( にかけるに )
 2×2   [ 9 ]


 小さい黄瀬は翌日遅刻もせず、すらりと背の高い母に手を引かれていつも通り園にやってきた。昨日の出来事が照れくさかったのか、出会うなり黒子の腰に抱きつき、顔を隠す。
「黒子っちせんせーおはよーございます!っす!」
「おはようございます、りょうた君」
 黒子が返事をすると顔を上げ、へへへ、と笑って、廊下を走っていった。黄瀬の母からお礼と共に手渡された紙袋には、丁寧にたたまれたマフラーと、大きなカードが一枚入っていた。黄瀬の文字で、「黒子っちせんせいありがとう」と書いてある。つい後ろを振り返ってみたら、遊戯室の入り口から黄瀬が顔だけ出して黒子の様子を窺っていた。目が会った黄瀬ははにかんで笑い、今度こそ室内に入っていった。あまり活発に動かない黒子の表情筋が、かなりの割合で動く。
 いい加減慣れているはずなのに、どうにもかわいい。他の園児だって同様にかわいい。子供の笑顔は宝だと思う。
 でも黄瀬・小の笑顔はどうしたって特別だった。仕方ないだろう。顔の成長具合は違えども、あの笑顔に絆されるように、自分はなっているのだから。

「黒子先生も面食いよねえ」
 斜め後ろから声をかけられ、黒子は咄嗟に表情を引き締めた。さっきまで門のところにいた実渕が戻ってきていたらしい。
「…………違います」
「じゃあ黄瀬クンの顔が好きなのね?」
「違いますから」
「あら、嫌いなの?」
 嫌いではない。嫌いなわけはないのだが、そんなことを答えたら好きだと言っているようなものだ。
 関係を知られていても、実渕に黄瀬のことを聞かれるのが黒子は苦手である。黒子が答えず口を閉ざしていれば、実渕はそれ以上粘らない。ふふ、と笑って話を変えてくれる大人の対応が、また何とも居たたまれないのだ。

「今日からクリスマスまで、りょうたクン大丈夫かしら」
「どうでしょう」
 黒子に遠慮してか口にはしなかったけれど、もう一人の”彼の黒子”に会えるのを、黄瀬はずっと待っていた。いい子にしていればきっと会えると、ここのところいつもより言うことを聞いていたに違いない。昼寝からの抜け出しだって、最近はなかったのだ。
 これからクリスマスまでの期間、本当なら楽しみに待っていられたに違いないのに、がっかりする結果だけが先に分かっているのでは、見ている側もやるせない。
「あんまり頑張らないで、ちょっとくらい駄々をこねてくれてもいいと思うんですけど」
「でも、それは昨日で終わりでしょうね」
 黒子は頷く。小さい黄瀬は傍から見れば聞き分けがいいように見えるけれど、そうではない。納得なんてしていない。ただ、泣こうが騒ごうがどうにもならないものがあるのを彼は知っていて、諦めるしかないものは、執着を手放すか、冷めたふりをする。ふりをしている場合、執着はずっと抱えたままだ。
「何かで、発散してくれるといいんですけど」
「そうね……」
 珍しく真面目に考え込んだらしい実渕は、ふと何か思いついたらしく、さらりと髪を揺らして黒子に顔を向けた。
「そうだわ、黄瀬クンに遊んでもらったら?」
「はい?」
「黒子先生にはいいところを見せたいから弱音を吐かないでしょう。でも黄瀬クン相手だと張り合うから、元気出るんじゃないかしら」
「え、えええ……」
 それはそうかもしれないが、面倒くさい。その面倒くささは主に黒子が一人で引き受けることになる。
「でも、黄瀬君もこれからフライト続きみたいで」
「終わるといつもここに直行じゃない。どうせ来るんだから邪険にしないで歓迎したらいいわ」
「……そう……ですけど……」
 自分の面倒さと黄瀬・小の気持ちを考えれば、確実に後者の方が重いのだが、しかし思い切れない。眉間に皺を寄せ、渋い顔で黒子が唸っていると、実渕がまた笑う。
「黒子先生は、黄瀬クンが絡むと表情が動くわね」
「……今は表情を消してるつもりはないんですけど」
「消してなくても出てないわよ。子供たちが黒子先生の真似を始めると、幼稚園児とは思えない静けさよ」
「そんなことされてるんですか??」
「言葉遣いまで完璧にね」
 軽く衝撃を受けていると肩を叩かれ、黄瀬クンにも混ざってもらったら?と実渕はにっこり笑い、きれいに話を戻された。

