( にかけるに ) 2×2 [ 11 ] |
黒子テツヤ三十二歳、職業詩人。副業、絵本の読み聞かせ。 絵本を読み始めると何故か子供たちが大人しく眠るようになるということで、保護者・保育士たちの好評を得ている。その評判からいくつかの保育園の昼寝時間に呼ばれるようになったのだが、なぜかまったく眠ってくれない子供がいた。目を爛々と輝かせ、続きは?とねだる。――当時五歳の黄瀬涼太、であった。 「だって黒子っちがよんでるの、ききたかったんすもん」 「半年間一回も寝てくれませんでした」 苦笑した黒子の隣では、小さい黄瀬がへへーと自慢げに笑っている。黄瀬は黒子に抱きついた腕をようやくほどいたものの、応接室のソファに黒子が座ればまるで、強力な磁石で呼ばれたようにぴたりと横に張り付いた。黄瀬が眠らずに話を聞いてくれたことを、黒子は本当は喜んでいると知っている。そして黒子の方も、全身で懐いてくる黄瀬を余すことなく受け止めている。自分たち――同じ年の黄瀬と黒子――のような関係ではもちろんないが、見事な相思相愛ぶりである。 自分たちとよく似た、年齢違いの二人が、ものすごく健全かつストレートに、お互いの気持ちを認め合っている。 夢の世界で自分を見ているような気持ちだった。他人なのか自分なのか、境界が曖昧になりそうだ。大人の黒子っち!とすぐさま騒ぎ出しそうな大きい方の黄瀬も、呆けたように大人しい。 「はいお茶、お待ちどうさま」 ノックされることなく応接室の扉は開かれ、実渕が緑茶を運んでやってきた。小さい黄瀬だけはグラスに水である。 年上の黒子の登場に皆が唖然としている遊戯室へ、実渕は予想通りといった顔で笑いながら戻ってきた。そして黒子を応接室へ案内し、自分と黄瀬大・小を呼んだのだ。 「怜央先生知ってたんですか」 「まさか。夜道で怪しいエスキモーに声かけられて悲鳴上げるところだったわ」 「そんなに怪しかったですか?」 帽子とブーツは置いて来たんですけど……、と黒子はハンガーに吊るされたコートに目を向けた。クリーム色の分厚い皮はおそらく何かの動物の皮で、フードも袖も、縁はすべてもこもこの毛でぎゅっと縁取られている。本気の豪雪仕様だ。 「黒子っちさむがりだからしかたないっすよ。でもコートはない方がいいっす」 「そうですか?」 「ない方がくっつけるもん、」 ね、と黄瀬は笑顔でますます寄り添う。寄り添うというか、もはや押し寄っていて、黒子もそろそろ傾きそうである。 「……ねえ、アイツは黒子っち専用のたらしなの?末恐ろしいんスけど」 隣の身体が身じろいだと思ったら、潜めた声が降ってきた。黄瀬がなんとも複雑な顔で眉を寄せている。 「りょうた君はキミより言葉を選びますよね。このまま素直に育ってほしいです」 「あれ絶対黒子っちにだけだって!」 小声で話していると、正面の黒子が自分と黄瀬を交互に見やった。年上だからだろうか、別人と分かっているのに、未来から来た自分に見られているようで落ち着かない。黄瀬も同様らしい。急に背筋が伸びた。 「本当によく似てますね。僕と黒子先生も、りょうた君と黄瀬君も」 「はい」 「っスね」 「お二人は同じ年なんですか」 「はい」 「中学から一緒っス」 黄瀬が答え終わると一瞬間が空いた。正面の黒子が小首を傾げる。 「……僕、キミたちのこと緊張させてます?」 「いえ」 「そんなことないっスよ」 「どう見ても緊張してるわよ」 黄瀬クンまでどうしたの、と実渕が呆れた口調でとどめをさす。緊張ではないのだ。どうしたらいいのか分からないだけで。 「なんだかすみません」 「「そんなこと」」 声が重なった上、言葉を止めたタイミングも計ったようにぴったりで余計にいたたまれない。