( にかけるに )
 2×2   [ 10 ]


 遊戯室のピアノの前に半円を描くようにして、園児達が座っている。中央に立っていた子供が輪に戻ると、違う子供が元気に手を挙げる。

「ぼくもくろこせんせーのまねします!」
「……お願いします」
「ピアノのさいごのとき!」
「う……、はい」
 これは痛いところをついてきた。ピアノはあまり得意ではない。
 集まった子供たちの真ん中に正座した黒子は、まるで試験でも受けるときの気分で、その園児がピアノに近づいていくのを見守った。黄瀬と同じ組の、最年長の男の子だ。彼は椅子に背伸びして腰をかけ、鍵盤に手をかけた。いくつか音を鳴らしたあと、じゃーん、と曲が終わったように長く鍵盤を押し、そのまま、ぴた、と固まる。園児が固唾を呑んでいる。
「…………あ、あの……」
 静寂に戸惑った黒子はつい口を開いたが、ないものとして流された。本人なのに。先生なのに。左隣に座っている小さい黄瀬ですら黒子の声に反応してくれない。そこで黒子役の園児が、かしこまった口調で言う。
「おわりです」
 ふう、と顔を上げて息を吸うと、手の甲で汗を拭うふりをした。観客の子供たちがいっせいに拍手を送った。
「まちがえなかったー」
「よかったね先生!」
「足もふまなかったね!」
「よかったです、ありがとうございます」
「…………」

(いや、確かに毎回必死ではあるんですけど)

 楽しい歌の時間に、まさか自分が全国の舞台で戦うような顔をしていたとは。
 そして子供たちがこんなところで思いやりの心を育んでいてくれていたとは。そういえばピアノのあとはいつも労われていた。
 なんとも複雑な気持ちで口を結んでいると、黒子の耳に、ふ、ふ、ふ、と抑えきれていない笑い声が、少し高い位置から聞こえてきた。金色の髪も、合間に見え隠れする銀のピアスも、肩も腹も震えている。腹筋が鈍ってるんじゃないですか、と言ってやりたい。

(怜央先生、絶対根回ししましたね……)
 仕事のあとに直行してきた黄瀬と、残った園児たちを遊戯室に集めた実渕は、ぱんと手を叩くとにっこり笑い、「黒子先生の真似っこ大会開始〜」と宣言したのだ。今まで黒子の前で披露されなかったものが、その一言でお祭りと化したのは実渕が子供たちに前もって言っておいたからだろう。
 こうなることを知って来たのかそうでないのか、ひたすら笑い続ける黄瀬からは分からない。いくら睨んでも効果はなく、追いうちをかけるように違う園児の新しい声が響く。
「じゃあつぎのきょくー!」
「え」
 まだ続くのか、と思ったら、その場にいた全員の声が揃った。
「「「それはまたあした」」」
「…………」
 保育園児が出すとは思えない落ち着いた声音で真似をしたあと、一転してきゃあきゃあと笑い出した。今度は黄瀬も我慢することなくそれに混じって笑い声を立てている。腹いてー、などと言っているその腹に拳を繰り出してやりたい。

「……黄瀬君」
「すげーそっくり!」
「キミは見たことないでしょう」
「ないけど、絶っ対、ああでしょ、」
 目に浮かぶもん、と黄瀬が目じりに浮いた涙を拭った。いつか余裕で弾きこなす姿を見せてやる、と黒子が熱意を灯していると、左腕に小さな高い体温が触れた。隣からぴたりとくっついた黄瀬が、黒子を見上げている。
「おれ、黒子っち先生のピアノ好きっすよ」
「りょうた君」
 ここぞというタイミングで完璧なフォロー。いつもながら子供とは思えない包容力である。
「いつも、いちばんまえできいてるっす」
「ありがとうございます」
 黄瀬の定位置は一番前で、黒子の斜め前に行儀良く座っている。きらきらした目が自分を見上げているのを見ると、そのときだけは先生として立派にやっているような気になった。
 一年目からいい子供たちに恵まれたなあ、とじんわり感動しているところへ、拗ねきった声もまた、後ろで喋り始める。
「オレだって黒子っちの寝言、一番前で聞いてるっスよー」
「今日はどうも風が強いみたいですね」
 こういう日は風がおしゃべりするみたいに聞こえます。と黒子は笑顔で黄瀬の声をかき消した。黒子にしか聞こえないような声だけれど、張り合う内容が情けないからやめてほしい。

