三年経てば、分かるでしょう [ 2 ] |
夢だと思いたかったのに、朝になっても黄瀬はいた。さすがに外に出るのはまずいだろうと、部屋にいると言う。 (本当に大人しくしてるんスかね) 駅からの道々、黒子と話しながら歩いていても、どうにも気になった。とにかく信用ならないのだ。 しかし。 黒子には何もしないということだけは、分かる。彼の嫌がることはしない。それはわざわざ聞かなくても、話をしているだけで分かる。だから泊まりにきてもらうことにしたのだし、邪魔者が一人いても、黒子が自分の家に来てくれるのは嬉しかった。 二十四時間開いている弁当屋からいい匂いが漂っていた。何か買って部屋で食べた方が二人になれていいな、と肝心のもう一人の存在を忘れたところだった。 「そういえば、あの黄瀬君はご飯どうしたんですかね」 「あ」 あんな相手であるが、思わず足を止めるくらいには焦った。いくらなんでも、それはひどいんじゃないだろうか。 「『あ』って、忘れてたんですか」 「……忘れてた」 「……」 はあ、と黒子はため息をつき、ちょうど通り過ぎようとしていたその店に足を向ける。 「買って行きましょう、黄瀬君好きそうなの選んでください」 「黒子っち、今って」 「十時過ぎです」 「……何も置いてこなかったっス」 「自分の家ですから。何とかしてますよ」 「……うん」 そうは思うけれど、朝から絡まれちょっかいを出され、気を回す余裕をなくさせたのは相手の方だけれど。 「突然来たのが青峰君や紫原君じゃなくて良かったですね。彼らだったら今頃破壊神になってますよ」 そうだけど……としおれながら何気なく想像してみたら、わりと真顔になった。 「……うん、良かったっスわ、オレで」 「でしょう」 想像するだけで恐ろしい。 昼は家が空になるから台所で水くらいは飲めるが、あまり作り置きなどのない黄瀬の家では、用意をしなければ食べるものがあまりない。一応インスタント食品もあるけれど非常食的存在なので、よほどのことがなければ手を出さない。 黒子に指摘されるまで思い出しもしなかったことを反省しつつ家に帰り、もう一人の存在に気付いていないらしい親に黒子が挨拶をし、一緒に宿題を、というもっともらしい話で泊まることになった。 そして。 「こんばんは」 部屋に黒子が足を踏み入れた途端、ベッドから跳ね起きた黄瀬は口を大きく開けてその場に固まった。 「…………っっっ!!」 「あの……?」 「何固まってんスか」 昨日のふてぶてしい態度が思い出せないくらいの反応だった。黄瀬の周りに、見えない花の舞っているのが見える。 「くろっ……こっち!!」 「はい」 「中学生の黒子っち!」 「そうですけど」 「かっわ……」 「……」 (あ) 言って、抱きつこうとしたらその手前で黒子の拳がめり込んだ。 先日身体測定を終え、身長の伸びに不満な黒子に、今それはNGワードなのだ。 「あ、つい、すみません」 「黒子っちと触れ合えて嬉しいっス……」 緩みきって笑う顔は強がりでもなく、本当に嬉しそうだった。笑顔で腹をさする黄瀬に、ビニール袋を突き出す。 「?なに」 一転、邪魔をするなと言わんばかりの目である。反省の結果、即席で蓄えた親切心がざっくり半減する。 「黒子っちがアンタに弁当買ってこうって」 「お金を出したのは黄瀬君ですけど」 ばっ、と自分の手から袋を奪い、ついでに黒子の手も両手で挟む。 「あっ!」 「黒子っち〜ありがと!優しい!空腹で倒れると思ったっスよ〜」 (どこがだ) 体調の悪そうな様子のないことに安心したものの、黒子に触ることは許しがたい。でも黒子の手からあれを乱暴に引き剥がすのは、彼の手がかわいそうだ。 「黒子っちはお腹減ってないんスか、一緒に食う?」 「大丈夫です、ボク達の分も買ってきました」 「そスか、じゃ食べよ!」 