ユメの向こう  [ 1 ]

(行かなくては)

 隠れたビルの影から首を伸ばし、目に入った表通りの人の流れにぞっとした。
 混乱に陥った人々は自分の周りに誰がいるか何があるかなんて見ていない。先に行かなければ逃げ遅れる。怒声と悲鳴、泣き声。
 いくら「薄い」黒子とはいえ実体がある以上、このもみ合う人々の中を通り抜けるのは容易ではなかった。

 一歩踏み出す。誰かにぶつかる。横からぶつかられる。前を行く人が後退してぶつかる。
 押されたので手の平でそれ以上をくいとめる。後ろから押される。また誰かに押される。
 そんなことを繰り返して、何度もビルの隙間に戻された。
 それでも、どうにか表通りを抜けて、橋を渡らなければいけない。橋の向こうは『正常』なのだ。こちら側には狂気と混乱しかない。この世界が崩れるのは時間の問題だ。早く行かなければ、飲み込まれてしまう。
 何度目かの一歩目を踏み出して、ふいに黒子は気がついた。

 一番最初に取った行動が、繰り返される。

 ぶつかればぶつかられる。押せば押される。顔を顰めれば顰められる。
 (それならば)
 この状況に焦っていたのだろう。冷静さを欠いていた。
 後ろには黄瀬がいる。黒子の後ろから、やはり不安げに通りを見つめている。存在の無事に安堵して、黒子はじっと規則性などない人の流れに目を凝らした。
(今だ)
 重なるようにして進む人と人の間に、僅かな隙間がある。あそこに入ってしまえば、通り抜けられる。最初に通り抜ければ、通り抜け続けられるのだ。自分の勘が見つけた法則が正しいなら。

 黒子は身を細くして、人の渦の一点に滑り込んだ。服がかすりはしたが、高い背中の後ろにするりと入り込んだ。
(いける)
 それからは誰とぶつかることもなかった。周囲の混乱が嘘のように、人と人の隙間を縫って、黒子だけが道を進んでいく。

 濁流が音を立てる川を越える。石造りの橋に両足をつけてしまえば、そこは平穏だった。橋を渡る人たちに後ろの景色は見えないようだ。買い物袋を下げて歩く女性、談笑している男性、欄干で伸びをする猫。どういうことなのか。分からないが、とにかく橋を渡りきってしまいたかった。

 橋を渡り終えた黒子は、向こう岸を振り返った。十メートルも離れていないはずなのに、橋の向こうは砂埃か何かが立ちこめていて、ほとんど霞んで見えなかった。それでも、あそこではまだ混乱が続いていることだけは分かった。
 そこで突然、気付く。すっと背筋が冷えた。

(黄瀬君)

 いないと分かっているのに、辺りを見回したのは認めたくなかったからだ。
 自分は、彼を、忘れた。

 川は暗く淀んで、流れが激しい。汚れている、なんて簡単なものじゃない。流れてはいけないものが流れている。恐ろしい、何か。
 ここには一体、何が流れている?底の見えない暗さに足が竦むようだ。

 『こちらの世界』は穏やかで、人はゆったりと歩き、町は整って明るい。暗い顔をしている人もなく、まして怒っている人などいない。安全が保障されている。
 自分の身は、保障されている。

 黒子の足取りは頼りなかった。冷静さ以前に、思考が働いていない。ふらりと、足を動かした。右足が橋にかかる。
 腕を捕まれて、はっとした。見も知らない二十歳後半の男が、首を振っている。言葉にはしないが、やめろ、戻るな、と言っている。彼は『こちら』に渡ってきたのだ。
 言われて黒子の進路は決定した。自分は行かなくてはいけない。
 彼を放っておくわけにいかない。

 黒子が目礼すると、その彼は辛そうに目を伏せて去っていった。
 弧を描いている橋の、ゆるやかな坂を登り、降りる。橋のてっぺんから見た『向こう』の空は灰色で、ところどころが黒く渦を巻いていた。『空の果て』が彼方からやってくるのが見えた。終わるのだ、と思った。この世界は、終わる。あのひび割れた空がここを覆ったら、きっと崩れる。向こうから押し包んでくるのは、『無』と『静寂』だ。冷徹なほどの白い光が、ひび割れから幾筋か漏れている。