 黄瀬・小のことを考えるとやむをえないので、黒子はその昼携帯を開いた。夜どうせ一緒に夕飯を食べるのだからそのときでいいのだけれど、様子を窺ってみたかったのだ。
『園児たちがボクの真似をしているそうです』
 とりあえず、それだけの内容を送ってみることにした。黄瀬は黒子に会いにくるために幼稚園まで足を運んでいるのであって、彼は子供の相手は得意ではない。黄瀬・小に対してだって、ほとんど同等に接している。だからあのように張り合うのだ。
 軽く意見を聞きたいときぐらいしか、黒子は基本、仕事の話や子供の話をしない。こんなよくある日常の話に多少興味を示してくれれば、頼んでみてもいいかもしれないけれど――。
 と、携帯を閉じたら即座にそれは黒子の手の中で震えた。
『オレという審査員抜きにして何楽しいことやってんスか!』
「…………」
 予想外でもあるはず内容はしかし、これが黄瀬だったという再認識に上塗りされた。遊びにきてもらえますか、と言いやすくなったが言いたくないような複雑な気持ちで、黒子は昼食を終えた。



 ◇



「黄瀬君の次のフライトってあさってからでしたよね」
「ん?そうっスよ」
「で、その次が二十四日から二十五」
「そう〜〜」
 仕方ないと分かっていても、クリスマスイブの仕事はまだ不服であるらしい。以前一緒に買ったクリスマスツリーの包装をはがしながら、黄瀬は答えた。早めに終えた夕食後、これから二人で飾り付けを始めるところだ。クリスマスの手前に一度帰ってくるのだからそのときにすればいいのだが、黒子の保育園で飾りつけが始まっていることを告げたら、黄瀬もやりたくなったらしい。
 金色のモールをケースから出し、広げた両腕でぴんと伸ばした。ツリー全体を見ながらバランスを考えていると、黄瀬に片側をひょいと掬い取られた。さっきの話の続きは?と目で聞いてくる。

「あの……、フライトとフライトの間って、忙しいですか」
「んーん全然。いつもと同じ。黒子っちより帰り早いくらいっスよ」
 言う通り、フライトがない間の黄瀬の帰宅は早い。だから今日も、黒子の家で夕飯を作って待ってくれていた。地上での仕事の大半は書類との戦いで、一日をそれに費やすことに耐えられない黄瀬は早々に片付け、終業時間とともに退社、それから筋トレをしたり走ったり料理をしたりと、とにかく身体を動かしている。つまり、気力も体力も有り余っている。
「オレいる間に何かしとくことある?」
 だから実渕の案を頼んでみてもいい。けれど、これは自分ではなく、小さい黄瀬のための頼みごとである。渋る黒子に実渕は「黄瀬クンなら喜ぶわよ」と言ったけれど、実際はどうであろう。
「ええと……、もし、時間があったら、なんですけど」
「うん」
「…………保育園に遊びに来てもらえませんか」
「…………、オレ?」
「はい」
 人差し指で自分を指し、黄瀬は丸く見開いた目をぱちぱちと瞬かせた。来るなと言ったことは数えきれないほどだけれど、来てほしいと言ったことは一度もないのだから当然の反応だ。驚きすぎて小さい黄瀬のことが頭から消えているのだろう。変な期待を持たせる前に、頼む内容を知らせることにする。
「りょうた君と、ちょっと、遊んでもらえると、」
 助かるんですけど。
 目を逸らしたいのを堪え、黄瀬の顔を見つめながら途切れ途切れに言う。
 まだ拗ねたりする気配はない。怒ってみせる気配もない。しかしここからの表情の変化と黄瀬の紡ぐ不満を想定して、黒子はいささか及び腰である。第一声は、またりょうた君スか、という九割冗談、一割本気の台詞だろう。
 しかし黄瀬から出てきた言葉は、全く違うものだった。

