( にかけるに )
 2×2   [ 8 ]


 自分が喜ぶことを、何故そんなに嬉しそうにするんだろう。
 黒子は昔からこのことが不思議だ。嬉しいような申し訳ないような気持ちで、困ったなあ、と口に出さず呟く。自分だって黄瀬が喜べば嬉しいが、この点に関しては、黄瀬に敵わない気がする。
 しかも。
(まさかりょうた君までそうだとは……)
 もう一人の”黒子君”は分かっているのだろうか。いや六歳同士だったらそんなことまで気がつかないのが普通だろう。
 大きい黄瀬は自分の担当だからいい。それはおいおい、ゆっくり返す。
 小さい黄瀬の、もう一人の黒子は黄瀬をどう思っているのだろう。黄瀬がここまで全力で好きだと表すからには、両想いなんだろうか。
(いやいや、りょうた君は六歳ですから)
 大きい黄瀬に毒されてきたな、と黒子が頭を抱えていると、隣で小さい黄瀬が口を開いた。

「……それなら、黒子っちはのるうぇーにいてもたのしいすね」

 再び膝を抱えて、顎を乗せ、つま先の辺りをじっと見ている。
 両想いでも片想いでも友情でも、関係ないのかもしれなかった。黄瀬の心を占めているのは、目の前に黒子がいない、ということだけだ。
 その言葉は黄瀬なりの着地点なのだろう。半分は慰めとなって、半分は寂しさとなるものだけれど。
「……そうですね、楽しいこともありますね」
「うん」

 黄瀬・大はそれに返事はしなかった。彼は静かに、小さい方を見下ろしていた。それほど態度には出さないが、激しく共感したり、厳しいくらいの目で眺めたりしているようだった。彼が自分自身を見るときの目は、そういうものであるらしい。
 しかし次第に、その両極端な目が混ざり合い、複雑な表情になって、それから――。
 もうお手上げ、と顔に書いた黄瀬は、実際にこっそり両手も挙げた。
(まあ、キミはそうでしょうね)
 ここまで付き合っただけでも、黄瀬にしては相当気を長く持ったものだと思う。

 丸まってしまった黄瀬に黒子が手を伸ばしかけたときだ。電話の鳴る音がした。黄瀬の母が駅に着いたと、連絡があったらしい。耳に入っているのかいないのか、黄瀬・小は俯いたまま表情を変えない。
「黒子っち」
「あ、はい」
 家に帰るべく先に立ち上がったのは、大きい黄瀬の方だった。
「先にオレ、車に戻ってるっス」
 コートの襟を直しながら、彼は下へ目を向けた。歳が違う上、ただでさえ背の高い黄瀬が、膝を抱える小さい黄瀬を見下ろすと、大人と子供以上の差があるように見える。彼は周囲には聞こえない程度の、小さな溜息を吐いた。
「……ゆっくり来ていいスよ。車温めとくから」
 おや、と目を瞬かせると、黄瀬は口を尖らせた。
「今日だけっスからね、大目に見るの」
 小声で軽口を叩きながら、黒子の視線を下へ促す。俯いていた黄瀬の顔が、僅かに持ち上がっていた。口をきりりと結んで背を伸ばし、こちらを見はしないが、意識の向いているのが分かる。

 一日限定で心を広くすることにしたらしい黄瀬は、他の保育士たちに愛想を振りまいて出ていった。女性保育士たちが本日ボーナス日のような顔をしている。あれで次回も入園フリーになるのだ。顔は使いようだとつくづく思う。

 玲央先生が黄瀬のコートと鞄を持ってくると、彼は何かを踏ん張るような面持ちですくっと立ち上がった。
「……おかえりのじゅんび、するっす」
「はい」
 黄瀬は着替えでも何でも、まったく手がかからない。コートを羽織り、きちんとボタンを全部留めるのを、黒子は正面にしゃがんで見守った。怒ったような顔つきで口をきゅっと結んでいるが、怒っているのではないことぐらいは分かる。
 耳当てをつけ、手袋をはめ、支度を完璧に終えると、黄瀬はさらに気合いを入れるように、仁王立ちになって息を吐いた。

「りょうた君」
「…………」

 いつもの定位置で、抱きつきやすい高さで黒子が待っていても、黄瀬に動く気配はない。大体、帰り支度をする間も、あえて目を合わせてこなかった。
 さらさらとした、金色の柔らかい髪を黒子は撫でた。大きい方の黄瀬の髪はもう少し固いし、火に焼けたとか乾燥したとかで、たまに傷んでいたりもする。
(まだまだ甘えたっていいと思うんですけどね)
 こんな髪をしているうちは。
 それでも、ここで格好つけたいのが黄瀬なのだろう。大人の黄瀬に張り合って、しっかりしたところを見せたいのだろう。
 黒子は、ちょっと待っててください、とだけ言い置いて、自分のロッカーへ向かった。