むう、と口を結んでつい目線を下げる。しかしそれで訪れるはずだった沈黙は、ふ、と零れた楽しげな笑い声に取って代わられた。黒子の声だった。 「仲良しですね」 「…………その、付き合いが、長いので」 「めっちゃ仲良しっス」 (……何でわざわざ強調するんですか) まだ俯いたままのくせに力強く言い切った。余計なことを言うなと睨みつけたいが、それはそれで怪しい。ぐっと堪えていると、黒子の口からさらに笑いが洩れた。 「そうですか」 ちらりと窺い見ると、笑みの形に細められた目は自分に向けられていた。自分たちの緊張も居たたまれなさも、そっくり受け入れてくれたような笑顔だった。甘えていい大人がいる、そういう感覚を久しぶりに思い出した。 それに救われながら、しかし黒子は戸惑ってもいた。きっと自分はまだ、こんな笑い方をしたことはない。 「黒子っち先生は、おれともなかよしっすよ」 「それは良かったです」 「のるうぇーのぱんふれっとも見せてくれたんす。おーろらの話も」 「ああ、それは黄瀬君が」 言うと、黒子は僅かに顔を綻ばせて、大きい方の黄瀬に顔を向けた。黄瀬の意識が一気に正面の黒子に集中したのが分かる。この黒子は落ち着いているけれど、表情が自分より柔らかい。感情表現をしても意外な印象を与えないのだ。それこそが、黄瀬は慣れないのだろう。 「ノルウェーに来たことがあるんですか?」 「仕事で、っスけど」 「仕事?」 「えっと」 そこで黄瀬は何故か、自分に助けを求めるように視線を寄越した。何に困り何に照れているのか分からないが、いつもと勝手が違う”黒子テツヤ”を前に動揺していることは分かる。 「黄瀬君はパイロットで、色んな国に行ってるので」 「そうなんですか」 代わりに答えた自分に感心した声で返事をしてから、黒子は黄瀬をしみじみとした目で見つめた。 「男の子には憧れの仕事でしょう。……すごいですね、りょうた君は、大人になったらこんなに格好良くなるんですね」 「……っ」 黄瀬が再び固まった。耳の淵が赤い。黒子の口ぶりから察せられる「男の子」は、ランドセルを背負っているくらいの年頃だ。基本的に「人より早く世間慣れしてかっこいい」を前提に生きている黄瀬としては気恥ずかしいのだろう。でもその声には小さい方の黄瀬への感情も混ざって愛情が滲んでしまっていて、間違っても否定なんてできない。 言った黒子には当然他意はなく、おれのほうがかっこよくなるっす、とすかさず上がった抗議の声をにこにこと聞いている。さすが子供にも黄瀬にも慣れている。 「そういえば、黒子さん……て呼んでいいかしら。ホテルは取ってあるの?」 「ああ、はい、駅前のホテルにしようかと」 出会い頭驚かされた拍子に親しくなったらしい。実渕は敬語もなくいつも通りの口調で話しかけた。黒子も気にせず答えている。 「駅前……?」 「たしか、東海道、というホテルが」 「「……あそこ?!」」 複数名の声が重なった。隣の黄瀬も動揺を吹き飛ばしたらしい。 確かに駅前にそのホテルはある。しかしホテルというより一昔前の学生寮を思わせる木造二階建てで、築何年かは誰も知らない。最早驚きはそこが営業していたという事実で、実渕ですら二の句が継げないでいると、黒子はためらいがちに言った。 「安かったので、いいかと思ったんですが……」 「というか……予約できたの?」 「当日電話でいいと書いてあったので、これから行って」 「「やめときましょう」」 お客を取ってしまって申し訳ないが、小さい黄瀬のためにと仕事を詰めに詰めてやってきた黒子を泊めるには、あまりにも心もとない。 「黒子っちとまるとこないの?」 