黒子のコートもハンガーに……、ああ、確かに分かりにくいスね、と目の前の表情に釘付けになりながら、頭だけが忙しなく働く。
 とりあえず、一回抱き締めてから次に進もう、と折衷案を出したとき、黒子が黄瀬の背後に目を向け、直後にリビングの扉が開けられた。
 
「お待たせしま……」
 漂っていた微妙な空気に気付いたのだろう、彼は途中で言葉を切った。一方今までむっすりしていた黒子の方は自然な笑顔を彼に向け、黄瀬から自然に離れた。
「着替え、ちょうど良かったみたいですね」
「おかげさまで」
「ボクもコート置いてきます」
「、あ」
 歩き出した黒子に声をかけようとして、躊躇った。自分の先には、どちらの黒子もいる。呼び分けないといけない気がする。それなら先に、大人の黒子を違う呼び名で呼んだ方がいい。その方がきっと二人ともに分かりやすい。
 でも、今一番に声をかけなくてはいけないのは、黒子だと思った。遠ざかる背中に、そこに届くように、的を絞って声をかける。

「おみそしるは、黒子っちの好きな大根っスよ」

 廊下に出る寸前、黒子は足を止めてから、そっと振り返った。
 ボクですか、という顔をしているので、笑うことで肯定する。それくらいは話さなくても通じる。温度のある表情に戻った黒子がいつもの足取りでリビングを出たのを見て、なんとか一息ついた。
 結局不機嫌の理由は分からなかったが、大根にして良かった。大根の旬が冬で良かった。教えてくれたスーパーのおばさんに感謝する。

「黒子っち、さん、も大根好き?」
 黄瀬が買ったブイネックの薄いセーターは、思った通り彼によく似合っていた。温かくて肌触りが良さそうなもの。黄瀬がいつも黒子の服を選ぶときと同じ基準だ。
 今までの呼び名に「さん」がついても、彼は気にしていないようだった。彼は自分と黒子の真ん中に立ち、たった一言ずつのやりとりを微笑んで眺めていた。
「好きですよ」
 ふわりと黄瀬の心が温まる。好きだと言われただけで、褒められたような気になる。
「黒子っちさん、て呼んでいいスか」
「もちろんです」
 彼が笑うから安心するのか、安心させるように笑うのか分からないけれど、黄瀬とってはとにかく心が安らぐ笑い方だった。

 焼き魚を裏返し、茶碗を出し、味噌汁を温め直しながら、黄瀬は小さい方の黄瀬に思いを馳せた。
(もったいねー……)
 この良さほんとに分かってんスかあいつ。
 分かっているはずはない。六歳児にこの魅力が分かるわけがない。頭では。
 だからこそ全身で彼に懐いて帰りを待って、”先生”の黒子をどんなに好きでも、自分の黒子は彼だと分かっていた。
(リフティングんときはまた黒子っちたらしこんでたけど)
 失敗続きの黒子を励まし、慰め、応援したのは、誰よりあの小さい黄瀬だった。黒子のボールを小さい身体で抱きこみ、しばらく唸ったあと、うまくいく魔法かけたっスよ!と笑ってボールを差し出した。黒子はそのかわいさに打ち震えていた。正直あれには負けたと思った。

「黒子っちさんは、りょーた君のことかわいくて仕方ないって感じスか?」
 テーブルの上に少しずつ料理が増えていく。席で待機している黒子の目が輝いている。料理動画よありがとう、の成果である。白和えなんて、何でできているのかすら黄瀬は知らなかった。増える皿一つ一つに、ほう、と賞賛のため息が送られる。

「りょうた君は……そうですね、『かわいくて仕方ない』というよりは、」
「?うん」
「かわいい、ですね。ただただ、かわいいです」
「…………」
 目の前に姿が見えるかのように、目を細める。とてもかわいがっている。と聞こえるが、かわいくて仕方ない、とはどう違うのだろう。
 自分の疑問を察し、黒子も改めて考えたらしい。真面目な顔で言われた返事に、黄瀬は言葉を失う。
「キミが黒子先生に思う『かわいい』とはちょっと違いますね」
「……え?」
「食べてしまいたい、みたいのはなくて、もうちょっと距離はあります。かわいい、はすごくかわいいですけど」
「っ……、な、」
 だめだめ、それ以上言っちゃだめ、と黄瀬はばたばたと両手を振った。人差し指を口に立て、顔を左右に振る。
 隠す気はないが、そんな風に見られていたことが黒子に知れたら、きっとどこかへ出奔してしまう。ただでさえ、さっきまで謎の不機嫌を抱えていたばかりだ。
 あ、とそこで黄瀬は一つ、不機嫌の理由に思い至った。
(……もしかして黒子っち、まだ慣れてない?)
 大人の黒子とどう話していいか困っているのかもしれない。誰に対しても態度を変えない黒子の性格を考えると、あまりぴんと来ないが。
 だとすれば、不機嫌というよりは困惑だろう。なるべく間に立った方がいいのかもしれない。何せもてなしたり、細かいことを整えるのは自分の方が得意だ。今のような、彼のストレートな発言をなるべく事前に止めるためにも。

「あー、えっと、黒子っちさんは、ご飯のときは水でいいスか?お茶もあるけど」
「あ、はい、キミたちと同じで」
 無理矢理話題を変え、間違っても黒子っちが聞いてませんように、と祈りながら、黄瀬はわざと音を立ててグラスに氷をカランカランと入れた。
 水を注いだグラスを渡すと、すみません、とさっきの会話をほのめかすような目で見上げられた。透明なグラスの水の向こうに彼の細い手首が見える。その先には、白い首筋が。
 凝視しかけ、速攻で反らす。
 タートルにするべきだった。黄瀬は思った。
 彼は黄瀬に対抗意識なんて当然ないから、上目遣いにだって抵抗はない。さっきの黒子がつんつんと針を出した丸いはりねずみのようなかわいさならば、この黒子は夜に咲くハクモクレンのようだ。夜露で葉を潤すような。

 ――これは、やばい。
 将来黒子っちがこんな風になったらどうしよう。
 黄瀬が呆然としていたら、針を引っ込めた黒子は以前一緒に買いに行ったパーカーに着替えて戻ってきた。また適当にかぶったのだろう、髪の端が跳ねている。
 いつまでもそのままでいてほしいような、そうでないような。
 複雑な、しかし嬉しいような悩みをいったん胸にしまい、黄瀬は三人分の魚を乗せたグリルを引き出した。










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