春、夜、雨 [ 2 ] |
黄瀬涼太熱愛発覚、の文字と写真が、見開きページに載っている。 黄瀬の載っている雑誌を地味に買い続けてきた黒子は、これだけ買わないでいるのも落ち着かず、釈然としないものを感じながらも本屋でしっかりその週刊誌を購入した。 あの時一緒にいたのだからデマであることは分かるし、その報道より黄瀬に振られたことの方が黒子の心に大きな穴を空けたから、その雑誌は黒子にさほどのダメージを与えていない。ただ虚ろな気持ちでそのページを眺める。 黄瀬がそのモデルの女性とどうこう、という問題以前に、二人の並ぶ姿は黒子に追いうちをかける光景だった。小さい頭、通った背筋、長い脚。白黒写真で鮮明でなくても、そこには美男美女がいると分かる。週刊誌に掲載されるより先に間近で見たのだから、その印象はもっと鮮明だ。映画に出てくる一場面のようだった。 容姿に特別コンプレックスはないが、自分が黄瀬と並んでもこうはならない。もう少し身体つきが、顔立ちが良かったら、黄瀬の魅力を増すような外見であったなら。華やかな世界への関心を、もう少しでも持てたなたら。 二十歳になるまで、とあの日言われたことをずっと信じてきてしまった。あのとき黒子は高校生で、二十歳の黄瀬から見れば子供だろうし、手など出せなかっただろう。だから大人になるまで待って、ということだと解釈していた。 きっとそれは間違いではなかった。その当時なら。 でも四年も経てば気持ちが変わってもおかしくないし、黄瀬のようにそもそもモテる上、学校を卒業して本格的にきらびやかな世界に入れば、黒子はただの隣に住む子供に戻ってもおかしくはない。二十歳の誕生日を祝ってくれたし、成人式まで来てくれたけれど、祝いの言葉はどこか言いづらそうにしていた。そのときから、もうあの言葉の有効期限は切れたのかもしれない、と感じていた。 迷惑を承知で何度も家に押しかけた。尋ねる時間を遅くしたのは、終電がないことを口実に泊まるためで、長く一緒にいればあの話を切り出してくれないかと思ったからだ。黒子にそのつもりがあることは、黄瀬には分かっていただろう。でも黄瀬は仕方ないなあと言いながら泊めてくれるだけで、自分から話題に触れることはなかった。 三ヶ月、毎週のように押しかけて、黄瀬を困らせるのは黒子としてもそろそろ限界だった。 いつもならすぐに黄瀬のページだけ切り取って雑誌は整理するのに、今回はどうも手が動かずぼんやりしていると、玄関の呼び鈴が押された。平日の昼間に来るなんてきっとセールスだ。しかし今日は学校をさぼっている罪悪感がある上、無視することが苦手な黒子は仕方なく部屋から出て、リビングへ向かった。 なかなか出てこないことに焦れたのか、訪問者は扉をノックし始めた。せっかちなタイプらしい。やっぱり居留守にしようかな、と黒子が扉の前で立ち止まると、扉を叩く音が止まる。それから、小声ながら聞き覚えのありすぎる声が聞こえてきた。 「黒子っち!!」 「…………?」 黒子は扉に向かって首を捻った。スクープという名誉なのか憂き目に遭った黄瀬涼太(24)は都内某所に身を隠しているのではなかったか。 「黒子っち開けて!いるのは分かってんスよ!ちょっと話だけでも……」 「…………いや、立場おかしくないですか」 何故黄瀬がレポーターのようなことをしているのだ。 「いいから開けてってば!シェイク買ってきたから!」 「それはどうも」 扉の前には、帽子に伊達眼鏡、群青色のスプリングコートを羽織った黄瀬が、本当にシェイクを手に提げて立っていた。いくら変装しても目立つものは目立つ。二十センチほど上にある頭を見上げていると、黄瀬は黒子を中に押し戻し、無理矢理中に入って人の家のドアを勝手に閉めて鍵をかけた。 「……疲れた……」 それは当たり前だろう。報道が集中していたのは女性の方だったが、相手が黄瀬だったこともいい話題になったに違いない。何せ絵面がいいのだ。