 砂煙に覆われていた景色は、橋から降りればくっきりと目に映った。恐ろしいほどの人人人。橋が目の前にあるのに、渡ろうとする姿は見えない。
 黒子は迷いなく、黄瀬を最後に見たビルへと向かった。元来た道は分かっている。進み方も分かっている。彼を連れて、また向こうへ渡らなければいけない。時間はないのだ。

「え……」

 する、と人の波から抜けた黒子は愕然とした。そこに、『果て』がきていた。路地裏にもその先の別の大通りにも、人がいない。空が、白みかかっている。
 そこに、しゃがみこんでいる背中が見えた。間違えようもない、ブレザーと金色の髪。広い背中。

「……黄瀬君」

 声が震えた。彼はなぜ『果て』にいる?膝を折ってしゃがんで、何をしている?上げている顔の先に、何を見ている?

 黄瀬は黒子の声に気付かないようだった。よく知っている見慣れた後ろ姿に、黒子は近付いた。何度も、自分の足を奮い立たせながら。

「黄瀬君」

 彼の真後ろに立ち、今度ははっきりと名前を呼ぶ。黄瀬はあっさりと振り向いた。黒子の恐れなど見当違いのように、きょとんとした顔だ。いつもとまったく変わらない。それがじわじわと、黒子の心に不安の影を広げていく。 

「黒子っち?」
「…………」
 黄瀬は不思議そうに黒子を見つめ、それから目線を戻した。元向いていた方向に。首を傾げている。
「黄瀬君?」
 注意深く、黒子は呼んだ。黄瀬は、おかしくない。それは本能的に分かった。ただ。

「何で、黒子っちが二人いるんスか?」

「…………」

 捕まったのだ。いつもの黄瀬のまま、『こちらの世界』に捕まった。
 黒子は警戒を解かないまま、黄瀬の視線の先を見た。誰も、人も動物も草も、何一つそこにありはしない。ただの路地裏が続いている。

「黄瀬君、行きましょう」
「え……でも」
 黒子が話しかければ、黄瀬は普通に反応する。偽物だとか、どちらが本物だとか、そういう意識はないようだ。どちらの黒子も、本物だと思っている。自分の言うことを聞こうとする意思はあるが、もう一人の黒子のことも気遣っている。
「立ってください。ここはだめです」
「でも、だめっス」
「どうしてですか」
「黒子っち置いていけないっス」
「…………」
 そうして、心配そうに目の前の『もう一人の黒子』を見つめた。
 無意識に唾を飲み込んで気付く。喉がカラカラに渇いている。黒子は深く息を吸い込んで、決して咎める気配は出さずに尋ねた。何を咎められるだろう。自分が彼を置いていったのだ。
「ボクと一緒には行けませんか」
 黄瀬は困ったように黒子を見上げ、また目の前の黒子に目をやった。黄瀬は黄瀬で、途方にくれているようでもあった。
(何をしてるんですか)
 黄瀬に見えて、自分に見えない自分に苛々する。そのせいで、黄瀬は動かないのだ。
 その見えない『黒子』は何かを話しているようではなかった。黄瀬はただ見つめているだけで、会話らしきものはしていない。これで話などしていたら、自分は多分絶望に負ける。

「黄瀬君」
 否定はできなかった。黄瀬は信じ込んでいる。彼の『今』を否定してはいけない、それはなぜか分かった。
「黄瀬君、時間がないんです」
 ゆっくりと言い含めると、黄瀬はますます困惑した顔で俯いた。でも、と小さく呟く。
「オレは黒子っち、置いていけないス」

 黒子は歯を噛み締めた。置いて行った自分と、自分を置いていけないと、捕まった彼。
 この世界の抜け方を見つけたとき、どうして彼に言わなかった?言わなくてもついてくると思ったのか。
 そんなことではない。
 自分のことしか、考えなかったのだ。

 自分が抜け出すための一歩を踏み出したとき、彼はどんな一歩を踏み出したのだろう。何を繰り返して、今、この『黒子』に捕まったのだろう。
 最初の一歩が繰り返されて、今になるならば。
 彼は。

「黄瀬君」

 真っ白な光が空に広がる。ゆっくり、ゆっくりと高いビルの先端が光に飲まれ、溶けていく。世界が終わろうとしている。
 もう人の群れもここからは見えない。煙っていた埃がきれいに洗われて、眩しいほどの白に包まれていく。

 黒子はただ立ち尽くして、光に溶けていく町を見つめていた。











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