 黄瀬が黒子の保育園にやってくるのは今週既に三回目で、園児たちも大分存在に慣れてきた。最初は遠巻きに見ていた女の子も、今では大きい黄瀬の隣に三人ほど並んで座っている。おかげで黒子の左右には黄瀬大小が、その隣には女の子数名という、黒子を中心としたきれいな点対称の並びができあがっていた。
 前回までは陽が落ちる前に黄瀬が到着していたから、外でサッカーや縄跳びをして見事に小さい黄瀬を刺激して張り合わせていた。彼は大人げなんてこれっぽっちもないので、黄瀬・小が勝てた勝負は一つもない。リフティングはもちろん、二重飛びもはやぶさ飛びも、小学生のときにクリア済みの黄瀬に保育園児の黄瀬が勝てるわけはなかった。しかし色々な技を見せたことに黄瀬がこっそり危機感を覚えているのも、黒子は知っている。
 小さい黄瀬は大きい方に懐きこそしなかったが、やたらと対抗し、毛嫌いするような態度はなくなった。それより、ただ普通に歩いているときや、他の保育士と話しているときでも、黄瀬の動きをよく観察していた。家に帰った早々、「オレの真似して口説いてきても誘われちゃだめだからね」と黄瀬が言うくらいだった。小さい黄瀬には別の黒子がいるのだから大丈夫だというのに、まだそう言わずにはいられないらしい。
 だからやっぱり、小さい黄瀬が隣に座るなら、黄瀬も隣に座る。「両手に花ね」と実渕は言うが、片方の花は巻きついたら離れない二本の蔦も持っているので、そんなかわいらしい花ではない。それでも黄瀬が大小並んでいる光景や競い合っている姿などは、備品のデジカメに手を伸ばさせるくらい、黒子をそわそわさせるものではあった。

 園児たちの遊びは黒子の真似から次々展開していったが、その間迎えに来た保護者と帰る子供もいて、少しずつ数は減っていった。今日は小さい黄瀬の迎えも遅いらしい。黒子は今日閉園までのシフトではないが、大きい黄瀬と二人で帰る姿を見せるのは忍びない。来てもらっておいて申し訳ないが、黄瀬には先に帰ってもらうかと思案していたら、実渕が黒子を呼んだ。保育士ルームに行くと、彼はエプロンの上にカーディガンを羽織り、袖を通す。
「いつもより早いけど、これから見回りしてくるわ」
「何かあったんですか?」
「ここの場所を聞かれた人がいるらしいの。何の用か聞こうとしたらもういなくて、念のためにって今連絡くれたんだけど」
「……例の電話の人ですかね」
「って思うわよね」

 その後、無言というか雑音の激しい例の電話がかかってくることはなかった。何かあっても困るので帰国した黄瀬には念のため伝えたが、ガードマンも兼ねるっス、と逆に意気込んでやってくるようになってしまった。
 黄瀬君ガードマンなんて武闘派なことできるの?と実渕に聞かれ、あれで喧嘩っ早いと中学の頃の話を聞かせたら、いいわね〜と含みのある声で頷かれた。本能が何かを察したのでそれ以上語るのを止めたが、黄瀬の株は上がったらしい。なおこの話は黄瀬には伝えていない。
 それはともかく、黒子は電話の主が危険だとはあまり思っていない。何か用事があって電話をかけたのだろうに、目的を果たせないまま電話が途絶えて、どちらかといえばその方が気になっている。
 見送りに玄関まで出たら、既に外の冷たい空気が入り込んでいた。そろそろ本格的に冬がやってくる。
「かわいくなかったら交番に突き出してくるわね」
「ボクも行きましょうか」
「あら、大丈夫よ一人で」
「でも」
 年末だし夜だし、万一ということもある。いくらか心配になって聞くと、実渕はそこでエプロンのポケットからカラーボールを二つ取り出し、軽く笑って顔の脇に両手で掲げた。仕草はかわいい。かわいいが。
「塗料が飛び散るより先に気絶させてやるわ」
「……」
 いかに手入れしつくされた髪が美しかろうと、言葉遣いが柔らかかろうと、百九十センチ近くある着痩せしているだけの身体でそれをやられるとなかなかに恐ろしい。実渕のユニフォーム姿を見ている黒子は、彼の腕や肩がどれだけ鍛えられていたかを知っている。命中率もさぞ高いだろう。
「……くれぐれも、無茶はしないでくださいね」
 双方のために、という言葉は飲み込んでおいた。