目の保養になる。 「何しに来たんですかこの状況で」 言うと、黄瀬は口を尖らせながらシェイクの袋を突き出した。外は雨だったのか、袋にいくつか水滴がついていた。 「この状況で来たオレにそれひどくない?すげー必死にマジバまで行ってきたのに」 「だからどうして」 「お詫び、この間の」 「…………」 別に謝られるようなことはされていない。それに本人に蒸し返されるのは正直きつい。 それでも、このまま黄瀬とは会わなくなるんだろうな、と思っていた黒子にとって、こうして普通に話してくれることは嬉しかった。 (そうだ、別に近所のお兄さんのような存在だって……) 最初の関係はそうだった。途中で変わりかけたけれど、変わらなかった。それだけのことだ。 と、そこまで考えて、黒子は黄瀬を前にして思いきり落胆した。少しも良くない。話せなくなるよりは全然いいけれど、やっぱり良くない。 黒子は二十歳になるのを、本当に楽しみにしていたのだ。黄瀬の気持ちに最初は驚いたけれど、好いてもらえるのは嬉しかった。二十歳まで待ったら何を話してもらえるのだろうと、ずっと期待していた。二十歳になればお酒も飲めるし、今までやったことのないことも、黄瀬とたくさんできると思って楽しみだった。 (……黄瀬君はそんなの別に、面白くないかもしれなかったですけど) ぽん、と頭の上に手を置かれた。少し困った顔の黄瀬が、上がっていい?と聞いてくる。子ども扱いするなと言いたかったのに、口は勝手に、どうぞ、と言っていた。 「げ」 「何ですか」 部屋に入るなり、黄瀬は顔を顰めて机の上を指さした。そういえば例の週刊誌を開いたままだった。 「買ったの?」 「買いました」 「学校さぼってそんなん買いに行ったんスか」 「大学三年目にして初なんだからいいじゃないですか。というか、何で今日家にいるの知ってるんです」 「知ってたわけじゃないスよ。ただ、今日は休むと思ったから」 淡々と言われ、黒子は黙った。責任でも感じているのか、それとも怒っているのか、黄瀬は急にいつもの明るさや緩さを引っ込めてしまい、自分の部屋なのに黒子の居心地は悪い。机に近づいた黄瀬は、広げられたページをめくり、また元に戻した。まるで関心のない目つきと手つきだ。 黄瀬の家に行ったのは一昨日のことで、黒子は今日、その気にならなかっただけで学校くらいは行けた。好きで落ち込んでいるのだから放っておいてほしい。そんなことにまで責任を負われたら、まるで黄瀬と同じ土俵にも立っていない子供じゃないか。 「黒子っちはさ、オレと付き合いたいとか、思ったことある?」 「……」 何ですかそれ、何の質問ですか。黒子はかなりむっとしたが、既に破れた話なのでヤケになって答えた。伊達眼鏡を外した黄瀬が、滅多に見せない大人のような顔で雑誌を見下ろしていたせいもある。 「あります」 「本気で?」 これにはさすがにかっとした。そんなことは分かっていただろう。自分は何も言わないで、黒子にだけ答えさせるというのがまた腹が立つ。 「本気じゃ悪いんですか」 「……ごめん、そうじゃなくて」 しかし急に弱気な声で謝られ、黒子は怒りを引っ込めざるをえなくなる。 黄瀬は机に近づき、厳しい顔で雑誌の写真を見つめていた。何かを確認しているのか、視線が写真の上を転々と動く。一つ息を吐いて目を離すと、黄瀬は続けた。 「オレと付き合うって、こういうことなんスよ」 「……?スキャンダルなんてボクは」 「そんなことより、もっと大事なこと」 (……もっと?) 黄瀬の立場が危うくなる以上に大事なことなんて、黒子には思いつかない。その点、自分の影が薄いことは利点だと思っていた。 「あのときオレと一緒にいたのは、黒子っちとあの子だった。でも誰も黒子っちのことを気に留めてない。黒子っちが写ってる写真だって、きっとあったはずっスよ」 記者たちは芸能人のスキャンダルを追っているのだから、そこに芸能人二人と一般人の黒子がいたら、前者二人の写真を使うだろう。