「……いいけど、」
「……え」

 ぽかんとしたまま返事をくれた以外、まだ黄瀬に変化はない。むしろ反応できないほど内心不満なんじゃ、と思ったが、そういう様子でもない。

「いいんですか?」
「うん、いつ行く?」
「あの、無理してませんか」
 聞くと、黒子の心配がようやく思い当たったらしい、そこで黄瀬は初めて、ああ、そっか、と笑った。理由は分からないが、黒子の方が言葉を失うくらい、嬉しそうに。
「黒子っちがアイツかわいがってるのは知ってるし、それより、オレに頼みごとしてくれたのが嬉しい」
「……頼みごとなんて、普段もしてるじゃないですか」
 私生活だけでなく、保育園で使うものの買出しだって黄瀬には頼むことがある。もちろん黄瀬一人には任せないが、このツリーだってそうだ。
「保育園の中まで入っていいって言われるのは初めてっスよ。黒子っちの仕事手伝えるみたいじゃん」
 みたいではなく、実質手伝ってもらうのだ。黄瀬と付き合っているという黒子の特権を揮って。個人的な肩入れだって、見る人が見ればすぐに分かる。
 そこまで嬉しそうにされると、なんだか後ろめたい。
「なーに困った顔してんスか。オレが焼きもち焼かないと不安?」
「そういうわけでは」
「心配ごむよーっスよ」
 上機嫌の黄瀬は指先にモールをくるくると巻きつけ、綻ばせた顔を黒子に近づけ、性を感じさせない柔らかさで口付けた。今さらそれくらいで動揺はしないが、黄瀬のその反応には戸惑う。にこにこしたまま、彼は続けた。
「黒子っちがりょーた君に優しくしてんの目の前で見たら、普通に妬くからね」
「…………調子が狂うのでそうして下さい」
 そう言うと、黄瀬はくつくつと笑い出した。
「ほんと調子狂ってるんスね、黒子っち素直でかわいー」
「いい加減、ハタチを過ぎた成人男性にかわいいはやめませんか」
「だーって」
 指に巻いたモールをほどくと、黄瀬はそれを黒子の首にマフラーのようにふんわりとかけた。やたらとゴージャスな金色は、仮装でもするみたいだ。華やかな見た目よりもちくちくするそれを黒子が外そうとすると、黄瀬の手に両頬を挟まれる。
「毎日遊びに行ったっていいスよ。そんで、一緒に帰ろ」
「毎日はいいです」
「この会話、高校んときみたいっスね」
「今は車で帰ってこれちゃいますけどね」
「帰ってくる家も一緒だし」
「またどさくさに紛れて同居しようと……」
 言うと、黄瀬はぷーと膨れる。これだって、ハタチ過ぎた成人男性のする顔ではない。
 顔が近づいたままなのをいいことに、黒子は踵を上げ背を伸ばし、黄瀬の唇にちょんと触れた。離れるのを追う黄瀬のそれに、自分に巻きついていた金のモールを押し当てる。やっぱりこういう派手なものは黄瀬の方が似合う。

「さ、飾りつけしましょうか」
 そういえば一番上に星をつけるのは黄瀬君の役にしたんだった、とオーナメントの中から星を取り出すと、黄瀬がぼそりと呟いた。
「……クリスマスツリー見るたび、黒子っちにちゅーしたくなりそ」
「園でしたら殴りますから」
「……気をつけるっス」
 聞いているこちらが心配な声だ。
 飾りつけが済んだらさっき止めた分もしておこう。黒子はそう決めて、大きな星の飾りを黄瀬に手渡した。