「はい」 完全に蚊帳の外である。ものすごく面白くない。むっすりと膨れた顔で、買ってきたペットボトルの水を黙々とグラスに注ぐ。 「あ、黄瀬君」 「ん?」 「すいませんこっちの黄瀬君でした。グラス三つ使ったらおうちの人に変に思われませんか」 「あ、そうスね。えっと、じゃあ……オレ黒子っちと」 「オレと一緒でいいっしょ、同じ人間なんだし」 言って、水の入ったグラスを一息で飲み干した黄瀬は、空のそれを自分の前に置く。水滴を一つ残しただけのグラス見つめ、黄瀬はふるふると震えた。 せっかく黒子が家に来てくれる貴重な事態なのに、それもコレが現れたからではあるけれど、これでは少しもおいしい思いができない。一応客人だからか、黒子も自分ではない黄瀬を優先させているように見える。 発泡スチロールの弁当箱を開け、麻婆豆腐丼をがつがつと食べ始める。部活後だから腹が減ってるのは自分だって同じだ。 (まあオレは、昼メシ食べたけど) 今ひとつ強く出られないのはその罪悪感か、昨日のせいか。 「黄瀬君は今日学校行かなくて大丈夫だったんですか?」 「一日くらい平気っスよ」 「部活が……あ、こういうこと聞いちゃいけないんでしょうけど」 「ん?いっスよ。内緒のが良さそうなことは答えないでおくから」 空のグラスが、またローテーブルの上に置かれる。隣の黄瀬はまだ弁当に手をつけていない。 (……そりゃ、そうか) 部屋の外には最低限しか出なかっただろうし、水だって好きなときに好きなだけ飲めたわけじゃない。 黄瀬はまた、グラスになみなみと水を注ぐ。それが半分ほどなくなったところで、黒子が尋ねる。 「黄瀬君は高校でも、バスケしてるんですか」 その質問に、黄瀬が目を細める。 黒子に対する態度はあまりに違って、さっきのようにはしゃぐかと思えば、こうしてたった三年の差とは思えない大人のような空気を作る。黒子ですら、いつもより幼く見えるほどだった。 「うん、してる」 「そうですか」 (あ) かすかにではあるけれど、黒子が笑った。分かりにくいのに、黄瀬にも伝わったらしい。黄瀬の世界の黒子なら抱きしめたいのだろうな、と思わせる目で、その姿を見つめていた。 自分だったら、そんな風に我慢はできない。でもここで抱きついたりしないから、黒子はその表情を見せてくれているのだ。 「……アンタ、このままここにいることになったらどーすんスか」 「そりゃないんじゃねーの、一つの時間にオレが二人いたら困るし」 「だからその困ることになったらどーすんのって」 「んー、逆にアンタがオレのいた高校二年の世界に行くかもね」 「「え」」 「……あれ」 声の揃った自分たち二人を見て黄瀬はぽかんとし、それからおかしそうに笑い出した。 「言ってみただけっスよ、んなことにはなんないっしょ」 「……でも、ないとは限らないんじゃ」 「ないない、大丈夫っスよ。大体オレが十二時ちょうどに来たってことは、今晩の十二時ちょうどにいなくなるかもしんないし」 笑って答えながら、プラスチックのスプーンで中華丼を口に運ぶ。ようやく最初の一口だ。とろみのかかった赤い人参が、薄い唇の間を通っていく。 (……って、何してんのオレ) 自分をじっくり見ていた自分が気持ち悪いので、心の安らぐ黒子の方へ座る角度をずらす。黒子はきちんと正座をし、割り箸でかに玉丼を食べていた。ちらりと見せた心配そうな様子はもうない。 「黄瀬君は、戻れるかどうか心配じゃないんですか」 「あんまりしてないっス。戻れると思ってるしね」 「でも、心配する人がいるでしょう」 「んー……そうっスねえ、心配……、するかなあ」 されると困る、と静かに言った黄瀬が思い浮かべたのは誰だろう。 (黒子っちは?) 自分が二・三日いなくなっても心配しないのか。