 遊戯室に戻ると、黄瀬を含めた居残り組みはトランプをしていた。床には裏返しにしたカードが広がっている。大きい黄瀬は後ろ手をつき、何やら参った笑顔で黒子を見上げた。
「おかえりっス〜黒子っち、センセイ」
「神経衰弱ですか」
「うん、やばい」
「黄瀬君苦手ですよね」
 中学の頃、合宿のときや空き時間に何度かやったことがあるが、黄瀬の勝率は芳しくなかった。後半追い上げる頭脳派三人と、開始直後に勘で当てる青峰、全員の視線の動きで目星をつける黒子の中で、黄瀬の取れるカードは少ない。
「動かないもん覚えるの苦手なんスよ」
「フツー逆ですけどね」
「黒子っち一緒にやって」
「先生は一人だけの味方はできません」
「黒子っち先生、おれのとなりあいてるっすよ!」
「そこオレの隣っつーんスよ!」
「どうして真ん中って言葉が出ないんですか」



 負けがこんでいた黄瀬は案の定最下位で、次は黒子も混じってゲームが始められた。中にはやたらと得意な子もいるので、覚えているカードをまとめて持っていかれてしまうと、黒子もそう簡単には取れない。小さい黄瀬も苦戦している。黒子と大小の黄瀬は三人とも上位に食い込めないまま四回目のゲームが終わり、カードはまたシャッフルされた。
 ちらりと時計を見ると、もう九時になろうとしていた。実渕はまだ戻らない。
「黒子っちせんせーは、一旦抜けてお仕事する?」
「そう、ですね」
 何度か入り口と時計に目をやっていたのを見ていたのだろう、黄瀬がそれとなく尋ねてくれた。しかし腰を半ば浮かせると、園児たちに引き止められてしまう。
「黒子先生かえっちゃうのー?」
「あ、いえ、また戻ってくるのでみんなで……」
「しちならべにする?」
「しちならべならやる?」
「……七並べはあの、嬉しいんですけど、先生はちょっとお仕事を」
「しちならべなのに?」
「ええと、先生もやりたいんですけど……七並べですし。でも、ちょっとだけ実渕先生のお手伝いに行ってきます」
 えー、と上がる声を浴びながら笑顔で立ち上がる。小さい黄瀬はこういうときの聞き分けがいいから、引き止めずに黒子を見上げるだけだ。大きい方も似たようではあるが、黒子っちそんな七並べ好きだったっけ?とだけ顔に書いてあった。突っ込まなくていいです、というか、忘れてください、と目で答えたが伝わっただろうか。

 立ち上がり、輪から離れると玄関から誰かがやってくる気配があった。実渕が戻ってきたのかもしれない。一足早く安心しかけた黒子はしかし、遊戯室の入り口に現れた人影に、ぴたりと動きを止めることになった。
 十二月中旬にはまだ早い、というか真冬になっても東京ならそこまでは……、と考え込みたくなる分厚いコートに身を包み、その人物はもこもこの毛で縁取られたフードを、今ここでようやく外した。正直不審者だった。
 水色がかった髪が、外に現れるまでは。

「…………」

 ぽかんと口を開いて固まった黒子にいち早く気がついたのは大きい方の黄瀬で、背後から自分の名を呼ぼうとした声が聞こえた。実際声になったのは、最初の二文字くらいであったが。

「 こんばんは 」

 数人の園児たちの声しかしない部屋の中で、大きくはないその声はよく通った。静かで、落ち着いた声だった。予想していたより、少し低い。
「あの、五歳くらいの男の子を探してるんですが」
 尋ねられ、我に返った黒子が返事をする前に、声の主は微笑んだ。しかしそれは黒子にではなく――、

「 黒子っち! 」

 自分の横を走り抜けた、小さい黄瀬に向けられていた。その”黒子”は床に膝をつき、勢いよく飛びつく身体を難なく抱きとめる。

「また大きくなりましたね、りょうた君」
 おれもう六才っすよ、と首にしがみつきながら言う黄瀬に、それはすみませんでした、と笑って答える。
 彼は改めて、その場で言葉を失っている全員に挨拶をした。



「初めまして。黒子テツヤです」



 離れようとしない背中に広がる手は、自分のものより少し細く、少しくたびれて、そして、より安心感を与える手だった。







>> 続
<< 戻