 ◇



 それから一週間ほど経ったある日、園児たちの昼寝時間だった。軽い掃除を終えた黒子が保育士ルームに戻ると、実渕が溜息をつきながら電話の子機を睨んでいた。
「どうかしました?」
 子機を充電器に戻した彼は、髪を耳にかけ、黒子へ顔を向ける。艶のある唇を尖らせ、幾らかご立腹のようだ。
「黒子先生の黄瀬クンは、今海外?」
 実渕に聞かれ、余計な枕詞に一拍間を挟んだものの、黒子は特に触れずに頷いた。
「はい」
「そう、……でも違うわよね」
「何がですか?」
「一昨日から変な電話がかかってくるのよ。何か言ってるみたいなんだけど聞き取れなくて。今ので三回目よ」
「いたずら電話なんですか?」
「雑音がひどくてそれもよく分からないわ。いたずらなら黒子先生の黄瀬クンじゃないわよね。黒子先生に直接すればいいんだもの」
 黒子はつい部屋の中を見回した。後半大分問題がある上、黄瀬がいたずら電話をするような人格と思われてはさすがに哀れだ。黒子の懸念を読んだ実渕がにこりと笑う。
「二人だけよ」
 単にからかいたいだけか、と察した黒子は仕方なく会話に乗る。これで無視し続けると逆効果なのだ。
「こんなところじゃ誰が聞いてるか分かりませんよ。それに、さっきから何でボクのってつけるんですか」
「りょうた君と間違えないようによ?」
「りょうた君はりょうた君で分かるじゃないですか」
 うふふ、と実渕が笑う。
「黄瀬クンがオレの黒子っちって言うから、黄瀬クン呼ぶときも合わせた方がいいかと思って」
 この間のあれを見たからだろう。彼は出刃亀でもないし、黄瀬のように恋バナで盛り上がる方でもないが、人をからかうネタは漏らさない。
「合わせなくていいです。あれは口癖みたいなものなので、……なんですか」
 面白がるように目を細めている実渕に言うと、なんでも?と肩を竦め、
「黄瀬クンも大変ね」
 と笑った。まるで自分が人の心も分からない唐変木みたいだ。
 むっすりとした黒子に構わず、実渕はそこがいいのかしら、などと呟いている。

「とにかく、黄瀬君なら昨日も普通に電話してきましたし、違うと思いますよ」
 無理矢理話を元に戻すと、実渕もそれ以上は続けようとしなかった。机に頬杖をついて、窓から庭、その向こうへ目をやる。
「そうよね。年の瀬だからかしら、黒子先生も気をつけてて。ムサい男が覗いてたら即ボール投げつけていいわよ」
「……ムサくない場合は」
「かわいい子なら私がいくわ」
「…………分かりました」
 かわいいかどうかの基準が分からないが、高尾とか黄瀬とか、あの辺りだろう。
 


 翌日の夜、噂の電話を黒子も取った。大方の園児の見送りが終わり、ちょうど黄瀬を送り出したところだった。
 電話の主が一向に喋り始めないので、黒子は子機を肩と耳で挟みながら辺りを片付け始めた。確かに雑音がうるさい。しかし耳が慣れてくると、微かな人の声を拾い始めた。
『……、の…………』
 ほとんど聞き取れないが、何かを伝えようとしているようだ。おそらくいたずらでも、緊急事態でもない。雑音がひどいだけで、喋ろうとしている本人は落ち着いているような気がした。こちらに声の聞こえていないことが、相手は分かっていないのかもしれない。
「ここのとこ、電話を下さってる方ですか?」
『……』
 声は明瞭ではないが、『はい』と答えたものとし、話を続ける。
「電話が遠い、というか雑音がすごくて、聞こえないんです」
『あ、…………』
(『あ』?)
 それだけは、はっきり聞こえた。相手はこの状況に気付いたようだった。
「もしもし」
「………に………、……ます」

 波音と、強い風のような音を残して電話は切れてしまった。じっと子機を見つめる。
 とりあえず、その電話のかけ方では通話ができないということは伝わった。こちらには何もできないから、あとは向こうが何とかするだろう。
 その後三日間電話がかかってくることはなく、次の電話が鳴る前に黄瀬が帰ってきた。つまり、黄瀬ではないことが証明された。九十九パーセント疑ってはいなかったが、黒子は一応ほっとした。
 しかしこんな都内の片隅の保育園に、こうも頻繁に電話をかけてくる相手とは誰で、一体何の用件なのだろう。








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