雨のちはればれ [ 5 ]
◇◇◇ 翌・快晴の日 −PM21:00− ◇◇◇


好き好き好きと、どこかで聞いた懐メロのように好きを繰り返し、三日も間が空けば、会いたかったっス、と頭ごと抱きしめてくる。人の学校だろうとスポーツ用品店だろうと、それこそ好き放題だ。
 そのくせ、肝心なときには頼ってこようとしない。いつだって甘えてくるふりをして、辛いときには甘えてこない。
 そういうところは、中学の頃もあった。負けず嫌いでプライドが高くて、本当に弱っている姿を見せたがらない。そもそも彼は大抵のことをなんなくこなすので、弱ることが極めて少ない。弱っている気配を見せるときは甘えたいときで、隠すことはしなかった。

(ボクのせい、なんでしょうね)

 夜道を歩きながら、黒子は前日の黄瀬の後ろ姿を思い出していた。どこか、心あらずだった。

 何でもかんでも相談してくれとは思わないし、黄瀬がそれほど弱い人間ではないと知っている。ただ、気を遣わせているところがある。顔を合わせていなかった期間は、ただの空白ではなかった。それはすぐには埋まらないのと分かっていたから、時間をかけていこうと思っていた。のだが。
(案外、気が短いです)
 中学の頃はそうでもないと思っていた。高校に入ってからだ。それは確実に、火神の影響もあるだろう。単純で一直線で、半端に付き合うことをこちらにも許さないような、激しさ。

 解決を急ぐことがいいとも思えない。でも時間が解決してくれるのを待てばいい、とも思えない。黄瀬の行動に本来無い「怯え」を作ったのは、自分だろう。元々気を遣う性格ではあるけれど、我慢したり遠慮したりする方ではない。
 自分がしたことでどう思われるか分かっていたつもりではあったが、実際にこうなってみると想像よりもずっと痛い。嫌われるよりもずっと。いやそれは正しくなくて、もう繋がりなど持てなくなると思っていたから、きっとこんなこと、想像もしていなかったのだ。


 電話で指定した馴染みの公園に着いた頃には、もう黄瀬はベンチに座っていた。黒子の姿を確認すると、たたっと駆け寄ってくる。ブルーグレーのシャツに黒いジーンズをはいていて、おや、と黒子は時間を再確認した。まだ九時だ。
(?部活、お休みだったんでしょうか)
 練習が終わって立ち寄るのにちょうどいい時間と思って指定したのだが、一度家に戻ったのだと分かる。
「お待たせしてすみません」
 ひとまず待たせたことを詫びると、長い腕がすっとのびて、自分の手に触れた。触れられた右手が温かい。
「全然ス」
 たった一本だけ立っている電灯が、白い明かりで黄瀬の顔を照らした。ああ、とまた自分の不甲斐なさを感じる。
 こういうことだけでも、黄瀬は自分に気を遣わせることをしない。手を取って、心底嬉しそうに笑うからだ。
「あれ、黒子っち元気ない?」
 その上、昨日まで元気がなかったくせにもう自分を気遣っている。昨日のような作り物めいた笑顔はもうない。すっかりいつもの彼だ。
 こんなのは、嫌だ。
 
「……何か、あったんスか?」
(あったんです)
「具合悪いとかじゃないスよね?」
(ないです)
 一体どう伝えたらいいんだろう。自分にはこんな風に、優しい言葉をかけるなんてことはできない。
 できるのは。
「……黒子っち眉間にシワが寄ってるっス」
 そんなことくらいで。
(考えるのを、やめたほうが良さそうです)
 すみません、と心の中で謝る。自分は思ったままを伝えることしかできないようだ。上げていた顔を下げると、襟元の紺色のボタンが目に映った。
 
「信じられて、ないみたいなんです」
「黒子っちのことを?誰っスか、まさか火神っち」
「イエ中学からの付き合いで」
「え」
「高校に入ってからも何だか近くにいて、どうでもいいときはしつこいのに」
「…………あの、えーと」
 前のめりに聞いてきた彼は、該当する人物が予想できてきたらしい。少しずつ勢いが弱まってきた。
「ボクを好きだというんですが」
「…………く、黒子っち」
「愚痴の一つも言ってもらえなくて」
 触れていた手がびくりと揺れた。
「まいってます」
「違うっス!」
 ずっと目を合わさないでいたら、空いていた左手も掴まれた。カサついた感触が肌に伝わる。
(?)
「黒子っち、オレ、そうじゃなくて」
 ぎゅう、と握られると黄瀬の手の平が変に固いことが分かる。皮膚ではない、この肌触りは。
「黄瀬君、その前に」
「はいっス」
「右手、何したんですか」
 ぎくり、と黄瀬は原因の右手を震わせた。怒られる直前の顔だ。でも黒子の手を離そうとはしない。
「怪我しましたね?」
「いや、あの、怪我ってほどじゃ」
 絆創膏で済んでるんだから、怪我ってほどではないのだろう。それは分かっているが、それでもこんな風に何かを握ったりしないがいい。だからそのつもりで言った。きつく言わなければ彼は離さないから、言った。
「離してください。何してるんですか」
「……嫌、っス」
「嫌とかじゃありません」
「黒子っち」
「ほら、いつまで」

(あ)

 黄瀬の目が、ぐっと何かが壊れるのを堪えていた。眉を寄せることも、堪えるような。

(違います。どうしてボクは)

