( にかけるに )
 2×2   [ 12 ]


 翌朝、保育園の玄関まで黄瀬・母に手を引かれてやってきた小さい黄瀬は、零れ落ちそうなほど目を見開いて、大きく口を開けて固まったあと、盛大に叫んだ。

「くろこっちだーー!!!」

「おはようございますりょうた君」
 玄関先に膝をついて園児たちを迎える黒子の横には、極寒仕様ではない服を来た黒子が立っている。背格好もほぼ同じだからと、黒子のクローゼットの中から黄瀬がコーディネイトし、コートは有り余る服の中から黄瀬が一番丈の短いものを持ってきた。自分より寒がりな彼はそれを着て、黒子たちと一緒に玄関で出迎えをしている。
 ゆったりと微笑んで挨拶をする黒子に黄瀬小は飛びつく。よく倒れないな、という勢いだが、黒子はしっかり片方の足を後ろに引いて重心を整え、転倒を防いでいた。経験によるものらしい。
 ご挨拶はどうしたんですか?と聞かれた黄瀬は満面の笑みでおはよー!と答え、隣の黒子にも、黒子っちせんせもおはよーございます!と笑顔を向けてくれた。こんな風に笑う子だったんだなあと、黒子は心が温かくなる。もともと愛想が良くて特に黒子にはいつも笑顔を見せていたけれど、これほど無邪気な姿を見るのは初めてだ。
 その様子を見ながら黄瀬の母といくらか話し、門を出ていくのを玄関先で見送っていたら、外で誰かに出会ったらしい。美しい姿勢で頭を下げたのが見えた。
 視界に入った、黄瀬・母とそっくりのきらめかしい存在感に、黒子は笑みを貼りつかせた。長くない道のりですれ違う父母と園児たちにひらひらと手を振っている。
 てくてくと歩く彼は玄関を出たところに立つ黒子を見つけると、にっこり笑った顔を横に倒した。歩調を早めることもなく、当たり前の顔で黒子の前に到着する。

「おっはよーございまっす、黒子っちせんせっ」
「……仕事はどうしたんですか」

 二時間ほど前、彼は黒子二人分の朝食を作ったあと、じゃあね、と行って自分の家に戻ったはずだ。そのときはワイシャツを着ていた。つまり、会社に行くはずだった。それが今は完全に遊び用の私服である。明るい毛並みのファーが黄瀬の機嫌に沿うようにふわふわ揺れている。
 
「あー、お返事してくんないんスか」
「家を出る前にしました」
「外は外、中は中って黒子っちがよく言うじゃないっスか。お外でのご挨拶は初っスよ?」
「……おはようございます」
 うん、おはよ、と何が嬉しいのか喜色満面で答える。
「お仕事に行ったんじゃなかったんですか」
「なんと急な腹痛に襲われたんス」
 コートの前も閉じず、薄いニット一枚で十二月の寒空ぷらぷらやってくる腹痛の人間がいたら会ってみたい。見てるだけで寒そうな黄瀬の背後に移動し、背中に手を当てて身体の向きをくるりと変えさせる。
「あっ、ちょっ!待って待って!」
「急な腹痛の方は家でゆっくり休んでくださいどうぞお大事に」
 薄いコートに包まれた背中を押して追い返そうとするが、足を踏ん張って重心を背中にかけてくる。重い。見て、あれが「人」っていう字のなりたちよ、と実渕が遠くで言っている。声の方を睨んでも相手は実渕だ。こちらを見もしない。
 黒子に倒れこまないバランスを何とか保ちながら、黄瀬が首を後ろに捻る。
「今日しかっ、ずる休みできないんスよ!だから入れてっ!」
「何が『だから』ですか。こんな朝から来て話題になったらどうするんです」
 大学卒業までモデルをやっていた黄瀬の顔はまだまだ目立つ。確かに小さい黄瀬を元気付けるために園に来るよう頼んだが、あまり目立っては困るのだ。おかしな噂など立ったら黒子はもとより、黄瀬の職業柄大変まずい。