黄瀬が何に腹を立てているのか、いまひとつ分からない。 「ボクと黄瀬君の写真を雑誌に載せても意味がないでしょう。ボクは男ですし、気に留めない方が普通です。もし……」 本当に付き合っているなら、話は別ですけど。 振られた立場でそれを言うことはできなかった。しかし黄瀬はそれを汲んで話を続ける。 「そう、男のオレと、男の黒子っちが付き合うのは、”普通”じゃない」 「……それは、分かってます」 答えると、黄瀬は本当に?と問う目でこちらを見た。黒子に今まで向けたことのない、上から下の者へ向ける、厳しい目線だ。 「普通じゃないってこういうことっスよ。最初から目にも入れてもらえない。今回はそれで良かった。でも逆の方が多い。逆で目立ったら最悪っス」 現実の厳しい面よりも、黄瀬がそれを「普通じゃない」と言ったことが黒子にはショックだった。目立った場合には「最悪」だとも。黄瀬が話を続けるほどに、胸に小さな針金を差し込まれるようだった。きりきりと、小さな痛みが走る。 黄瀬は、ずっとそんな風に考えて、自分と先に進もうとしなかったのだろうか。そんな風に思いたくない。恋愛感情がいつからか消えてしまったのだとしても、黄瀬から向けられる情を黒子は疑ったことがない。真意が見たくて、黒子は俯いていた顔を上げた。黄瀬はますます厳しい顔をしていて、そして――。 「……黄瀬君」 「彼女ができた、って報告して喜んでもらうこともできないんスよ。友達に報告だってできない。黒子っちのおかーさんにだって」 「黄瀬君」 「……」 口を引き結んで黙った顔は、自分が泣き出しそうなのを堪えているようにしか見えない。二人が付き合うことのデメリットがあるとしたらお互い同じはずなのに、黄瀬が言っているのはどう聞いても黒子に対する心配だった。 そういうことか、と黒子は納得した。そして一昨日から――正しくは今年の一月から――不安で揺れていた心が、地上で安定したのを感じた。 「黄瀬君も、喜びたかったですか?」 「……うん」 「黄瀬君以外の誰かとボクが付き合っても?」 「黒子っちが紹介してくれたら、喜んであげられたよ」 「……よく、分かりました」 吸い寄せられたまま離れない目を合わせながら、黒子は。 黄瀬君は馬鹿だなあ、と思っていた。 いやだ悲しい寂しいと目で言いながら、何が『喜んであげられた』だ。 黄瀬は全然変わらない。出会ったときのままだ。彼は先に起こりそうなことを察してしまうし、その上器用だから、自分の方の態度や出方を変えるのだ。でも黒子はそれができない。できないからどうすると言ったことを、忘れてしまったのだろうか。 黒子は本棚に向かい、一番下から大きなファイルを取り出した。数ページめくって、黄瀬の元へ持っていく。黄瀬は意味が分からないという顔をしたものの、差し出されたままそれを見たが、すぐに「うわ」と顔を顰めた。部屋に入ってきたときと同じ顔だ。 「何でこんなの持ってんの黒子っち!」 「キミが裸で表紙だったので、黄瀬君の一大事かと思って買いました」 「そんなん絶対見ないと思ったのに……」 黄瀬が大学を卒業する直前の雑誌だ。魅力的な身体とかいう特集で、黄瀬が載っていた。ついでに、女性モデルとの絡みもあった。ただの演出と分かっていても、黒子は気が気ではなかった。このまま、この人を好きになってしまうのではないかと。その方が自然に思えた。 「ボクはこれを見たときから、黄瀬君が女の人と一緒にいるのを見ても平気になろうと思って、あえてよく見るようにしてました」 「それ、見ようによっちゃ悪趣味……」 「そうですか?だから今では、あまり気にならないです。キミが誰と写ってても」 「……それはそれで複雑っスけど」 「男同士で世間に公表するのも確かに難しいでしょう、友達や家族にだって簡単には言えないと思います。が」 ちら、と黄瀬を見ると、やや青ざめた黄瀬が自分を凝視している。