 今のではまるで触るなと言っているようなものだ。
 それにこの手は、彼が何かを伝えようとして触れてくれた手だったのに。
 
「手、怪我してるのに力入れたらだめです」

 怒っているのでも、拒否しているのでもなく、ただ心配しただけだ。焦って伝えたが、黄瀬は黒子の言葉を理解するのにたっぷり五秒はかかった。間隔の空いた瞬きを何度かして、意味がようやく脳に届くと、へなへなと身体の力を抜いて、正面から抱きつく。思い切り外であるが、今回ばかりは止められない。

「すみません」
 誤解を招く言い方を謝ると、黄瀬はそれを否定も肯定もせず、抱きしめる力を強くした。
 彼が何に怯えているのか知っている。それを取り除くには、どうしたらいいんだろう。触れている胸から、腕から、流れてくる髪から、彼の感情が伝わってきて胸が苦しい。独り言のように、黒子っち、と呟くのは、まるで返事を諦めているようにも聞こえる。そんな風に、呼んで欲しくはない。

「黄瀬君」
「……うん」
 黄瀬はぴたりと抱きついたまま離れない。
 これは、正しく伝わるだろうか。伝わったら、何か変わるだろうか。

「ボクは黄瀬君のことが好きです」
「…………」

 そろりと、黄瀬が胸と胸の間に隙間を空けた。上から見下ろしてくる目はぱちりと開いて、今何が起こったか分からないような顔だ。思えば、こうしてはっきりと伝えたのは初めてかもしれない。
「愚痴でもどうしようもない話でも、ちゃんと聞きます。キミが話したいなら。それと」
 わざわざ言う必要はないのかもしれない。自分の思い過ごしかもしれない。だけど。

「キミはずっと、ボクに言いたいことがあるでしょう」

 何度も名前を呼ぶ、返事を求めない声。それが本当は、何を言おうとしているのか。
 聞かなければ、前に進めない。

 黄瀬は今度こそ思い切り顔を歪めて、でも笑おうとして、失敗した。瞳に張った薄い膜が電灯に照らされて光る。それに気付くと見られたくないみたいに、黄瀬は黒子の髪に顔を埋めさせた。
 何度も喉が鳴って、吸った息は言葉にならないまま、ただ息として吐き出される。自分をすっぽりと覆う腕が、小さく震えていた。
 黒子っち、と彼は胸から絞り出すように言った。

「…………居なくなんないで」

 黒子は目を閉じて、奥歯を噛み締めた。生傷なのだ、と思い知らされた。それをつけたのは自分で、今の黄瀬の痛みを感じ取るだけだって筋が違う。自分に苦しむ資格なんてない。
 あのとき、自分は姿を消すしかなかった。それ以外の方法が思いつかなかった。今どう足掻いたって過去はやり直せない。
 目を開いても外の景色は映らない。視界は黄瀬のシャツでいっぱいだ。見た目よりも遥かに力のある身体は、今も昔も自分を力任せに抱くことをしない。それが、どんな意味を持っていたか。

「…………先のことは、分かりません」
 言うと、それを拒むように黄瀬は自分を腕の中に閉じ込める。
「でも、あんなこと、もうしたくありません」
 実際、できないだろう。できない。何も言わずにいなくなるなんて。自分はもう、この腕を知ってしまった。

「ボクはキミと……またこんな風に話ができると思ってなかった。勝手に姿を消したのに、キミが好きだと言ってくれて、戸惑いました。けど、嬉しかったんです」
 ほんとスか、と聞いてくるのを、ほんとです、と答えながら背中を叩く。
「だから、えーと」
 黄瀬の背中をくいくいと引く。大切なことは、目を見て話さないと気が済まない。
 
「ボクも離れたくないです」

「…………くろ……」

 続きも言えず、へにゃ、と崩れた黄瀬の顔に苦笑する。目の下だけ雨に降られたみたいだ。袖をひっぱって拭ってみても、瞬きをする度落ちてきてきりがない。
「もう泣かなくてもいいでしょう」
「…………出てくるっス」
「止まるまで帰れませんよ」
「……くろこっち」
「はい」

「…………ありがと……」

「…………」

 お礼を言われることはしていない。ただ、本心を伝えただけだ。気を遣ったわけじゃない。
(伝わらなかった、でしょうか)
 危惧していると、すんすん泣いていた彼の泣き声が、うっうっと激しく変わり始めた。
「……黄瀬君……?」
「ううう」
「あの、ちょ、」
「……………嬉しいっス…………!!」
「…………!苦、しい、です……っ」
 突如猛烈な力でぎゅううう、と抱きしめられて、息ができなくなる。
(……伝わったみたいです)
 腕にこめられる力はかつてないほど強い。これは加減してもらわないと圧死する。息が苦しい。けれど、胸の中は穏やかだ。

 夜空に浮かぶ白い月と一本の蛍光灯だけが映す黄瀬の顔は、べそべそに泣いて情けなく、黒子っちー黒子っちーと顔を押し付けてくる。
 (困った人を好きになってしまったもんです)
 少ない明かりの下で、自分は黄瀬の目にどう映っているだろう。黄瀬のように全開の笑顔を見せることはできない。花がほころぶように好きと言うこともできない。
 でも、黄瀬が嬉しいというとき、自分も嬉しいと感じているように映っているだろうか。

(きっと、それは)

 彼もまた、光だから。

 自分を照らしてくれる存在だから。


 今の心を、見てくれているだろう。







[ 終 ]





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