それとも学校が別だったりして、気がつかないということか。 昨日の会話から想像する限り、三年後の黄瀬も黒子と交流がある。けれど、学校は別のようだ。今の自分なら一緒のところに行きたいと思うのに、何故別の高校にしたのだろう。 自分の視線を感じてか、黄瀬はふとこちらに目を寄越した。 「なに」 「別に」 「水がカラなんスけど黄瀬クン」 「一回ぐらい自分で入れたらどーなんスか」 そう言いながらペットボトルに手を伸ばしてしまう自分が悔しい。ヤケになって勢いよく注いでいると、黒子の笑う声が聞こえた。 「黒子っち?」 「聞いてたより仲良さそうですよ黄瀬君。黄瀬君と」 「どこが?!」 「え、聞いてたって何?オレのことなんか言ってた?」 「黄瀬君が黄瀬君に襲われたというので、一応ついてきたんですけど」 「っ黒子っちストップ!」 息を呑み、腰を浮かせた自分を、黄瀬がゆっくりと振り仰ぐ。 「あー……あれ」 「……っ」 昨日、息の混ざり合う距離で見つめられたときと同じ視線を、黄瀬は瞳に乗せた。ぞわりと、腰に何かが走る。 弁当なんて買ってくるんじゃなかった。水なんか注ぐんじゃなかった。 意地の悪い笑みを浮かべるこの男を、今すぐ三年後に送り返したい。 しかし黄瀬の泣きたい気持ちを他所に、黒子はまた質問を投げかける。 「襲ったんですか?」 (直球すぎる!!) 「まっさかー、からかっただけっスよ。いじめないって黒子っちに言ったじゃないスか」 (ぜってーウソ!黒子っち信じちゃだめ!や、信じていいけど!) 次から次へと適当な言葉がよく出てくるものだ。自分だってぺらぺらと嘘をつくことはあるけれど、こんな、本人の目の前で。 (あ、オレが違うって言わないの分かってるからか、性格わりー!!) 何とか飲み込んでいる言葉にも振り回されて、頭に血が上る。 「黄瀬君」 「……」 「黄瀬君?」 映画で見たとんでもない車作って屋上から飛ばせねーかな、と考えていたら、黒子の声が二度耳に入った。 「……え、あ、オレ?」 黒子がずっと高校生の黄瀬にばかり話しかけるから、今度も自分じゃないのかと思った。 「何か呼び出しそうな顔してて怖いです、水でもどうぞ」 「……ハイ」 片手をグラスの脇に、片手を底に、湯のみを持つときの手の添え方で、黒子が水を渡してくれる。ごく、と一口飲んで気づいた。 「っこれ、黒子っちの!」 「嫌でした?」 「ちがっ、逆!」 「ずりー……オレの水にすれば良かったのに」 「ボクの方が余ってたんで」 「……黒子っち〜〜」 今ので生き返った。頭に上った血も無事降りてきた。へなりと力が抜けて横から抱きついたら、珍しいことにかわされず、腕もはがされなかった。 「えー、オレも抱きつきたい」 「だめっス」 「何でキミが返事を」 「なんでもっス」 回した腕に力を入れてもう一人を威嚇する。自分はどうであれ、黒子は絶対渡さない。睨み合っているのも疲れ、黒子の髪に顔を埋めて息を吸う。はー癒される、と目を閉じたら――、 「いてっ」 ばしん、と頭を叩かれた。手の主は黒子と思って顔を見れば、黒子もきょとんとした顔をしている。 「そーゆーとこっスよ、オレが言いたいの」 「……どういう」 黄瀬が口を開いた。と同時に。 部屋の扉が三回、ノックされた。 「「「……!!!」」」 三人がびくりと飛び上がる。息も動きも止めて、そっと扉を見つめた。開けられたらこの事態をどう説明しよう。 「りょーたー?」 「……なん、スか」 上の方の姉だった。二番目じゃなくて命拾いした。下の姉はノックなんかしないで当然の顔で扉を開ける。今のところドアノブが動く気配はない。 「寝てんの?独り言言ってんの?黒子君いるのにおかしな遊びしてんじゃないわよ?」 「おか……っしな遊びなんかしてねっスよ。つか、なに、」 答えながらもう一人の黄瀬に、ベッドへ行けと指で差す。