放さないで、抱えてて [ 2 ]
 

 自分ではなく花束に気を取られてるような黒子の様子を窺いつつ、立てた片膝を抱き、テーブルの上を眺める。上には黒子が花束を受け取る前に買って来てくれたオニオングラタンスープが乗っている。温めて食べるのらしい。冷蔵庫にはシーザーサラダも入っている。常備してある黒子用の甘い酒も、黄瀬の誕生日にと、モデル事務所からもらったシャンパンも入っている。あとはピザを頼むだけにしようと、二人で前から話して決めていた。お祝いの準備は万端で、背中の体温も嬉しいけれど、祝いの席になるはずのテーブルはこちらとは違う別の世界にみえた。
 後ろの黒子はなかなか口を開かない。もしかして自分が神経を尖らせているからか、と黄瀬は一度息を深く吸って、頭をこつんと後ろから乗せた。黒子の肩から、僅かに力が抜けたようだった。

「最初は、軽い気持ちだったんです」
「うん」
「去年、オムライスを爆発させたじゃないですか」
「う?うん。……あれはびっくりしたっスね」
 突然のオムライス事件回想に戸惑ったが、黄瀬もそれを思い返せば衝撃が蘇る。
 去年の黄瀬の誕生日、奮発して買ったビーフシチューソースのオムライスを黒子が温めようとして、レンジの設定を間違えたのか、数分足らずで破裂音が炸裂したのだ。開けてみなくても惨状は想像できて、黒子はガムテープでレンジを封鎖し、寿司を頼んでくれた。黒子家ではここ一番の出前は寿司であるため、桶に入った寿司が精一杯のお詫びとお祝いに代えられた。黄瀬にとっては黒子の静かなうろたえっぷりが永久保存クラスのお宝で、間違いなく楽しい思い出なのだが、黒子はまだ引きずっていたらしい。
「あれを反省した結果、ボクに当日その場で何かをやるっていうのは、難しいと思ったんです」
「そうなの?オレは黒子っちがしてくれるなら何でも嬉しいスけど」
 だからそういう……と黒子が後ろで呟いたが、よく聞き取れない。でも背中越しに話すことに慣れてきた。体温を感じられると、顔が見えなくても安心できる。

「その花屋さんに去年の今頃からひまわりがたくさん並んでて、来年はこれをあげようと思ったんです。歳の数っていうのもあったんですけど、学生最後なんで、もうちょっと思い切った感じにしようと思って、……そこまでは普通だったんですけど」
 うん、と相槌を打って黄瀬は続きを待った。黒子のためらっている気配があった。
「来年はもう働き出すでしょう、こんな風にのんびりすることもできない。そうしたら、ボクがキミをお祝いする機会は、すごく減るのかもしれない」 
「なんで――」
 振り向こうとする黄瀬を、黒子が背中を押し付けるかたちでとどめる。背の上に、丸い頭の重みが加わった。

「だから、キミに会えて良かったと思った数だけ、贈ろうと思ったんです」

「――……くろ、」

 首を後ろに回しかけた黄瀬の背に、黒子がますます圧しかかってくる。絶対こちらを向くなと言っているようだ。でも黄瀬にはその程度の重さなんか何でもない。上背を使うだけで、簡単に押し返して顔を見ることができる。
「黄瀬君、ボクは、」
 体勢を変えられる気配を察したのだろう、黒子の口調が早くなる。黄瀬は動きを止めざるを得なかった。無理矢理顔を見て、無理矢理話させたら、彼の大事にしているものを壊すような気がした。
 大人しく背中を受け止めた黄瀬に、黒子がそっと息をついた。しかし、その後が続かない。呼びかけても返事がない。
「…………黒子っち、顔みたい」
 黄瀬の背で、ふる、と頭が横に振られた。床についていた黒子の片手が持ち上がる。肘が曲がり、手はおそらく顔の方に向かった。戻ってきた指の関節が濡れている。それを取ることができないのが歯軋りするほど悔しい。友達だからか、黒子が望まないと思うからか。
 大きな花束も、黒子が顔を見せないことも、多分、今後ろで涙を拭ったことも。黄瀬を取り囲んでいる色々なことの理由が分からない。気持ちばかりがどんどん急いて、焦りが募る。