「ええと……ないこともないんですけど」 小さい黄瀬は大人たちの会話に乗りそびれていたが、内容は理解していたらしい。じゃあうちにくればいいすよ、と相変わらず自然に申し出ている。それは黄瀬にとっては一番だけれど、数日間滞在するというのなら、やはりどこか別の宿を取った方がいいだろう。 「ボク、保育士ルームのパソコンで探してきましょうか」 「それがいいわ」 「いえ、そんなお手間をかけるわけには。僕やっぱり東海道に」 「でもあそこ――」 「黒子っちの家」 「……はい?」 にわかに立て込んできた会話は、黄瀬のきっぱりとした声に突如遮られた。 「黒子っちの家に泊まったらいいんじゃないスか」 大人の黒子に翻弄され気味だった黄瀬も、宿の手配――というか黒子の判断基準――がどうも危ういと分かり、いつものペースを取り戻したらしい。もう緊張した様子もなく、まっすぐ黒子に向かって話しかけている。 「あ、こっちの、黒子っちの家っス。ここから近いし」 「…………」 どうスかね、と黄瀬は正面の黒子の返事を待っている。もう素の喋り方だ。それはいいが、一応家主の意見も聞いてほしい。自分をすっ飛ばして会話を進めていく黄瀬に、大人の方の黒子も戸惑っている。 「いや、そんな初対面の人間を泊まらせるわけにはいかないでしょう……というか、」 自然の流れで黒子は自分に視線を向けた。それはそうだろう。 「ボクは別に、構いませんけど」 突然人が泊まりに来ることなら黄瀬で慣れている。確かにこの黒子とは初対面だけれど、親近感どころか他人という気がしないし、色々話も聞いてみたい。黄瀬も話したがるだろうから、三人で軽く飲んでもいいかもしれない。布団をもう二人分用意すれば――。 (…………?) 何かの感情がふと顔を出した気がして、黒子は自分の心を探った。しかし正体は分からないまま、話は進んでいく。 「じゃ、決まりっスね」 「そうですね」 「……」 「黒子っち、黒子っちせんせいのいえとまるんすか?おれもいく!」 「りょうた君はお家ですよ。……あとせっかくですが、僕はもう少しホテルを探してみることにします」 小さい黄瀬を撫でながら、黒子は笑って答えた。 「えーなんでっスか、ホテル代もかかんないんスよ」 「僕、寝相がすごいんです」 「そんなの黒子っちも……、うっ」 黄瀬の背中を後ろから抓り、もう一度黒子に伝える。きっと、自分の感情が一瞬揺らいだことに気付いたのだろう。 「黒子さん、が気にならなければ、ぜひ」 生まれかけた靄は、黒子が原因ではない。だからさっきのことは気にせず、来てもらえませんか――と、目で伝える。伝わる気がするのだ、きっと、この黒子になら。 果たして、その意は伝わった。 「それなら、お言葉に甘えて」 控えめな笑顔での返答と、目の奥での了解を、自分は確かに受け取った。ほぼ同時に、やったっスね、と黄瀬が浮かれてひっついてくる。 少しは人目を憚れ、と黄瀬を睨んではみたが、普段なら迷わず引き剥がすはずの手は動かなかった。そうしてくれれば落ち着くような、逆に落ち着かないような、実質半々だったがひとまず前者が勝ったのだ。つまり自分はまだ、この状況に少しばかり動揺しているのだろう。 黄瀬二人と大人の黒子には先に遊戯室へ戻ってもらい、応接室の茶托を片付けていると、実渕は言った。 「上には上がいるから大丈夫よ、黒子センセ」 「……??何の話ですか?」 「困ったときには素直になるのが一番ってこと」 「あの、全然分かりません」 「きっとすぐ分かるわ」 「……はあ」 さっぱり意味は分からなかったが、覚えておいた方がいい言葉に聞こえた。 自分の胸に生まれた謎の靄の正体を、実渕は知っているのかもしれなかった。 >> 続 << 戻 |