「お待たせしました」
 小走りで戻った黒子はもう一度腰を降ろし、黄瀬の首に淡いサーモンピンクのマフラーを巻いた。黄瀬には大分長いが、まあいいだろう。
「今日は寒いですから、風邪引かないでくださいね」
 二周して鼻の上まで巻いても、まだ余る。黒子の防寒にうるさい黄瀬が選んだから、いつもより長いのだ。
 余った布地を首の後ろで結うと、マフラーの中からくぐもった声がようやく聞こえた。
「…………くろこっちせんせ」
「はい」
 黒子が黄瀬の目を見ようとすると、彼はただでさえ埋まっている顔をさらにマフラーの生地に沈めた。
「……黒子っち先生は、あしたもいる?」
「いますよ」
 答えると、黄瀬は少しの間のあと、マフラーありがとう、と礼を言った。苦しくないかなと思っていたら心配無用だったらしい。さっきよりは表情が和らいだ。
 しかし手はいまだに丸い拳を作っている。その両手を、黒子はすくい取った。
「りょうたくん」
「……はいっす」
「帰ってくるの、一緒に待ってましょうね」
 黄瀬はもこもこに膨らんだマフラーと共に、うん、と深く頷いた。



 ◇



 黒子の勤める保育園から二人の住むマンションまでは車だと近い。電車に乗ると変な回り道で三十分かかるが、車なら十五分ほどだ。
 少し目を閉じてていいですか、と前置きしただけで眠るつもりはなかったのに、助手席に座って次に気付いたときにはマンションの前だった。

「……あれ、寝てましたかボク」
「一つ目の信号のときにはもう寝てたっスよ」
「すいません」
「全然いっス。それより晩飯途中で何か買ってこうと思ったんスけど、着いちゃった。腹減ってるっスよね?」
「……そう言われると、減ってきました」
 減ってきたと答えたものの、どうするかの案はない。背を伸ばし車内で伸びをしながら、まあ何か作ればいいか、と黄瀬が言っているのを、黒子は半分夢の中のような気持ちで聞いた。
 良かった、とぼんやり思う。
 何に安心したのか定かでないまま欠伸をしたら、首に違和感があった。何かと思えば、黄瀬のマフラーが巻かれている。
「返ってくるまでオレの貸したげる」
 黒子が黄瀬の方を向くと、諦め混じりにそう言われた。小さい黄瀬にマフラーを貸したことに気付いていたらしい。
「ほんとに今日は、寛大ですね」
「そりゃまあ……ってか黒子っち、また寝ようとしてる!降りるっスよ!」
「……外寒くないですか」
「マフラー没収して窓開けるっスよ?!」
 黄瀬は案外、そういうことを本当に実行する。黒子はマフラーを握り締め、渋々車から降りた。

 エントランスの扉をくぐる瞬間、強い風が吹き付けた。黒子は寝起きだから余計に寒く感じるし、黄瀬も実はそれほど寒さに強くない。二人で、寒い寒いと言いながら早足でエレベーターに乗り、黒子は家のドアを開ける。
 当然のように一緒に入ってくる黄瀬を玄関に入れ、鍵を閉めようとしたところで、正面に回り込んだ黄瀬にばふっと抱き込まれた。冷たい空気を吸った生地に、鼻先が埋まる。

「はーー…………」
 長い息を吐いた黄瀬はそれきり何も言わず、黒子の頭上に顔を伏せた。黒子もまた黄瀬の肩に額を預け、もたれかかって力を抜く。お互いの口から溜息がまた漏れる。
 本当に温まりたいなら、部屋に入って暖房をつけた方が早い。しかしお互い靴も脱ごうとしなければ、コートの下に潜り込もうともしなかった。
 しばらく黙ってそうしていたが、やがて黄瀬が口を開いた。
「オレ、黒子っちに我儘言うのもう少し我慢する……」
「……ボクももう少しキミに優しくしようと思います……」
「それいいっスねええ……」
 小さい黄瀬の話と堪える姿は、二十歳を過ぎた大人二人に、日頃の反省を促すのに十分だった。
 自分たちには、抱きしめていい相手が目の前にいる。

 このタイミングで黄瀬が抱きついてくる辺り、何だかんだで長いこと一緒にいるんだなあと思う。
 お互いそうしたいと思うタイミングが重なるということは、余程相性でも良くない限り時間がかかるものだ。黄瀬とのそういう感覚は、昔は見事にずれていた。それはそれで面白かったが、こういう変化もいいものだと思う。
 幼稚園に黄瀬の母が到着し、見送るまでの間、黒子は何度、いつも通り抱きつかせてしまおうかと思ったか分からない。でもあの黄瀬にだって六歳なりのプライドがあって、黒子からそれを崩すことはできなかった。