「一本一本全部、ちゃんと思い出があります。キミがご飯を作ってくれたとか、バスケの話を聞いてくれたとか、――パイロットになると教えてくれたこととか」
 思い出せないものもある。でも嬉しかった日に、ひまわり一本分のお金を貯金箱に入れていて、それを全部花屋さんに渡したら、こうなった。自分でもちょっとどうかと思いました、と黒子は笑った。

 どうして顔を見てはいけないのだろう。泣いているのを抱きしめてはいけないのだろう。黒子が望まないから?望まないとしたら、何で。
(――なんで、これで全部終わりみたいな言い方するんスか)

「……オレ、黒子っちに会ってたの週に二三回でしょ、会えてないときもあった」
「そうですね」
「ほとんど毎回じゃないスか」
「はい」
「黒子っち」
「……すいません」
「すいませんじゃなくて、ちゃんと言って」
「いやです」
「なんで」
 そこまで話したら、言ったのと同じだ。今さら隠す意味が分からない。もどかしくて、詰るような言い方になった。
 少し間を置いたあと、黒子は答えた。
「今日で、終わりにするつもりでした」
「……なにを?」
 黄瀬はため息を隠さなかった。これは黒子が完全に自分のペースで、自分の話したいことだけ話すパターンだ。黄瀬の質問の答えは、それが終わるまで多分返されない。これに付き合うしかない。
「……ボクの気持ちは全部キミに渡して、明日からは本当に、友達の自分でいようと」
「…………黒子っち、まだ言わないつもりっスか」
「……」
 なんで?沈黙しか返さない黒子の方に少しだけ顔を向けて、小さく問う。
 らしくない。答えが待ちきれない。言ってほしい。はっきり言うか、言わないと決めてはぐらかすか、分からないと言うか、彼はいつだって自分の気持ちをはっきり伝える人だった。ここまできてただ黙ってあがくなど、黒子らしくない。
 この「なんで」にも返事はないのか、というほどの間が空いた。けれど、答えは返ってきた。ただ、
「キミにボクの気持ちを言わなければ、ずっと友達でいられると思ったからです」
 とても黙って聞いていられる内容ではなかったけれど。
 肩を合わせたまま身体を反転させ、黒子の両腕を掴み顔を突き合わせる。無駄だと思ったのか黒子は抵抗しなかった。思っていたより静かな、でもぽかりと穴の空いたような目が、黄瀬を見つめ返す。
「オレが同じ気持ちだって、思わなかった?」
 ゆら、と瞳を覆う濡れた膜が揺れる。
「……思いましたよ、最初は。そうじゃなければ、キミの誕生日が空いてるなんてありえない」
 黒子の目は濡れていたけれど、しかし頬が乾いていたことに黄瀬は理不尽にいらついた。自分への気持を捨てるなら、もっとひどく泣いてくれなければ嫌だ。
「『最初は』って」
「最初は、です。だってキミ、しばらく女の人はいい、と言ってたし、大学でもそんなに親しい友達は作らなかったじゃないですか」
「それ何の関係があるんスか」
 全然さっぱり分からない、と素で問うと、黒子も何で全部言わなければいけないのかという様子で眉間に皺を寄せる。
「黄瀬君は誕生日に一人とか嫌なタイプでしょう。だから最終的にボクなのかなと」
「はあ?!」
「思い上がったわけじゃありません。自然とそうなるかなっていう意味で――」
「何言……っ、思い上がっても足んねーんスけど!」
「……、……?」
 黒子が首を傾げ、顔全体に疑問符を浮かべる。涙は乾こうとしていた。当たり前だ。勝手に終わられてたまるか。
「オレは、誕生日は一番好きな子と過ごしたいタイプっス!」
「……はあ」
「『はあ』?!黒子っち頭動いてる?」
「……動いてます、けど」
 だめだ動いてない、と黄瀬は判断した。全体的にぽかんとしているし、話についてきていない感がありありと出ている。「頭動いてる?」などと聞かれてろくに言い返さないのが決定打だ。最後に残った涙はまだ、下瞼にうっすらと膜を張っている。