「大丈夫!オレの顔なんてもうみんな見慣れてるっス!」
「余計だめでしょう」
「大きい黒子っち絵本読むんでしょ?!オレも聞きたいんスよー」
「大人は我慢してください、ていうかキミ、また背中にこんなカイロ貼って」
「だって薄着のがかっこいいかなって、黒子っちの手もおかげで今あったかいっしょ!」
 今それまったく求めてません、と押し出そうとするが、自分より二十キロ以上重い身体はびくともしない。
「あの、ほら、昼までだから!午後は買い出し行くし!」
「……、買い出し?」
 それは初耳だった。普段の買い物はどちらが報告することもなく適当に済ませておく――そもそも一緒に暮らしているわけではないのだから――が、青峰や火神など共通の友達が泊まりに来るときは、一緒に買い物に行く。彼らは下着も歯ブラシも何も持っては来ないからだ。
 背中を押す力が弱まったのを感じてか黄瀬はくるっと身体を反転させ、黒子の足元にしゃがみこんだ。膝を抱え、口を尖らせ、見上げてくる。それで子供になったつもりか。背丈と上目遣いだけでほだされるほど黒子は甘くない。甘くない、つもりだ。

「そうっスよ、週末の買い出し。久々に作ろうと思ってるんス、グラタン」
「え、」
 今、グラタンと言ったか。黒子がリクエストしてもなかなか作ってくれない、あの手間隙のかかるグラタンと。
「ホワイトソースから作るっスよ」
「……黄瀬君が、」
「そう、オレが。チーズもおいしいの買ってくるっス」
 さあどうっスか、と言う黄瀬の顔の向こうに、あつあつで、とろとろのホワイトソースが蘇る。その上にはチーズがこんがりとした焼き色で香ばしく溶けていた。
 一度、テレビを見ていた黄瀬がたまたま持て余した時間を埋めるためにグラタンを作ったことがある。今まで主にファミリーレストランで食べていた黒子の味覚に、それは衝撃だった。皿に盛られた分を食べきって、おかわりまでした。しかし作った側の感想としてはなかなか面倒だったらしい。普段から料理の速い黄瀬は、時間のかかるメニューには滅多に手を出さない。
「…………それは、四人分ですか」
「四人分っス」
「そんなに作るの、大変じゃないんですか」
「午前中ここに居させてくれたら頑張れるっス」
 なんなら黒子っちの絵本聴き終わったあとリフティング百回くらいつけるっスよ。
 ここにきて上乗せしてきた。さすが黒子の揺さぶり方を知っている。しかしそんな我侭が許されるのか。これでおいしい思いをするのは黄瀬と黒子と、運よくグラタンにありつける大人の黒子と小さい黄瀬くらいである。

「はい、交渉成立ね。いつまでもこんな外にいたら風邪引くわよ」
「……怜央先生」
「実渕サン……!」
「いいじゃない、見学者がいる日くらいあるわ」
 そういうところほんと真面目なんだから、と呆れ声で言う。来賓リストに名前書いておいてね、と黄瀬に言えば、彼は持ち前の敏捷性を最大限に活かしてすぐさま立ち上がった。
「園長センセーに見学申し込みしてくるっス!」
「あ、」
 とっくに園長とも顔見知りの黄瀬は、黒子がまた渋る前にと園内へ駆け込んでいった。竜巻のようだ。
(……まあ、いいか)
 確かに見学者という扱いにすれば問題ないのかもしれない。仮病がばれる可能性だってほとんどない、と信じたい。子供を預かる立場として複雑だが、これぞという機会をものにするのも大事なことである。理由はともかく。自分を納得させながら、実渕と横並びに歩いて黒子も玄関から中へ戻る。