「キミがキミの性格で良かったです」
 黄瀬はさっき我儘を我慢すると言ったけれど、黒子は黄瀬が多少我儘な方が安心だ。それを知ってか、大学を卒業する頃から黄瀬は適度に我儘っぽく振る舞う。だから本当には、甘やかされているのは自分なのだろう。
「……何か良くわかんないけど、雰囲気は伝わったっス」
 オレ黒子っちに愛されてる、と言って黄瀬は、えへ、と笑った。
「黄瀬君大人になりましたよね」
「一緒に暮らしたいって言ってる?」
「相当飛びましたよそれ」
「てゆーかこれ、もう一人暮らしじゃなくない?」
「れっきとした一人暮らしです。少なくとも一年はやりたいんで」
「あと二ヶ月もあるじゃないスか〜」
「三ヶ月です」

 さりげなく期間を詰めてくる黄瀬に突っ込みながら、お互いようやく靴を脱ぎ、リビングに向かった。黒子がエアコンをつけ、風呂に湯を張り、黄瀬がレトルトのスープにチーズトーストを乗せて、オニオングラタンスープを作る。
 スプーンの上のスープを冷ましながら、黒子は向かいに座る黄瀬の顔を盗み見た。
 中学の頃なんてまだ動物の仔みたいな顔をしていたのに、高校に入ったら急に大人びて、最近ではすっかり大人の顔をしている。黙ってさえいれば。
(額が前より賢そうになったような……のは気のせいか)

「ん?」
 昔と何が違うのかと観察していたら、いつの間にか凝視していた。目を上げた黄瀬とばっちり視線が合ってしまう。
「あ、いえ、黄瀬君て、いつからあんまり面倒臭くなくなったのかなあと」
 隠すほどのことでもないので素直に言い、程よく冷めたスープを一口飲んだ。即席なのにおいしい。黄瀬がトーストをスープに浸しながら返してくる。
「……突っ込みどころが多すぎるんスけど……。少なくともりょーた君よりは面倒くさくないっスよね?」
「?りょうた君は全然面倒臭くないですよ」
 黄瀬には面倒かもしれないが、自分にとってはこれっぽっちも面倒ではない。
「オレあれ……りょーた君より?!」
「りょうた君よりというか……誰と比較してもぶっちぎりです」
「……!!」
「ボク史上ダントツでした」
 黄瀬君面倒臭いです、と言ったことなど何度もあるので、今更落ち込むところでもないと思うが、それは黄瀬にとって衝撃であったらしい。黄瀬が小さい方を面倒と思うのは、おそらく分かりすぎるからと、自分には甘くも厳しくもなるから、扱いかねてそう思うのだろう。
 スプーンを握り締めて沈んでいた黄瀬は、そろそろと黒子に目を向ける。
「ねえそんなだったらさ……オレのこと嫌になったりしなかったんスか」
「うーん……」
「なったんスか!」
「……いや、ならなかったですよ」
「いいんスよ優しい嘘は傷つくだけっス……」
「またどこかで聞いたような台詞を」
 黄瀬はぐすぐすと泣き真似をしているが、本当にならなかったのだ。面倒だったし腹が立ったこともあったし、呆れることなんて日常であったけれど。
「それより、いいところがあったということです」
「……いいところ……?」
 なあに、と聞いてくるのを、スープを飲んで誤魔化す。今日は色々思うところがあったせいで、少し喋りすぎた。
「内緒です」
「…………え、え、黒子っち、ちょっと何そのカオ!見たことない!ときめいた?!オレにときめいたことあるんスかもしかして!」
「忘れました」
「教えて!」
「追い出しますよ」
「いつか教えて!」
 すかさず言い方を変えてくるところが、さすがである。
「……覚えていれば、いつか」
 居ても立ってもいられなくなったのか、黄瀬は勢い良く立ち上がり、まだ聞いてもいないのに顔面を崩して後ろから椅子越しに抱きついてきた。
 そりゃあ黒子だって一般男子だ。浮ついた気持ちが皆無だったわけじゃない。当時の気持ちを思いだしたら、少しだけ気分が高まってきた。

「黄瀬君、今日泊まっていきます?」
「〜〜〜〜〜」

 洗い物を終え、何となくその気になった黒子が誘うと、昨日も一昨日も泊まっているくせに黄瀬は言葉を失い、迷わずその場で電気を消した。







>> 続
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