 本当に、全部、自分に花束をくれて終わらせるつもりでいたのか。何も言わずに?あがこうともしないで?この、諦めの悪さでは全国レベルの彼が?
(――違う、あがいた)
 言いたくない、と最後まで言わなかったあれが、黄瀬に見せた最初で最後のあがきだ。
『キミにボクの気持ちを言わなければ、ずっと友達でいられると思ったからです』
 それを、告白をするより優先させた。
 黄瀬は黒子の背後を守るように広がるひまわりの大群を見つめた。会えて良かった、と黒子が思った数。黄瀬が食事を作った日、バスケの話を聞いた日、将来を決めた日。特別でない日も、大事な日も、黄瀬に会えて良かったと思ってくれる彼は。
(友達でいたいって、思ってくれた、のか)

 黄瀬に腕を掴まれながら思案中だった黒子が、あれ?と何かに気付いた顔をした。ようやく分かったらしい。
 黄瀬が尊敬している大好きで大事な人は、たまに抜けている。そのくせ思いつめると一人で突っ走り、どうするのかと思えば、見えないところで決意を固め、人のことを大事にしてしまう。本人も思考も、放っておくとどこに行ってしまうか分からない。
(……もう、本当に、このひとは)
 せっかく来年、格好つけて言おうと思ってたのに。全部どうでも良くなってしまった。

「オレは黒子っちが好きだよ」

「――……は、」

 黄瀬の黒子好きは自他共に、もちろん黒子本人も含めて認めるところで、誰よりも好意を表現してきた。中学の頃から、何度も、しつこいと言われるほど。確かにそういう意味で好きだと伝えたことはなかったけれど。

「ずっと前から好き。ていうか、黒子っちがオレのこと諦めたら誰も可能性ないくらい、黒子っちのこと一番にしてきたつもりだったんスけど」

 何で諦める方向に行ったんスか。
 膝立ちしている黄瀬を見上げる黒子の顔は、いつもより低い。聞いてる?と頬を指の背で撫でると、黒子はびくりと背を揺らした。しっかり驚いたくせにまだ呆然としている黒子に苦笑して、黄瀬はそっと背中に腕を回した。
 ふんわりした髪と、高校のときよりしっかりした身体と、そこから伝わる体温と。腕の中に閉じ込めればなんて愛しいのだろう。ふざけて抱きつくのではなくて、ずっとこうしたかった。

 しばらくじっとしていた黒子が、腕の中で身じろいだ。甘い雰囲気を期待して顔を覗き込んだ黄瀬は、条件反射で謝りかけたし手も放しかけた。
「めっちゃ怒ってる?!なんで?!」
「なんで今頃言うんですか」
 眉間に皺を寄せて、恨みがましい目で黄瀬を睨む顔は全然かわいくない。かわいくないどころか怖い。
「それは、あの、黒子っちの誕生日に、言おうと思ってて」
「いつからの話ですか。大学に入ってからなら、すでに三回ほど過ぎてますけど」
「あああ、来年の、誕生日にって」
「さらに半年以上先にするつもりだったんですか?なんで、……」
「っあ、うそ、黒子っち、ごめん、まって」
 なかないで。
 などと言ったら黒子は無理をしてでもしかめっ面を続けるだろう。責める言葉も涙も全部、黄瀬が引き受けないといけない。
「……ボクは、本当に、今日で諦めるつもりで」
「っ諦めないでよ」
「おかげさまで諦められなかったですよ」
「……気持たせてスイマセン」
 ていうか、気あるとしか思えないはずなんだけど。とはとても言えず、じろりと睨まれ両手を上げる。
「自分が特別なんじゃないかって思うたび、頭冷やそうとして、キミの家から一駅歩いたりして、……馬鹿じゃないですか」
「…………」
 それで、あの駅の花屋だったのか。この一年ずっと?……いや、いつから?
(これ、オレはいつから謝るべきなんスか)
 そんな思いをさせてたなんて血の気が引く。
 自炊が苦手な黒子を、色々な理由をつけて自宅に呼んだ。アルバイトの身でそれほど稼げない彼は、家で食事をするのを好んだのだ。食事をして他愛も無い話をして、普通の顔で別れて、諦めようと思いながらここから帰ったのか。