面白い。 「…………え、え、黒子っち、まさか」 「気付いてるでしょうけど、さすがにまだ言ってません」 「良かったー……」 「キミに何も言われてませんし言ってもいませんからね」 「…………」 ちくちく刺さる視線を向けると黄瀬はそろりと目を逸らしたが、口は開かない。 黒子は心の中でため息をつく。黄瀬の気持ちは、ほとんど分かった。でも、「ほとんど」だ。今自分は強気で黄瀬に迫っているが、それはこの三ヶ月繰り返したことだ。繰り返した結果どうなったか。何も変わらなかった。 約束の二十歳を超えてから黄瀬の家に、招かれてもいないのに泊まりに行くというのは、黒子にとっては勇気のいることだった。振られたと思った相手に、本当は自分を好きなんじゃないですか、という前提で話をするのだって勇気がいるのだと、気が付かないのだろうか。こんな風に、自分が隠し持っていた黄瀬の切り抜きを見せることだって。 それとも。 やっぱり黄瀬は心配して来ただけで、自分に望みはないんだろうか。 自分たちが同性だから、という理由だけで、諦めなくてはいけないんだろうか。 ――そんなの、おかしい。 「おかしいです」 「え?」 手にしていたファイルを閉じ、雑誌の上へ、写真を隠すようにして重ねた。こんなことはもうどうでもいい。薄手のコートを着たままの黄瀬にずいと詰め寄る。黄瀬は一瞬たじろいだが、黒子から逃げはしなかった。 「黄瀬君」 「え、あ、はい」 「キミは、どうしたいんですか」 「……オレ?」 「キミがボクのことを色々考えてくれたのは分かりました。でもキミのことを聞いてないです」 「っオレは、黒子っちが」 「それは分かりました。で結局どうするんですか。ボクとどうこうなる気がないなら、ないって言ってください」 近づいた黄瀬からは、雨の匂いがした。湿度が高い、外の匂い。あの日、黄瀬が自分に触れなければ黒子だって黄瀬への気持ちに気が付くことなんてなかった。 望みがないなら、これ以上言わせないでほしい。 「別に、しつこくキミに言い寄るつもりは、な――……」 言い終わる前に、顔の上に影ができた。黄瀬の長身の影に身体が収まると、背中にそっと手が当てられた。 指で髪を掬われた気配があり、黄瀬との距離がまた少し縮まる。ふんわりとした体温に包まれ、背中と肩が、黄瀬の腕の中に収まったと分かった。黒子の顔はほとんど、黄瀬の首もとに埋められるほどになった。雨と黄瀬の匂いに酔いそうになる。 黒子の頭上で、黄瀬が顔を僅かに傾けた。 「好き」 黄瀬の動きは優しいのに、これくらいの距離は何でもないはずなのに、心臓がおかしいくらい速く動いている。 抱きしめられるというのは、こんなに――。 (こんなに気持ちの伝わるもの、なんだ) だからあの日、黄瀬が髪に触れ、あと一歩の距離まで近づいたとき、気持ちが分かったのかもしれない。 「ずっと好きだったよ、黒子っち」 固まっている黒子の背を、黄瀬がゆっくりさすった。ずっと言えなくてごめんね、と続ける。本当にそうだ。これは文句を言わなくちゃいけない。 やることが分かると身体に力が湧く。ようやく動くようになった腕を、黄瀬の背に回した。すると、黄瀬の腕にもまた力が篭もる。 「……もっと早くに、聞けると思ってました」 「うん、ごめんね」 「一昨日はアイスも溶けましたし」 「今日のシェイクで許して」 「そのシェイクも今頃溶けてる気がします」 「冷凍庫入れとくべきだったっスね」 「ほんとです」 少しずつ、少しずつ緊張がほどけていく。四年分と三ヶ月と、三日分の緊張だ。押し付けた顔を離すことができないのは仕方ない。 「黒子っち」 「…………」 「顔見せてって言ったら怒る?」 「……大人なんですから、空気、読んでください」 「ちえー」 髪に唇を落としながら残念がった黄瀬は、でもいいよ、今度見るから、と言って、コートを濡らす涙をそのままにしておいてくれた。 << 戻 |