「クリスマスパーティでもするの?」
「あ、はい。りょうた君のお母さんにはさっきお話して了解をもらいました」
 尋ねられ、そういえば伝えておいた方がいいと思い、黒子は簡単に説明した。大人の黒子がクリスマス前には帰ってしまうこと、もともと黄瀬もフライトでいないことから、四人が揃うこの土曜日に前倒しでパーティーをしてしまおうと。黒子本人はもちろん、大人の黒子とも面識がある黄瀬・母は喜んで承諾してくれた。

「ところで黄瀬クンのグラタンはそんなにおいしいの?」
「おいしいです。あのグラタンはすごいです」
 力説すると、実渕は緩い曲線を描く瞼を珍しくぱちりと開け、それからいつものように艶のある唇を持ち上げて笑った。
「黄瀬君は本当にかいがいしいわね」
「今回は特に気合いが入ってるみたいです」
 昨日の晩も、今日の朝も、黄瀬はずっと大人の黒子にかかりきりだった。分かってはいたが、黄瀬はマメだしよく気がつく。自分の目の前で黄瀬がくるくる動いているのを見て、とても自分にはできないとしみじみ感心した。

「今回は……って、黒子先生」
「はい」
「黄瀬クンがかいがいしいのは、黒子先生にでしょう?」
「?まあ、はい。そうですね。普段は」
「…………大変ね」
「はい?」
 二人とも先は長いわね、とまた謎をかける実渕の後をついて、黒子は暖かい室内へ上がった。



 ◇



「……そして王様は、コックさんと内緒の話をして、ふふふと笑ったのでした」

 ぱたん、と静かに絵本が閉じられる。絵本特有の厚い紙と厚い表紙が、空気をはさんで押し出す音。それが聞こえるくらいに室内は静寂に満ちていた。
 黒子は遊戯室を見回し、驚嘆する。
(すごい)
 二十人ほどの子供たちが、ことごとく落ちたように寝ているか、舟を漕いでいる。お昼寝の時間ですかと知らない人に聞かれても不思議はない。話し声も駆け回る声もなく、聞こえるのは微かな寝息だけだ。
 その中で一人、最前列で背中をぴんと伸ばして子供用の椅子に座っている園児がいる。黄瀬だ。大きな黒子が苦笑しながらそちらに目を向けている。黄瀬だけは目を輝かせているのだろう。園児全員が眠る中起きている黄瀬も見事だが、全員起きている大人の中でぐっすり眠っている黄瀬も別の意味で驚く。
「……黄瀬君」
「……?」
 黒子の隣に座っている大きい黄瀬は、身体を斜めにしてぐっすり眠っていた。小声で起こすと、とろんとした目を開く。あ、本気で寝てたんだ、と朝方の寝起きの顔を知っている黒子は無防備な黄瀬の顔からそう察した。
 黒子の読み聞かせが聴きたいからと仮病を使ってまでやってきて、黒子の友人である特権を使い、自分の園内の人気も使いもぐりこんだのに、この眠りっぷり。最初はよほど起こそうと思ったが、あまりに安らかな顔ですうすう寝ているので、その気がなくなってしまった。
 黄瀬は何度か瞬きをすると、急に外行きの顔になって顔を上げ、正面に目をやった。本を閉じた黒子が、小さい黄瀬に向かって、人差し指を立てているところだった。終わったらしい、と察した黄瀬が、分かりやすく顔に衝撃を浮かべる。
「オレ、寝てた?」
「ぐっすりでした」
「……」
 ここまで熟睡していたことに自分でも驚いたらしい。確かに黄瀬は、外で無意識に寝たり落ちたりすることが少ない。学生の頃は練習試合や遠征のあと、電車やバスで昏睡することもあったが、大人になってからは皆無だ。
 