 膝立ちの体勢を崩して、膝を抱える黒子の前に腰を下ろす。それでも目の高さは違うから、そろりと指に手を伸ばした。しかし、むすりと口を結んでいる黒子の人差し指にぴんと弾かれる。まだお預けらしい。

「……黒子っち、自分が特別だって思ったでしょ?なんで頭冷やしちゃったんスか」
「キミはそういうの、すぐ口にしそうだと思ってたんですよ。中高もああでしたし、ボク相手にちょっと意味深長なことを言うのくらい、抵抗はないだろうなと」
「そりゃ、確かに言うこと自体は抵抗とかないスけど」
 でもそれなりに考えることだってあるのだ。黒子の中の自分は部分的に、中学生で止まっている。
「それで言わないってことは、やっぱり友達以上には見てないなと」
「オレただの友達だったらここまで一緒にいないっスよ」
「……それも知ってます、けど、」
 でも、ちょっとだけ心配だったんです。
 黒子は膝に頭を乗せて、か細い、でも真面目な声で呟いた。顔を伏せたまま続ける。
「高校三年の夏、バスケをやめたらどうなるんだろう、と言ってたキミに、ボクは大丈夫だと言いましたし、そう思ってましたけど、でも、一からでしょう、友達も仲間も」

 一瞬、景色があの体育館裏に戻った気がした。
 今でも覚えている。大丈夫ですよ、と言ったときの黒子の声も、夏の日差しに光った首筋も、そこを流れていた汗も。切なそうに、細められた目も。

「キミは人を選ぶくせに一人になるのは嫌いだし、友達ができなかったらどうしようと思ってたら、案の定でしたし」
 学校の外ではそうじゃなかったみたいで、安心しましたけど。そう彼は続けた。黄瀬がパイロットになろうと決めたのも、外での出会いがきっかけだった。
 ほんのり青い髪、白い耳たぶ、伏せた顔、よく練習中に体力が尽きてはこうして体育館の裏で隠れて休んでいた。なのに黄瀬のことはよく見ていて、一番最初に叱ってくれたのも褒めてくれたのも黒子だった。どうしてこの人はいつまでもそのままでいてくれるんだろう。
「……だからボクが、必然的に、一番仲のいい友達になったんだろうと思ったんです。そうしたら、ちょっとぐらい特別になるかもしれない。もともと、キミはボクに対して表現が過剰ですし」
 そんな消去法みたいな選び方で黒子っちと一緒にいるわけないでしょ、と早く反論したいのに、胸のあたりが熱くて、喉も詰まって、声が出てこない。出すつもりのない涙だけがぽろりと目から落ちる。

「……オレが、来年の黒子っちの誕生日に言おうと思ったのはね、」
「……」
「黒子っちにそういう心配かけないでよくなってから言おうと思ったのと、来年になったら、働くでしょ、お互い」
「……はい」
「黒子っちきっと引越すでしょ」
「そうですね」
「今度こそ、一緒に住もうって言おうと思ったからスよ」
 黒子の指が、ぎゅうと二の腕に食い込む。
「そしたら、お互い働いてたって、オレが誕生日にどこか飛んでたって、黒子っちのとこに帰ってこれるじゃん」
「…………なに、かってに、決めてくれてんですか」
 洟をすすりながらかわいくないことを言う黒子がかわいいので、べそべその顔を見てやろうと思う。頬に手を当ててそっと持ち上げれば、案の定濡れた瞳が自分を映した。
 いつもは涼しげな青い目が、安心と、手放したはずの感情が戻って新たに育って、雨上がりのように光る。同じ涙ならこの方がずっといい。

「だからこれからもずっとお祝いして、黒子っち」

 空色の瞳の中で、自分の金色の髪が揺れた。
 黒子が手を伸ばして、髪をかき回したからだ。あのたくさんのひまわりを抱えたときも、彼はこんな顔をしたのだろうか。
 きらきらと目を光らせながら、黒子が口を開く。
「丁重に」
「え!」
 反射的に焦ったら、ふふ、と黒子が笑った。
「お受けします」
「…………黒子っち〜〜」
 心臓に悪いっス、と抱きつけば、三年以上待たされた仕返しです、と黒子は言ったあと。
「よろこんで」
 と耳の側で囁いてくれた。






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