あんなにでかい男が潜ってバレないわけはないが、顔を合わせるよりマシだろう。 「そろそろお風呂入んなさいよ、明日も早いんでしょ」 「あと少しで行くっス、今ベンキョー中」 突っ込むのも面倒なのか、嘘丸見えの自分の返事を聞くと、姉は去っていった。 扉に耳をつけて誰もいないのを確かめ、その場に倒れ伏す。 「びびった……」 うっかり普通に会話をしていた。同じ声で良かった。 (今もだけど、昨日のあれ見られたら、生きてけねー……) 少し大きい自分の姿を見慣れ始めていて、この家に自分が二人いるダントツの怪しさを忘れるところだった。 「びっくりしましたね」 「うわっと、黒子っち」 床に倒れた自分の真横に、黒子がひざ立ちになっていた。首を傾げ、お疲れさまです、と言ってくれる。へな、と笑って返し、時計を見た。日付が変わって、二分経っていた。 「もうそんな時間だったんスね。何にしろ風呂……って、アイツどうしよ」 昨日は風呂に入れていないから、今日は入らないとまずい。これからまだいるのなら、食事以外にも考えなければいけないことがたくさんある。 (いつまでも家ん中いるわけにもいかねーし) 腹は立つがようやく同居人として扱うか、と黄瀬が思い始めた矢先に、だ。 「帰りましたよ」 「――え?」 言われてもすぐ、よく分からなかった。ベッドの方へ振り向けば、布団はうっすら盛り上がっている。でも、人の入っている厚みではない。 「十二時になったとき、じゃあ帰るね、って。消えちゃいました」 確かめるまでもないのに、黄瀬はベッドサイドに立ち、布団をめくった。シーツに皺が寄っていただけだった。テーブルの上に、食べかけの中華丼が残っている。グラスの水は、やっぱり空だった。 『そーゆーとこ』がどういうところか、聞けていないうちに。 「……帰るねって、それだけ?」 あそこにもここにも居た形跡があるのに、あの小憎たらしい黄瀬はどこにもいない。部屋をくるくる見回していると、黒子は自分の隣までやってきた。 「アイツバカでごめんね、とも」 「……最後まで、シツレーっスね……」 黒子が隣にいるので、あちこちに目をやるのはやめた。自分を見上げている黒子はさっきより分かりやすく、口元を緩く上げている。 「本当に、日付が変わったら消えちゃいましたね」 「……あれ、本当にオレだったんスかね」 「本物でしょう。ちょっとさびしいですけど、でも、良かったです」 「……ん」 黒子はそう言って、自分の手を取った。指先を、ぎゅ、と握りこむ。 「黄瀬君を待ってる人が、きっとたくさんいるでしょうから」 「……」 「キミは残っててくれて、良かった」 「…………黒子っち、」 握られた手を、一度開いて握り返した。指を絡めて、一本一本、すり抜けていかないように。でも力を入れ過ぎないように。彼が、心地よいと思える力で。 「……それにしても、」 今日は何かの日だったんですかね、と黒子がカレンダーを見た。しかし今日の日付には何のしるしもついていない。ただの平日の火曜日だ。 「なんで高校生のオレが来たんスかね」 「一日限定なら、ボク自分の未来も見てみたかったです」 「黒子っちがくるときもあるんじゃないの?」 黒子はカレンダーから自分の方へ目を向けた。つい、と視線が上がる。頭上を見られているらしい。 (ん?) 視線の先を追って天井を仰ぐが、とりたてて何もない。 「三年後、黄瀬君より背が高いといいんですけど」 「えっ」 「『え』ってなんですか」 「…………」 「…………」 とりあえずお風呂行こ、と不満げな黒子の目は見ず、でも手を繋いだまま部屋を出た。すれ違った姉に今日が何の日か聞いてみたけれど、やっぱり分からなかった。 七月八日。七夕の次の日。ただの平日。 でもきっと、今と三年後が交差する、何かの日。 << 戻 |