「黒子っちに寝てるのばれてた……?」
「はい」
 答えると、黄瀬は頭を抱えて丸くなった。ここで黒子が不憫に思って嘘をついても、多分あの黒子はきっと悪気なく、むしろかわいがるような目で、よく寝てましたね、と言うだろう。実際彼は絵本を読みながら顔を上げ、眠る黄瀬を目に入れた。そして柔らかく笑ったまま本に目を戻し、話を続けた。
 オレ黒子っちになんて感想言ったらいい?ねえねえねえ、黒子っち聞いてる?と黄瀬が泣きついてくる間に他の子供もだんだんと起きはじめる。急に魔法を解かれたように、ぽかんとしているのが面白い。
「黒子っちが無視する……」
「言い訳考える前によだれを拭いた方がいいですよ」
「っ」
「嘘ですけど」
「……っ、く、黒子っち……いつからそんな子になっちゃったんスか……」
 口元に手をやった黄瀬の顔の赤いのが何となく面白くない。しかしまた悩み始め、真剣に唸っているので、仕方なく助け舟を出す。
「大丈夫ですよ、絶対怒ってませんから。それにキミがそこまで寝るって、よっぽど安心したってことでしょう」
「……確かにめちゃくちゃ気持ち良かったっス……」
 ざわざわと子供たちの話し声が広がり始めた中でも、黄瀬は呟きは黒子の耳にはっきり届いた。

「はい、黒子先生ありがとうございました。みんなでお礼を言うわよ」
 一番後ろに座っていた実渕が正面へ回り、絵本を膝の上に乗せた黒子の隣に立つ。
 せーの、に続いて子供たちのありがとうございました、が重なり合う。どういたしまして、と深々とお辞儀をすると黒子の持ち時間は終わりで、子供たちは三々五々散っていった。よく寝たから身体もよく動くだろう。
 小さい黄瀬はまだ黒子の隣で何かを話している。それを眺めながら、大きい黄瀬が神妙な顔で話しかけてくるのに答え、最後に黒子は黄瀬と一緒に席を立った。

「黒子っち、さん」
「はい」
 黄瀬は大きい黒子のことも「黒子っち」と呼ぶ。が、今回は申し訳なさから「さん」がついたらしい。園児たちと違い大人用の椅子に腰をかけている黒子は、思った通り楽しそうににこにことしている。おはようございます、と先回りして言われ、黄瀬の喉がうっと詰まった。軽く泣きそうになっている。
「にわとりが逃げたとこから、寝たっス……」
 初恋か、憧れの先生の前みたいだな、と黒子は思う。本当のことを言って嫌われたくはないけれど、でもそれを言う以外どうしようもなくて、途方に暮れるような。
「いいえ」
 大人の黒子は答えた。その短い一言で、自分だったら安心する。黒子の声には不思議な響きがある。
 しかし黄瀬はまだ気が済んではいないようだった。素直に言ったはいいけれど、この先どうするんだろう、と黒子の方がやきもきし始めたときだ。でもオレ、と口から紡ぎ出された声に、黒子はつい隣を仰ぎ見た。
 さっきまで子供みたいな顔で寝ていたとは思えない、落ち着いた静かな眼差しで黒子を見ていた。自分ではない方の、黒子を。
「……オレ、すげー好きだったっス。読んでるときの、声」
「…………」
 たどたどしく告げられた感想に、言われた黒子はぽかんとし、小さい黄瀬はその腕にぎゅう、としがみついた。この黒子は自分のだと、口で主張するより先に身体が動いたように見えた。
 黒子はそんなことはできなかった。謝りにくいから一緒にきて、と言ったのは黄瀬なのに、彼の頭の中からはきっと、隣に立つ黒子のことなど抜け落ちている。
 拙いけれど、本心じゃないことは一つも言っていない、自分の言葉で一生懸命伝えようとしてくれた。黒子はもちろん、自分にも、多分小さい黄瀬にも伝わった。その必死さを感じて、彼は静かにしていたのだろう。

 ありがとうございます、と答えた黒子に、小さい黄瀬は今度こそ抱きついた。
 自分の手は空のままで、拳を握るしかなかった。
 隣の黄瀬はほっとして緊張を解いていた。

 昨日の晩から続いていた胸にわだかまる靄の正体に、今ようやく気が付いた。








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